キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

52 / 80
※2020/3/3誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、すずひらさま、ご報告ありがとうございます!


49 退院-ターニャの記録17

 入院中の午前・午後は、最低二時間は運動の為の時間を設けて欲しいと私は頼み、憲兵や医師も同意してくれていたので、その時間だけは自由となる事を許されていたが、それ以外では食事や排泄まで細かく指定されており、常に受話器を取るか、面会を続けねばならない日が一週間絶え間なく続いた。

 

 しかし、それでも夕刻を過ぎれば面会も止まるし、電話も疎らになる。私はその間にも室内で可能なトレーニングを絶え間なく続け、床に水溜りが出来るまで延々と肉体を酷使しては、高カロリー・高栄養食を摂取し続けた。

 医師からは一週間は軽い運動程度に留めるよう言われたが、そういう時、私は笑いながらこう言ったものだ。

 

「体力を残してしまうと、つい病院を抜け出す方法を考えてしまってね」

 

 医師は憲兵らを縋るような瞳で見つめたが、彼らは黙って首を横に振った。私なら絶対にやるだろうという諦観と、地の底にまで落ちた信用が私の言葉を駄目な意味で裏打ちしていた。勿論、私に脱走の意思などない。

 健康的な肉体と体力を取り戻して、真っ当な形で前線復帰したいだけだ。

 

 

     ◇

 

 

「大佐殿。面会に来られておりますが、お会いになりますか?」

 

 入院中、見舞いという名の面会はひっきり無しであったが、私は来るもの拒まずの精神で受け入れてきていた。当然憲兵も私が閉ざす戸などないと知っている筈なのだが、少々歯切れが悪い。出来ることならば、私に断って欲しいという思いが言外に伝わってきた。

 私は憲兵に「誰かね?」と問うと、憲兵は「フランソワ空軍の軍人です」と応えた。

 

 連合軍(アライド・フォース)との戦争を終えたとは言え、敵だった国の軍人である以上は安全管理上許可したくないようだったが、私は自分に会いたいという敵パイロットなど一人しか心当たりはなかったから、憲兵に許可を出したばかりか、破顔しつつ自分から立って相手を出迎えた。

 

「クローデル! 大尉に出世したのだな! いや、実にめでたい!」

 

 大尉の肩章を着け、煌びやかな略綬で胸を飾るかつての敵将校に、私は親愛を込めたフランソワ語で捲し立てた。

 とても殺し合う仲だったとは思えないやりとりに憲兵は目を丸くしたが、私は気にせずフランソワ流の挨拶と、彼の国の慣習に従って両頬に厳かな祝福の接吻をして、椅子にかけるよう促した。

 

「撃墜されたと伺いましたが、ご壮健のようですね」

「見ての通り五体満足だよ。体重は落ちたが、ダイエットのようなものだ」

 

 随分激しいダイエットですね、と肩を竦めながら、クローデル大尉は席に着く。

 アルビオン・フランソワ戦役の終戦後、捕虜交換の後に本国に帰国したクローデル中尉は、そのまま植民地の暴動鎮圧に駆り出され、ブランクを感じさせない飛行で活躍していたというのは、私も耳にしていた。

 

「運が良いのか、悪いのか、僕がここに来れたのは、丁度叙勲が決定して帰国を許されたからです。まさか、大佐殿程の方が墜ちるとは夢にも思いませんでした」

「私も唯の人間だったということだな。いや、重々承知していたつもりだったのだが、驕りというものが出ていたらしい」

 

 勝利は慢心を生む。自分には無縁と思っていたが、そうした思いこそがこのような結果をもたらしたのだと猛省せざるを得ない。

 

「しかし、済まないな、大尉。折角来てくれたというのに、剣が手元にないのだ」

「大佐殿。何度も申し上げた通り、あの剣は貴方のものです。私は大佐殿と友誼を結ぶことを約束致しましたが、剣に関しては納得していませんよ?」

 

 この頑固者めと私は笑うが、クローデル大尉にしてみれば、私の方がよっぽど頑固者だろう。しかしながら、私は彼が剣を持たないなど我慢ならない。

 

「士官には剣が必要なものだ。では、こうしよう。貴官が私に剣を譲ってくれたように、私からも剣を贈らせて頂きたい」

 

 私はそう言って憲兵を手招き、後で代金を支払うので、帝国空軍の士官短剣と長剣を直ちに持ってきて貰いたいと告げたが、この件に関して憲兵は嫌な顔などせず、むしろ嬉々とした表情で迅速に手配してくれた。

 アルビオン人以上に、この手の騎士道精神に満ちた場面というものに帝国人は弱いのだ。

 入室と共に恭しく運ばれた二刀は私からクローデル大尉に渡され、彼は家族と妻子に、これ以上ない土産話が出来たと喜んでくれた。

 そして、帝国流の力強い親愛の握手を私と交わし、これまでとこれからのことを述べた。

 

「祖国の敗北は、無念でした。しかし、未練はございません。自分達は全力で戦い、その上を行かれたのだと納得しております。これからは一日でも早く祖国の力を取り戻し、安寧なる日々がもたらされるよう、微力を尽くしたいと思います」

 

 クローデル大尉は再び植民地で飛ぶのだろう。一刻も早く治安を、治世を回復させ、これ以上フランソワ共和国が疲弊せぬよう、出血を抑える為に戦いに赴く。

 クローデル大尉の戦いは、我々がルーシーで戦うのと同じ程の、困難に見舞われるに違いない。慣れぬ土地は肉体を疲弊させ、国際法などない故に、敵の蛮行が精神をすり減らす。植民地の戦いは何処までも惨く、苦しく苛烈なものだ。

 

「死ぬなよ、大尉。私は貴官が空に上がる姿を見たいし、地に足を付ける姿も見たい」

「大佐殿には、後者だけを見せたくあります。もう二度と戦いたくありません」

 

 正直な男だと私は笑い、ほんの少しだけ残念に思った。彼ほどの男とならもう一度戦いたいと思ってしまうのは、パイロットとしての性だからだ。

 

「どうか、大佐殿も武運長久ならんことをお祈り申し上げます」

「勿論、死ぬ気はないとも。婚約者に泣かれたくない」

 

 クローデル大尉はこれ以上なく目を見開いた。そして、その幸運な女性は何方なのですか? と私に問うてきたので、私は「君も知っているだろう女性だよ」と返した。

 

「ここだけの秘密だが、『白銀』が私の妻になってくれるのだよ」

 

 羨ましいだろう? と、年甲斐もなく惚気る私に、クローデル大尉は何とも言えない表情で肩を竦めてみせた。

 

「お二方の御子息が、我が国を地図から消さぬことを心から祈ります」

 

 失礼な奴め、と私はクローデル大尉の冗談に笑い、お互いに戦いが終わったら、家族ぐるみで付き合おうと肩を叩き合って別れた。

 

 クローデル大尉と私は、終戦後にこの誓いを果たした。私はクローデル一家を屋敷に招いて食事や狩猟、釣りを楽しみ、私もまた家族を連れて、彼の故郷で乗馬やピクニックを楽しんだ。

 ムシュー・クローデルが退役し、最年少下級議員となった今も、彼との交友は続いている。

 

 

     ◇

 

 

 入院生活も五日目にもなると、私の健康状態を日々確認している医師は「ここまで回復の早い患者は初めてだよ」と驚きつつも苦笑いしていた。

 

 私は医師達の適切な対応と手厚い看護のお陰ですよと応えつつ、そろそろ退院しても良いのではないかと説得したが、最低でも一週間は入院して貰うという契約なので、それまでは居て貰わなくては困ると医師は言う。

 契約はフォン・エップ上級大将直々のものなので逆らえない。もしフォン・エップ上級大将か小モルトーケ参謀総長以外なら、全力で医師を説得して退院する為に尽力したところだが、流石の私もこれには大人しくしているしかなかった。

 ただ、医師は一週間きっかりで退院する分には、全く問題ないと太鼓判を押してくれた。

 

「まだ体重は戻っていないが、他は全て問題ないね。二日後には出られるよう、早い内に荷を纏めておくが宜しい」

 

 用意も何も、私には私物を持ち込む時間など皆無であったし、前線基地に置き去りになった私物も、まだ空軍総司令部には届かないだろう。私はターニャへの休暇の件以外で自分から電話をかける事は未だに禁止されているので、各所への連絡は憲兵らが行ってくれた。

 私は病室の受話器から、唯一自分から連絡出来るフォン・エップ上級大将に繋いで貰うと、フォン・エップ上級大将は私の退院について、嫌そうに、それはもう本当に嫌そうな声で「快復おめでとう」と告げられた。

 どうしてお前は大人しく出来ないのだと言いたげだったが、体力が戻った以上、今以上の運動に病院は手狭だったからだという他ない。

 私は頑健な肉体を取り戻す為に、長距離走を行いつつ運動施設を利用したかったが、一々許可を得る為に憲兵らの手を借りて、彼らの仕事量を増やしたくなかったのだ。

 まぁ、そうした思惑とは別に、早く退院してしまいたかったというのも事実だが。

 

「閣下、その、デグレチャフ中佐の件なのですが」

「皆まで言わずとも宜しい。空軍を代表して、祝福の言葉を贈らせて貰うよ。参謀総長から重ねて伝言だ。『二度と中佐を悲しませるな。彼女の亡き父に代わって、貴様を殺しに行く』とさ。一字一句違わず伝えたからな。殺されたくなければ、心に刻み込むように」

 

 フォン・エップ上級大将は大笑いされていた。私も同じく笑い、二度とそのような真似は致しませんと誓った。既にして一女二男の父にして、孫まで居られる小モルトーケ参謀総長だが、やはりターニャが私生児ということもあって、親代わりとなれればという感情が湧いてしまわれたのだろう。

 傍目にも、この二人が本当の祖父と孫であったならと思うような場面も見られていたことから、両者の絆がどれだけ深かったかが窺い知れたものである。

 それはさておき。

 

「閣下は、何時私とデグレチャフ中佐の関係をお調べになられたので?」

「私ではない。野戦郵便局から宣伝局に漏れたのだよ。そして宣伝局から私に事実かと連絡が来た。私は寝耳に水だったがね。貴官の父君にも連絡を寄越したそうだが、あちらはすんなりと認めたそうだ」

 

 エルマーが父上に伝えていたからだな、と私は得心した。しかし、父上が宣伝局相手に認めたということは、宣伝局どころか民間の新聞社にも、確実に情報は流れている筈だ。私の考えを、フォン・エップ上級大将はあっさり認めた。

 

「当然だな。流石に貴族の交際を、当事者の話も抜きに書き立てる無粋は出来んと宣伝局も自粛しておるだけだ。連中、貴官の口から、この話が出るのを手ぐすね引いて待っておるわ」

 

 私は天を仰いだ。出来る事ならば、婚姻までの間は穏やかな交際を続けていきたいと考えていたというのに、宣伝局や新聞社の目を気にしながらの生活を続けねばならないというのか。

 

「諦めろ。『白銀』と最多撃墜王の交際など、軍にも民衆にも垂涎もののネタだ。戦果以外での話題を帝国国民に提供できると考えれば、そう悪い話でもあるまい?」

 

 有名税と思えと言うことだろう。王族でもあるまいに、一貴族と勲爵士持ちの男女交際や婚約が記事になるのは如何なものかと思うし、そんなものが話題作りになるのかと甚だ疑問に感じたが、結果を知る人間としては、世間を大いに賑わせたのだという事実を受け入れるしかない。

 私は肩を落としつつも、ターニャの休暇は何時頃に取れるかお伺いを立てたが、明日には連絡を寄越すとフォン・エップ上級大将は仰られた。父上や家族への電話連絡も、特別に許すという。

 

「大佐。式には必ず呼んでくれたまえよ?」

 

 気の早いことだと思いつつも、フォン・エップ上級大将に勿論ですと笑顔で応えた。

 

 

     ◇

 

 

 翌日の午後、私はフォン・エップ上級大将から、ターニャの休暇は退院日の翌日から五日だと連絡を受けた。精々三日が限度だろうと思っていただけに、私は彼女と長い時間居られることが嬉しくて堪らなかったものである。

 しかし、ただ喜んでいる訳にも行かない。私はターニャに、我が家に来るのはいつ頃が良いかと電報で問い合わせ、四日目にと連絡を受け取ると、それをすぐ父上と実家の母上に報告せねばならなかったし、姉上にも電報を発した。

 

 家族は満場一致で私とターニャの交際を認めてくれたが、私の報告には皆「遅い」と苦言を呈した。特に姉上などは、私が何時までも身を固めないものだから、私が男色に走っているのではないかと、内心不安で一杯だったという。

 軍では戦友同士の絆の深さから、よくその手の冗談が飛び交うが、現実に男色に走る将兵はほぼ皆無だ。同性愛を罪とする宗教観もあって、私はその手の人種に未だ会った事はないし、今後も出会わない事を祈りたい。

 私は異性を愛する、至って健全な嗜好の持ち主ですよと姉上に訴え、姉上もご納得して頂けた。そうして、いよいよ退院という段になると、私は私服を着て医師と憲兵らに礼を述べ、宿舎に一旦戻る。

 そこで最低限の持ち物を確保すると、次に向かうのは帝都の有料運動施設だ。

 

 フォン・エップ上級大将からは、ターニャの休暇が終わるまでは休むよう言いつけられているし、ターニャに会えるのは明日からなので、退院日には特に予定がない。時間を持て余すのを嫌う私は、長らくやってなかった器械体操に打ち込みたくなったのだ。

 器械体操は良い。心身の完全なる調和を生む、芸術的なスポーツだ。私は購入し立ての運動着に着替えて、運動施設まで準備運動がてら二〇キロ程の距離を走り、そのまま時間一杯まで鉄棒と鞍馬を楽しんだ。

 夕刻宿舎に戻ると、私はターニャに『明日お会いしたいのですが、宜しいでしょうか?』と電報を発した。しかし、返事は芳しくなかった。曰く、『準備が整い次第、こちらから連絡致します』との事だ。

 女性の身支度に時間がかかるというのは万国共通であり、いつの世も変わらない真理だとは知っているが、だとしても丸一日以上かかるというのはどういう理由からかと、首を傾げた。

 ただ、どのような理由があるにせよ、淑女に無理強いをするのは好ましいことではないし、堪え性のない男だと幻滅される事だけは避けたかった。私は最前線勤務に臨む以上に胸高まる渇望を抑えながら、ターニャからの連絡を待ち続けた。

 しかし、残念ながら逢引の日は訪れなかった。キッテル家に赴く準備の為に、どうしても時間が欲しいと請われたからである。私は内心落ち込みながらも表には出さず、穏やかな口調の電報を発した。

 

 残りの時間はトレーニングと、ターニャに相応しい装いを選ぶ事に全てを注ぎ込んだ。

 

 

     ◇ターニャの記録17

 

 

 ニコからの電報を受け取ったとき、私は胸の内に喜びがこみ上げるのを自覚しながらも、遂に来てしまったかという思いも感じずにはいられなかった。

 正直に告白するが、私は女として自分を磨くという事をこれまでの人生で一度もしてこなかった。病室で髪を撫でられた時などは思わず口元が綻んだ反面、直後に固く荒い髪に手が触れられているという事に羞恥した程だ。

 もし、セレブリャコーフ中尉が中央参謀本部にいてくれたなら、私は恥も外聞も投げ捨てて副官たる彼女に助言を求めたが、誠に残念ながら、中尉は未だ他の大隊員達と最前線勤務中である。

 しかし、こうした事態を予想していなかった訳ではないので、私はニコとの面会を終えた翌日には、参謀本部勤務の女性軍医に相談を持ちかけた。

 

「病は病でも、恋の病ですのね」

 

 笑顔で指摘されると同時、私は羞恥の余り、拳銃を咥えて自分の延髄を吹き飛ばしたくなった。こんな事の為に軍医にかかる事もそうだが、何にも増して恥ずかしいのだ。しかも、目の前の女医はパーマのかかる艶やかな髪と豊満な体型を併せ持つ、如何にもという美女である。

 同年齢の少女と比較しても運動量と栄養面の釣り合いが取れておらず、発育不全の傾向がある私には、二重の意味で俯かずには居られない相手だった。

 

「大丈夫ですよ、中佐殿。わたくしにお任せ下さい」

 

 ただ、女医にとって私の悩みはこれ以上ない娯楽提供であったらしい。仕事にかこつけて幼い少女を弄れるというのもモチベーションを高める要因になっているのが、当事者であっても分かってしまう。

 耳や頬どころか、首筋まで熱くなってきた私を「可愛いわ」と嘯きつつ結わえた髪を解いた。耳朶にかかる吐息までも艶っぽく、私が異性だったら卒倒するか、思わず抱きついてしまいたくなる程だ。

 

“やはり、ニコもこういう女性の方が好みなのだろうか”

 

 この女医の数万分の一でも、女らしさという物を磨く努力をしていればと後悔したが、自分が異性に恋する日が来るなどとは夢にも思わなかったのだから、致し方ない。スタートは手遅れな程に遅れているが、それでも絶やさず磨けば、いつかは見れる程度になるだろう。

 

 そう己を鼓舞したが、女医は私の髪を取るや否や、信じられないと言わんばかりの悲鳴を上げた。

 

“分かっていた。分かっては、いたのだがなぁ”

 

「中佐殿は、これまでどんな櫛を使っていたの……?」

「配給品の、セルロイド製、です」

 

 プロパガンダとしての記録映像を撮影した時にも、女性武官らと全く同じ問答をした。だが、あの時と違うのは、私が聞く耳を持っていることで、どうして助言をメモに残しておかず、性懲りもなく配給品を使い続けてしまったのかと後悔している所だ。

 

「……髪の長さも、軍の衛生基準通りですのね」

「前線で伸ばせば、手間が増えてしまうと思いまして」

 

『若年従軍者の性別識別のため』という貴族女性の従軍を念頭に置いた規定通りの長さに切り揃えられた髪は、本当に最低限といった長さ。しかもそれを乱雑に束ね、軍帽に押し込んでいたのだから髪質など酷いものだろう。

 女医は私に購入品のリストを纏めた用紙を握らせ、軍務が終わり次第買いに行くよう命じた。階級が上だろうと関係ない。女としての格は女医の方が遥か高みだから、私は新兵の如くキビキビと従うしかなかった。

 

「肌は綺麗ですし、唇も荒れていないのは幸いでしたわ」

 

 記録映像の撮影時にも、そこだけは褒められた点である。尤も、若さにかまけて疎かにしてしまえば、数年後には目も当てられないだろう。肌がヤスリのように荒れた女など、一体何処に需要があるというのか。

 髪に関しては惨憺たる有様だが、そこは少し梳いただけでもサラサラになる程だということなので、今後は入念な手入れを怠らない事を確約し、肌艶も──前線では難しいだろうが、出来得る限りは──維持して行こうと心に誓う。

 女医も熱心に耳を傾ける私に気を良くしてくれたのか、懇切丁寧な手解きの後、また何かあれば相談に乗ると言ってくれたのは有難かった。

 しかし、戦闘団の結成式やら軍務やらで時間の取れなかった私に私物を購入する暇などなく、結局休暇を許可されてから、櫛やら最低限の化粧用品やら香水やらを大急ぎで買い込む羽目になったが、ニコから逢引の誘いを受けて、更に重要な点を忘れていたことに気付く。

 

 私は、女物の服はおろか、私服さえ持ち合わせていなかったのだ。

 

 どうせ私服など背丈が伸びれば着れなくなるのだし、ひらひらとした女物など動き辛くて適わない。軍人である以上、一年通して軍服でも何ら問題ないと開き直った馬鹿のツケが、ここに来て回ってきてしまった。

 私は直ちに被服店に急行した。そして、私に合う服が有るか訊ねたが、どれもこれもが無駄に装飾過多であり、しかも微妙に体型に合わない。

 オーダー品となればかなりの時間を要するため、私は既製品の中から選ぶ事にしたが、しかし、どのような衣装が良いのかが分からない。女としての時間全てが軍務に注ぎ込まれた弊害が、一気に押し寄せて来てしまったというべきだろう。

 私個人としては、この時代の最先端ドレスコードだった、コルセットを使用しない紳士服のデザインを取り入れたマニッシュなスタイルが気に入っていたが、これは社会に出て資本のある女性が着用するものであり、私のような幼女に合うサイズは当然なかったので却下。

 何よりニコは帝国貴族であるから、最先端のモードより古式な物の方が良いだろうと考えた。

(ただ、後になってこの考えが間違いだったと気付く。先駆的な空軍軍服を気に入っていたように、我が未来の夫は新しい物も受け入れられる柔軟な男性だったのだ)

 

 散々悩んだ末、私は装飾こそ少ないが、アルビオンで流行っていたというマーメイドラインのスカートとゆったりとした袖の、アール・ヌーヴォーを指向した曲線的な被服と、草花のあしらわれた小ぶりな帽子を購入する事に決めた。

 帽子を被っていれば、髪を後ろに纏めても違和感が無いと考えたからだ。

 袖や丈は修正が要るが、この程度であればすぐに直せるというので、私は代金を多めに払うので、早急に仕事にかかって欲しいと依頼した。

 これで何とか乗り切ったと安堵したが、女医に最終確認を求めた所、彼女は溜め息を吐かれた。

 

「中佐殿、将校用以外の鞄はお持ちですか?」

 

 持っている訳がない。私は大慌てで買いに行った。こんな小さな鞄に一体何が入ると言うんだと疑問に思ったが、ハンドタオルやティッシュケース、万年筆や手鏡、財布と次々に女医は答えを示したので、私はそれらを詰め込んだ。

 自覚して初めて分かったが、女というものは大変だ。

 

 

     ◇

 

 

 私は何とか、ニコの実家に赴くまでには準備を終える事が出来た。だが、女としての努力をしてこなかった日々は大きなツケとなって戻ってきた。

 

“……逢引には、間に合わなかったな”

 

 ニコはきっと、がっかりしている事だろう。いや、がっかりして欲しいと私は思っているのだ。女として怠惰であった為に、男の期待に応えられなかったというのに、その上で更に男に情愛を求めているのだと自覚して、我が身を恥じた。

 そして決心する。何としてでもこの失敗を取り戻そう、と。

 




 今回登場した女性軍医は、原作でふくよかな、という言葉で片付けられただけですが、漫画版4巻では泣き黒子に豊満なバストと、大人な女性としての魅力を東條チカ先生がふんだんに注ぎ込まれた超絶美人女医さんでございます!
 ウール生地の軍衣越しにあのバストはヤバイ(確信)

補足説明

【フランソワ(フランス)流の挨拶について】
 主人公がクローデル大尉の両頬に接吻したのは、彼が┌(┌^o^)┐ホモォ…な性癖な持ち主でなく、マジでちゃんとした挨拶でございます。
 F・フォーサイス著『ジャッカルの日』では、この習慣を知らなかった暗殺者ジャッカルが、標的であるド・ゴールに弾丸を放つも、ド・ゴールが叙勲時に相手の頬に接吻した為、弾丸を外してしまったというエピソードがあります。
『ジャッカルの日』はカルロス・ザ・ジャッカルのせいで有名な反面マイナスイメージもありますが、名作なのでお勧めですよマジで!

 え? 活字がきつい? そもそも原作は当時のフランス(リアル)を知らないと行けないし、専門用語も多いから苦しい? 
 だったらウィキペディア大先生とグーグル閣下を頼ればいいだろ! と。言いたいところですが……そんな読者様には映画版もあるぞ! あるぞ!(ダイマ)

 ただしブルース・ウィルスが主演のリメイク版、てめーはダメだ(マジレス)。

 読者の皆様は是非73年版をご視聴ください! 間違っても97年版のは観るんじゃあないぞ! アメリカでM2重機関銃改造した変態仕様をぶっぱする方は違うからな! あんなのはジャッカルじゃあないんだ! 振りとかじゃないですからねマジで!
 ※マジで時間を大切にしたい読者様には、73年版の視聴をお勧めします。
  糞だと知って観たい勇者な皆様は、作者と一緒にレイプ目になった後で、原作と73年版を楽しみましょう!

【デグ様の購入した婦人服について】
 デグ様の購入した服は、一九世紀末に登場したアールヌーヴォースタイルというもので、お胸とお尻を突き出して強調するS字ラインシルエット(横から見るとシルエットがS字に見える)が流行していた頃の物であります。
 因みに紳士服要素を取り入れた女性服はWW1以降のアメリカの戦争特需で、女性が社会に出るようになってから一気に流行。この頃の女性は男性のようにタバコを吸ったりするのがステータスとして人気になりました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。