佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!
父上の仰られた店は、市街地の中でも余り目立たぬ位置に有った。白塗りの壁と煉瓦の外装に、二対一組の指輪が描かれただけの飾らぬ看板。内装もまた簡素だが清潔感に溢れていたことから、知る人ぞ知るという空気を醸し出している。
私はドアを開けつつ帽子を取り、後に続くターニャと揃って店員に挨拶した。店主でないと分かるのは、まだ二〇半ば程の若々しい顔つきと妙に垢抜けぬ物腰から、日の浅さが窺えたからだ。
「いらっしゃいませ」
店員は会釈した私に、二度ほど目を瞬かせてから口を開いた。何処かで会っただろうか? という目をしていたが、客として見た顔ではないので、気のせいだと思ったのだろう。
私の顔は常日頃新聞に載ってはいたが、軍服も勲章も無く、直営農地からも遠ざかれば、知名度としてはこんなものである。
「予約もなく来てしまったが、仕事を受けて頂くことは可能だろうか?」
「それは勿論。どのような指輪をご所望で?」
ターニャとは店に来る前から、馬車でどのようなものが良いか話し合っている。とはいえターニャは受け取る側であるから私に任せると言ってくれたので、私は細部を頭の片隅で思案しながら基礎を注文した。
「婚約指輪を一組。素材は純銀を。婚約者の物はサイズ直しを前提にして頂けるだろうか?」
「少々かけてお待ち下さい。只今店主を呼んで参ります」
椅子を勧めた店員は一礼と共に去り、数分と経たず戻ってきた。短く赤ひげを揃え、小太りのようでいてその実無駄な肉など一切無い、如何にもマイスターと呼ぶに相応しい貫録の店主は、私の顔を見るなり慌てて礼をした。
「フォン・キッテル家の若様でございましたか。お待たせ致しましたご無礼をお許し下さい」
「先触れも寄越さず訪ねたのだ。どうか顔を上げてほしい。しかし、よく分かったな?」
「新聞でお顔を何度も拝見しておりました。何より、若様はお若かった頃のご当主の面影を強く残しておりますれば」
そこまで柔和な笑みで答えて、店主はじろりと店員を睨んだ。非は名乗らなかった私にもあるのだから、そう責めずとも良いと店主を宥めたのだが、そうは参りませんと店主は頭を振った。
「若様もフォン・キッテル家も、この地の誇りです。後継ぎがこの様では、店は私の代で
「そう悲嘆せずとも。父上はこの店ならば間違いないと仰られていた。主人が認めた世継ぎなら、腕は確かなのだろう?」
「婿入りしたばかりの若輩です。若様方の仕事には力不足かと」
私は真摯に婿殿の指輪を見せて欲しいと頼むと、店主は頭を掻きながらも自分と婿殿の作品を持って来るよう、婿殿に告げた。
見分すれば、確かに店主と婿殿の技芸の差は歴然だった。鍛造は婿殿も負け劣らず見事だったが、店主の作品は彫の形から光の入り方まで計算された、完成された芸術品と言って差し支えなく、店主の後では婿殿の作品は一歩も二歩も劣るだろう。
だが、婿殿の作品が一段下であるのは、あくまでこの店主と比べての事で、その腕前は帝都の職人にも引けを取らない。ここの店主の腕が良すぎるのだ。
「主人。私も婚約者も、まだ男女としては未熟な身だ」
未だ多くを語り合えず、男としても女としても不完全で、互いにそれを理解している。
「私達の指には、若く拙い指輪が合うと思う」
指輪と共に時間を重ね、互いに子を育み、父上や母上のように老いた時。磨き続けた指輪を見て思うだろう。今日の、あの青かった日よりも自分は成長できただろうか? と。
「……本当に、ご当主そっくりなお方だ」
私の父上も婚約したばかりの母上を連れて店に訪れ、同じ事を若き日の店主に告げたという。青い私達に、青い貴方の指輪を頂きたいのだと。
「その時、私はご夫妻に誓いました。誰よりも腕を磨き、私もまた老いた時には、誰もにご満足頂ける作品を、フォン・キッテル家にお届け致しますと」
「ああ、父上から指輪印章を受け取ったとも。素晴らしい作品であったし、だから来たのだ」
「嬉しいお言葉です。ですが、肩の荷が下りたとは申せませんな。若様とご婚約者様の指輪を作るのは、私の悲願でもありましたので」
「それは……」
どうしたものかと思い悩む。ここまで言われた以上は、店主の望みを叶えてやりたいが、店主の作は私の指には余りに美しい。となれば、選択肢は一つしかあるまい。だが、私がこれを口にして、ターニャがどういう反応をするかも分かっているだけに気乗りがしないが。
「では、婚約者の指に相応しいものを。私は将来の妻に相応しく在れるよう、婿殿の指輪を頂けまいか?」
「いいえニコ様。ニコ様の指にこそ、マイスターの指輪をはめるべきです」
それ見たことかと私は苦笑する。君が貴方がと譲り合って、平行線で進まなくなるではないか。私は困ったように店主を見ると、彼は苦笑しつつも分かりましたと頷いた。
「フロイライン、何故、若様が私の作品を手にすべきだと?」
「マイスター。ご覧の通り、私は心だけでなく体も不完全です。若い指輪と共に成長していくなら、私の方こそ相応しいでしょう。
何より、ニコ様はフォン・キッテル家の次期当主です。マイスターの指輪に劣らぬ、相応しい貫禄を時と共に備えて頂けると信じております」
私としては美しい指輪を未来の妻にして欲しかったが、店主はターニャの言い分こそ正しいと肩を竦めてしまった。婿殿も、私が店主の指輪をはめるべきだと視線で訴えては逃げ場がない。
素直に白旗を掲げた私は、店主や婿殿を含めた皆で指輪の細部を詰めることにした。制作は鋳型なら一週間、鍛造なら三週間であり、彫金や刻印を施すなら更に時間が延びるという。
「お互い、最前線で顔を合わせず指輪をはめる事になりそうですね」
お互い? と婿殿のみならず店主も首をかしげたが、私がターニャの名と『白銀』の二つ名を明かすと、二人は大層驚いた。
「お二方の御子息は、帝国史上最高の軍人になられるでしょうな」
「私達の子の世代には、そう大きな戦争など無くなって欲しいものだがね」
これは私の偽らざる本心だ。群雄割拠の時代とは、すなわち乱世の時代でもある。たとえ私の跡を継ぐ息子が平凡非才であったとしても、その時代が平穏であるのならば、それは願ってもないことだった。
無論、後の世を平穏ならしめる為の努力はこれからも、この先もしていくつもりだ。
「連邦との戦いは、無事終わるでしょうか?」
「終わらせます。私とニコ様で。これ以上、血の流れる時代は続けたくありません」
婿殿の質問は微かに不安の色があったが、ターニャは帝国軍人らしい毅然とした態度と、女としての強さの込もった口調で応えた。そして店主はターニャを見て「お前もこの半分はしっかりして欲しいものだ」と婿殿の頭を叩いた。
「ご立派なご夫婦です。お二方の武運長久とご無事を、毎夜主と聖母に祈らせて頂きます」
「感謝する。ムンダー家は、代々キッテル家の指輪を作ってくれているとも伺った。戦後は是非、披露宴に招きたいのだが迷惑だろうか?」
「滅相もございません。参列できる日を心待ちにしております」
◇
私とターニャは礼を述べて店を出ると馬車に乗って駅まで向かい、再び一等車に乗り込んだ。既に日は沈みかけており、帝都に着く頃には星空が見えるだろう。
“長く付き合わせてしまったな”
ターニャは気遣う私に大丈夫だと微笑んだが、軍務とでは大きく勝手が違う。履き慣れぬ靴で気を配りながら歩き、常に身なりや汗による化粧崩れまで気にしていたのだから、肉体的にはともかく、精神的な疲弊は相当なものだろう。
今日という日の為に尽くしてくれたターニャの労に報いたい私は、何か願い事があれば聞き届けたいと申し出た。
「宜しいのですか?」
勿論だと頷く。身に余る願いは困るが、流石にそこは弁えてくれるものと信頼していた。
「では。喫煙を止めて頂きたくあります。巷では吸えば痩せるなどと言われ、女性の喫煙者も多くなりましたが、将校として多くを見る身からすれば、誤りであると判断致します。
喫煙者は非喫煙者と同等の訓練であっても疲労の度合いが高く、肺にも負荷をかけております。食欲の減衰も、決して良い物とは言えないかと」
一理どころか千理ある言葉だ。軍務に就く以上自己管理は徹底すべきであり、喫煙を止めるべきだと言うターニャの言は正しい。
何より、私はターニャが煙草の煙が大嫌いだということも知っていた。駅や市街地でも、すれ違いざまにかかる煙や臭いに顔を顰めていたからだ。彼女に限らず、煙の苦手な女性は帝国にも多いし、我が家の女性陣もその例に漏れない。
父上も、喫煙する折には母上や姉上が臭いや煙が苦手である事を悟って、家に戻る日には喫煙を控えていたし、私も同じく女性の前では決して吸わないようにしていた。
今日という日も私は全く吸ってはいないし、喫煙の頻度も、他の喫煙者と比べれば雲泥の差であろう。
紙巻はひと月で一箱持つし、パイプ葉の缶も持て余し気味だった。私が買い込むのは前線では手に入り辛い為と、戦友や捕虜となった負傷兵に与えてやる事が多いからだ。
さて。こう長々と言い訳じみた事を語るのは、頻度こそ少ないといってもやはり私が愛煙家だからだ。前線の乏しい時間と量でたっぷり味わいたいからと肺に入れたりはしていないし、ニコチンやタールが恋しいほどの中毒者でもない。
それでも純粋に口腔内を満たす煙の味や、葉の香りの楽しみを知ってしまった身としては、紫煙との縁は切り辛い。前線での煙草と酒は、敵兵とでも話の種にもなるから尚更だった。
男らしく止めると口に出来ない私に業を煮やしたのか、ターニャは対面の座席から立ち上がると、止めると言い切れぬ私に顔を近づけた。瞳は険しく、嘘吐きだと責めているようで、逸らそうとする私の顔を固定するように両頬に手を置いてきた。
「どうしても、止めては頂けませんか?」
「……月に一度、パイプを咥えるのは、ご容赦頂けないだろうか?」
女々しい。女々しいぞニコラウスよ。こうして過去を綴っている私でさえ、この時の自分を白眼視せずに居られぬ程に、情けない男の姿があった。そんな様だから、指輪に相応しい貫禄が老いても身につかんのだ。
ターニャは大きくため息を吐き、肩を落とした。意志の弱い男だと言外に言われている事がありありと伝わり、次の瞬間には、無言で頬に添えた両手に力を込めだした。
幼い少女の膂力に過ぎないが、私には万力以上の効果があった。
身じろぎ一つできず、汗を掻く事さえ忘れさせる圧力が、何より私自身感じていた後ろめたさも含めて、完全に雁字搦めになっていたのだ。
「フロイラ、」
黙れという視線が刺さった。無言のままじりじりと膝を上り、顔を近づけたと思った瞬間、私は呼吸さえ忘れて目を瞬かせた。
「……っ、!?」
はじめ、何をされたのか分からなかった。視界一杯に広がる、目を閉じたのだろうターニャの瞼と、結われた髪から微かに溢れる数本の髪の毛。
唇に触れる、柔らかく温かな感触を自覚仕掛けた刹那、まるでタイミングを見計らったかのようにターニャは私から離れてしまった。
余韻は本当に微かなもので、もう一度、今度は自分がその唇を奪ってしまいたいという衝動から手を伸ばすが、ターニャはそれをひらりと躱してみせた。
「初めての経験でしたが、口付けの味とは酷いものなのですね」
苦く、渋く、吐息は鼻を噤みたくなってしまう。
甘さなど欠片もなかったとターニャは顔を顰めて嘆息した。
「このようなものなら、二度と賞味する事はないでしょう」
私は二度と、決して喫煙をしないとターニャに固く、真摯に誓った。
かつてダールゲ中佐は「紫煙という奴は縁を切らせてくれないし、その上金までかかる悪い女だ」と笑いながら語ったが、私は悪い女と縁を切り、ターニャ一筋であろうと決心したのだ。
読者諸氏は、二重の意味で私を軟弱と笑ってくれて良い。ただ、もし本著を手に取っている中に、恋に浮かれている男性が居られるならば質問もしたい。愛する女性の唇と紫煙。生涯一方しか味わえないとしたら、貴方はどちらを取られるだろうか?
◆統一歴一九六〇年 キッテル家
今頃ニコは禁煙を誓った辺りの内容を、原稿用紙に書き綴っている頃だろう。尻に敷けないなら、飴で飼い慣らせるかと内心ほくそ笑みながらの口付けだったが、いざやる側となると我ながら若いというか、顔に火が点きかねない程火照っていたのだから何とも締まらない。
『恋愛とは二人で愚かになることだ』というフランス作家の名言にもある通り、恋に浮かれていた私達は青く愚かだったということだろう。尤も、青さも若さも老いた今でさえ残っているので、子にも孫にも時折呆れられてはいるが。
私は当時を回顧しつつ、今は亡きユーディットお義母様が使っていた書斎の椅子に腰掛けて、目を通していた経済学書をパタンと閉じた。幸いにしてこの歳になってさえ近眼や老眼とは無縁だが、目が疲れるのは早くなっているようだ。
休憩がてら、ニコに原稿を渡した時のことを思い出す。
“書斎に入ってこない事からしても、私の書いた原稿は何の違和感も持たれていないようだな”
連邦への復讐を決意し、全てを巻き込んで滅ぼそうとした部分ではない。あれは本当の事しか書いていないのだし、私自身罪の告白としたつもりだったのだが、どうにもニコは火消しに余念がないという訳でなく、信じてくれてもいないようだった。
まぁ、そちらに関してはどうでも良い。小モルトーケ参謀総長には悪い事をしたと思うが、連邦との戦いは帝国の総力を挙げねば勝ち得なかった戦だった以上、あの決断が間違いだったとも思わない。
私にとって重要なのは、ニコが私とユーディットお義母様との居間での会話の部分に疑問を持たないかというところだったが、そこは私の恥を前面に出す事で乗り切る事が出来た。
“流石に、真実を語る訳にも行かんからなぁ”
あの時の居間での会話は、私が前世の記憶を持っていて、しかも前世では男だったという事実の次には、墓の下まで持っていかねばならない物だ。
目を閉じて、あの日のことを思い出す。
語ったところで信じる者はごく僅かだろうが、夫を含めユーディットお義母様を知る者は間違いなく卒倒するだろう日の真実を。
◆
「フロイライン・デグレチャフ。息子を選んでくれてありがとう。母として、これ以上喜ばしいことはないわ」
柔和な笑みを浮かべつつ抱きしめたキッテル夫人は、その抱擁を解くと共に、じっと私の瞳を見つめる。慈愛や家族愛とは別の、私という一個人を観察する瞳だった。
「それにしても、本当に私そっくり」
「お戯れを。私は、キッテル夫人ほどお美しくはありません」
「いいえ。貴女は昔日の私そのものよ。生き写しかとさえ思ったわ」
確かに金の髪や色素の薄い瞳は似ているのかもしれないが、同じところがあるとすればそれぐらいだろう。だというのにキッテル夫人は「同じよ」と改めて私に言う。
「貴女は同じ。恋を知ったばかりの、人間らしくなった私とね。嬉しいけれど、惜しくもあるわ。もしも息子と出会う前の貴女に会えていたなら、すぐにでも軍を辞めて貰って、私の野心を叶えて貰っていたでしょうに」
瞳が変わる。ニコへの感情を自覚する以前の、合理と打算に満ちた瞳。死んだような、曇っているような、それでいて成功を願って止まないような、くすんだ瞳を、あのキッテル夫人がしているのだ。
「私の生家は、代々官吏の家系だったわ。主には金融行政を取り仕切る類のね。けれど、私は女に生まれてしまった」
初めは、我が身を呪ったものだという。男兄弟の誰より経済というものを解し、誰より貪欲に知識を求め、誰より強い野心を持ちながら、しかし女の身であったが故に栄達を閉ざされたと。
「男であったならば、ユーディットは大蔵相だっただろう。父上は呆れながらに語ったけれど、私は不服だった。『その程度に見られているのか』と肩を落としたわ」
昔日のキッテル夫人、ここではフロイライン・ユーディットと称すべきだろう。彼女は女らしさなど微塵も望まず、世界を経済の枠に捉えてみていた。
「ねぇ、フロイライン・ターニャ。貴女はこう感じたことはない? どうしてこの世は、こんなに無駄が多いのだろう? 人的資源を無駄に浪費し、コストカットさえ出来ていない。異なる分野であったとしても市場原理に基づき世界を見れば、あらゆる無駄は改善され、やがて淘汰される筈なのに」
「ミクロ経済学の視点から、世界を俯瞰すべきだと?」
一瞬輝いた瞳は、我が意を得てくれた同類に出会えたと実感したことと、純粋な歓喜からだろう。
だが、それはこの世界では未だ形成段階にある思想であり、学問であり、神を信じぬ私が前世で忠実なる信徒となったシカゴ学派の考えだ。
「素晴らしいわ。打てば響くとは正にこの事。貴女がニコを選んでくれて本当に良かった」
頭の中まで糖蜜漬けになっている女など、顔も見たくなかったと吐き捨てる。
貞淑な女? 実に結構。だが、キッテル夫人が欲しているのは、領地を任せられるだけの才覚を有している、己の眼鏡に適う女だった。
「詩が上手かろうが、社交が出来ようが何の値打ちも無いわ。当家に来たいという女達は家柄も財も一級だったけれど、誰も彼も農地を維持するのが手一杯という有様だった。
エドヴァルドには、難癖をつけて追い払ったわ。貴女とニコの文通をエルマーから聞いて以来、私はずっと貴女を追っていたのよ?」
私の士官学校時代の論文も、筋を頼って手にしていたという。『戦域機動における兵站』は軍事畑の人間の視点とは違う、明らかに経済を中心に考えた経営者の物だったと確信したそうだ。
「貴女が何処で知識を得たのか。どうして齢九歳でこんな論文を書けたのかには興味ないわ。どの世界にも異才は現れる。エルマー然り、私然り、この世にはそういう人間が少なからず出てくるもの」
“エルマー兄様と合わせて、さりげなく自分を持ち上げたな”
自分は天才だと言いたいのだろうか? だとしたら私とは似ていないだろう。私は自分がそうした類の人間でないということは自覚している。社会という敷かれたレールに順応し、その中で成果を出すことを重視した、そこそこの人間に過ぎない。
前世でも、そして今も、私は取るに足らぬ世界という市場の歯車の一つに過ぎないのだ。
「買い被り過ぎです」
「ええ。麒麟児ではあっても、天才ではないかもしれないわね。だけど、ねぇ? 世にどれだけ無能が蔓延っていると思う? 人的資源としては劣悪な、他の歯車まで傷めてしまうような無駄な部品は特に多いわ。
貴女はその無駄を、取り除く努力をしている。軍という取り扱う歯車を選べない世界で歯毀れを修復し、一級にまでして円滑に機能させる事がどれだけの労力を必要とするかは理解しているつもりよ?
貴女は『歯車』でなく、『技師』になれる。世界を回す、優れた『技師』に」
「それがキッテル夫人の、昔日のフロイライン・ユーディットの夢だったのですね」
「そうよ。私は一国の大臣などに収まるつもりはなかった。手始めに帝国、いずれは列強、そして世界。私は市場原理に基づいて、全てを支配したかった」
今日日、創作の悪役でもなければ、決して聞けない台詞だろう。経済からの世界支配。どのような大物だろうとひれ伏さずにいられない、財によるコントロールを望んで止まないというのだから。
「何故、ご自分でなさらなかったのですか?」
官吏の椅子に興味がないというのなら、それこそ他に幾らでも手はあった筈だ。父親が才覚を認めていたというのなら、金融の一つでもやらせれば結果はついてきただろうに。だが、その答えは簡単で、昔の私なら馬鹿馬鹿しいと思うものだった。
「恋をしたからよ。言ったでしょう? 貴女は昔の私だと」
結婚などという自由を束縛する社会契約など真っ平御免だ。異性との恋愛など考えられない。何もかもが私と同じ考えだったフロイライン・ユーディットは、しかし家長殿に恋してしまった。
「捧げたくなったの。尽くしたくなったの。打算と合理で世界を見て、美しく回る無駄のない歯車のような世界を求めていた私が、一人の男に恋したの」
荒れた髪に眼鏡をかけ、瞳の下には隈まで作って、夜通し経済学を学び続けた可愛げのない小娘。女らしさなど投げ捨てていたというフロイライン・ユーディットが、生まれて初めて経験した感情は、全ての価値観をひっくり返してしまった。
これまで詩作などしたこともなかった。教会にだって行きたくなかった。神よりも市場原理こそを奉じるべきだと豪語して止まなかった不信心者が、意中の相手の為だけに己を変えたのだ。
「敬虔な信徒を装って、今では本物になった。女らしさと礼節を身に着けて、どのような宮廷人さえ相手に出来るようになった。こんなものは、本当に欲しい
私は世界よりも、欲しいものを掴んだのですもの」
女として生きる喜び。恋に傾ける情熱。それを知ってしまってから、野心は遠のく一方だったそうだ。
「結婚したいという願いが叶えば、次は子供が欲しくなった。ウェディングドレスに袖を通したのは一三で、貴女とそう変わらない体型だったからエドヴァルドは止めたわ」
それはそうだろう。体が出来ていない状態の出産はリスクが高い。貴族社会でも結婚は早いが、世継ぎを設けるとなれば慎重になり、どれだけ若くとも一四、五歳まで待つ家が大多数だ。
私は待たなかったけれどね、とキッテル夫人は笑うが、あまり想像したい絵面ではない。私と変わらぬ体型をした一三の痩せぎすな少女と、二四になる逞しい男が褥を共にするなど前世で考えれば犯罪的過ぎる光景だ。無言で一一〇番を押したくなる。
時代が時代で命拾いしたな、我が義父よ。
「そうして子供が出来たら、今度は自分の手で育てたくなるの。エルマーの足は本当に悲しかったけれど、それでも立派に育ってくれたのは嬉しかったわ」
“立派なファザコンでマザコンでシスコンでブラコンになって、それ以外にはセメントどころか氷河期に近い対応だがな”
一体どういう育ち方をして、エルマー兄様はああなったのかと思ったが、他の姉弟を見るに生まれつきああだったのだろう。尤も、キッテル夫人の本性を知ってからは、血は争えないものだと納得できたが。
「子供が育てば、今度はキッテル家の土地と領民を、夫人として守らなくてはならないわ。人的資源を有効に活用して、効率的なシフトを組み立てて環境改善。学者を招いての地質調査から始まって、他国の農業機械や肥料も取り入れたの。機械化で手が空いてからは畜産に回せたから、それなりに稼がせて貰ったわ」
特に合州国は土地の割に人口が少なく、農業関係は機械化が進んでいて助かったという。ニコはキッテル家の農地を、昔は他の
確かに農地としてみれば土地は痩せているのかもしれないが、養蜂と畜産は非常に盛んであり、立派な乳牛や軍馬としても重宝されるトラケナー系やサラブレッドがあちこちで草を食んでいるし、農園には多数の鶏と豚が飼育されていた。
軍人家系の一族だというよりも、有数の地主だと称した方がよほど説得力があるだろう。
“あれだけの規模でありながら『それなり』とはな”
夫人一人では限界がある以上、各部門ごとに部下を雇って回しているというが、これはもう立派な一つの企業だろう。少なくとも、中小でなく大企業と称すべき資本は蓄えているに違いない。
「とは言っても、キッテル家は代々無駄に財を持ちたがらないから、手元には余り残せないのよね。私としても貨幣は溜め込むより回すべきだとは分かっているから否はないのだけれど、他家にまで無駄な援助を行うのはどうかと思うわ」
貴族同士の助け合いという奴か。確かに軍人家系であり、家長や跡取りが亡くなる可能性を考慮すれば必要な出費とは言え、歯がゆいことに変わりないらしい。
「ニコやエルマーが相手を作らない時も、恩返しと称して子女を寄越してきたけど、大半が家同士の関係を強めたいだけ。その癖経営改革も行わないというのだから呆れかえったわ。まぁ、そういう家にはお引き取り願って、代わりに息のかかったコンサルタントを投げておいたけど。これで潰れるようなら、そこまでね」
ただ、キッテル家の繁栄は夫人の功績よりも専門家を雇ったからだと見られた──これは帝国が表向き男女平等を謳いつつも、未だ男性優位の社会だからだ──のは功を奏したらしく、援助する家は減ったそうだ。実際には、助言の元締めは夫人なのだというのに。
「ごめんなさいね。愚痴が長くなってしまったけれど、言いたいのはそこではないの。大事なのは、子を育てようと領地を経営しようと、野心が潰えたという訳ではないということよ。一番が二番に、二番が三番にと順位が下がったというだけで、私はまだ諦めきれないの」
「だから、私に夢を叶えろと? 申し訳ありませんが、器ではありません」
「私はある程度動かせる資本を持っていて、為替と株を回して続けているわ。そうね、森林三州誓約同盟の隠し口座に、幾ら入っているか教えて上げましょうか?」
来なさいと招かれるままに近づき、告げられた金額に目玉が飛び出かけた。嘘だろう、と思わず口にしなかった自制心を褒め称えたい。しかも、財の殆どはインフレ対策の為にインゴットや貴金属にして貯蔵しているという。
「ニコやエルマーが家の為に使って欲しいと給与の幾らかを毎月納めてくれていたけれど、そちらは息子達の名義で学校や病院、孤児院を併設している教会に寄付したわ。家のお金なら、私の頭が使い物になる限り問題ないもの」
「それだけの資本を持ちながら、私に何をしろと?」
世界を掴みたいというのなら、キッテル夫人だけで十分叶う。現時点でさえロックフェラーやロスチャイルドとだって肩を並べられるだろうに、まだまだ夫人には時間があるのだから。
「決まっているでしょう? 無駄を無くすのよ」
惜しまず金を使い、人間を操作しろ。市場原理に基づいて余計なものを淘汰させ、見込みがあれば投資を惜しまず、国家を蝕む白蟻は破産させろと語りだす。
「まだ操れる人間も足りないし、投資先も選別の段階だけど、貴女に継がせる頃には機能しているわ」
この力で、キッテル家を守れ。未来永劫、自分達家族の生きる土地を守るついでに、祖国も守ってやれという。
「しかし夫人。市場原理に忠実であるべきなら、国家や強大な個人ないし組織が市場に介入するのは、自然淘汰による適者生存を妨げる事になるのでは?」
「そうね。だけど現状、帝国という資本家の投資先が軍ばかりなのは理解しているでしょう? 戦時下ならそれでも良いけれど、戦後を考えるなら、軍需産業に代わる労働者の受け皿は今の内に用意したいのよ。国家の極端な投資をカバーするくらいなら問題ないでしょうし、民需産業の活性化を求めてなら、一定の介入も許されると思わない?
それに、この国は軍需企業からリベートを受け取っている者や、役人に融通を付けて参入している企業はまだ多いの。エルマーの新型兵器のおかげで改善されたそうだけれど、悪い流れを潰すには、もっと力が必要になる。
私達の介入は、そうね。殺虫剤を撒くようなものだとでも考えて頂戴な」
その後は教育機関に見られるような、後々確実に国家利益となるが、芽が出るまでに時間のかかる分野を中心に投資していけば良いという。市場に介入するのは必要に応じてか、或いは自分達以外の厄介な介入者を潰すときに限れば良い。
「世界を掴むよりはずっと簡単なお仕事よ。貴女にも問題なくこなせるわ。いいえ、こなせるようにして上げる。私の全てを教えてあげるわ」
「キッテル夫人、貴女は、本当に恐ろしい人だ」
「ええ。でも貴女、気付いていて? 私を恐ろしいと言いながら、口元が歪んでいてよ?」
認めよう、私は楽しそうだと思ったと。女として愛に生きるのも良いが、元男として、企業戦士として合理的な市場原理に満たされた世界というのも見てみたい。
何よりだ。組織にせよ社会にせよ、一見合理的に見えてその実非効率な部分を帝国が抱えているのも純然たる事実。
無能な官吏や軍高官、法匪といった国家の寄生虫が子や孫の世代までのさばり蔓延るのは耐え難い。根絶は無理だとしても、数を減らせるというのなら、やがて母となる身としては幾らでも飛びつこうじゃないか。
「この出会いを生んで下さったニコ様には、心から感謝したいものです」
「こちらこそ、結婚式が待ち遠しいわ」
強い握手と共に、私達は笑顔を見せた……筈だったが、結婚式という言葉の後にキッテル夫人は表情を固くした。最も大事なことを、忘れていたというように。
「……ターニャ。貴女、ワルツは踊れて?」
私は首を縦に振った。私も女としては駄目だったが、昔日のキッテル夫人は私以上にダメだったらしい。
「私と同じだと思っていたのに……!」
「……キッテル家に泥を塗らず済んだことを、喜んで頂きたいのですが」
第一、今の貴女ならどんなダンスでも踊れるだろうに。
※Q:将来の主人公は、指輪にふさわしい貫禄が身につきましたか?
A:(ベッド以外では)見事に尻に敷かれて頭も上がりません。
補足説明
【キッスの味はタバコの味?】
主人公とズッキューンしたデグ様のお味の感想ですが、これはタバコを止めさせたかったからのもので、主人公はエチケットとしてきっちり歯磨きとか口臭対策は怠っておりませぬので、誤解のなきようお願いいたします。
実際のお味は、食堂車で飲んだハーブティーのお味でございまする。
【結婚時のママ上の外見について】
一三歳のママ上の外見はデグ様以上のボサボサ金髪に、眼鏡をかけたダウナー系低身長やせ型ロリボディ。手を出すには犯罪的すぎませんかねパパ上!?
なおママ上は嫁入りの後、キッテル家の栄養満点な食生活で、バインバインでムッチムチなアルティメットボディになった模様。
当然デグ様も戦後にすげえ事になりました。
アニメでヴィーシャさんから貰った服は、胸が苦しくて腰が余るレベル。ヒップに関しては、書籍版4巻扉絵でロリヤが想像した通りの、プリっとした感じでございますw
主人公死すべし慈悲はない。