キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

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※2020/3/4誤字修正。
 佐藤東沙さま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


50 貴族の現実-ターニャの記録18

 私、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフの準備は何とか整った。

 どうにもこうにもコルセットが上手く合わせられず、かといって早朝から女医を呼ぶ訳にも行かないので、何とか着用した後に控えめに、しかし丁寧に化粧を施して姿見の前で確認。

 礼装で式典に臨む以上に入念なチェックの後に「良し」と頷いてハンドバッグを手に宿舎を出たが、まだ幾分か時間があったようで、手配した車は来ていない。

 暫し待つと、背後から声をかけられた。誰あろう、フォン・レルゲン参謀大佐だ。

 

「失礼。ここは中央参謀本部勤務者の宿舎でありますが、ご家族をお待ちで?」

 

 それはひょっとしてジョークで言っているのか? 私は悪戯心と好奇から振り返ってスカートの端を摘み、見様見真似の作法(カーテシー)でフォン・レルゲン参謀大佐に微笑んでみせた。

 

「おはようございます、大佐殿。駅までの迎えを待っている次第です」

「デグレチャフ、中佐か?」

 

 何故固まる。何故顎が外れんばかりに口を開ける。いや、言いたいことは分かるから言わなくていい。この男が上官でさえなければ、ハンドバッグに仕舞い込んだ護身用の演算宝珠を起動して、光学術式を叩き込んでやるところだ。

 肩の星が多くて命拾いしたな、フォン・レルゲン参謀大佐。

 

 

     ◇

 

 

 朝の清々しい空気をぶち壊してくれたフォン・レルゲン参謀大佐に内心毒づきつつ、迎えの車に乗車した。参謀大佐に浮ついた話がないのは、きっと女心というものが判らないからに違いない。

 ただ、私が誰か分からなかった時に、僅かに声が上擦っていたのが気になる。ひょっとしてあの御仁、小さな娘が好みなのだろうか?

 私は心の中でフォン・レルゲン参謀大佐の評価を大幅に下げざるを得なかったが、すぐに忘れようと気持ちを切り替えた。

 眉間に寄った皺を解し、身嗜みを何度も確認して平常心でいられる様に呼吸を整えつつ駅に到着。待ち合わせまで時間はかなり有った筈なのだが、ニコは既に私を待ってくれていた。

 近年流行し始めたばかりのピンチバック・ジャケットに山高帽という出で立ちのニコは、降車する私の手を取りつつ脱帽し、一礼の後に微笑んだ。

 

「とてもお綺麗ですよ、フロイライン」

「ありがとうございます」

 

 いいかフォン・レルゲン参謀大佐、これが淑女の扱い方だ。荒れた髪に軍服姿の小娘がめかし込んだからといって、口を開けて固まるのは減点なのだぞ。と、そこまで思って頭を振った。

 

 これではまるで、私がフォン・レルゲン参謀大佐に気があるようで、参謀大佐に素っ気なくされたから気が立っているかのようではないか。

 確かにフォン・レルゲン参謀大佐は若く、貴公子然とした顔立ちのエリートではあるが、どれだけ眉目秀麗な英邁だろうと、私が愛している男性ではない。

 私は意識を切り替えようと、じっとニコを見つめると、彼は頬を僅かに染めて一等車まで私を導いた。淑女として、また小柄な幼女である私を気遣いながらも、少し手に力が込もったその初心さには、一回り以上歳の離れた小娘ながら、可愛いものだと思ってしまった。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 その姿を見たとき、私は胸の高鳴りをはっきりと自覚した。会えなかった時間。待ち遠しいと思った今日。そうした全てが、ターニャを前にして無意味になった。

 ターニャは綺麗だ。今日という日の為、私や家族の為に目一杯時間をかけてくれたのだという事は、一目見ただけで察せられる。

 何度も櫛を入れて丹念に整えたのだろう髪。長いスカートに足がもつれないよう気を配りつつ、履き慣れぬ靴で、懸命に女性らしい歩幅と歩調を保とうとする足取り。不慣れなりに仕上げた薄化粧。仄かに漂うラベンダーと薔薇の香りはコロンだろう。

 この四日。身支度を整え次第に連絡するという電報を発して以来、自分を磨く努力を続けてくれたのだと嫌でも気づく。その健気さを、これ以上なく愛しく感じる。

 

「とてもお綺麗ですよ、フロイライン」

 

 差し伸べた手は、震えてはいないだろうか? 言葉はきちんと届かせることが出来ただろうか? 男性として恥ずかしくない格好だろうか? その努力に、誠意に見合うだけの物を今日私は用意出来たかは疑わしい。

 服は若過ぎてはいまいか? 動作は浮いてはいないか? 細やかな配慮は絶やしていないつもりだが、淑女との付き合い方など未知の世界だ。この日の私を初心だと妻は回想したが、全くもってその通り。

 私は出会えない四日の中で、何度も謝罪の言葉を考えていた。無謀をして心身を傷つけてしまったこと然り、彼女が流した涙然り。だが、じっと見つめてくる空色の瞳を前に、どうしても上手く喋れなかった。

 一等車に乗り、人心地ついて、ようやく私は笑顔で対面に腰掛けるターニャに深々と詫びた。いや、詫びようとしたというべきだろう。

 ゆっくりと。ターニャは私の頬に両手を添えて、先程以上の花咲く笑顔で微笑みながら。

 

「絶対に、許しません」

 

 凍るような声で、私の心臓を握り潰すように囁いた。

 

「一生分は泣きました。一生分は悲しみました。ですから、もう二度とあんな時間を過ごさせないで下さい」

 

 穏やかな言の葉だというのに、声音に全く容赦がない。魂まで凍えさせるような、ルーシーの大地より冷たい音色で、ターニャは極大の釘を刺す。

 

「約束する。決して違えはしない」

 

 私は、恐れを顔に出さないよう努めた。声の震えも完璧に止めて、心臓の鼓動さえ察されぬよう、狙撃手のように安定させる術を覚えた。女の恐怖に飼い慣らされれば、男は一生鎖に繋がれるという摂理を本能で理解できたからだ。

 ターニャは顔を顰めて、目に見えて不機嫌になった。恐怖で私を縛れないと考えたからだろうが、私自身は内心心臓が止まりかけていた。

 私は心からの謝罪をしたかっただけなのだが、ターニャはそれで私に楽になって欲しくないというのが本音だったのは間違いないし、私を絶対に死なせないようにするには、有無を言わさず押し通すのが確実だというのは分かる。

 だが、無理強いの上で同意したところで、余りに誠意がないというのが私の自論だ。妻となる女性には、私は心からの誓いを立てたいのだ。

 ……誓って言うが、尻に敷かれるのを、嫌がっている訳ではない。

 

 

     ◇

 

 

 汽笛を鳴らし、列車が進む。食堂車で私達は朝食を摂るが、会話は少なく気まずかった。

 

「フロイライン」

 

 何か? と憮然とした表情でこちらを見上げた瞬間、ガタ、と列車が揺れて頬にライ麦パンに塗られたマーマレードがついた。ターニャはそれを拭おうとしたが、それより早く私が頬を拭う。

 

「交際相手を、子供のように扱うのですか?」

「まさか」

 

 そのようなつもりはない。私は淑女としてターニャを愛しているし、淑女として愛おしいと思っている。愛しいから、つい手を伸ばしてしまうだけだ。

 

「フロイラインとは助け合い、譲り合い、支え合う関係で居たいと思う」

 

 ターニャは私の為、小モルトーケ参謀総長に直訴までしてくれた。私の墜落に涙し、悲しんでもくれた。私は彼女に、未だ何も出来ていないから。

 

「フロイライン・ターニャが想ってくれた分を、一つずつ返して行きたい。小さな事でしかなかったとしても、誠意と愛情を積み重ねて行きたいと思う」

「歯の浮くような言葉ですね」

 

 そんな言葉では絆されないと、小さな口を開けてパンを齧る。子リスのような食べ方は可愛らしいが、そんなことを口にすればやはり子供扱いをしていると誤解を招きかねないので、一旦口を噤み、珈琲を一口含んだ。

 ターニャはそっぽを向いているが、先程よりは幾分かは表情が和らいだと信じたい。彼女は食事を終えると、私と同じように珈琲を一口含んでから開口した。

 

「助け合い、譲り合い、支え合う。私ならそこに、本音で語り合う事も加えます。正直に答えて下さい。私はニコ様と添い遂げたくありますが、ニコ様は死なないと本当に誓えますか? 貴族の、軍人の責務として死を許容してはおりませんか?」

 

 私は、静かに考えた。ルーシー連邦との戦争は、かつてない規模になるだろう。多くの命が、前線で潰えてしまうことだろう。私自身、二度と窮地に陥る可能性が無い訳ではない。

 軍人である以上、戦いに身を投じる以上、危険や困難は避け得まい。だが。私は決して死なないとターニャに誓う。

 敵に追い込まれたとしても、安易に自決などしない。墜落するのだとしても、脱出の道を探り続ける。どれほど絶望的な状況になったとしても、生を掴もうとする事は忘れない。

 

「フロイライン。私は、故郷で式を挙げたいと思っている」

 

 平和になった祖国で、愛する者と手を繋ぎ、笑い合いながら生きていく。そんな未来を歩もうとするならば、死は決して許容できない。帝国貴族としての義務を果たし、エルマーに決して汚名を着せる事なく迅速に勝利し、かつ生きる。

 これ以上ないほど高い要求だが、やり遂げるより他にないのだ。

 

「式には出来得る限り、多くを招きたいと思っている。勿論、フロイライン・ターニャの親しい人達も招待したい」

「何を今更」

 

 ターニャはため息混じりに笑った。瞳は先程と違って和らいでいた。

 

「その為に、私はニコ様の実家に招かれたのでしょう?」

 

 皆で笑い、平和になった祖国でその日を迎えようとターニャは笑う。

 

「その通りだ。ああ全く、知恵のない発言をしたと思う。ところで、本音で語り合うというのなら、一つ訊きたいのだが」

 

 何なりと。と応えるターニャに、私は含むように笑った。

 

「私に対して許さぬといった時、尻に敷こうとも考えていなかったかな?」

「ニコ様、私は誰よりも、夫と将来の家族の為を思える妻になりたいと思っております」

 

 未来の妻よ、笑顔は素敵だが本音で語ってくれ。

 それが偽らざる愛というものだと私は思うぞ?

 

 

     ◇

 

 

 北東部の駅に到着すると、私はターニャのスカートが列車の車輪に絡まないよう気を払いながら手を差し伸べて下車した。

 そこからは以前にも故郷に舞い戻った時のように馬車で移動し、道行く人々に手を振ったが、以前と違ってターニャがいるので、皆私の方をまじまじと見たし、特に私のことをよく知る者らは「おめでとうございます!」と大音声で祝福したほどだ。

 

「慕われているのですね」

「我が家は地主貴族(ユンカー)でね。荘園や買い取った直営農地で働く者は多いのだよ」

 

 だから必然的に顔見知りは多くなるし、先祖代々続く領地だけでなく、近隣の貴族とも交友や支援を怠らなかっただけに、北東部でフォン・キッテル家を知らない者はまずいない。

 勿論、交友や支援は親切心だけという話ではなく、いざ自分達が困った時には逆に援助を受けられるよう、相互関係を維持する為でもある。

 

「北東部は土地が痩せていると耳にしておりましたが、そのようには見えませんね」

 

 農民たちの血色が良く、着ている服や使用しているトラクターの型、畜産の飼育数からも羽振りの良さが分かるのだろう。そういうところに目が行くのであれば、ターニャは将校としてだけでなく、この頃から経営者としての目も持っていたのかもしれない。

 実際、ターニャは軍を退役してから、その類稀なる才覚で領地を切り盛りしていくことになるのだ。

 

「曽祖父の代から農地経営が安定しているからね。ただ、ここまで生活水準が上昇したのは母上が運営してからで、それまでは他領の地主貴族(ユンカー)と大差は無かった」

「母君が運営を?」

「当家は軍人家系なのでね。男が皆軍に行く以上、必然的にそうなるのだよ。我が家に限らず、女手で農地を切り盛りする家は少なくない。

 勿論、多くの家は家長が軍を退役するまで信用に足る補佐を付けるし、実家に戻る度に夫が運営方針を定めるのが大半なのだが、我が家は完全に母上に任せきりでね」

 

 結果はご覧の通りだと告げる。母上は代々官吏を勤める家に生まれ、将来我が家に嫁ぐことを定められてからというもの、地主貴族(ユンカー)に必要な知識を蓄えつつ、経営・商学や経済学を学び、他国の農地運営も積極的に学んだ努力家でもある。エルマーや私が本の虫であり、数多くの知識を求めるのも、母上の影響に因る所が大きい。

 

 これ以降も我が家にまつわる話をしていくと、ようやく静かな田舎のひと隅にある我が家が見えてきた。爵位や領地に反してかなり小ぶりだが、家族で住む分には十分過ぎる邸宅だ。

 

「素敵なお邸ですね」

「気に入って頂けたなら幸いだ。フロイラインも将来ここに住む事になる」

 

 私は馬車から鞄を下ろして御者に料金を渡し、礼を述べて門を潜ろうとしたが、すぐさま使用人達が門を開け、整列して出迎えてきた。

 

「ニコラウス様、ご帰宅をお待ちしておりました」

 

 粛々と頭を垂れる(じい)は、全身から生気が満ち満ちており、普段なら交替勤務であるが故に数人しかいない筈の使用人が、一同に揃い両脇を固めている。大方、私が交際相手を招くというので、やる気を出しているのだろう。

 (じい)が私を『ニコおぼっちゃま』と呼ばず済んでくれたのは、気恥ずかしいので感謝したが、やはり恥ずかしくとも(じい)には何時も通りの呼び方で私に接してほしいと感じ、そうしてくれないことに一抹の寂しさも覚えたので、私には複雑な心境だった。

 

 私は目を皿のように丸くするターニャに、普段ならこんな歓待はないのだよと耳打ち、普段通り鞄を持って敷居を跨ごうとすると、使用人の一人が荷物を預かってくれた。

 これも普段とは違う。やれることは自分でやるのが我が家の流儀である。将来軍人となる上でも、なった後でも自ら動く事を忘れない為だ。人任せには決してするな。出来ないのなら見て、聞いて覚えろというのが教育方針である。

 

「まぁ! よくぞフォン・キッテル家に! 我が弟君には勿体無いお相手ね! 私はコンスタンツェ。ニコの姉で、今はフスタートの姓を名乗らせて頂いているわ」

 

 貞淑な貴婦人らしからぬ、快活な声に面食らうターニャだが、それは私も同じだ。あの姉上が、このように明るく弾けるような声を上げるなど、これまでになかった事である。

 

「出来れば私の夫も我が家に招きたかったのですけれど、今は忙しい時期ですから、私だけで寿ぎに参りましたわ。よろしければ、お名前を直接お伺いしても?」

「ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフです。こちらこそ、ニコ様のような方との交際を認めて下さり、心から感謝申し上げます」

「フロイライン・デグレチャフ。そのように畏まらずとも良くてよ。それに、我が弟はどれだけ勲章を貰っていても、もう良い年ですもの。フロイラインのような適齢期の女性なら、もっとお若くて凛々しい殿方が放っておかなかったでしょうに」

「その、フスタート夫人は、私とニコ様の交際には反対なのでしょうか?」

「まさか! ごめんなさい、気を悪くさせるつもりはなかったの。ただ、貴女が本当に若くて綺麗だったから」

 

 私には不釣り合いだ、と姉上は仰りたいのだろう。お気持ちは分かる。私が姉上の立場なら、間違いなく同じ問いをターニャに投げた。なんであれば、縁談を取り計らっても良いと考えるぐらいだ。尤も、私がターニャを手放すなど、絶対にあり得ないことだが。

 

「コンスタンツェ。フロイラインがニコには勿体無いのは分かるけれど、ようやく見つかったお相手を手放すのは感心しないわ。この機を逃しては、キッテル家はおしまいよ?」

「そこまで仰りますか、母上」

 

 苦笑混じりの返事と、背後から杖を突く音がした。来て欲しいと思っていたが、本当に来てくれると思わなかっただけに、私はエルマーをたまらず抱きしめた。

 

「我が弟。私にもエルマーを抱きしめさせて」

 

 姉上も、久方ぶりの再会が喜ばしいのだろう。腕を回してエルマーの両頬に口付けると、エルマーは満面の笑みで姉上に再会の挨拶を済ませる。母上もまた、同じようにエルマーを抱きしめた。ただ、姉上の時と違って、母上はお叱りの言葉を忘れなかったが。

 

「エルマーもニコも、どれだけ母が心配していたか分からないでしょうね。お仕事も結構ですけれど、お相手を探すことも勤めなのですよ?」

 

 私もエルマーも、この件に関しては粛々とお叱りを受けるしかない。対して、女性陣はというとくすくすと笑うばかりだったが。

 

「それにしても、本当に可愛らしいお相手ですこと。さぁフロイライン・デグレチャフ、食堂にいらして。ニコも、父上が首を長くしてお待ちよ」

 

 

     ◇

 

 

 食堂へと招かれた私とターニャだが、先ず以って私は滅多な事では見られない父上の私服姿に驚き、次いで上客が来ない限りは決して袖を通さない絹ブラウスと鹿革の袖なしジャケットを纏い、腰には家伝の短剣まで吊るすという気合の入れように目を剥いた。

 父上はこれ以上ない笑顔でターニャをテーブルに招き、エルマーや姉上、母上が席に着くと、ベルを鳴らして(じい)を呼んだ。

 (じい)も父上に負けず劣らずの気合の入りぶりで、これまで一度しか目にしたことのない儀礼杖を手に床を突くと、それに合わせて白い正装の給仕服を着た使用人達が、声もなく料理や食前酒を運んできた。

 このような生活は、断じて清貧に努めるキッテル家のものではない。私は将来妻となるターニャに、贅沢な暮らしをしているのだなという誤解を与えたくなかったが、父上はそれを見越してか、笑いながら口を開いた。

 

「フロイライン・デグレチャフ。本日は我が家にいらしてくれた事に感謝を。当家に可能な最大級の持て成しを用意したが、逆に言えば、これが我が家の限度とも言える」

 

 それなりの爵位と、それなりの領地。しかし、軍人家系である以上は多くの男児や家長が戦死し、生活が困窮することもあれば、農地経営に失敗してその日暮らしを強いられもする。

 加え、我が家は地元の教会や学校、病院などを援助しているし、直営農地で働く従業員には十分な給与を支払う事も確約しているから、贅沢な生活とは無縁だとも父上は告げられた。

 

「決して市井が思い描くような、貴族の生活は送れまい。既にしてフロイライン・デグレチャフは軍の佐官であるし、勲章に付随する年金も考えれば、我が家に嫁ぐより余程裕福で自適な生活を送れるだろう。もし我が家に嫁ぐなら、フロイラインの財産は後の子らと領民達の為に、そして援助を必要とする貴族達と支え合うためにも使わねばなるまい」

 

 貴族とは生き辛く、不自由で、常に折り目正しく生きる事が求められる。革命以前のフランソワやルーシー貴族に見られたような、贅沢三昧な日々を送るような生活は、少なくともフォン・キッテル家では有り得ない。

 領民を、父祖から受け継いだ土地を守り、他の貴族達とも助け合いながら、祖国の為を思い行動せねばならないのだ。

 

「それでも、ニコラウスの妻となってくれるかね? 今年で二七にもなる、決して若いとは言えない男と、しがらみだらけの家に来たいと、フロイラインは思えるかね?」

 

 無理にとは言わない。これが我が家の嘘偽らざる真実であり、引き返すなら今だという。けれど、真っ直ぐに父上を見つめるターニャの瞳は揺らぎなく、その口元は、柔らかな笑みを湛えていた。

 

「この邸宅を見たとき、決して大きくはない家だと思いました。ですが、温かく重ねた時間を感じさせる家なのだとも思ったのです。使用人の皆も、職務としてだけでなくこの家と家族が好きなのだと分かります。

 道行く人々は、心からニコ様に手を振って、私達を笑顔で祝福してくれました」

 

 誇らしい家だ。温かな家だ。けれど、だからこそとターニャは逆に問う。

 

「私は、フォン・キッテル家に嫁ぎたいと思います。ニコ様と、幸福な家庭を築きたいと今も願って止みません。ですが、本当に私で宜しいのでしょうか?

 勲爵士(リッター)の称号を得ようとも、私は私生児です。父は軍人でありましたが何処にでもいた只人で、母は赤子の私を教会の前に置きました。血の貴賎を問われれば、口篭らずには居られぬ身です」

「フロイライン、それは」

「ターニャ、それは間違いだ」

 

 父上より先に、私は口を開いた。家長の言葉を止めて割り込むなど、決して許されぬ無礼であるが、添い遂げる事に引け目を感じるというのなら、これは私が言わねばならない事だ。

 

「血の古さ濃さを求める者は、確かに帝国にも多い。民族主義などというのは、その先鋒だ。だが、この食堂に列なる歴代の当主たちを見て欲しい。顔立ちだけでも判るだろうが、フランソワ系も、アルビオン系も、イルドアやルーシー系も居る」

 

 父祖の中には、庶子から名を挙げて爵位を得た者の家から、当家に招かれた者も多い。他国からプロシャ軍に仕官し、名乗りを上げて栄達を重ねた者も居る。

 尊き血に庶子を加えるのかと否定する者は有るだろうが、庶子の血など既に幾らでも入っているのが貴族の現実だ。

 

「血など関係ない。貴賎など考えずとも良い。そうしたものでしか己を飾れぬ者達など、捨て置いてしまえ」

 

 やれ純血だの優等種だなどと語り続ける血統主義者など馬鹿馬鹿しい。大陸国家である以上は混血など避けられないし、皇帝(カイザー)にしてから、代々諸国との婚姻で成り立っている。

 血の繋がらないもの、交わらないものなど、一体どうやって証明する? 人として歴史を紡ぐ以上、異なるものと交じり合うのは自然なことではないか。

 

「ターニャ、君は誰より幼いながら士官となり、軍学校を卒業し、今や中佐にまでなった。私などより、遥かに優秀で立派な方だ」

 

 来て欲しいと頼むのはこちらの方。他人より多くを学び、磨き、努力し続けた幼い少女に対し、血の貴賎のみを理由に貴族たる資格が無いと断ずるなら、そんな者は決してターニャに相応しくない。

 

「どうか我が家に。貴女程素敵な女性を、私は他に知りません」

「王太子妃殿下よりも、ですか?」

 

 勿論、と私は頷く。不敬である事は承知だが、私には彼女しかいない。他の誰でもなく、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフを妻にしたいと願っている。

 

「……ニコラウス。家長の私がそれを認めてこそ、意味があったのだがね」

 

 良い所を横から攫いおってと父上はお冠だ。しかし、それを窘めたのはエルマーだった。

 

「答えは同じなのですから、良いではありませんか。何より、二人が良い夫婦となれる事ははっきり致しましたでしょう?」

「家長の前でも惚気たがるバカ息子を目にして微笑めと? 私は付き合わされたフロイラインが不憫だよ。このような男を夫にするなど、苦労も絶えまい」

「女として言わせて頂けるなら、結ばれたい殿御の口から聞かされる方が良いものですよ? 私とて、貴方が私のお父上に」

「ああ、もう良い! 分かったからそれを息子共の前で言ってくれるな!」

 

 コロコロと笑いながら昔日を語ろうとした母上の口を、父上は慌てて塞ぐ。確かに息子の身から見ても、身内の恋話などあまり見聞きして楽しいものではない。

 ただ、それは男としての価値観であったようで、姉上やターニャは別なようだ。

 

「母上、是非二人きりの時にお話をお聞かせ願えませんこと?」

「確かに、私も些か興味が」

「ええ、良くてよ。でもコンスタンツェ、まずはフロイラインとお話をさせてね。当家の一員となる以上は、必要なお話がありますから」

 

 そうねと姉上はすんなり身を引いたが、父上は俯いて片手を額に当てておいでだった。もう良い、分かったから自分の居ない所でそういう話をしてくれと顔に書いてある。

 

「ところで兄上、式は何時挙げられるので?」

「叶うならば、今日にでも教会に声をかけたいのだが、全ては連邦との戦争が終わってからだな。私もフロイライン・ターニャも、いま軍人としての勤めは放棄出来んよ」

 

 俯く父上に変わって今後を問うエルマーに、肩を竦めつつ返した。戦時である事さえ忘れそうな空気だが、戦いは今も続いているのだ。

 

「なに。婚約さえしておれば夫婦とは認められる。さて、女は女の、男には男の話がある。この場は一時解散としよう。エルマー、お前も帰ろうとはするな。後学の為に残るように」

 

 父上は「お幸せに」と静かに去ろうとするエルマーを引き止め、私共々執務室に押し込んだ。

 

 

     ◇

 

 

「ニコラウス、細工職人の当てはあるか? なければムンダーの店に行け。我が家が代々世話になっている指輪専門の店でな。お前に贈った指輪印章もその店の作だ。出来は私の口から語るまでもあるまい?

 ユーディットは私と婚約したとき、いずれ指が入らなくなるからと断ったが、婚約指輪は繋がりを形にする重要な物だ。同じ事を言われても、横に振る首を何としても縦にさせろ。ムンダーの店なら幾らでもサイズ直しが利く。

 結婚衣装や美容師も、世話になっている店があるのでリストを渡しておく。店が気に入らねば他を当たっても良いが、間違いなく気に入るだろうよ。ああ、式の内容は話し合って決めろ。そこは夫婦の仕事だ。使用人や(じい)にも手は貸させんからな」

 

 構想があれば聞いてやるというし、私もそれは考えない訳ではなかったので、戸籍役場での婚姻申請の後の段取りを軽くであるが打ち明け、そこから父上と話を詰めた。

 エルマーは如何にも無縁そうな顔をしていたが、私としても父上としても、弟にも家庭を持って貰いたかったので、頼むから関心を抱いてくれと縋ったものである。

 尤も、私と父上が家庭を持つことの喜びや式を挙げる事の楽しみを語ったのだが、結局役には立たなかった。エルマーは最期まで、家庭を持とうとはしなかったからだ。

 




補足説明

【レルゲン様に対するデグ様の塩対応について】
 レルゲン様に対して、デグ様の当たりがキツくて、アンチっぽくなっちゃったので補足。
 デグ様がレルゲン様に辛辣だったのは、女性としての意識が芽生えちゃって、今まで気にしてなかった、相手から向けられる感情に敏感になっちゃったからです。
 レルゲン様からしたら、お仕事中のやり過ぎデグ様とのギャップがあり過ぎて困惑してただけなのですが、女の子になったデグ様にしてみたら「似合わないのは分かってるけど、デリカシーのない男ね!」みたいな気持ちでした。

 そんでもって、もう完全に心が女の子になっちゃったデグ様は、異性としてレルゲン様を少なからず意識しました。
 レルゲン様は赤小屋のエリートにして、イケメンというハイスペック通り越した男性ですし、駐在武官もやってたので立ち居振る舞いも完璧です。
 女性だったら絶対狙いに行きたくなるタイプですね。世の男にしたら「糞が!」と唾を吐きたくなるタイプですが。
 ええ。一般的な女性に対しての対応をレルゲン様がしてたら、結構クラっと来てましたよ、デグ様。残念ながらレルゲン様は絶対にそういう対応はしませんし、何より既にデグ様は攻略済みなので、NTRターレルルートは皆無でしたが。

 対してデグ様から訴訟も辞さないレベルの中傷を心の中でされたレルゲン様はどうだったかっていうと、めっちゃデグ様にドキドキしました。
 漫画版の特典小冊子で、おめかししたデグ様を「天使が舞い降りたかと思った」とかって言ってましたからね、レルゲン様(帝国貴族の闇は深い。深くない?)

 レルゲン様の心境の変化を語っていくと、職場とか学校とかで、めっちゃお固くて冷たい感じだから、関わりたくねーなーって思ってた女子が、意中の相手に対しては一喜一憂して、休日にはめっちゃ可愛くなることが発覚したからです。
「人間を資源扱いとかねーわー、超ドン引きだわー」ってこれまで苦手意識全開だったレルゲン様でしたが、デグ様が塞ぎ込むようになった辺りから、急に意識が変わります。

「あれ? ひょっとして今までは、役職柄お固かっただけなんじゃね? ていうか普通の女の子じゃね? なんであんな怖がってたんだろう自分?」

 と。中央参謀本部勤務中のデグ様に対して、意識が和らいできたところに私服姿のデート前スタイルでデグ様がスタンバってました。

「誰!? え、デグレチャフ中佐!? マジで!? お前こんなに可愛かったん!?」

 てな感じで、びっくりしてました。
 本作品は基本書籍版準拠なので、漫画版小冊子のように、萌えるデグ様をキャッチしていないし、プロパガンダとか見ても「宣伝局の連中が頑張ったんだろうなー」程度にしか意識していなかっただけに、見た目も作法も女の子で天使なデグ様には、それこそ原作で披露したレベルの変顔にもなろうという物ですw

 そして、ギャップ萌えという奴なのか、レルゲン様は緊張気味に声かけちゃいました。
 声が上擦ってたのはこれが原因。大丈夫かレルゲン様!? NTRターレルルート突入は勘弁だぞレルゲン様!?
 いえ。実際大丈夫ではあるんですけどね。レルゲン様はデグ様にお相手居るって知ってますから。
 ……あれ? レルゲン様を擁護する筈が、レルゲン様のロリコン認定になってね?

【キッテル家の歓待ムードに関して】
 キッテル一家はデグ様超歓待でしたが、キッテル家からしたら、中年になった長男が年頃(貴族主観)で聡明利発な優良物件連れてきたので大歓喜だったようです。
 ゼートゥーア閣下も、デグ様が男だったら自分の孫娘上げてたわ(1巻371P)って言ってたぐらいだからね、当然だね。

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