キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

60 / 80
※2020/3/11誤字修正。
 佐藤東沙さま、すずひらさま、 水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


57 学術的対話-麻薬中毒者への対応

 また明日との言葉通り、私はタネーチカ政治委員の収容されている施設に足を運んだ。捕虜収容所ではなく軍宿舎の一室であり、見張りこそつくものの将校用の個室である為、待遇はかなりのものと言って良い。

 とはいえ余剰スペースも余り無い一人部屋であるから、私とタネーチカ政治委員が語らい合うのは事務室である。

 私は昨日と同様、極力穏やかな口調である事を心がけつつ、将校鞄から一冊の本を取り出した。共産党の聖書と言っても差し支えない『資本論』の原著だ。

 

「帝国では、焚書にされているとばかり思っていました」

「経済を学ぶ以上、避けては通れない書物を?」

 

 本を焼く者は、やがて人を焼くようになるものだと、何処で聞いたかも定かでない言葉を口にして席に着く。

 エンゲルの『共産主義者宣言』*1のように、労働者の団結を促す啓蒙書とは異なり、こちらは資本社会のメカニズムを分析し、読者に開陳する為のものである。

 だからこそ古プロシャ時代にマルカスから国籍を剥奪した帝国でも手に入るし、何よりも、共産主義に反駁するには共産主義を知らねば始まらないという理屈から、帝国は経済学者に反共産主義の論文を書かせる為に図書館や大学でも置かれている。

 ……その弊害として、一部の学徒に共産主義に傾倒した者が出たのも事実だが。

 

 私は辞典か全集のように分厚い資本論を机上に置き、著者自身が難解だと認めた一章を開いて、タネーチカ政治委員に指で示した。

 

「以前から目を通していたのだが、やはり独学では間違いも出てくると思ってね。そちらのアカデミーでは、研究され尽くしている分野だろう?」

「……何が、狙いなので?」

 

 私は吹き出した。狙いもなにも、見ての通りではないかと。

 

「聞き出せるものなどないと貴官は言ったがね。私にしてみれば、聞くべき事は山程ある。貴官は共産主義の専門家で、私は素人なのだから」

 

 我々は奇妙な関係だ。相手を否定し、憎み合うよう言われていながら、相手を知ろうとしていないのだから。

 

「帝国将校というのは、知りたがりなのだよ。分からないことを分からないままにしたくない」

 

 独自解釈では駄目だ。読む事と学ぶ事は違う。それは両親や家庭教師から幾度となく指摘されたことであり、本当は資本論とて何度も読破しては母上から学ばされたのだが、それを口にする気はない。

 捕虜と監督という立場よりも、教師と生徒の方が歩み寄るには良いだろうと判断してのことだ。

 

「政治将校は、軍将兵にイデオロギー教育を前線でも行っているとも伺った。教えるのは得意だろう?」

 

 頭を下げるように頼み込む。軍の階級ゆえに敬語は使えないし、捕虜に対して余りに謙るのは宜しくないので、ここまでが限度だが、相手もそれぐらいは理解しているだろう。

 ため息を一つ溢し、タネーチカ政治委員は微かに口元を緩めて開く。

 

「捕虜と言えど、連邦に不利益となる情報を開示する事は出来ませんが、我々から学びたいというのであれば、無下には出来ませんね」

 

 ましてや、自分は虜囚の身ですからと自嘲するタネーチカ政治委員に、私は無理強いした事を謝罪した。

 

「すまない。そして、これから宜しく頼む。ああ、今後は先生とお呼びすべきかな?」

「それは結構ですわ。学術的対話とでも考えておきますので」

 

 苦笑しつつ、タネーチカ政治委員は教鞭を執った。

 

 

     ◇

 

 

 以降、私は従順かつ勤勉な生徒として熱心に共産主義を学んだ訳であるが、読者諸氏にしてみれば、如何に歩み寄る為といっても、過剰に過ぎる関わりではないかと思われたことだろう。私とてそう思う。

 

 では、どうしてここまでするのかと問われれば、私は共産主義という奴が好きではないし、共産主義者も大嫌いだからだ。

 しかし、困ったことにタネーチカ政治委員は善人だった。それも『これ以上ない程の』と頭に付く類の。ああいう理想主義者は、正直見ていて心苦しい。限りなく当人は善性でありながら、高邁な理想を宿していながら、道筋だけを間違えてしまっているのである。

 

 共産主義というのは、私からすればカルト宗教のそれだ。

 支配者層の腐敗から人民が団結し、既存国家を崩壊させ、新たな共同体を作る。

 そのプロセスを彼らの教祖(マルカス)は資本論で打ち立てたが、これは決して正しくない。いや、支配者層の腐敗から革命というプロセス自体は、フランソワ王国やルーシー連邦で実行された以上、一定の理があることは証明されている。

 問題なのは、共産主義者はこのプロセスを唯一視してしまって居ることだ。彼らにとって『国家とはやがて崩壊するもの』であり、『やがては倒さねばならない古い頸木』なのだとしか考えていないのだ。

 

 この思想が、単に経済学の一つであるだけならば良かった。資本家と生産者に見られる搾取の関係を論理的に説明するのも、国家の崩壊を語るのも良い。

 しかし、彼らの教祖(マルカス)は経済学者の枠には留まらなかった。古プロシャ王国で革命を起こして追放され、その後も連合王国に亡命しながら、暴力革命による遂行を肯定してしまった。

 

 マルカスは、暴力革命に及んだ時点で学者であることを止めた。

 学問の世界から抜け出し、政治の世界に飛び込んだ。

 世界を俯瞰し、世界の仕組みを読み解くことで改善するのではなく、自らの思想を証明するために、暴力で世界に干渉してしまった。

 国家とはやがて自然的に朽ちるものではなく、機械的に人の手で壊すものなのだと後世の人間に伝えてしまった。

 教祖(マルカス)当人がどういう思惑だったにせよ、それが今の現実だ。ルーシー帝国で現実に起こった革命は、決して自然な仕組みとは言えない。

 確かに革命は秒読みだったのかもしれない。人民の不満は天に木霊し、地を埋め尽くさんばかりだったのかもしれない。

 しかし、革命を指導した者たちは人民の為でなく、自らのイデオロギーに従って行動した。革命を達成した後もイデオロギー故に行動し、イデオロギー故に失敗した。

 農地改革の失敗などはその典型で、経営におけるノウハウもなければ、経営学を熟知するでもなく、ただ富裕層から土地を奪えば、後は全て農民が解決すると楽観視した。

 

 浅薄極まりない行動。理想論のみで空転し続ける国家。革命直後のルーシー連邦が混乱の極みに達し、無数の餓死者が出たというのも当然だ。

 共産主義者は教祖(マルカス)の教えに従い行動したが、教祖の教えには『国家とは滅び行くもの。社会主義国家とは共産主義に至る過程に過ぎない』としか触れられていなかったのだから。

 

 国家の運営とは、それを可能とするだけの専門知識を蓄えた人材を成熟させ、先人達が蓄積したノウハウを学び取り、そこから試行錯誤しながら一歩ずつ進めねばならない険しい道のりだ。

 国民を富ませる為に生涯を費やして学び続けたとしても、決して上手く行く保証はない。だというのに共産主義者は、国家という組織を何処までも軽んじた。

 一つの企業から社員全てを追い出し、素人が運営すれば誰だとて倒産は必至だと理解できる筈なのに、共産主義者は国家という巨大企業の運営が、何処まで過酷なものか全く理解出来ていなかった。

 

 共産主義者に言わせれば、国家は企業ではないと主張するだろう。正しくその通り。企業より遥かに難しく、そして最も過酷な選択を強いる組織こそ国家なのだ。

 一つの失敗。一つの損失は国民の血で支払われる。人が動かす以上失敗は避けられないが、失敗の果てに何が生じるのかを、痛ましい現実という物を、共産主義者は何処まで理解できているだろう?

 

 その答えは、現実にこそ表れる。相次ぐ亡命者が、共産党への不満が、彼らの口々に語られる怨嗟と悲鳴が、これ以上ない程真実を暴き立てて行く。

 私が共産主義を、カルトと否定する理由はそれだ。

 真っ当な宗教団体は、信じてもそれが他人を束縛しない。信じる者を教義で縛る事はあったとしても、それは信じる当人の問題に過ぎないのだから。

 けれど、カルトとは自分が信じる物の為に他人を束縛し、害するものだ。自分達こそが正しく、それ以外は間違っていると『決めつける』ものだ。

 

 経済学として共産主義を語るだけならば、実現さえされなければ、それはまだ学問で居ることが確かに出来た。

 そういう考え方もあるのだろう。幾つか間違いはあったとしても、そこから発展し、突き詰めることも出来るだろう。

 学問とは理論に間違いがあっても問題ではない。先人の理論を間違いだと証明する事で新しい理論が生み出され、世界は発展していくのだから。

 

 しかし。それが政治介入になった時点で、もう駄目だ。

 行動の道は示された。『実行』する事で、『達成』するものだと伝えてしまった。

 共産主義は『学問』から『政治思想』に置き換わった。

 

『汝の道を行き、しかして後は人の語るに任せよ』

 

 共産主義者は、資本論の序文にある意味忠実であったのだろう。

 どれだけ否定されても、どれだけ悲劇を重ねても「いいやまだだ、きっと上手く行く筈だ」と、それを信じる者たちは行動し続ける。

 たとえ失敗を見せつけても「それは前の連中がやり方を間違えたからだ」「自分達は上手くやる」と言って聞きはしないだろう。

 他人をはねのけ、自らを正当化し、そして信じるものを絶対視してしまう。

 マルカスは宗教を阿片と否定したが、共産主義者こそ阿片を齧り、阿片を素晴らしいとばら撒き続ける中毒者だ。

 自分に都合の良い夢を見せ、他人を殺すか壊すしかない連中だと、そう告げたところで意味はない。

 鏡に映る醜悪な姿を見せつけたところで、既に阿片に脳を侵された彼らは、自分を正しく認識してはいないだろう。

 理想の革命家。人民を地上の楽園という約束の地に導く者だと、信じて疑おうともしない。現実に飢餓が満ち、夥しい血が流れても、それを直視できない狂った存在こそ共産主義者なのだから。

 

 だが。タネーチカ政治委員にはまだ救いがある。彼女は理想に燃えているだけであり、行き着く先に何が待つのかが見えていないだけだ。

 

“そう。見えていないのだ”

 

 見ていないのではなく、見えていない。皆が正しい理想を宿し、正しく行動するなら実現出来る。共産主義者的に言うならば、紐帯的行動とでも称すべきか。あらゆる民族が国家の垣根を越え、目標に向けて邁進する。

 実に高邁な理想だとも。だが、その理想は間違った理論の上にある。土台が腐っている以上、決して理想郷には至れない。

 全ての人類を幸福の内に統治する機構など、格差なき世界など宗教の中だけのものなのに。

 

「憐れな女ですね。その理想を証明するために、どれだけの人間が犠牲となったかも知らずに」

 

“嫌っているな”

 

 いや、嫌う事こそ当然なのだ。如何にタネーチカ政治委員個人が純であれ、党の犬(チェキスト)に身内を殺されたシャノヴスキー参謀少佐にしてみれば、歩み寄ろうとする私は裏切り行為を働いているといっても良い。

 それを口にしないのは、曲がりなりにも私が上官であることと、私の意図を知っているからだ。

 

「じき、その理想の限界が見える頃合だ」

 

 私は資本論を学び終え、マルカスとエンゲルの著作に手を出しては疑問を伝え、教授される。そうして次は共産党の初代最高指導者、ウリヤノフの論文や著作の内容をタネーチカ政治委員から口頭で説明され、それを事細かに書き留めた。

 私は、帝国将校でありながら共産主義にかぶれてしまったと知らぬ者は思うだろう程に熱心な信徒になっていたが、それが偽りの信仰だという事は、女性憲兵らもシャノヴスキー参謀少佐も理解している。

 私が共産主義を否定していることは、本著で再三に述べ続けてきた。私と共産主義は永遠の敵であり、そこに和解の道はない。

 

 彼らが学問の世界に留まらず世界に侵食し、侵攻し、人々に悲劇をもたらす存在であり続ける以上、私は共産主義を滅ぼさねばならない。

 タネーチカ政治委員が、一個人として敬意を抱くに値する存在であることは否定しない。だが、彼女が紛れもない共産主義者である以上は私にとっては敵であり、滅ぼすしかない。言い換えれば、敵でさえなくなれば滅ぼす必要もないのだ。

 私は、タネーチカ政治委員を共産主義者でなくすつもりなのである。

 

 私は共産主義者を麻薬中毒者と例えたが、麻薬中毒者に麻薬を止めさせるにはどうすれば良いだろうか?

 麻薬を取り上げ、麻薬がもたらす害を丁寧に否定することだろうか? いいや、それでは駄目だ。中毒者から急に取り上げたところで禁断症状に陥るし、何よりタネーチカ政治委員は自分が中毒者である事への自覚もない。

 共産主義という麻薬を、不治の病と診断された『世界』という患者に有効な特効薬だと、本気で信じて疑わないのだから。

 

 だから、私はまず、微量の麻薬を与え続けることにした。資本論然り、共産主義者宣言然り、或いは党のテーゼ然りだ。

 熱心な麻薬の布教者に対して、私は興味があるように、そして麻薬に無知である事を装いながら麻薬の説明を受け、私自身も服用し続けた。

 私自身には麻薬の耐性ができている以上、依存にも中毒にもなりはしない。だが、タネーチカ政治委員はそれを知らない。初めは私に猜疑の眼差しを向けつつ麻薬を渡してきた彼女も、今の私が喜んで麻薬を服用する人種になったと疑ってはいないのだ。

 

 そして、信用を勝ち得てきた段階で、私は徐々に麻薬の量を減らしていった。共産党への、或いは共産主義そのものへの疑問を合間に提示したのである。

 手放しで教えを請う段階は終わったと証明し、勤勉な共産主義者だと太鼓判を押され、互いに対等な位置で対話が可能だと思わせた時点で、私は一歩踏み込んだ。

 

 共産党の中央集権的性質で、何処まで末端を監督できるか? 地方分権と比べての、メリットとデメリットは?

 純粋な計画経済は消費者の需要を適切に把握し得るか? 需給関係からの価値評価は何処まで適切に処理し得るか? 技術革新は起こり得るか?

 

 こうした疑問は、一方的にタネーチカ政治委員から教えを請うのではなく、協議という形をとった。私自身もまた共産主義者という形をとり、共産主義の枠組みの中で解決策を模索していく事にしたのである。

 当然これは大真面目なようでふざけてもいる。私自身は共産主義の矛盾も問題も熟知しており、答えも理解しているのだ。

 

 私的利潤を資本主義的格差をもたらすものとして否定し、全てを国有化する事で管理する社会主義の中央集権的機構は、すなわち巨大な官僚制度の温床であり、国家という一組織で全てを把握するのは、複雑化した近代社会では不可能であるということ。

 

 計画経済は国民全ての需要を把握するだけで莫大なコストを要し、人口の増減や個人のニーズの変化に臨機応変に対応し得るものではないということ。

 

 突き詰めてしまえば、社会主義とは非効率かつ停滞を避けられない構造なのである。

 党が人民全ての要求に応えるには、役人を増やすしかない。役人を増やせばコストは膨大となり、国家は活動するだけで疲弊していく。市場経済であれば需要と供給から判断できる事さえ、巨大な官僚制度を構築しなければ達成できない。

 

 そして人間にとって、どのような時代、どのような国家、どのような組織であろうと犯罪者が発生してしまう事からも察せられる通り、内部腐敗という問題は避けて通れない課題である。それに対し、共産党が何処まで対応出来たかと問うたならば、歴史が証明している通りだ。

 右も左も上から下まで贈賄に満ち、誰もがそれを受け入れている。市場経済という相互の信頼があって成り立つ社会とは異なり、国家の一存で全てが決定されるのだから、国家の役人に金を渡して取り入れば、その時点で生産ラインは確立される。

 市場経済における『淘汰』が存在しない社会とはすなわち、発展なき堕落に満ちた衰退社会に他ならない。

 

 だから、共産主義者は行き詰まる。知れば知るほど、経済というものに造詣を深めれば深めただけ、現実的な答えから遠ざかる。

 人民の紐帯的行動だの、理想的指導者による変革指示だのといった、精神的な逃げ道を模索しようとする。

 

“だが、私は逃がしてやるつもりなどない”

 

 現実に苦しみ、のたうち回り、そうして身体に溜まった毒を吐き出して貰わねばならない。悩むのも結構。戸惑うのも結構。だが、思考の停止だけは許さない。

 私も目一杯悩む()()はしよう。答えの明確な問いに、間違った公式で解く努力は見せてやろう。だが、最後に出される結論だけは変わらない。

 

 もう無理だ。この理論は破綻している。()()道を模索するしかない。

 

 その真実を、最後に提示するのだから。

 

 

     ◇

 

 

「残念だ。タネーチカ政治委員」

 

 科学的社会主義は、科学的に否定されたと私は受け入れた()()をした。

 信じてみようと麻薬を手にし、熱心な中毒者となった筈の私は、その勤勉さ故に麻薬は特効薬になり得ないという事実に至ってしまったと。

 

「…………」

 

 黙して俯くタネーチカ政治委員は、慰み者にされると危惧していた初めの頃以上に沈んでいた。半生を費やして信奉し、いつか手を届かせるのだと邁進し続けた理想が毒にしかならないのだと自覚した瞬間、その心は何処までも澱んでいた。

 私は退室すると、憲兵らに「自殺だけはさせるな」と告げてその場を去った。

 一人残されたタネーチカ政治委員は、小さくインターナショナルを口ずさんでいたという。

 

*1
『共産党宣言』と同様の書物。ルーシー連邦は共産党の正当性を主張する為に、初版のタイトルを広めた。




 共産主義者絶対殺すマンによる共産主義者精神破壊法。
 ていうか、浮気すんなと言われておきながら教師と生徒プレイに興じるあたり、この主人公は浮気性の糞野郎ですね(確信)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 エンゲルス→エンゲル
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。