佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!
初日には観兵。翌日には叙任・叙勲と立て続けの式典だったが、ここからは参加者や主催の移動、招待会の準備の為、日を分けて招待会が取り成される。
四日目の招待会は、帝国各州の諸王が自州の出身たる軍人や、官吏を宮廷や荘園に招いての地域ごとの祭事が。
最終日たる七日目には、観兵式のような三軍種全体の行進と異なり、戦勝式典の幕引きとして軍功著しい将兵や、中央大戦で指揮官として従軍した皇・王子並び皇・王女らの祝賀行進の儀が行われる予定である。
私は北東部の片田舎といえどプロシャ出身であり、ターニャもまたベルンの教会に引き取られた私生児たる身の上であるからして、同じくプロシャ王宮の招待会に参加する。
つまり、移動等の手間がないのに加えて、軍も招待会の合間程度は羽を伸ばす時間を与えてくれた為、一日は晴れて自由の身となった。
そうなれば私の行く先など決まっているようなもので、中央参謀本部宿舎に電話を入れ、使い慣れた将校鞄でなく、私用の書類鞄を手に赴いた。
「このような日まで仕事を?」
身分証を提示した私は衛兵に訊ねられたが、今は軍装でなくスーツに山高帽である。いや、仕事といえば、人生で特に重要な手続きの準備ではあるのだが。
「ああ、何。フロイラインをフラウと呼んで頂く為の手続きでね」
ここまで惚気れば問うた相手も察するもので、祝福の言葉を送って私をターニャの元まで案内してくれた。
私はこの時、ターニャの葛藤や小モルトーケ参謀総長との会話など知る由もなかったが、それでも妙に気を張っていて、けれど何処か肩の荷を下ろしたようなターニャの表情に、知らず何かあったかを問うた。
既にして従卒の役を買って出てくれた衛兵は空気を読んで足早に去ってくれており、ターニャはこれまで胸に抱えていたものを吐き出してくれた。
幸福となる権利に対する逡巡。自らの正義や義務の為、他の正義を退けねばならない軍人としての責務は、確かに勝者たる立場になった後にも、人生の重しとなるのは判る。
尤も、だからとて婚約者が幸福を手放すことを、良しとするような私ではない。
「ターニャ。貴女が嫌だと言おうと、私は貴女を幸福にする」
人生に背負い難い重みがあるなら、少しでも多くをこちらが背負うし、その分持ちたくないという幸福を強引に受け取らせる。身勝手なと叫ばれたとて、私はそれを止める気は更々なかった。
「それとも、私は相応しくないと思っておいでかな? レルゲン将軍の方が、私より殿御として魅力的だろうか?」
努めて冗談だと分かるよう軽く振舞ってみせたものの、前半はともかく、後半は私の心に不安があってのものだった。話を聞くに、ターニャとフォン・レルゲン少将は東部では幾度となく互いを支え、助け合い、友誼を結んだ戦友だったという。
フォン・レルゲン少将を語るターニャの口調は軽やかで、正直私は、ターニャが幸福の権利云々を打ち明けた以上に、そちらの方が心の不安の割合を占めていた。
小さい男だと、読者諸氏は笑ってくれて良い。私には、ターニャが他の男のところに行ってしまうのが、それほど恐ろしかったのだ。
ルーシー戦役から式典の日まで会うことの出来なかったターニャは、今年で一五。すらりと手足を伸ばし、大人びた顔つきは以前にも増して女性らしい美しさを帯びていた。貴族のみならず、市井の子女としても適齢期であるだけに、私には焦りもあったのだと思う。
フォン・レルゲン少将とは然程の面識はなかったが、貴公子然とした理知的な外貌といい、上品な物腰といい、記憶から思い返せば返すほど、同性としても非の打ちどころのない御仁であり、その英明ぶりは、私としても舌を巻かざるを得ないものだった。
フォン・レルゲン少将は、中尉までは他の将校同様現場勤務をこなしていたが、軍大学を卒業して連合王国の駐在武官を勤めた後は、帝国軍人にとっての最高のステイタスである赤いラインの入ったズボン*1を履いて栄達を重ね、前線に立てば、戦闘団を率いて輝かしい勲功に満たされる。
『参謀将校は無名なれ』。後に小モルトーケ参謀総長の後釜に座ることとなるフォン・ゼートゥーア上級大将は、小モルトーケ前参謀総長の権風に歯止めをかけるべく、これを徹底させたが、大戦前までのフォン・レルゲン少将は、正にこの言葉に相応しい御仁だったのだろう。
ルーシー戦役の剣林弾雨を進むまでの、参謀将校としてのフォン・レルゲン少将は爪を隠し続けた猛禽であり、堅実に実務をこなす縁の下の人物であったのだ。
天に二物も三物も与えられた傑物と己を比ぶれば、果たしてどちらが相応しいか。そうした不安が、鎌首をもたげて大きくなってくる。
勿論、既にしてターニャが私と婚約していることは周知のことであるし、フォン・レルゲン少将とて、敢えて揉め事となるような対象を生涯のパートナーに選ぼうとは思わないだろうということは、冷静に考えれば分かることだ。
だが、もし。もしもフォン・レルゲン少将にその気が有ったとしたら?
恋愛である以上、そして家同士の付き合いでもない以上、そこにあるのは純粋な当人の意思である。
仮にターニャの心が私から離れているのなら、何としてでも彼女を振り向かせようと躍起になったに違いないが、それでも私よりフォン・レルゲン少将を選ばれたのならば、諦めの悪い私だから、きっとフォン・レルゲン少将に
頼むから違うと、そのような気はないという思いを口にして欲しいと、私は心の内で乞うていた。それだけに、告げられた言葉には雷を受けたような衝撃が走ったものである。
「そうですね。確かに、レルゲン閣下は素敵な方でありました」
私は全身を石のように強張らせた直後、視線を右往左往させて狼狽えるばかりだった。
今、こうして筆を執って回顧する段になれば、自分が妻に遊ばれていたのだと否応なく理解できるし、面白い程に動揺するものだから、きっとターニャにしてみれば見ていて楽しかったのだろう。
……私からすれば、この世の終わりのような気持ちで、堪ったものではなかったが。
「冗談ですよ!」
笑いを堪えるのに耐えかねたのか、ターニャは顔を強張らせた私を大笑いした。心臓に悪いどころではない。深刻な不安に駆られていた私は、安堵から深々と息を吐いて、九死に一生を得たような心地で肘掛け椅子に深く身を沈めた。
「脅かさないでくれ。貴女の心が離れるなど、私には堪え難い」
「私も、ニコ様から女性捕虜の件を手紙で伺ったときは、そのような思いでしたよ?」
ああ、成程。確かに逆の立場なら相当に堪える。私個人としては誠意のつもりで送った手紙であっても、待つ側であれば気が気ではあるまい。
尤も、隠し立てしたところで確実に露見していたであろうから、過去に戻ってやり直したいなどとは露とも思わないが。
「申し訳なかった。謝罪を受け入れて貰えるだろうか?」
「言葉とは、違う形でお願い致します」
一体どうすれば良いのだろうか? まかり間違っても、金銭や物品などという俗な願いでないことぐらいは、ターニャの目を見れば分かる。
なら、他に差し出せるものはあるかと問われれば、今の私には一つしかあるまい。
「私の、残る人生の全てを捧げさせて欲しい」
鞄から婚姻届を取り出す。帝国法において婚姻手続きに関する書類は発行から半年以内のものでなければならない為、戦時下では事前に準備が出来なかったが、終戦と共に私は故郷の役場に書類を郵送して貰えるようかけ合っていたので、こうして今日ターニャに手渡すことが出来た。
既にして私の欄は全て記入しており、あとはターニャが書いた後に、彼女の出生証明を始めとする各種書類を取り寄せ、改めて役場に二人で届け出てから受付で手続きを済ませれば、法の上では晴れて夫婦となる。
私はきっと喜んでくれるだろうと満面の笑みを浮かべていたが、ターニャは気まずげに呟く。
「……その、大変喜ばしい内容ではあるのですが」
「……すまない」
想像していたものと違ったのだろう。私もまた気まずさから、咳払いをして謝した。遅まきながら、ターニャの為の行動の筈が、自分の願望が出てしまっていたと気付けたからだ。自分の行いを客観的に振り返れば、身勝手な上に重い男だった。
「い、いえ。夫婦となることに否はありませんし、嬉しくもあります。ただ、それより先にすべき事があるのではありませんか?」
すべき事と問われ、私は僅かに考する。告白は既にしているし、口付けも済ませた身だ。まかり間違っても婚前交渉など相手も私も求めていないし、既成事実を作らねばならない間柄でもない。いや、フォン・レルゲン少将がターニャを射止めたいという動きがあったならば、たとえ信徒の法に逆らってでも彼女を押し倒したやも知れないが。
そこまで考えて、私は自分が忘れていることに気付けた。いや、本心から言えば、私はターニャと再会した瞬間に、それをしたいと思っていた。
しかし、東部から戻って再会したのは式典のさ中であり、当然ながらそのような行為に及べる空気でなかったから、自重せざるを得なかったのだ。
「捕虜の件で送った便りの通り、貴女に謝罪させて欲しい。私は聡明な貴女に甘え、貴女の心を乱した。捕虜といえど、いや、拒否権のない女人を側に置くなど恥ずべき行いだった」
「謝罪を受け入れます。捕虜の件に関しては、決して不義を働いた訳ではないのでしょう?」
そうなら絶対に許さないと、視線だけで百は殺められそうな圧を感じたものの、私は一人の男として不義も不実も働いてはいない。それだけはターニャに心から誓えるものだ。
「ならば構いません。ニコ様が未だ清い身で、誠実であられるなら、これ以上は申しません」
「ありがとう。抱きしめても良いだろうか?」
「勿論です。ずっと、待っていたのですよ?」
細い、一輪の茎のような腰に手を回す。手折れぬよう繊細に。けれど、確かに熱を持って捕らえ、離すまいと静かに見つめる。
「ターニャ、貴女を愛している。私は余人を女性として愛することは決してしない。たとえ、死が二人を分かつとしても」
「信じます。私も、ニコ様以外の殿御を愛することは生涯致しません」
左の手で以前より柔らかくなったと思う髪を梳き、そのまま林檎のように赤らんだターニャの頬に触れて一撫ですると、そのままおとがいに指を運ぶ。
ぴくっ、と。微かに強ばらせた表情と、そこから先を想像して潤んだ瞳。年頃らしい愛くるしい仕草に、私も思わず胸が高鳴るのを感じつつ薄紅色の唇に運んだ。
柔らかな感触。近づかねば分からない程に仄かな甘い香り。時間にすれば短いが、その余韻を確かに感じながら、私は唇を離した。
◇
手持ちの書類には瑕疵なく記入できたものの、身元の証明等細かな手続きには時間がかかるため、その間は地元での結婚式の打ち合わせなどに時間を注ぎ込むこととなる。
とはいえ、既に戦時中に幾度となく式に向けてのやりとりは行っているし、衣装に関しても仕立て屋には連絡している。
あとはターニャを連れて採寸と細かな注文を決め、幾つかの業者にも準備の連絡を日取りに合わせて行えば良いと考えていたのだが、四日目の招待会の最中、これらの計画が潰されかねない事態が発生した。
宣伝局の面々が、私とターニャの結婚式を記事にしたいので、出席させて欲しいと申し出てきたのである。
勿論、帝国人にとって結婚式とは──皇・王族のように大々的に喧伝するものを除けば──身内や親しい間柄の者で執り行われる場であるし、新郎新婦が自分たちの手で作る思い出であるから、費用だの何だのといった負担を肩代わりされたところで嬉しいものではない。むしろ不愉快でさえあったので、はじめは丁重に断った。
しかし、相手も中々に質が悪いもので、一向に折れてくれない。招待会の席であった為に怒鳴りつける訳にも行かず、私もターニャも辟易したが、最終的には撮影と、後日のコメントだけは許した。
話題作りというのは分かるが、式の報道などというものは俳優の世界に限って頂きたいものである。
折角の王宮内での招待会であり、穏やかな空気の漂う空間だったというのに台無しではないか。そう思いつつ私はワインを口に含んでいたが、結婚式という話題が出た途端、あちこちで是非招待状を送って欲しいという声がかかってきた。
勿論、私は親しい間柄に限らず、今日まで少なからず面識のあった方々には招待状を送り、出欠の確認を取ってから相応の場を用意するつもりではあったが、それにしてもなんとも数の多いものだったと覚えている。
お声かけ下さった中には
功労ある軍人を労わる王宮の祭事にあって、献身に努めてくれたターニャに気疲れなど起こさず、気持ちよく身体を伸ばして欲しかった私は一旦彼女から離れて貰い、彼らには可能な限り便宜を図ることを確約して納得して頂いた。
ただ、実生活において清貧を尊ぶキッテル家の結婚式であるから、そう派手なものは期待しないで欲しいということを念押ししたが、それでも招待客の規模を考えれば、かなりの割合で計画を練り直さなければならなかったのは語るまでもないことだろう。
◇
王宮での招待会は絢爛華麗の粋を尽くしたものであり、目も眩む場ではあったが、ここに来て美酒美食を語るのも如何なものかと思うし、新たに人生で長く付き合うこととなるような相手との出会いもなかったため、省略させて頂きたくある。
王宮内での招待会から七日目の祝賀行進の儀までの間は、各州から再度参加者が集まるための準備期間であるため、私とターニャは再び自由な時間を得た。
この三日は互いの今後について話したり、或いは純粋に婚約者らしい逢引を楽しんだものだが、彼女が軍を正式に退役すると告白したことには、私も少なからぬ衝撃を受けたものである。
戦時下でも手紙の中でターニャの意思を知ってはいたものの、正直なところ半信半疑であったし、特に、私やキッテル家のためにも良妻賢母として家庭を守りたいとはっきり伝えてくれたことは、感涙と同時に当惑もした。
あれほどまでの戦いをくぐり抜け、ようやく栄達の道を本格的に邁進できるという段になっての退役だ。大規模かつ長期の戦争を終えた帝国は、今後軍縮を余儀なくされるとしても、間違いなくターニャは将官の座を掴めたであろう。
もしやすれば、私やキッテル家がターニャの人生を縛ってしまったのではないか?
軍という場所が、彼女の出自ゆえの、社会的制約の中での選択であったのと同様に、私との婚約が彼女自身を縛ってしまったのではないかと訊ねずいられなかったが、彼女はそれを笑って否定した。
「いいえ。私はようやく、自分で選べましたよ?」
一日でも早く結婚し、私を支え、子を生し、育てたいというターニャの決心。その発露の一つ一つが私の胸を満たして止まず、だからこそ私は、生涯の全てを、この献身的な少女に相応しい男性であるために努めたいと一層愛を深めた。
この時ほど、遠くない結婚式が待ち遠しいと感じたことはなかったものである。
◇
式典最終日たる祝賀行進においては、私は凱旋用のオープンカーに乗っての参加となった。初日の観兵式で空から見た時も熱気が伝わる程だったが、こうしていざ渦中の人となれば、その割れんばかりの歓声が全身に叩きつけられ、熱に飲まれそうなほどだった。
微笑を湛えて泰然と立ち、時に敬礼を、時に優雅に一礼しつつ、帝国臣民やこの場に集まられた義勇軍将兵の家族らに手を振り応える。
そして、初日で分列行進を行う兵士らがそうしたように、私もまた車が停まり、自らの足で石畳を踏めば、道すがら少年少女から渡される帝国国旗を巻かれた花束を受け取っては名前を聞き、感謝の言葉を述べて別れた。
そうして壇上に上がれば、陸軍はサラマンダー戦闘団の筆頭たる第二〇三航空魔導大隊や
三軍種の英雄が一堂に会する中、この式典の締め括りとして、プロシャ州首相を兼任する帝国宰相がスピーチを行った。
「我々は、未曽有の侵略と数多の困難を、八月一日に乗り越えることが出来ました。それは、ここに集う英雄たちの、そして祖国から離れた地で命を落とした勇者たちの魂が成し得た、帝国史上に類を見ない、輝かしい勝利の歴史の一ページとなるでしょう。
無論のこと、それは将兵のみの手で果たされたものではありません。全ての帝国国民が、我々の戦いが正しいものだと賛同してくれた他国が、そして、不当な圧政に立ち上がり、独立を掴まんとした一人一人を支える銃後の声が、活動家の支援があってこそ、今日という日に至れたのだと信じています。
皆さん、ようやく戦いが終わりました。我々は勝利したのです。長い時間と、命を犠牲にして掴んだこの勝利を輝かしいものと、最良の時代だと言う者もいます。
ですが、我々の時代はここから始まるのです。流された血に、失われた命に見合う輝かしい時代を、侵略に立ち向かい続けた夜明けたるこの先を、共に歩みましょう。
世界に冠たる、黄金のライヒ。黄金の時代を切り拓きましょう。
母は子を、妻は夫を戦いで喪うのでなく、子供の成長を見守り、支えるべき家族のために仕事から戻る夫を抱きしめ、次の世代に託せるような、幸福な世界を実現して行きましょう。
そして、時代を託した勇者たちと平和に感謝し、短い祈りを捧げましょう。
この場に集われた英雄たちと共に」
厳かな黙祷。この場に集う者一人一人が、各々の想いを胸に今日という日を感じ、振り返り祈りを捧げる。それは、私もまた例外でない。
マルクル中佐に。ダールゲ少将に。ファメルーンから今日まで出会い、いと高き所に旅立った全ての戦友に。シェスドゥープ親衛中佐をはじめ、偉大なる敵であった全ての将兵に。
犠牲となった無辜の民に。今日という日まで耐え忍んできた、銃後の鑑たる方々に。
私もまた、感謝と哀悼の意を捧げたのだった。