キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

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※2023/10/12誤字修正。
 夜市よいさま、すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


58 思想の否定-最早同志に非ず

「これで、共産主義者の芽が一つ潰えた訳ですな」

 

 清々したと語るシャノヴスキー参謀少佐だが、その顔色は余りよろしいものではない。これから先、タネーチカ政治委員がどうなるかを、簡潔に述べてやったからだ。

 

 このままでは自殺するか。それとも殻に閉じ込もるかだろうと。

 

 勿論、そうならない為に行動することは出来るし、するつもりでいた。私の敵は共産主義であって、タネーチカ政治委員個人ではないのだから。だが、私はそれを口にしない。

 共産主義を否定し、共産主義者を憎悪し続けるシャノヴスキー参謀少佐に、私は静かに問うた。

 

「そうやって憎まねば、直視も出来んか?」

 

 最も近しい部下と、不和になる事を承知で私は告げる。全くもって素直ではない。初めて参謀少佐がタネーチカ政治委員を見た時、息を呑んでしまったのを見過ごす私ではないのだ。

 なんとも若く青いもので、私もルイス王太子妃を目にした時は同じようなものだったからすぐに察せられたものである。

 ただ、私の時は身分の壁だったが、シャノヴスキー参謀少佐のそれは敵味方の壁であり、身内の仇でもある。

 一目見て、芽生えた思いを自覚してしまえば、それは党の犬(チェキスト)に殺められた身内への、亡命を選択した両親への裏切りだと察して、それを意識しないよう努めているのだろう。

 シャノヴスキー参謀少佐は初めの一度以降、タネーチカ政治委員と面会しなくなった。護衛としてならば憲兵がいる。私が彼女を共産主義から()()させるのに、自分は必要ないだろうと参謀少佐は軍務をこなしてきたが、それが意識してしまった女性から遠ざかりたいが為のものだという事ぐらいは理解できるのだ。

 

 シャノヴスキー参謀少佐は黙していた。私に対しての怒りと、内心渦巻く共産主義者と党への憎悪。そして僅かに揺れた瞳は、真意を突かれた事に対しての動揺もあったのだと思う。

 私はシャノヴスキー参謀少佐に、今日からタネーチカ政治委員の面会に参加するよう命じた。軍務に関わりのない事ではあったが、上官への忠誠はプロシャ以来の伝統である為に余程の事態でなければ拒否し得ないのだ。

 

 ……このように語れば、読者諸氏におかれては、幾度となく休暇命令を無視している私は、上官への不服従に熱心な不良軍人だなと指をさして指摘されると思うが、その点は次のように反論できる。

 私のそれは、全て『軍に対する自発的奉仕活動』という名目で軍務に就いている事にしていたので、厳密には不服従ではないのだと。

 とはいえ、これが言葉遊びに近いことは認める。認めたところで改める気はないが。

 

 

     ◇

 

 

「今日は、少佐もおいでですのね」

 

 憮然とした表情のまま軍宿舎の事務室に踏み込んだシャノヴスキー参謀少佐を見て、タネーチカ政治委員は穏やかな、しかし何処か乾いた口調で言った。

 私はタネーチカ政治委員に、今日から軍務が多くなり、面会の時間が取れなくなるだろうこと。代わりにシャノヴスキー参謀少佐が業務を引き継ぐこと。参謀少佐は模範的帝国軍人であり、捕虜を虐待する類の者でないことを説明すると、タネーチカ政治委員は素直に頷いた。

 

 共産主義を学び、理解を深めた結末は無残な形に行き着いたが、その間に積み上げた信頼関係は無駄ではなかったということだろう。

 とはいえ、私としては無残な結末に行き着くことを承知での歩み寄りであったので、タネーチカ政治委員の信頼に対して後ろめたさもあったのだが。

 

「よろしくお願いします、少佐」

 

 柔らかな物腰で挨拶するタネーチカ政治委員は、僅かに私を見た。シャノヴスキー参謀少佐は私のように、共産主義というものに対して関心を抱いているのか。心を開いても良い人間であるのかを問いたいのだろうが、私は違うと小さく頭を振った。

 

「以前にもご挨拶申し上げたが、フート・シャノヴスキー少佐だ。大佐殿に代わり、不定期で業務を代行する事となった。大佐殿と同様、私との会話は全て記録に残され本国に提出される。私も貴官の境遇には同情するが、職務上必要以上に情はかけられない事を理解してくれ」

 

 読者諸氏に説明させて頂くと、提出書類に関しては、私は一切誤魔化していない。私は政治委員に、共産主義から脱却させる為の措置であり実験だと明記した上で、全ての記録を提出している。本来この手の記録は書記官が別室に控えて担当するのだが、私は自分で作成していたのだ。

 

「それから注意しておく。大佐殿はお優しい方であったので、訂正を求めなかったのだろうが、捕虜であっても軍階級に応じた礼節は存在する。今後、上位の階級には敬称を付けるように」

「はい、少佐殿」

 

 宜しいとシャノヴスキー参謀少佐は頷く。私とシャノヴスキー参謀少佐は、今日のところは顔合わせのみということでこの場を後にした。

 

 

     ◇

 

 

 この後の二人のやりとりは、提出された記録と本人達からの証言を基にした物であるので、事実と異なる部分も見られると思うが、真実は当人達の中だけにあるものであるので、そこはご了承頂きたい。

 

 私の代行を務めると告げた日から、シャノヴスキー参謀少佐は足繁くタネーチカ政治委員の元に通いつめた。

 下心があった訳ではないだろう。シャノヴスキー参謀少佐は常日頃から公人としても私人としても鑑のような好青年であったし、自分の心根に気付かないようにしていた。おそらくは、職業意識という面を強めることで、職務に精を出せば気も紛れると考えたに違いない。

 

 タネーチカ政治委員によれば、面会時のシャノヴスキー参謀少佐の態度は実に淡々としたもので、そこに私人としての顔は見えなかったという。

 ただ、時折チリチリと肌を焼くような、熱を帯びているのに底冷えするような感情が垣間見えた時が有り、それが殺意というものなのだとは少し間を置いてから気付いたそうだ。

 一日が過ぎ、二日が過ぎ、そうして三日目になるとタネーチカ政治委員は自ら切り出した。

 

「連邦が、憎いのですか? 私達は、受け入れることは出来ない存在ですか?」

 

 発せられたのは、歩み寄りからの思いだった。私がタネーチカ政治委員に時間をかけて信頼を勝ち得たように、タネーチカ政治委員も例え心を閉じた相手だろうと対話からの和解が見えるのではないかとこの時は考えたそうだ。

 とはいえ、後になってみれば、これは純粋な歩み寄りとは程遠いものだったと、後年のタネーチカ政治委員は私に自嘲しつつ回想した。自らの主義思想の否定という結末に辿り付き、論理からの打開の道が閉ざされた結果、別の道を模索していたのだという。

 

 あくまでも事務的に。与えられた勤めを全うするように共産党の指針や情報を、或いは政治将校というものの行動原理を聞き出そうとするばかりのシャノヴスキー参謀少佐は、共産主義を否定することも、党を侮辱することも決してしなかった。

 

 いっそ、こっぴどく否定してくれれば楽だった。そうすれば、人民の為と反駁できる。

 ルーシーは飢えていた。支配者は搾取するばかりで、憲法さえ真面に作りはしなかった。立ち上がるしかなかったのだと、たとえ結末が無残でも始まりは正しかったのだと否定できたのに。

 だというのに、シャノヴスキー参謀少佐は仕事をこなすばかりだった。憎悪はある筈だ。それぐらいタネーチカ政治委員にも分かる。

 だが、けれど。シャノヴスキー参謀少佐は、本当に将校として清廉潔白な人物だった。私心を表に出さず、個人の感情がどうあろうと、それを職務に持ち込まないだけの職業倫理を堅持していたのだ。

 

 だから、タネーチカ政治委員は怒らせたくなったという。感情を吐き出して欲しい。ぶつけて欲しい。そうすれば、崩れかけたものを積み上げられる。帝国の支配。覇権国家の隣に見える敗戦国の絶望。特権階級と人民の間にある格差社会。

 論理からでない、精神の支柱を維持できる機会を欲しての言葉に、シャノヴスキー参謀少佐はペンを置いた。

 

「憎いとも。誰よりも、何よりも憎いとも」

 

 解放者を謳いながら搾取し、指導者を謳いながら身内を殺めたお前達を、私は終生許さない。そう打ち明けるのは、貧しくも愛しい我が家を離れねばならなかった貧農の倅。

 知己を、縁者を頼りに遠く離れた帝国に辿り着くまで、艱難辛苦の道のりを歩み、今や軍大学を卒業して佐官とまでなった勤勉なる男から告げられた真実に、タネーチカ政治委員は何も言えなかった。

 始まりは高潔だった? いいやまさか。始まりからして共産主義者(おまえたち)は歪んでいたよと、他でもない被害者の口から克明に語られる。

 帝国のプロパガンダでもない。実際に連邦領に入ったこともない人間が、亡命者からの伝聞で知ったように口を利くのでもない。

 フート・シャノヴスキー参謀少佐は、彼の一家は、親類縁者は被害者だ。

 自分達が何をした? ただ日々を懸命に、慎ましく生きていく事が共産主義者(おまえたち)の倫理から外れる罪深い行いだったのか?

 タネーチカ政治委員の最後の縁。最後の拠り所。最後の希望を粉微塵に砕かれた。

 そして、シャノヴスキー参謀少佐は余計なことまで口にした。

 

「何故大佐殿が共産主義に理解を示したように()()()と思う? お前達の主義思想が、観念的な世界にしかないものだと伝える為だよ」

 

 夢を見て他人に迷惑などかけるな。自分達の目的達成に無辜の民を巻き込むな。

 シャノヴスキー参謀少佐の言いたいことは分かる。私自身、そうした意図があったからこそここまで持ってきた。

 だが、その答えは告げるべきでなかった。それは押し付けられたものでなく、タネーチカ政治委員本人が自覚し、結論に至ったと()()させてこそ意味あるものだった。

 そう結論が出るよう、誘導されたと考えた時点で……。

 

「成程、全ては仕組まれていた事だったと」

 

 こうなる事は、目に見えていた。タネーチカ政治委員は活力を取り戻した。全ては帝国将校の陰謀であり、共産主義の芽を摘みたいが為に、袋小路に陥らせただけだと夢想する。

 

「そうやって、逃げ続けるのだろう?」

 

 目の前で被害者が語っても。自分自身では前途ある未来を想像できなくても。

 

「ずっと、思想に耽溺しながら人を殺し続ける」

 

 逃げ道が出来たら、安易にそれに寄りかかる。どれだけ厚顔で無知蒙昧なのかと吐き捨てて、この手で殺してやれたなら、どんなに楽かとシャノヴスキー参謀少佐は嘆いた。

 

「だが、私は帝国軍将校だ」

 

 将校として、軍規には忠実でなければならない。如何な過去があろうとも、私情を理由にして暴行を加えることも、暴行を()()()()ことも許されない。

 

「何故貴官だけに、このような優遇が許されていると思う? 政治将校というものはな。とことん連邦軍に憎まれているからだ」

 

 一日収容所に置けば、その日から暴行と強姦のフルコースが用意されることだろう。開戦と同時に党員になることを志願した者たちであっても、内に滾る憎悪は決して消えはしない。彼らは自己利益の為に党員になったのであって、党も党の犬(チェキスト)も好きではないのだ。

 

「今からでも収容所に連れて行っても良い。監視の陰で、どのような目に遭うかは想像出来るだろう」

 

 脅しではない。それ程までに政治将校に対する、連邦軍の怒りは深い。帝国軍のプロパガンダをタネーチカ政治委員は悪質なデマと考えていたのかもしれないが、それ以上のことがオストランドでは行われていたのだから。

 だが、私の同調が欺瞞だと知った時点で、そのような不都合な真実にタネーチカ政治委員が聞く耳を持つ筈がない。

 

「私は政治将校として、正しく行動してきました。他の将校もまた、党に忠誠を誓った以上、そうあれかしと行動している筈です」

 

 本来なら、政治将校が何を行い、連邦軍がどのような行為に走ったかは、タネーチカ政治委員がこちらを信頼してから打ち明ける筈だった。

 狂信的イデオロギーというフィルターを取り除き、真実をその目に焼き付けることで、初めて政治将校としての地位を手放そうという一歩を用意出来た筈だった。

 

 だというのに、全ては水泡に帰してしまった。私も共産主義への同調が嘘偽りであったことを語る用意はあったが、それはタネーチカ政治委員が共産主義という麻薬と縁を切ってからの予定であって、この時点ではまだ早すぎる。

 再び麻薬に手を伸ばしたタネーチカ政治委員を、一体どうやって、シャノヴスキー参謀少佐は改心させる気だったのか。後で知らされた報告に、当時も耳を傾けたものである。

 

「ならば、貴官と共にあった将校に尋ねると良い」

 

 

     ◇

 

 

 後日。前線の頃と違い、血色の良くなった砲兵中隊の指揮官にして、自らが指導──正確には監視だが──を任されていたコチェグラ砲兵中尉は、タネーチカ政治委員の顔を見て笑顔を浮かべた。

 そして、タネーチカ政治委員の体調や様子に問題ないと知るや、コチェグラ砲兵中尉は要求を聞き入れてくれた帝国軍に感謝を述べて席に着いた。

 

「同志中尉。私の為とは言え、そこまで帝国軍に媚びずとも良いのですよ?」

 

 帝国は軍規に反しないと公言してはばからず、それをプロパガンダとして国内外に示している。血の匂いは外にバレる以上、タネーチカ政治委員はたとえ自分が死ぬとしても、それがやがて帝国の非道を世界に伝える一助になる筈だと説いた。

 シャノヴスキー参謀少佐が傍にいながら、そのような発言が出来た豪胆さには目を剥かずにいられないものだが、麻薬に再び手を出した以上、怖いものが無くなっていたのかもしれない。とはいえ、だ。

 

「政治委員殿」

 

 頭に同志という言葉を付けなかったこと、他の何よりも互いの絆を、紐帯的信頼を表明する単語が苦楽を共にした筈のコチェグラ砲兵中尉から取り除かれたことは、タネーチカ政治委員に少なからぬ衝撃を加えた。

 

「どうか、党への忠誠を捨てては頂けませんか?」

「なにを」

 

 馬鹿なことを、とタネーチカ政治委員は激怒しかけ、すぐさま、はっとしたようにシャノヴスキー参謀少佐に視線を向けた。何を吹き込んだ。どのような手を使った。そう問いたげな視線に、参謀少佐は笑いもせず頭を振った。

 

「政治委員殿、これは私の偽らざる本心です。我々の行いは、唯の侵略でした。ルーシー帝国時代の支配域拡大と、何ら変わらぬものです。このような戦争に祖国の血を流す意味を私は見出せません」

「同志中尉。貴官は敵に惑わされているだけです。我々の行いは侵略ではありません。それは帝国の工作行為です。我々は帝国に攻め入られたのですよ? 祖国がインペリアリズムの脅威に晒されていると、私は何度も党の説明を原隊の皆に語って聞かせた筈です」

 

 実際、ルーシー連邦ではそういう事になっていた。侵略戦争では士気低下が著しいが為に方針を転換して、『帝国が侵略行動を目論んでおり、それに対抗する為の先制攻撃だった』と説明を続けていた。しかしだ。

 

「それを真に受けていた兵は、一人として居りませんでしたよ?」

 

 誰もが黙し、死んだ魚のような瞳で淡々と、馬耳東風とばかりに流していた。まともな軍事計画も立てず、党のプロパガンダ教育を延々垂れ流す政治将校らに呆れつつも、それでも話を聞くだけで半日が終わるならと、皆サボタージュの時間だとばかりに呆けていたそうだ。

 

「政治委員殿は、中途から中隊に派遣されたので知る由もなかったでしょうが、私もまた奇襲に参加した一人なのです」

 

 帝国軍は連邦軍侵攻の情報を掴み、兵を配置していたが、あくまで防衛目的であった。だからこそ、コチェグラ砲兵中尉は今も生きて捕虜になることを許されている。

 

「帝国軍が本気で侵攻する気であったのなら、私はとっくに骸を晒していたでしょう。ダキアも一時的にさえ手にすることは叶わず、国境で防御を固められていた筈です」

 

 連邦軍によるスオマ侵攻の大成功以降、軍部が地位を固める事を良しとせず、共産党は軍部の大粛清を敢行した。スオマ侵攻の勲一等にして『赤いナポレオーネ』とまで称された連邦の英雄は処刑され、その他の有力な将校たちも皆強制収容所(ラーゲリ)へと送られた。

 結果、連邦軍は数こそ多くとも現状は張子の虎であり、帝国軍の反撃によって当然の如く甚大な被害を被った。

 

「初回で一撃を加えられた時点で、おかしいとは思わなかったのですか? 帝国軍は、私達の侵攻を知っていました。防衛戦争という大義名分を得る為に、始まりの砲火を我々に撃たせたのです」

 

 正直、自分は嫌だった。列強各国に囲まれながらそれらを斬り伏せ打ち倒し、覇権国家の地位を手にした軍事国家と一対一で矛を交えるなど正気ではないと、コチェグラ砲兵中尉は吐露し出した。

 

「それは帝国の誘いです。先鋒はそれに気付けなかっただけです。協商連合を見なさい、同志中尉」

 

 軍隊とは事前の計画なしに、自由に動けはしないもの。レガドニア協商連合の越境から始まる反撃に、複数戦線での瑕疵無き防御と反攻。まるで全て初めから敵の出方を知り、その上で殴ったようにしか見えない勝利の数々こそ、訝しむべきだとタネーチカ政治委員は反論した。

 

「帝国軍は大規模侵攻を計画していた()()()。でなければ、あんな勝利は有り得ない」

 

 これはタネーチカ政治委員の間違いでもあり、同時に正しくもある。

 帝国軍は大規模侵攻など計画していなかった。帝国空軍の編制状況を見れば分かる通り、何もかもが非常事態の連続で、だからこそ協商連合との開戦時も、防御を固めつつ戦線を整えて戦うしかなかった。

 ややもすれば終戦は成らず、じりじりと追い込まれて摩耗し、未だ複数戦線の脅威に晒されている状況下でルーシー連邦と矛を交えていたとしても、何ら不思議はなかったろう。

 しかし、帝国は勝利した。時に作戦が、時に運が、そして次々と投入される新兵器が戦況を打開し、困難を克服し、遂には覇権国家の地位さえ手にしてしまった。

 

 戦後、歴史家の多くは帝国の勝利を当然の帰結とは見なかった。

 最高統帥会議に集う主要な文官は勝利こそ希求し、財政負担を鑑みつつ戦費を捻出し続けたが、肝心の国家戦略を築かず軍部に投げ、軍部もまた各戦線の勝利を最優先としつつも、文官と同じく統一した指導理念を中央大戦開戦時点では有していなかったのである。

 

 黄金期を象徴する人材。流動的情勢の中での天運。それらが噛み合い、最終的に戦争遂行に対する威権を有した小モルトーケ参謀総長が、帝室と軍、そして政府を終戦までその勢威でもって牽引したことで挙国一致し、『最終的な勝利』に帝国は到達した。

 損耗比や戦果といった数字の上でこそ大勝利と呼んで差し支えなかったものの、それらは薄氷の上を渡り切った結果でしかなかったとは、後世における全ての有識者が意見を一致させるところである。

 

 こんな勝利、陰謀なくして手に出来るものかと吠えるタネーチカ政治委員は正しい。だが、こと防御に関してだけは例外だ。

 

「政治委員殿。帝国は四方を仮想敵国に囲まれた国ですぞ。隙を生じさせることは、亡国の道を辿る事と同義です。軍事国家たる彼らがそのような愚を犯したならば、我々が殴りかかるまでもなく、滅び消えていたでしょう」

「同志中尉! 貴方は一体どちらの味方なのですか!?」

 

 問わずとも。聞かれずとも分かるだろうに、タネーチカ政治委員は激高した。答えを知れば、追い込まれるのは自分だと分かっていながら、問わずには居られなかったのだろうが。

 

「私は『祖国』の味方です。そして、出来る事ならば同胞たるタネーチカ中尉にも、その一員となって頂きたい」

 

 横から卓上に載せられるのは、義勇軍への志願書の束。そこには既にコチェグラ砲兵中尉の、そして捕虜となった彼の原隊員全員の名が連なっていた。

 

「党を、裏切るのですか……?」

「私は軍人です。祖国の為ならば幾度でも死地に赴き、命を擲ちましょう。政治委員殿を前にして口にする事は憚られますが、敢えて言いましょう。共産党など、共産主義など糞くらえだ」

 

 タネーチカ政治委員が派遣されるまで、コチェグラ砲兵中尉は幾度となく地獄を見てきた。敵の手によって作られる地獄でなく、党の犬(チェキスト)によって作られる真の地獄を。

 

「戦友は何の罪もないのに、粛清されました。多くの友人も餌食になりました。そうならないよう、私は党員になって模範的に尽くしてきましたがね」

 

 しかし。去っていった友たちの顔は覚えている。そして、何の力にもなれず、息を殺し続けた自分がどうしようもなく情けなくなったともコチェグラ砲兵中尉は自嘲した。

 

「政治委員殿には、何度も助けられました。本来なら、攻勢の失敗は政治将校からの銃弾で贖われる筈だったのですからな」

 

 だから、今もこうして誘っている。捕虜として寛大な措置を帝国軍に訴え、今もまた戦後を見据えて、仲間になろうと声をかけている。

 

「政治委員殿の誠実さは、地獄に()使()を見た気分でしたよ」

 

 もはや、党への面従腹背を隠す気もないのだろう。宗教を否定する立ち位置だった元党員は党員章も階級章も既になく、ポケットから出したロザリオを首にかけて笑い出す。

 

「政治委員殿。重ねて申し上げます。貴女は善き人だ。私は幾度となく宗教を否定する貴女にも神のご加護をと祈っておりました。

 貴女は神を否定し、救わねばならない人民から食料を取り立てる党とは違う。隣人を愛し、思いやり、差別のない世界を上辺だけでなく心から願える方でした」

 

 きっと、死後は神の国に行ける。タネーチカ政治委員自身がそれを否定していても、その善き行いと祈りは、宗教の道に通じるものなのだとコチェグラ砲兵中尉は訴えた。

 

「お黙りなさい。中尉」

 

 タネーチカ政治委員は、しかしそれを否定する。爛々と燃える瞳は憤怒であり、また決別の表明でもあった。同志とは呼ばぬことこそを、最大級の表明として。

 

「随分と、ふくよかになられた事ですね。一体、幾ら帝国から貢いで頂きましたか?」

「はっ! 農家から散々巻き上げては村々を餓死させた党の犬(チェキスト)にそれを言われようとは!」

 

 そして、コチェグラ砲兵中尉もまた救いの手を伸ばす事を止めた。タネーチカ政治委員には恩も、義理もある。しかし、それはこれまでの間に十分返済した筈だ。それでも尚このような言葉を返されるようでは、もはや救いなどないと諦めた。

 

「アカデミーでの食事は随分と量の多かった事でしょう。人民が血を絞りながら、口に運べなかった食事をその腹に収めて美貌を保っていたのですからな」

 

 立ち上がり様に椅子を蹴り、もう二度とお会いすることはないだろうと切って捨てた。

 

「シャノヴスキー少佐殿。今日までのタネーチカ政治委員殿の優遇措置を受け入れて下さり、感謝致します。しかし、帝国も懐に余裕は御座いますまい。彼女は既に他の将兵と比して、格別の高配に与っております。

 人民の見本たるタネーチカ政治委員には、そろそろ格差のない生活を体験して頂いても宜しいかと」

「コチェグラ中尉。それを決めるのは帝国軍であり、我が上官たる大佐殿である。貴官は捕虜の扱いなど気にせず、祖国解放の一助を担い給え」

「はっ。過ぎたことを申し上げました」

 

 敬礼と共に憲兵に連れられて去るコチェグラ砲兵中尉。その背を、裏切り者とばかりに睨みながらも、しかしタネーチカ政治委員は目に見えて覇気を失っていた。

 自らの思想は否定された。党の始まりも、行いも、祖国の戦いも、全て敵と味方の双方から否定されてしまった。

 

 残るものは、何もなかった。

 

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