―――さようなら、狩人様―――
―――あなたの目覚めが、有為なものでありますように―――
「―――やあ、こんにちは。今の時間だとこんばんはと言ったほうがいいのかな?」
「僕の名前はキューブ。君の名前はなんて言うんだい?」
「分からない? ……思い出せないのかい?」
「まあ、君みたいな名も無い孤児は初めてじゃない。僕としては少しでも思い出してほしいんだけど」
「……それは僕が聞きたいね。どうして君は、こんな山奥の朽ち果てた街にいるんだい?」
「おかしなことを言うね。ここは僕の知っている限り
「そもそも君は本当に不治の病だったのかな? 君はどこをどう見ても健康体だ。昨日まで重篤だったようには見えないよ。一夜にして完治したにせよ、失った体力だってすぐには戻らないはずだ」
「……どうも君の記憶があやふやのようだね」
「……朝からずっとここに居たのかい?」
「やっぱり分からないな。そもそも君自身が君のことをよく理解していないみたいだ。僕も君の素性を調べた上でここに来たわけじゃないから、君の過去は何も分からない。家族や知人もいないなら、君のことを知る手段はもう無いだろう」
「……ああ。君の質問に答えていなかったね。僕は君に大事な話があって来たんだ」
「そうだよ。君の名前や素性を知らなくても、素質さえあれば僕は君に会いに来る」
「君に頼みがあるんだ―――」
「―――僕と契約して、魔法少女になってよ!」
「僕は君の願いを、なんでも一つだけ叶えてあげる」
「その代わり、君は魔法少女となり、襲い来る魔獣を倒して欲しいんだ」
「魔獣っていうのは、世界の歪みから生まれる、呪いを振りまく存在さ。君は願いを叶える対価として魔法少女となり、その身が終わる時までずっと魔獣と戦うことになる」
「そうだね。魔法少女はソウルジェムと呼ばれる結晶を手に入れる。この結晶は魔法を使ったり絶望したりすると濁るんだ。そして完全に濁りきると魔法少女として戦えなくなり、その少女は消滅する。魔法少女となった者は、ソウルジェムが砕けるか濁りきるまで、ずっと魔獣と戦い続けるんだよ」
「当然浄化方法はあるよ。魔獣は倒すとグリーフキューブと呼ばれる黒い結晶を落とすんだ。それをソウルジェムに押し当てれば、グリーフキューブが濁りを吸い取ってくれる。これを手に入れる意味でも、魔獣と戦わなくちゃいけない」
「もちろん、魔法少女となれば戦うための力が手に入るし、君が生き残れるよう、他の魔法少女と連絡も取るし、僕たちも最大限バックアップする。何より君はその対価として、願いを叶える権利を手に入れるんだ」
「さあ、どうする? 僕はいつでも良い。呼んでくれればすぐに契約に応じよう。すぐに決められないなら、一度時間を取って―――」
「―――本当かい? 後悔しないね?」
「……分かった。なら、僕も止めはしないよ」
「じゃあ契約を始めよう……君は、どんな願いでソウルジェムを輝かせるんだい?」
「……そんな願いで良いのかい?」
「……やっぱり、僕には君の思っていることが理解出来ないや。でもまあ分かったよ。それがなんであれ、僕は君の願いを叶えよう。君はその瞬間から魔法少女になる」
「―――さあ、ここに契約は完了した。君のソウルジェムを手にとってごらん―――」
―――何があっても……悪い夢のようなものさね―――
「―――え?」
その瞬間、円環の理―――かつて”鹿目 まどか”と呼ばれた人間を核とする概念は、その機能によって限界に達した魔法少女の穢れを察知した。
何もおかしなことはない。まどかの願いはあらゆる魔女の消滅。時間も空間も超越し、絶望によって産まれるそれらを消し去ることで、魔女になる運命だった魔法少女たちを救うこと。その願いによって構築された概念こそが円環の理であり、魔法少女の絶望の認識は核であるまどかの意思に介さず、システム的に行われる。その点で言えば、問題は何も無かった。
「なんで……」
異常な点は、その魔法少女が生まれた時代が、すでに円環の理によって精査された―――すなわち、その時代のあらゆる時間軸、あるいは平行世界にかけて、遍く魔女の消滅が確認されていた宇宙だったこと。
そして、ソウルジェムを濁らせたその魔法少女が、まだ産まれて間もないことだった。
(こんなに早くソウルジェムが濁るなんて……これじゃあまるで、願いそのものが間違いだったって思ってるみたい……)
その話を聞いた上で魔法少女となる決意をしたのなら、そうしてでも叶えたい願いがあると言うことだ。少女の切実な祈り、希望、あるいは夢。たった一回限りの奇跡はそれ故に厳格かつ繊細であり、少女の望んだ通りの願いを正しく叶える。因果の量にもよるが、
一度切りの奇跡は間違いなく少女の味方であり、だからこそ魔法少女は最初に希望を抱く。
とはいえ何事にも例外はある。願いそのものが少女の破滅を引き起こすものだったり、あるいは
件の魔法少女もその例であり。
(でも、あの娘の願いは―――
しかし、その願いはまったく反対の性質を持っていた。何かを得るための願いではなく、得ないための奇跡。にも関わらず引き起こされた絶望の声は、円環の理にとって初めて起こる出来事だった。
円環の理は法則だ。世界に隙間なく広がり、働きかけるべき事象が起こった場合のみ、その機能に基づき役割を果たす。まどかはその仕組みを利用して様々な観点から世界を見渡すことが出来た。人の身では成し得ない高次元の観測能力であり、一部の学者なら全てを投げ打ってでも手に入れたいと希うだろう。しかしまどかにとっては無遠慮に人の人生を覗き見するだけの代物であり、あまり好ましくは思っていなかった。
とはいえ、今はそうも言っていられない。まどかは少女の願いを筆頭に、その生まれ、家族、故郷、経歴、少女の歩んできた道程を事細かに観察していく。
少女はいたって平凡な生まれであり、背負う因果も少なく、魔法少女に成れる者ではなかった。不幸にも重い病を患い、他のあらゆる時間軸において彼女は死んでしまう運命だった。
ただこの時間軸の少女だけが、治療法を求めて”ヤーナム”と呼ばれる古い都に辿り着いている。廃れて人の居なくなった街に、誰に囁かれたわけでもなく、しかしまるで誘われるかのように。少女は静まり返った街の診療所へと向かい、診察台の上で眠り―――
そこから夜明けまでの記録はない。”ヤーナム”はあらゆる観測の目を遮断し、何も変わらないまま朝と共に姿を現した。
少女は街の広場に倒れていた。当時の時代では不治とされた病を取り除き、代わりに魔法少女になれるだけの膨大な因果を抱いて。少女は目覚めてもその場から動かず、再び夜が来るまでぼんやりと立ち尽くし、キューブに出会い、
(……どうして?)
何もかもに対しての疑問だった。
死ぬはずだった少女がこの時間軸だけ生き残れた理由。廃都に治療法を求めた経緯。一晩の内に起きた超常現象。少女を取り巻く因果の由来。そして少女が絶望した原因。その内の何一つとして知ることはできなかった。
少女が”ヤーナム”を目指した時点から、他の時間軸との乖離が始まっている。今はそれだけしか分からない。どんな視点から少女を観察しても、”ヤーナム”を目指すに至った要因は見つけられなかった。そして決定的な異常は、あの夜、あの廃都で眠った時。観測不能だった”ヤーナム”内で少女に
眠っている間に起きた、少女にとっては夢とも言える出来事。
(きっとそれが、あの娘の願いに繋がってるんだ。例え記憶から忘れても、本能的に刻まれるような夢。それがあの娘の願いを生み出した……)
当然のように少女の見た夢の内容も把握出来なかったが、それでも、全ての鍵はその夢が握っているのだろう。少女を呼び寄せ、病を癒し、因果を与え……たった一度の奇跡に『もう見たくない』とさえ願わせるほどの悪夢。
―――
(分からない。その絶望も、抱いたはずの希望も、あなたのことが何も分からない―――でも)
けれど。例えそれがどんな存在であれ、その少女が魔法少女である限り円環の理は手を差し伸べる。その最期に現れて、善も悪も関係無く少女を楽園へと導くだろう。
それが世界の法則であり、円環の理の機能であり、”鹿目 まどか”の願いだから。
(あなたの呪いは、わたしが全部受け止めるから。それがどんなに辛くて、苦しくて、耐えられないものでも、あなたは一人ぼっちじゃない―――お迎えの時には、あなたのお話を聞かせてほしいな)
そうしてまどかは飛び立った。
全ての絶望を受け止めるものとして、魔法少女を救うために。
「―――やれやれ」
キューブと名乗った存在―――正しい名を”インキュベーター”と言う白い四足歩行生物は、
「やっぱり君たち人間のことはよく分からないや。君に関してはかなりの例外みたいだけどね」
インキュベーターには感情が無い。その精神構造からして人間とはかけ離れている。矛盾や非合理なことをする感情を精神疾患と呼び、ただ感情の持つ力だけを目当てに少女たちと契約を交わし、必要だから魔法少女たちの支援をする。そこに私感も友情も善も悪も存在せず、ただ目的のためだけに行動する。
彼等の目的とは、エントロピーを凌駕するエネルギーの回収……すなわち、宇宙の存続。
その瞳は効率の良いエネルギーの回収法を探し続け、現在は世界の歪みから生まれる”魔獣”を倒し、そこから産まれるエネルギーを回収することに向けられている。
いつからそうなったのか、どうしてそうなったのかは分からない。ただ、インキュベーターは人類を発見した時、まるで啓示を得たかのように今のシステムを思いついた。
すなわち、
システムとしてはかなり回りくどい上に、無駄だと考える点が数多くある。そのシステムを考えるに至った論理的なプロセスはなく、本当にただ、思い付いたとしか言いようがない。不可解な点は数多く、別の方法を模索する提案も出されたが、そのシステムで得られるエネルギーは確かに膨大だった。
結局、インキュベーターは魔法少女の力を運用することにした。一度限りの奇跡を対価に魔法少女を生み出し、魔獣と戦うための支援をする、よくある”魔法少女アニメのマスコット”的立場に甘んじたのだ。
そうして幾年。人間の文明レベルを引き上げ、魔法少女を支えながら、インキュベーターは思考と観測を続けている。
「もしかしたら、君が停滞した現状を打破してくれるんじゃないかと思ったんだけど……違ったみたいだね」
今回もインキュベーターにとってはいつも通りの契約だった。ただ、それに至る少女の発見に奇妙な点があったのだ。
不思議に思って接触してみれば、少女は記憶消失と言う。未知の情報を解析することで、あわよくば低迷した思索を活気づかせることを目論んでいたインキュベーターからすれば、肩すかしな答えだった。
それでも魔法少女として活動していれば、いずれは過去を思い出すのではと契約を持ち掛けたのだが。
その結末は目の前で蹲る少女と、その手にはめられた、黒い色に染め上げられつつある宝石が物語っていた。
(もう間に合わない。彼女のソウルジェムは濁り切り、
インキュベーターがその場を飛び退くと、目の前を白い光が貫いた。
(あるいは
周囲から湧き上がる白い形。ただでさえ巨大な影が所せましと立ち並び、廃れた街の広場を埋め尽くす。
「ォォ―――ォオオオオオオ―――!!」
それはインキュベーターが語った、魔獣と呼ばれる存在。呼び名に似合わずどこか神々しくさえあるそのシルエットは、生き物というよりは無機質なオブジェのようだった。
インキュベーターの知る限り、魔獣が人間を殺すことはない。魔獣は主にエネルギーとなる感情を吸い取り、人を廃人にすれども、直接危害を加えない。人間にとっても魔獣は目に見えない存在であり、物理的な点でのみ言えば無害とも言える関係性だった。
しかし、魔獣は自らを倒す存在である魔法少女に対して、抵抗と排斥の意味を込めて攻撃を行う。それが魔法少女になったばかりの、戦うことすら出来ない少女だとしても例外ではない。
(確かにこの場は瘴気が濃かったが、契約に刺激されて出てきたか。君が魔法少女として戦えていれば危機を脱せただろうに)
少女に戦う意思はなく、すでに囲まれて逃げ道は無い。ソウルジェムが濁っていては魔法も使えない。
破壊されるか、濁り切るか。結末は二つに一つだろうと、インキュベーターは早々に見限った。
「じゃあね」
あるいはこの点が、インキュベーターが機械装置の類でない、間違いや失敗をする生き物だと言う証明になるだろうか。
その場には、蹲る少女と数多の魔獣だけが残された。
―――薄暗い病室の中、
意識が明滅する。死の間際が蘇る。
―――重く慣れない凶器を満足に扱えず、無数の狂人たちに八つ裂きにされて死んだ。
思考が剥離する。狂気が意思を塗りつぶす。
―――銃で急所を撃ち抜かれて死んだ。異様に肥大した大男に潰されて死んだ。犬やカラスに食い殺された。巨大な化物にひき潰された。
最も衝撃的な記憶。数えきれない夢の痕。
―――撃たれて、斬られて、食われて、焼かれて、無残な終わりを繰り返す。
それはまさしく悪夢。悪夢で終わったはずの事。
だがもはや夢では済まされない。誰でもない少女が願ったのだ。
少女はもう夢を見ない。夢のような出来事も、悪夢のような想像も、彼女の前には現れない。
それでもなお見えるなら、それは現に他ならない。
―――穢れた獣。気色悪いナメクジ。頭のイカれた医療者共。そして何より、悪夢の終わりに見えた”
それらは確かにあった。夜の闇と夢の霧に覆われていようとも、確かに”ヤーナム”はあったのだ。だからこそ、少女は最後に
ああ、だが秘匿は破られた。全ての夢は夢でなくなり、確かにそこにあるものだけが、少女の前に露わになる。それが全て終わった光景でも、それらは過去からやってくる。
全てが痛く、苦しく、恐ろしい、常人には耐えられない惨い記憶の濁流。
―――夢じゃない。
それが彼女の絶望の源だった。純粋だったはずの少女の心を砕き割るに十分なものだった。魔獣が破壊する前に、彼女のソウルジェムは濁り切った。心は折れ、希望は無く、魔獣の光に照らされた宝石は黒く染まっている。
絶望による終わり。それはあるいは、魔法少女としては幸せなことなのかもしれない。
ソウルジェムが濁った時、魔獣の光が少女を焼く直前になって、少女はようやく顔を上げた。涙に濡れた視界の中、その瞳に映ったのは、黒いソウルジェムでも魔獣の光でも無かった。
―――君はよくやった。長い夜は、もう終わる―――
それは慈愛の表情を浮かべ、手を差し伸べる、美しい少女の姿。
どこから現れたのかも、どうして現れたのかも分からない。何も言わず、ただ金に輝く瞳を少女へと向けている。
―――さあ、私の介錯に身を任せたまえ―――
その姿を見た時、少女は何も知らずとも、ただ理解した。
きっとこれが終わりなのだろう。この美しい少女こそが、魔法少女が最期に見る
―――君は死に、そして夢を忘れ、朝に目覚める―――
その姿に。上位者のように見えない、どこまでも優しいその表情に。
少女は最後の死の記憶を重ね合わせた。
―――……解放されるのだ―――
花畑。燃え盛る家。空へ広がる大樹。鎌を振り上げる老人。
死の奔流の最後にあって、唯一自分が望んだ終わり。
―――この忌々しい、狩人の悪夢から……―――
それが最後の死。悪夢の終わり。ヤーナムの夜明け。少女の目覚め。
少女は死の衝撃から抜け出し、ようやく自分の夢を受け止めた。それはただ死んでいくだけの悪夢などではなかった。数多の自分の命を対価に、全ての獲物を殺し尽くす。それは正に狩人の夢。
それが夢でなくなったなら、少女は”ヤーナム”で得たものを自ずと取り戻すだろう。血と共に忘れ去った力、狩人の業を。
―――……さらばだ、優秀な狩人―――
―――血を恐れたまえよ―――
魔獣が閃光を放つ直前に、少女は蹲っていた態勢を崩し、両手と両足をバネに飛び退る。視界を動かさず、地を滑るように後退する、状況把握と機動力を兼ねたヤーナムの歩法。
奇妙なことだった。
けれどそれを疑問に思うほど、少女は魔法少女を知らなかった。代わりに”狩人”としての思考を働かせる。
今の少女は囲まれている。多数を同時に相手取るのは相手を知り尽くしている場合か、彼我の力量差があまりに絶対的な場合だけだ。そして今はどちらも当てはまらない。
だからこそ逃げるために力を込めようとして、だが少女は諦めた。
「ォォ―――オオオオオオオオ!!!」
魔獣の唸り声を合図に、少女は体を滑らせる。魔獣の巨体と瓦礫を盾に、少しでも射線が減る位置に身を置く。体を丸めて転がりこみ、ステップを刻み、時に歩く。緩急をつけながらも決して立ち止まらず動き続ける。でなければ即座に穴だらけになるだろう。
閃光は自身のみを狙う愚直な攻撃。だがそれは物量によって波状攻撃となっている。今はまだ避けられるが、体力の枯渇、あるいは魔獣に距離を詰められただけで状況は瓦解する。
魔獣に近づきすぎてはいけない。あの巨体がただの飾りとは考えにくい。閃光と違い魔獣の手足は予備動作が読みにくく、無造作に振り回されただけで逃げ道が塞がれる。
今は袋のネズミである。逃げるにせよ戦うにせよ魔獣に近づかざるを得ない。
問題なのは、近づいてもどうもできない―――つまるところ、狩るための武器が無いことだった。
狩人としての少女が使っていた二種類の狩猟具、仕掛け武器と獣狩りの銃。最後に握っていたはずのそれらは手元に無く、魔法少女になった際に現れることもなかった。
魔法少女としての身体機能だけではこの包囲は突破できない。夢で得た血の遺志の力は目覚めと共に消え去っている。それに取って代わるはずだったであろう魔法はソウルジェムの濁りによって使えない―――
そこまで考えて、ふと少女はその手の宝石を見た。
宝石の色彩。濁った黒の中に浮かぶ、
「ォォオオオオオオオオオ!!!」
攻撃を掻い潜りながら、ソウルジェムに意識を向ける。
”魔法”。使えばソウルジェムが濁るらしいそれがどんなものなのか、使い方すら説明されずに放り出されてしまった。使えることが分かってもそれでは意味がない。
だが少女は何も知らずとも、魔法が使えることを理解した。同じようにその使用方法も把握するだろう。狩人としての記憶の中で、最後にはあらゆる仕掛け武器を扱っていたように。
夢の中で培われた、物事の本質を見抜く力。今やそこに神秘は宿っていないが、それは少女の知覚の一部となって今でも息づいている。
己の魔法が何なのか。それが何を齎すのか。少女は全てを悟り、少ないソウルジェムの力―――魔力を消費して魔法を行使する。
夢に置いてきた仕掛け武器。現実ではあり得ない精緻なる機構。
そのうちの一つを、
「―――――」
その右手に翡翠の光が集い形を作る。反りの深い柄、鋸刃と鉈が両刃についた鉄塊。取り回しの速さと間合いの広さを使い分けられる、ノコギリ鉈。
否、あの夢は夢ではなかったと少女も自覚している。今ではあまりに現実に即していないが故に夢に浮かんでいるだけで、”ヤーナム”は確かに存在している。だがそれは現実では触れられず、少女にさえ干渉できないのだ。少女にとっては今は夢と相違ない。
少女は願いによって夢を見ない。それでもなお見えるなら、それは現に他ならない。そして少女の魔法とは、夢として存在する事象を、魔法という形で現すことだった。
その右手になじみ深い重さが生まれたことを確認して、少女は魔獣の懐へと飛び込んだ。
「ォォォ―――オオオォォアアアアアア!?」
振り回される前に足を削る。その一撃で魔獣は怯んだ。体幹の弱さを見るに接近戦は慣れていないのだろう。もう一撃を加えたい欲を飲み込んで、少女は身を引いた。危なげなく閃光を躱し、次の魔獣に取り付いてはノコギリ鉈を叩き込んでいく。
間に攻撃が挟まっただけで、少女の行動はさほど変わらなかった。
狩人としての強さは武器の有無に依存しない。たとえ素手だろうと獣に殴り掛かり、怯ませ、隙をねじ込んでから抜け目なく
重要なのは
そして、今となってはもう二度と
「ァァアアアアアアアア―――!!??」
ましてや相手は、唯一の脅威だった閃光を見切られ、それ以外に攻撃らしい攻撃方法のない木偶の坊の群れ。いくら多勢に無勢であっても、元狩人が遅れを取る道理はなく。
魔獣が黒い結晶―――グリーフキューブに変わり始めた頃には、少女は淡々と包囲を抜け出し、同じく夜の街に消えていくのだった。
グリーフキューブを押し当てると、ソウルジェムの黒ずみは浄化され、小さな翡翠の輝きを放ち始めた。代わりにグリーフキューブの黒ずみは濃くなったため、少女は浄化を止めてグリーフキューブを懐へとしまう。
補充されたばかりの魔力を消費し、自らの肉体に魔法をかける。魔法少女の基本的なスキルである身体強化。特に足回りに力を込め―――跳躍。
狩人の時には考えられないほどの加速とそれに伴う抵抗が少女を襲い、それを振り切って頂点へ。一瞬の無重力のあと、”ヤーナム”の建物の屋根へと降り立つ。
十数メートルの高さを一足で跳んだ事実に、少し前まで一般人だった少女は目を白黒させていた。今日という日の中でいろいろあったが、純粋に驚いた出来事の中では一番である。
身体強化の魔法はしばらく保つだろう。だがそれと引き換えに、小さな輝きを放っていたはずのソウルジェムは、再び黒く染まってしまった。
もっとも、それこそが少女の狙いだったのだが。
「―――――」
雲一つない夜空には煌々と月が輝いていた。白く、小さく、少し欠けている。ごく普通の月下の夜に、少女は深く安堵した。
そしてそこから、ゆっくりと降りてくる白い影。金の瞳を輝かせる美しい少女。
「―――……」
死の想起の終わりに見えた上位者は、ソウルジェムの完全な穢れによって現れた。きっと彼女こそが魔法少女を終わらせるものなのだろう。絶望によって濁った宝石を、あるいは激戦の果てに枯れ果てた輝きを救う、魔法少女の夢の主。
だからこそなのか、その姿は美しい少女の姿をしていた。白い装いを身にまとい天から降りてくるその姿は、まるで神様のようにも見えた。上位者を祀っていた”ヤーナム”の民なら本当に神として崇めるのだろう。
死の間際に現れる神様は、ソウルジェムに募った絶望を受け止め、倒れた魔法少女を夢へと誘うのだろう―――
「…………」
神様は困惑した。
目の前には、
どう見てもこれから消える者の立ち振る舞いではない。安らかな最期に安堵するでもなく、消滅の結末に恐れも怒りもしない、魔法少女の最期に見せる姿としては最も異端なあり方。
だが混乱の原因はそこではなく。
「……えっと」
神様が少女のソウルジェムに手を触れる。全ての穢れを浄化して少女を絶望から解き放ち、肉体の消滅と共に円環の理へと導く行為―――
ソウルジェムに翡翠の光が見えた途端、神様の姿は掻き消え、少女だけが残された。
ほんの少し困ったような表情をした少女は、回復した僅かばかりの魔力を身体強化の魔法に回す。当然なけなしの魔力は空っぽになり。
「……どうして」
そして少女の目の前には、今度こそはっきりと驚いた表情を浮かべた神様の姿が現れた。
今まで数多くの魔法少女を導いてきた円環の理にとって、導くことが出来ない魔法少女の存在は初めてであった。円環の理による導きを拒絶する魔法少女は魔女になる運命を辿るが、円環の理が魔女の誕生を許さない。たとえ魔法少女が円環の理を否定しても、それは法則として働き、問答無用で魔法少女を消滅させる。その最期を単なる消滅ではなく救済とするために、神様は一人一人を丁寧に導くのだ。
真に円環の理を拒絶するためには、導きを拒絶した上で魔女化の運命も克服しなければならない。魔女の概念がないこの世界で、そんな願いを意図的に叶えられるはずがないのだ。
ましてや、少女の願いは―――
「あなたは、いったい……ううん、そうじゃないよね」
けれど、神様は首を振って全ての疑問を抑えつけ、導く時とは違う柔らかな笑顔を浮かべた。
たとえどんな形であれ、魔法少女と出会って最初にやることは一つ。
「初めまして。私の名前は鹿目まどかって言います―――あなたのお話を、聞かせてくれませんか?」
そして、少女は―――
過酷な旅路の果てに人として目覚めた少女と、過酷な運命の果てに概念として忘れられた神様。
これは、少女が狩人から魔法少女となり、ほんの少しだけ神様に寄り添って生きる―――そんな物語の序章である。
完