環いろはちゃんと共依存的にイチャイチャしたい人生だった   作:風剣

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 物心ついた頃の記憶は、あまり残ってはいない。
 ……正確には、かつて暮らしていた家を引っ越して今の我が家で過ごすまでの記憶。6才になるまでの記憶は、靄がかかったように朧気なものだった。
 とはいえ、引っ越すより前の出来事について思い出せるのも掌にこびりついた血と泣き声、あとは大人たちの怒号と混乱の声くらいのもので。

 ……自分で()()()子どもの名前も顔も、どのようなことをしでかしてしまったのかも覚えていない。今となっては相手のどこに、どれだけの傷を与えてしまったのかもわからなくて――ただ脆く、弱く、儚い体をぐしゃりと潰した肉の感触だけは、まざまざと記憶に残っていた。
 だから……引っ越した先で二度と同じことをしでかすことのないように加減を何度も、何度も練習して。両親や自分たち家族を住ませてくれた老婆からも同年代の子どもと触れ合うには十分だと太鼓判を押されても外に出られなかったのは、きっと怖かったからだろう。
 また誰かを傷つけてしまわないか。また加減を誤ってしまわないか。……また、化け物でも見るような目で見られたりしないか。

『……だいじょう、ぶ?』
『え? ……うんへいき、痛くないよ?』
『大丈夫、怖くないよ。……うん、遊ぼう!』

 嫌われるのが怖かった。
 傷つけることが恐ろしかった。
 怖がられるのが嫌だった。

 だから。そんな自分を見かねた母さんに強引に連れ出されて、向かいの家に暮らす家族に引き合わされて。人見知りな、けれど心優しい少女に手を引かれて。
 それが、無知に限りなく近い認識による対応に過ぎなかったとしても――それだけで、十分すぎるくらいだった。本当にそれだけで、彼は救われていた。

『――うん……、うん』
『……ありがとう』

 それが、桂城シュウという少年の原初。
 ――過ぎ去ったからこその過去だ。初めて会ったときの自分の何気ない行動ひとつが少年を救ったなどということをいろはは夢にも思わず、当のシュウですらも何年も過ぎれば自然と忘れ千々に砕けていく。どれだけ大切なものであろうといずれは輪郭をなくし海の底に沈んで朽ちる――過去とは、記憶とはそういうものだ。

 ……けれど。
 喜びに鮮烈な色に塗り潰されて消えるとしても。苦しみと嘆きの果てに記憶の内海すべてから色が喪われ忘れ去られようとも。かつて魂に刻まれた言葉は、想いは決して嘘偽りでも幻想でもない。
 落としてしまったもの。大事だったはずのもの。かかえきれなかったもの。呑み込みきれなかったもの。
 過去に置き去りにされたとしても。今では砕け散ってとうに失われてしまっていたとしても。そのすべては、確かに――そこにあったのだ。




Lost memoria ー既に過ぎ去りしものー

 7ヶ月前

 

 

『――でぇゃああああ!』

 

 裂帛の気声。竹刀の打ち鳴らされる音が高らかに響く。

 踏み込んだ足で床を鳴らし。竹刀を振り上げ叩きつけてくる相手の姿を、身につける防具越しの狭い視界で認めて。一気呵成に上段からの諸手面を浴びせてくるのを、落ち着いて竹刀で防ぎながら剣先をずらし、中段に構え直して続く打ち込みを正面から受け止める。

 

『テェェっ……!』

 

 面の対処に集中し胴の守りが疎かになったのを好機と見て取ったか、防具の奥で目を鋭くした相手は鍔迫り合うようにして竹刀を打ち合うと僅かに距離をとり、手首を捻りながら鋭く胴に打ち込もうとして――その直前で、身体を傾けて竹刀を下げる。

 胴を狙おうとしたところの小手を打ち抜こうとしていた少年は、確実に獲れると思っていたタイミングで反応した相手に僅かに目を見開いて。カウンターにギリギリのところで反応して崩した体勢を立て直すため摺り足で距離を取った対戦相手が呼吸を整えるのを見守り――熱気の籠る防具のなかで、口元を緩めた。

 敢えて作った隙に誘導しての反撃。これで終わらせるつもりだった彼からすれば対応されたのはやや想定外ではあった。

 

 ──この分なら、少しは……。

 ──馬鹿やめろ、殺す気か間抜け。

 

 思考を掠めた『甘え』を即座に否定し、竹刀の柄を握る手に籠められつつあった過剰な力を抜いて息を吐く。

 師範ならともかく、学生の動き程度なら後の先、見てから反応する程度で十分すぎるくらいだ。意識して腕から力を抜きつつ、体幹を僅かに揺らがせる相手に鋭い視線を向けながら竹刀を傾ける。

 

『づぅぁああああああっっ!!』

『――(メェン)っ!!』

 

 衝突。そして――剣尖を打たれ揺らいだ太刀筋を潜り抜けたシュウの振り下ろした一閃が大会の決勝の相手であった少年の面を打つのに、画面のなかで主審たちが旗を揚げ決着を示す。

 観客席から撮られた映像にて、残心の姿勢から試合場の中央に戻って対戦相手と礼を交わして少年が立ち去るのを見ながら。ベッドの上で桃色の髪をした幼い少女――(たまき)ういが、顔を輝かせながら手を打ち鳴らした。

 

「わあ、凄い……! お兄ちゃんが勝った!」

「……ふむ……」

「……んゅぅ」

 

 しかし、隣に座る2人の少女の反応は想像していたものよりもだいぶ淡泊なものだったようで。不服そうに眉を顰めたういは、再生を停止された試合映像――シュウが2年生の頃に2連覇を獲った全国大会の映像を指しながら親友に訴えかける。

 

「ねえ、灯花ちゃんねむちゃん! お兄ちゃんが勝ったよ! 勝ったの! 凄くない!?」

「あーはいはいすごいすごい。いや本当に凄いと思うよぉ? でも、その……去年の冬から何度も見せられてると……ねえ?」

「……うーーーーん……」

「ねむちゃん?」

「……ごめんシュウ兄さん、もう一度今の試合再生させて貰って大丈夫かな」

「え゛っ」

 

 あらかさまに嫌そうな顔になって見てくる灯花に、病室のテレビに繋いだ自分の試合の映像を再生させていたシュウは苦笑して。逆にういはと言うと、花が開いたかのような明るい笑顔で首を縦に振っていた。

 

「お兄ちゃん! ほらねむちゃんも言ってるから! 早く早く、また見せて!」

「新作がちょっと煮詰まっているからね、お兄さんの試合を参考にしていろいろ考えていきたいと思うんだ」

「ぇー……わたくし見飽きちゃったよぉ。だいたいここに本人がいるんだからねむもいつもみたいに取材すれば良いだけじゃない」

「兄さんの話だけだと主観になりがちだし、いろは姉さんの話ではその……惚気話になりがちだからね。こういう第三者の視点も重要だよ灯花」

 

 そんな風に好き勝手言う3人であったが──ういも、そしてよく喧嘩やら絶交やらをしている灯花でさえも今のねむの発言を否定しなかったのを見て、自分の試合を録画したカメラを繋いだテレビを操作していた少年はじろりとベッドを見やる。

 ういの隣に座って妹たちと一緒に映像を観ていた恋人は、ざくざくと突き刺さる彼の視線からそっと目を逸らした。

 その耳は、ねむの言葉を受けてかやや赤くなっていて──、

 

「……なあいろは、一体俺のことについて3人にどんな話してる訳? ねむが惚気話とまで言うってよっぽどだよな?」

「………………。えっと、その。あんまり変なことは話してないと思うけど。ふ、普通のことだよ?」

「毎月いろはお姉さんがおなかを痛めているときに気遣ったりしているのは個人的に好感度高いけれど、あまり意地悪するのは感心しないなあ」

「すけべー」

「ねむ、灯花? おい2人とも一体なんの話を……いや待て、まさか」

 

 何を、どこまで共有しているのか。ちらりと脳裏を過った不安に口元を引きつらせる少年に、ねむと灯花は愉快そうに視線を投げて。 

 言いやがった。

 

「随分とスキンシップが激しいようで。家族のように思っているお姉さんが本気で嫌がっているなら通報ものだったよ」

「毎日のようにペタペタ身体触ってスカートの中見てくるなんて……へんたーい。男は獣ってよく聞くけど本当なのねー?」

「!?!?」

 

 ごりっと心が抉られるのを自覚した。

 恋人の妹を経由して知り合ったそれなりに近しい間柄であり、年上として恥ずかしくない振る舞いを心がけようとしていた相手に疚しいあれそれを把握されからかわれた事実にかなりのダメージを受けテレビを弄っていた手が震える。電源を落とされ画面が真っ暗になったテレビに「あーっ!」とういの悲鳴があがった。

 

「良いところだったのにー、お兄ちゃんもう一回点けてよー」

「……別にそれまで熱中して視るようなもんでもないと思うんだけどなあ」

「え、そんなことないよ!? 日本一だよ日本一! お兄ちゃんは凄いよ!」

「うんそうだよ、シュウくんに触発されて剣道部の人だって張り切ってるんでしょう……? 私もそうやって他の人に影響与えるの凄いと思うな」

「あ、うん……」

 

 灯花やねむの物言いにやや顔を羞恥に赤くするいろはも加わっての反論に返す言葉を失う。

 相手を壊すことのないよう最大限配慮する必要のある競技は、どれも少年にとっては息苦しいくらいに窮屈なものだったが……身内の少女たちに評価される分には、多少加減に苦労してでも結果を残すのは悪くないと思えた。

 

「……むふふっ、いい閃きが来た。ライトノベルじみた方向性の作品書くのは初めての経験だけれどこれはこれで悪くないかもね……」

「あっ、ねむちゃんまた新しい話を考えたの!? どんな名前?」

「んー、それは……まだ考え中かな。良い具合のタイトルが思い付いたらういに教えるよ」

「えへへ、ねむちゃんの新しい作品読めるの嬉しいな、楽しみにしてるね!」

「……その言葉は作者として非常に有難い限りだけどもね。ジャンル的にういのお眼鏡に叶うかどうかは微妙なところかな……いや灯花と一緒に薦めたハリーポッター読破してたし問題ないか」

 

 そんな風に言うねむに、いろはと顔を見合せ目を丸くする。

 灯花も読書こそはするものの読むものは好む科目についての参考書や教材がほとんど、それもぱらぱらと流し読みしておおよその内容を把握してのける天才肌だ。架空の物語を流し読んで鼻で嗤うこともしばしば……その彼女がハリーポッターというあらゆるファンタジー作品のなかでも最もポピュラーな作品と言っても良い本に目を通していたというのは意外ではあった。

 そんな彼の視線に気付いたのか、灯花はふいとそっぽを向いて口を尖らせた。

 

「……ベッツに―? 私だってフィクションをフィクションとして楽しむ分には本だって映画だって観ますよーだ。大衆にウケた作品に実際に目を通すのだって悪いことでもないしねー」

「ここも娯楽には事欠かないからね。3人っきりだから騒音になるようなことさえしなければ比較的自由にテレビも視れるしたまに来るお婆さんにはいろんな本や映画のDVDを融通して貰え……あ、噂をすれば」

 

「――こんにちは。おや、いろはちゃんに……シュウもいたのかい」

 

 病室の扉を開いてぬっと現れた老婆。薄い紫のワンピースの上から上着を羽織り黒いハットを頭に被ったシュウの家族と暮らす老女の姿に、シュウは頭痛を堪えるように眉間に手をやった。

 

「お婆ちゃん……幾ら女の子に目がないとはいってもわざわざ神浜にまで足を運んで獲物を探し回るのはちょっとやばいと思うよ……」

「はっ倒すよクソガk……んっ、んん……。ひひひ、こんにちは3人とも。元気にしてたかい?」

 

 青筋を浮かべて漏らしかけた罵倒を咳払いで誤魔化し。肩を竦めたシュウに鋭い眼光を飛ばしては孫同然に可愛がる少女たちに穏やかな笑顔を向けた彼女に、ういはぱあっと顔を輝かせた。

 

「わあ、トモエお婆ちゃん! うん、ここ最近は凄い元気だよ! お医者さんにだってこのままけいか? が良くなれば退院できるかもしれないって言われたんだから」

「そうかいそうかい! それは良かったねえ~……ほらねむも灯花もおいで、またお菓子持ってきたからねえ」

 

 ほらお土産と机の上に乗せられたタッパーの中身を確認すれば、リンゴとさつま芋を煮込んだコンポートがたっぷりと詰め込まれていた。

 

「わあ、美味しそう……! お婆様ありがとう!」

「ひひひ、ケーキも良いけれどこういうのも悪くないだろう? 砂糖ほとんど入れてないけれど美味しく仕上がっているからね、仲良くお食べ」

「「「はーい!」」」

 

 手を洗いに廊下へ出るういたちを見送り、透明なビニールに包装されたプラスチックのフォークを机の上に並べる老婆。妹の病室に頻繁にやって来ては3人に手作りの料理を振る舞ったり遊び相手になってくれている彼女に、いろははぺこりと頭を下げた。

 

「いつもういに構ってくれてありがとうございます。私の面倒まで見て貰っているのに今日も手料理まで……」

「うちの子に構ってくれてるだけでも十分だよ、初めて会った時はまあ陰気臭い面と性格してたのに今じゃ盛った犬だとか猿みたいにべたべたくっついて……迷惑なら迷惑って言って良いんだからねえ?」

「い、いえそんな! シュウくんにはいつも助けて貰ってるし、その、私も――そんなに、嫌っていうほどでもなくて寧ろ……」

「……………………………………」

 

 喜べばいいのか、怒ればいいのか、恥じらえばいいのか、嘆けばいいのか。少なくともメンタルは苦悶にごりごりと削られていた。己の醜態を当然のように把握している智江もそうだが顔を赤らめたいろはに満更でもなさそうな態度を取られているのにどんな顔をして2人の会話を聞いていればいいかわからずいろはの隣で硬直する。

 ……日頃から料理やお菓子作りの指南をしている愛弟子(いろは)の分もフォークは余っているから手を洗って食べなさいと老婆が提案するのに、胸中の煩悶から意識を逸らすように俺の分のフォークか割り箸はないのかと声をかけたが……作り置きしてあるから家に帰るまで我慢しなさいとはね退けられた。黄金色のコンポートに伸ばした手を勢いよく引っ叩かれ神妙な顔になるシュウを見た灯花がくすくすと笑う。

 

「どうしたのシュウ兄さま、兄さまもお菓子食べたくなったのかにゃー? わたくしがあーんしてあげよっかあ?」

「……ん、いやいいよ俺は別に――」

「!? だ、駄目だからね!?」

「いろは? いやだから俺は――」

「くふふっ、わかってるってお姉さま。お姉さまがあーんするんでしょう? わたくしは見てるから」

「!?」

「あ、じゃあお願いしようかな」

「シュウくん!?」

 

 

***

 

 

 バスから降りる。大都会にこそ劣れどそれでも人のひしめく印象を与えさせるだけの人口を有する神浜から見慣れた住宅街の並ぶ宝崎に戻って。今にも空の果てに沈みそうな夕日を見上げながら、2人で並んで歩いていく。

 

「……手、繋ぐ?」

「う。……………………うん」

「なんだよその間」

「ま、まだちょっと慣れなくって……」

「……くっ」

「……ふふっ」

 

 並んで歩きながら、2人で顔を見合わせて笑い合って。どちらからともなく手を伸ばして、握り合う。

 ……進級進学の季節を控え、まだ肌寒さを残す時期だ。繋いだ手から伝わる温もりは、ひどく心地いいものだった。

 結局、灯花の提案に乗ろうとしたシュウの浅ましい意図は「いくら何でも病室で不衛生は許さないよ」の一喝で阻まれた。間接キスの衛生面もそうだが年端のいかない女の子たちの前でしていいことでもないのも確かであり、断念せざるを得なかったが──いろはが嫌でないようならまた今度要求してみるのもいいかもしれないと邪念を抱く。

 無二の信頼を寄せる幼馴染兼恋人の邪な思いなど露知らず。握り合う手でぎこちなく指を絡め合って、いろはは目を細めて微笑んだ。

 

「今日は散々揶揄われちゃったね」

「退屈はしてないって言うけれどなかなか病室から出れてないからなあ。そういう娯楽にも飢えているのかもしれない。……ああも話が伝わってるのは意外だったけれど」

「……」

 

 恋愛関係について相談を頻繁にしていたのだろう、そっと目を逸らしたいろはの隣で、暫くは悪戯控えた方が良いんだろうけどなあとぼやく。――年下の女の子にああして指摘されるのも地味にショックだったこともあり、それなりに反省はしていた。

 いや、まあ本当に嫌がられない限りは頻度こそ落とせど続ける気満々ではあるのだが。反省はしても後悔はしてないし直す気もあまりない。これでは灯花に好き放題言われても何も言い返せなかった。

 

「にしてもお婆ちゃんもまあ女の子には甘いというか……あれ絶対獲物狙ってる目だって。ういたちが退院したら着せ替え人形にするつもり満々だと思うよ」

「でも素敵だと思うよ? 私もよくドレスとか着せて貰ってたし、お姫様になったみたいで楽しかったなあ」

「こっそり覗こうとして追い出されてから出禁にされてるからなあ俺……、いろはのドレス姿見たい……」

 

 欲望駄々洩れで呟けば、隣でいろはがほんのり頬を赤らめた。「もう覗きは駄目だからね……?」と小さな声で伝える彼女にぶんぶんと首を振れば、はにかんで笑いながら今度智江お婆ちゃんにお願いしてみるねと約束してくれた。

 病室で遭遇し少女たちに手作りのお菓子を振る舞った智江はいない。帰る前に神浜に暮らす友人の顔を見てくると言って立ち去って行った彼女の手にはういたちに振る舞ったコンポートとは別の菓子が詰め込まれたのだろう箱がぶら下げられていた。

 シュウの母親がまだ幼かった頃からの付き合いであるという老婆……引っ越し先に悩んで居た両親に『家に住ませてやるから身の回りの世話は頼むよ』などと言った割りに介護の必要性を全く感じさせない活発さを見せている智江である。ときどき黒ずくめの姿になってとんがり帽子やフードを被った姿で出歩いてはうっかり自分を魔女と呼んだ子どもを追いかけまわす不審者の友人がどのようなものかも気になるところではあった。

 

「今度ういにも料理の作り方教えてくれるって言ってくれたんだ。私まで教えて貰ってるのにちょっと申し訳ないけど……でもいつかういと一緒にお菓子や料理を作れたらいいなあ」

「……そっか。その時は俺も手伝うよ」

「ふふっ。……味見係として?」

「俺だって少しくらいは料理できるからな!?」

「えーでも理恵さんは味見しかしてないよ?」

「嘘だろ母さん……」

 

 シュウの家でたまに開かれる女子会……いろはの母親や智江、たまにシュウの母も参加していろはが料理を叩き込まれていると聞いたがまさか自分の母親が戦力外同然の扱いになっているとは思わなかった。

 料理はできてた筈なんだがなあと困惑したが……いや4人も一緒のキッチンにいたら普通に邪魔だったと思い直す。とはいえ本人が味見役を率先してやってそうな辺り息子としては微妙な心地だった。

 そんな風に談笑して、自分の家が目と鼻と先にまで近づいているのに気付いて。名残惜し気に手を振るいろはと別れて、環家の向かいにある我が家の鍵を開ける。

 

「……ただいま」

「おかえりなさーい! いろはちゃんとのデートどうだったあ?」

「ういの見舞いだからデートじゃありません。あ、待ってこれ神浜の土産。お婆ちゃんから押し付けられたやつ」

「んー、行きつけの店のプリンにマカロンに……うっわなにこれ如何にも古そうな……、トモエさんこういうの好きだからなあ」

 

 玄関で出迎えた母親と気軽な調子で言葉を交わしながら、漂う料理の匂いを嗅ぎ取ったシュウは口元を緩めてリビングへと早足で向かって行く。

 

 

 ――幸せだった。十分に満たされていた。

 ――当たり前にこのままで居られると、根拠もなく信じていられた時期。

 

 ――平穏が薄氷の上に成り立っていたと少年が理解するのは、そう遠い日のことではなかった。

 

 


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