キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

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※2020/3/17誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!



63 合州国の対応-毒を以て毒を制す

 合州国と聞けば、読者諸氏は何を思い浮かべるだろう?

 大凡は本著を執筆する私にも察せられるが、少なくとも当時の我々には、今日の人々が思い描くようなマイナスのイメージなどなく、周辺諸国は嫉妬と羨望の入り混じった視線を向けざるを得ないほどの、それこそ楽園のように捉えていた。

 肥沃な大地と豊富な資源に溢れた国土。機械化によって成された大規模農業国であると同時に、自由な経済競争によって育まれた世界最大規模の工業国。

 国土面積と比して人口は少なく、多くの移民がそこを新天地と見做している。

 大凡、字句の上ではこれ以上ないほどに恵まれた国家。だが、彼の国もまた資本主義経済に拠って立つ国家である以上、不景気というものも存在し、その流れ如何によっては恐慌という悲劇も発生し得る。

 

 一九二三年、六月。今や歴史の教科書においては必ず紙文を割かざるを得ない中央大戦の勃発は、合州国に戦争特需をもたらした。

 中立国である以上、軍需物資やその枠に入る高オクタン価の石油燃料といった資源を売る事は出来ないが、逆に言えば規制項目にさえ無ければどんな物でも販売出来る。

 被服や食料などというのはその典型で、農業大国にして工業大国たる合州国は、多くの保存食や衣類を列強各国に売り出した。

 帝国もまた買い手の一人であり、イルドアという限りなく同盟に近い中立国から糧食や医療品を購入しつつ、合州国からも国交の一環として商取引相手となっていたのは周知の通りであるし、ここまでなら何の問題もない。だが、偶発的な好景気を生んだ時点で合州国は良しとすべきであった。

 

 現にイルドアは戦争特需を一過性のものと割り切って、大規模な市場拡大はしなかった。引き時を弁えていたと言っても良い。

 対して、合州国は欲をかいた。

 第三国を経由し、戦時国際法の網を掻い潜る形で、秘密裏に帝国の敵対国に武器供与を続けていたのである。

 

 血を流す文明の利器が生んだ富は、食料や被服とは比べ物にならない恩恵を合州国にもたらした。表沙汰にならないよう、ライセンス生産という形での、自国内配備を名目に生産した兵器を発明国に売りつけた挙句、製造番号も帳簿以外に残らないと来たのだから、疑問に思っても証拠にはならない。

 アルビオン・フランソワ戦役時、帝国軍がフランソワ共和国の工業施設と策源地を国際法に則りつつも周到に空爆していながら、継戦能力に決定的打撃を与えきれていない事からも、何かしらのトリックがあることは予想していた。

 予想していながらも、帝国はそれをものともせず勝利したが故に追求しなかった。

 

 問題は、その後。その富に味を占め過ぎた合州国が、過剰なまでに軍需工場を建設してしまった事だ。彼らの見立てであれば戦争はあと二年。短くとも一年は続き、勝利を希求する列強各国は莫大な借款を抱えてでも、賠償金を得て帳尻を合わせる為に武器を欲しがるだろうと踏んでいたのだ。

 しかし、戦争は終わった。帝国に敗れてしまったが為に国力が著しく低下し、植民地蜂起が各地で発生した敗戦国らとしても兵器は欲しい。欲しいが、他所様から買い付けるだけの余裕は既にない。終戦を期に第三国を経由せず堂々と買い付けられる立場になっても、戦時国債と賠償金の二重苦に喘いでいるのだから当然だ。

 あるものでやりくりし、治安維持と支配力回復に努めねばならないのは連合王国・共和国共に変わらず。不足分は已む無く購入するとしても、以前ほどの売り上げは決して見込めまい。

 

 合州国からすれば、たまったものではなかっただろう。戦争を長引かせる為に後払いを許容したばかりか、莫大な戦時国債を購入してまで肩入れしてきた複数列強が、如何に軍事大国とは言え、複数戦線を抱えていた一国に、これ程まで早く敗北を喫するなど夢想だにしていなかったのだ。

 彼ら合州国もまた、中央大陸のパワーバランスに配慮していた。帝国が一強となり、覇権国家となることを安全保障上にも、外交序列上にも恐れるのは、勢力均衡策故に共和国と同盟を結んだ、連合王国に限った話ではなかったのだ。

 一国と複数国。数の上では火を見るより明らかだった勝敗。たとえ逆転劇が発生するとしても、赤字になることはないと予想していた。

 だからこそ、合州国は帝国でなくその敵国に肩入れし、多くの融資を行ってきたというのに、それらは不渡り手形も同然の結果となっている。

 

 現実とは非情なものだ。誰もが思い通りに世を渡れるならこれ程楽な事もないが、そんな事が起こり得る筈もない。戦勝国たる帝国とて、中央大戦など予想もしなければ望んでもいなかったし、もう戦争などこりごりだと思っていた矢先にルーシー連邦との一大戦争だ。

 戦後、多くの国が我が国の勝利を羨んだが、我々のような当時の帝国人からしてみれば、いい迷惑だったと言わざるを得ない。

 

 だが、莫大な負債と不良在庫を抱える羽目になった合州国にとって、連邦の侵攻による戦争継続は、次の取引先という顧客を与えてくれる天の助けに等しかったのだろう。

 たとえそれが、主義主張を真っ向から対立させる社会主義国家だったとしても。必要性という一言は、両者の垣根を容易く飛び越えてしまえるものだった。

 

 被服や糧食、医療品といった非戦闘物資は直接。兵器類に関しては従来通り第三国を経由しての取引を行う事で、合州国は連邦に対して、在庫処分とばかりの安値で売り込んだ。

 連邦にしてみても、帝国の脅威を前にしてはイデオロギーをかなぐり捨ててでも、勝利を得ようとするには十分な授業料を払っている。

 ここで帝国に勝てねば、反共主義者たちが挙って自分達を処刑台に引き摺る事を重々理解していたのだろう。

 過剰生産故に不良在庫と化していた合州国製造の各国兵器を買い叩き、更には合州国が他国に()()()()()のだと主張する、合衆国製の最新兵器まで買い漁った。

 

 かくして帝国の勝利は、未だ遠い位置にある。数多の敵野戦軍を殲滅し、工業施設と策源地を破壊し、物資を鹵獲しながらも、無尽蔵の如き兵力を前に戦争継続を強いられていた。

 

 

     ◇

 

 

“本国の兵器より、敵の兵器の方が多く目につく日が来るとはな”

 

 敵味方問わず同じ兵器を用いて殺し合う日が来るとは、開戦劈頭では夢にも思わなかった光景である。確かに、本国(ライヒ)から鉄道と空輸で輸送される兵器が届くまでは手元にある物で凌ぎ切らねばならないし、経費の削減にもなるのだから言う事はない。

 中央参謀本部も落ち穂拾い(鹵獲の隠語)を奨励している程で、陸軍と違い兵器を直接奪う機会の少ない空軍もまた、その恩恵に与っていた。

 

「連中、良い物を食ってますね」

「『死んだロバ』とはえらい違いだ」

 

 糧食としてイルドアから輸入した牛缶をけなしつつ帝国空軍が口にするのは、合州国産のスパムである。確かに食べ比べれば品質の差は歴然で、こんな物に金を払っているのかと前線将兵から不満が噴出するのも当然だった。

 美食の国からの輸入品という事もあって期待値が高かったのも、反発の声が大きくなった要因だろう。

 鹵獲品の缶詰にありつく将兵らを傍目に苦笑しつつ、私は有り余っている死んだロバ肉を咀嚼する。周囲は将校の、ましてや撃墜王が食う物ではないと止めたが、私が平らげた分スパムが諸君らに回ると言えば、皆すぐに手のひらを返した。

 断っておくならば、私はゲテモノ食いではない。本音を口にすれば、美味い物の方が良いに決まっている。だが、食事という物が如何に士気に影響するかは散々に経験しているだけに、戦友将兵にはモチベーション維持の為、食事という楽しみを噛み締めて貰いたいのだ。

 

「大佐殿は、よくそんな物を口に出来ますね」

 

 貴族の舌には合わないと思われますが、と気を回してくれる尉官には涙が出そうだが、私は軍人だ。栄養価とカロリーさえ維持できるなら問題ないと割り切っている。それよりもこの戦時下で飛べない方が我慢ならないし、肉体を頑健に保つ為には不味かろうが何だろうが量を摂取する必要が有ったので文句はない。

 芋虫だろうが蛙だろうが、蛋白源を摂取できるなら喜んで摂ろう。

 

「食事よりも、空の方が重要なのでね」

 

 こう言えば誰もが納得する。呆れ交じりに笑いつつ皆で空き缶を片付けるが、私は軽口の裏で、暗澹たる思いを抱えていた。念の為述べておくと、食の不味さからではない。

 

 我が方は制空権を維持し続けた。二月から六月にかけて快勝を重ね、既にしてスオマの地に歩兵の軍靴が片足とはいえ踏み込んでいた。

 錬度も幾多の戦線を潜り抜けて来た帝国空軍は言うに及ばず、レガドニア空軍の面々も、速成でありながら予想以上に動けている。

 赤色空軍が旧式機混じりの雑多な編成であることに加え、パイロットの錬度も列強各国より一歩も二歩も劣っている影響が大きいとはいえ、誇るべき戦果だろう。

 五〇機撃墜の撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)の称号など、東部戦線では既に形骸化して久しいもの。ダキアではないが、一〇〇機撃墜がここでの一人前の証となっていた。

 

“だが、敵は着実に学習している”

 

 やはり時間と経験は最良の教師だ。敵は密集編隊から帝国産の散開戦闘編隊に切り替え、敵機の連携も去年の鴨撃ちの有様だった頃とは雲泥の差であった。

 教条主義的価値観が、軍事合理性に覆されていると言う現実は、空軍に限らず帝国軍全てが憂慮すべき事態と言える。

 今はまだ良い。まだ制空権を確立し得ている。だが、今後広漠な戦線を抱え続ければ? 密度の薄い戦線と陣地で、質的優位を数で覆されれば?

 合州国製の機体もまた、戦時という必要が求める状況から、日進月歩の域にある。ヴュルガーの機体性能と拡張性は他国の技術者を瞠目させるに足りる物だが、決して一方的な蹂躙劇を展開し得るものではない。

 

 物量差という悪夢は、決して楽観を許してくれない。連邦の工業施設を、策源地を見事爆撃し、その継戦能力に痛手を被らせたのは確かだろう。

 赤軍車輌の中に、農業トラクターにボイラー鉄板を装甲板代わりに取り付けた急造戦車を発見した時など、帝国軍の誰もが笑いつつ自軍の勝利を確信したものだ。

 

「敵は末期軍の様相を呈している」「今年中にはモスコーも落ちるだろう」

 

 地上軍将兵らはこぞって浮かれはしゃいだそうだが、それも戦闘車両から小火器まで、合州国やかつての敵国で目にした兵器群を抱えた敵兵が殺到するまでの、束の間の喜劇に過ぎなかった。

 追いつかれると言う焦燥感。順調な進軍でありながら、未だ決定的な失敗を喫していない状況にありながら、私はそれを感じずにいられなかったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 合州国の武器供与を、帝国は当然非難した。中立国にあるまじき拝金主義や共産主義への同調など、ましてや亡命者が多く暮らす以上は、合州国内の民意も許容すまいと、私も含めた多くの帝国人は考えていた。

 民意と自由を謳う国ならば、独裁と悪政が蔓延る連邦に与するなど有り得ないと、歯止めがかかる筈だと期待もしていた。

 

 だが、期待の結果は無残だった。合州国は証拠はないと言う一点張りで、あまつさえ物資が欲しければ連邦同様に購入すれば良いと開き直ったのである。

 民意にしても、恐慌から首を吊らざるを得なくなるよりも、主義主張に反してでも生活の糧を得たいという思いが勝ったが、それを否定する権利は私にない。

 高邁な理想に死ねるのは、当事者となってからなのだ。合州国にしてみれば戦争など対岸の火事であり、明日の生活を蔑ろにしてまで、ましてや遠い異国の為に餓えるなど決して許容できないだろう。

 ヒューマニズムの精神は『自分達の懐が痛まない限りにおいて』という前提が付くのは大多数の人間の本音だろうし、それを醜いとは思わない。

 立場が違えば。私が彼らと同じ明日の見えない労働者なのだとしたら、養うべき家族が居たならば、良心の呵責に苛まれながらも職務に従事しただろう。

 世界の裏側の悲劇より、自身の失業の恐怖のほうが、重く苦しい問題なのだという事は、一個人として理解できる事である。

 

 だからこそ、私は合州国人を憎まない。不義だと罵るつもりもない。勝手に期待しただけなのだから、落胆こそすれどもそれは自分の身勝手な思いだと受け入れる。

 合州国の言動にしても、自国の保護と恐慌を避ける為の、止むを得ないものだと理解も出来る。再三語ってきたが、自国を第一に考え、自国民を保護する事は決して悪ではない。

 まして、これまで多くの亡命者や難民を受け入れてきたという実績のある合州国だ。彼の国が移民に対し、不当な差別や迫害を──有色人種に対する悪質かつ不道徳な措置を除けば──声高には行っていない以上、また、彼ら移民を養う場を与えている以上は、多少の不義理には目を瞑るべきなのだろう。

 だが。それとて限度という物もある。許されざる一線というものは、確実に存在するが故に。

 

 

     ◇

 

 

“不愉快な記事だな”

 

 心中で毒づきつつ、合州国の新聞を畳む。世論確認の為に取り寄せたものだったが、こうまで神経を逆なでするとは思わなかった。

 曰く、帝国の抗議は我が合州国の品位を貶める物である。彼の国は連邦との戦争を望んでいたが為に動いていただのという陰謀論までもが湧き立つ始末。

 勿論、これらの記事は連邦に渡った、連邦に都合の良い赤色シンパの従軍記者団のものだとは新聞社のスタンスから理解しているし、世論の中でも一部に過ぎないとは理解している。

 後年、私にインタビューしてきたWTN(World Today's News)社のアンドリュー氏は、赤色シンパのベテランに混じった右も左も分からぬ若手として連邦への取材を許可されたが、周囲の同僚にも政治将校と憲兵団に抑えられた情報にも、通信監督官の検閲にも辟易せざるを得なかったと当時を赤裸々に語ったほどだ。

 アンドリュー氏曰く、当時の連邦内で良かった探しをするならば、贈賄だらけの環境であったことだけだという。

 紅茶やサンドイッチ、アルコールまで振舞われたばかりか──従軍記者の食事といえば前線兵士と同様のものである為、通常では有り得ない厚遇だ──記事の内容如何では性的嗜好に見合う女性まで宛てがわれたというのだから、そこまでしたのかと私は絶句したものである。

 

 尤も、アンドリュー氏に限ってはそうした環境よりプロとしての意識が勝ったらしく、また、赤色シンパの同業者とも馴染めず、本社に申し入れて人員を交代して貰ったそうだ。

 その後アンドリュー氏は反対に帝国側の従軍記者となり、中立国らしい公平な──勿論その中には、帝国側が不利となる内容も含まれていた──スタンスで記事を書き綴った。

 帝国軍の勇壮さや、反合州国への憤りといった意気盛んな見出しを毎朝のように掲げる本国の記事に胃もたれしていた私にとって、WTNの──より正確にはアンドリュー氏の──正しい情報と公正な視点は実に購買意欲を掻き立てられたものであっただけに、戦中、戦後と愛読を続け、今ではすっかり彼のファンになってしまったものだが、この辺りで合州国の話題に戻ろう。

 

 私にとって何より腹立たしいのは新聞記事そのものよりも、赤色シンパの記事に当の合州国政府が良い顔をしているというところだ。

 

武器貸与法(レンドリース)か”

 

 合州国内で決議されつつあるという悪法。供与でなく貸与であるのだから、戦時国際法には抵触しないだろうという悪辣極まりない主張には、どれだけ温厚な帝国人であろうと、口角泡を飛ばして呪詛の言葉を撒き散らすには十分過ぎるものだった。

 現にライヒ中央報道を筆頭とした本国の新聞では、これは最早合州国と連邦との相互援助条約そのものであり、中立国とは見做せないという声を散々に上げていたし、流石に他の中立国も非難の声を上げている。

 そもそもにして協商連合との開戦からこちら、帝国は一方的な侵攻を受け続けている被害国なのだから当然だろう。被害国でなく、加害国に一方的な肩入れというのは第三者からすれば白眼視して然るべき対応だ。

 

 イスパニア共同体やトルクメーン諸公国、秋津島皇国といった他の中立国は一様に合州国を拝金主義の徒と弾劾して憚らず、合州国国内でも流石にやり過ぎだと自国民から声が上がっている。

 モンロー主義者などは特に抗議の声が強いと訊くが、やはり過度な期待はできないと私は諦めていた。合州国は民意の国というが、民意が国家理性に反し、全体の利益を脅かしてしまう事を認める訳には行かないだろうからだ。

 個人の道徳では悪徳であっても、国家の道徳では善良な選択という物は往々にしてあるもので、生存戦略だというのなら否定し得ない部分ではある。

 しかしだ。上記でも語った通り、何事にも一線と言うものはある。

 

“化学兵器は、やり過ぎだろう”

 

 報告を受けた時は間違いではないのかと驚愕したが、結果は黒だ。弾頭の残骸。使用されたであろう砲を鹵獲した結果からも、合州国は間違いなく化学兵器を供与していた。

 

“何故、こんな物を敵に送ったのだ”

 

 敵が使わなければ、こちらとて使わずにいられた。皇帝(カイザー)が慈悲を以って戦争の悪夢を払おうと心血を注がれた、私自身、決して再び世に出て欲しくなかった戦争の狂気が、再び戦場に満ちてしまう。いいや、今まさに、満たされようとしている。

 

「大佐殿、配備完了しました」

「ご苦労」

 

 心を無にし、私も部下も何処までも事務的に対応する。誰だとて、こんな兵器を再び見たくなかった筈だ。帝国人の良しとすべき、騎士道精神から外れる兵器など使いたくはなかった筈だ。だが、最早歯止めはかけられない。

 

 これまでのマスタード弾とて、相当に恐ろしい物ではあった。しかし、今回使用されるのは帝国軍指示の下、敵が一度でも使用してきた際の報復措置として極秘裏に開発を命じた新型である。

 大多数の化学者がジェノヴァ議定書の制限を受けてからも、非批准国が使用してきた際の対抗措置として研究を続けており──条約制限上、連邦との戦争以前は生産していない──サリンやタブンといった複数の毒ガスが連邦との開戦時点で既に誕生していた。

 それらは用途ごとにフィーゼル・ファーストやセカンドの弾頭に搭載され、特に制圧作戦においては甚大な被害が予想される為に、連邦が毒ガスを使用するまで後に回していた要塞や、濃密な陣地線に投入される。

 特に、私の心を暗澹たるものにさせたのは、エルマーが開発した最新の、言い換えれば最悪といっても過言でない化学兵器を用いねばならないということだ。

 

“本当に、使わなくてはならないのか?”

 

 あの優しい弟が、毒ガスの開発に携わったなどと世に遺される事を耐え難く感じると共に、私はこれを使わなくてはならない事態に追い込んだ連邦と合州国への憎悪に呻きたくなった。

『VX』。秘匿呼称たるVシリーズの中でも、特に悪名高い兵器として、またエルマーという科学者が、如何に恐るべき存在かを後世に伝える始まりとなってしまった戦争の怪物。

 科学安定性の高さからサリンより使い勝手が良い上に残留性まで高く、経皮吸収する為にガスマスクだけでは防ぎ切れない。その癖水でなく化学洗浄でなければ落とせないと来ているのだから、悪辣という言葉では到底足りない代物だ。

 

 私は、エルマーを守り切れなかった。互いが毒を以て殺し合うよりも早く、戦争を終わらせる事が出来なかった。弟の名が、悪名として歴史に刻まれてしまうことを止められなかったのだ。

 

“なんと頼りなく、なんと非力な兄であることか”

 

 だが、現実に打ち拉がれる事も、このまま腐る事も許されない。現実を、結果を変えられないのであれば、私は自分が出来ることをしなくてはならない。

 今、私の戦闘爆撃機にはこのVXが懸架されており、私は嚮導機として始まりの一撃を加えることになっている。

 これは偶然でなく、志願したからだ。エルマー一人を悪魔と呼ばせはしない。開発したという悪名を背負うのであれば、私は初めて使用した人間として、同じく悪名を轟かせるつもりだった。

 市街地でなく陣地線への投下とは言え、部隊の士気は最悪だった。しかし、私や部下がやらずとも、戦友の誰かがやることである。

 私は部下を率いて飛び、そしてエルマーと共に、十字架を背負う選択をした。

 かつてのレランデルがそうであったように、地上では地獄を絵画にしたようだったと防護服を纏って突入した地上軍は述べたという。

 


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