あったかもしれないゆめ
ありえたかもしれないゆめ
ありえてほしかったまぼろし
作者が友人の言葉を皮切りに勢いで書き上げました。
ギャン泣き必須の原作様をぜひお読みの上でこちらも読んでください。
ただ物語の性質上解釈違いなのでそれはなしで!って方はブラウザバックをお願いします。
鬼人幻燈抄はいいぞ<ステマ>
それはひと時の夢、ひと時の幻。
※ ※
嫌にそわそわとしていた宇津木平吉について聞けば、数瞬の間もなく人々は彼に関してこう答えるだろう。「その時の彼はまともではなかった」と。
それはある日の鬼そばでの一幕。
鬼そばは、鉄面皮ながらも常連なら知る親バカの男と、彼の溺愛する一人娘で商われている京都は三条通にある蕎麦屋であった。
明治元年創業のこの蕎麦屋は、はや十数年の時を経てすっかり老舗に近い風格を醸し出していた。
「かけそば一丁と天ぷらそば一丁、あがったぞ」
「はい父様」
頑固一徹といった表情の店主、葛野甚夜の声に跳ねるように対応したのは鬼そばの看板娘、野茉莉である。昔なじみの常連たちは、彼女がまだ小学校に通っていたころからの馴染みもいる。
そんな客層の中でも、今日は、というよりも今日も訪れている客は一層甚夜と野茉莉にとって深い間柄の客であった。
「はい平吉さん、天ぷらそば一丁。秋津さん、かけそば一丁です」
「ありがとさん、野茉莉ちゃん」
「あ、ありがとう、野茉莉さん」
一人は壮年の男性、秋津染吾郎。鬼そばの創業に関わり、また店主である葛野甚夜の数十年来の親友である。夜毎に甚夜の元を訪ねて酒盛りをしているといえば、その親密さも分かるものだろう。
もう一人の若干どもりつつ天ぷらそばを受け取る青年は宇津木平吉。染吾郎の弟子にして退魔の名跡、秋津の四代目を継ぐやもと囁かれる青年である。
依頼があればそれこそ秋津の弟子という立場を汚さない、鮮やかな仕事ぶりとも評されるようになった平吉は、しかし未だに時折青い姿を見せる時がある。
それはもちろん鬼そばの看板娘、葛野野茉莉へ対する時の平吉で、その様はまさしく年頃の青年といった姿であった。
「平吉ぃ、お前一体何年野茉莉ちゃんと過ごしてんねや。いい加減慣れえやぁ」
ヒソヒソと囁く師匠に対し、一番弟子たる平吉はただただ頭をたれていた。
「いや、違うんです。いや違わないんですけども、その、あのですね……」
「んん……?」
ようやく慣れてきたと思った平吉が、最近は嫌に野茉莉を意識している。歴戦の戦士であり一人娘を慮る鬼の甚夜と長年面倒を見てきた師である染吾郎には嫌でも異変が伝わる。
しかし甚夜は平吉に対しては蕎麦屋の店主にして鍛錬の相手、更には仇敵に連なる鬼という複雑な間柄で短くは無い時間を共にしているとはいえ踏み込んだことは聴かないようにしていた。
すると自然とそういった野茉莉関連の悩みを平吉が染吾郎に相談、それが甚夜に流れるという面倒くさい構図が出来上がっていた。
「西洋では……でして、しかし……秋津の……」
「そこは付喪神使……、ものは自然と……だから、平吉……やと……」
「なるほど……」
何やらこそこそと内緒話に興じる二人を見やりつつ、鬼そばの店主である甚夜はよどみなく注文をさばいていた。
時間は昼時を少しばかり過ぎている。それほど忙しくないとはいえ、昼の甚夜は鬼を喰らう鬼ではなく一人娘を育てる蕎麦屋の店主であった。
親友とその弟子にだけ注意を配るのではなく、ほかの常連たちとも言葉を交わしながら仕事をしていたため、二人の密談について聞くことはかなわなかった。
そんなこんなで一通り客も捌け、ある程度たまったどんぶりを洗いを始めたころで染吾郎らを見れば二人はそばをずるずるとすすっていた。どうやら内緒話は終わったらしい。
そんな二人の元へ、野茉莉はお茶のお代わりを注ぎに向かっていった。
「お茶のお代わり注いでおきますね」
「ありがとなぁ」
「染吾郎」
なぜか野茉莉に対して必要以上に緊張している平吉を見やりつつ、甚夜は染吾郎に声をかけた。
「どないしたん?」
呼ばれた染吾郎は「ほら平吉」と弟子に声をかけてから甚夜のほうに歩いてくる。その後ろでは、平吉がなにやら鬼気迫る表情で野茉莉に話しかけていた。
「いや、先ほど宇津木と話をしていただろう。夜の話なら私も聞いておこうかと思ってな」
甚夜と染吾郎は短くない年月を共に過ごしてきた。妙に真剣な顔で平吉から話を聞いていた染吾郎の様子を見た甚夜は、本業である怪異絡みの話かと問いかける。
平吉の野茉莉に対しての態度と、いつになく真剣な染吾郎の様子を見た甚夜である。身近な人間にまつわる怪異であれば敏感に反応してしまうのも無理からぬ話であった。
しかしそれを聞いた染吾郎は破顔一笑して答える。
「いやいや、最近は京都も静かなもんよ。君が聞きたがるような話もないから、細々とした話はほとんど平吉に任せきりやわ。ただ、なあ……」
そして口を閉じた染吾郎は喉の奥で笑う。
「なんだ」
「いや、当人がいる前で話すのもな。また夜にでも寄らせてもらうわ。酒でも飲みながら話させて。……これから大変やなあ」
「うん? まあいい」
「ほなまたな。うまい酒持ってくるわ」
「期待して待っていよう」
そうして二人が会話を打ち切れば、どうやら若者二人も話が終わったようだった。飄々と笑いながら平吉の肩をたたいた染吾郎の後を、平吉は油の切れた機械のような挙動でついていく。
「ごっそさん。今日もうまかったわ~」
「ゴチソウサマデシタ。野茉莉さん、また」
「はーい、ありがとうございました~」
そして店の戸が閉まり、二人の影が遠ざかっていく。昼時の客足は完全に途絶え、つかの間の休息が訪れた。
再び洗い物を始めた甚夜のもとに、先ほどの二人がきれいに食べたどんぶりをもって野茉莉がやってくる。静かな店内にパタパタと足音がこだました。
「はい父様」
「ありがとう野茉莉」
「ううん……それとね? 少し相談があるんだけど」
「どうしたんだ」
甚夜の問いかけに、野茉莉は少しもじもじとしながらも言葉を返す。
「平吉さんに、お祭りに誘われたの。家の近所にある小さな稲荷神社、そこが縁日をやるの。それで一緒に回りませんかって」
鬼そばの近くにある神社といえば、確か稲荷を祭ってある神社だと甚夜は記憶していた。確かにそこは規模は小さいながらも縁日を開いており、それを甚夜は幼かった野茉莉を連れて見たこともあった。
「もうそんな時期か。確か一度だけ行ったこともあったか」
「うん。それで、平吉さんがたまには息抜きがてらにって。一人で回るのも寂しいから一緒に回ってほしいって」
「ふむ。確かに野茉莉にはいつも助けてもらってるしな。いつも私とばかりいるのもそれはそれで不健全かもしれない」
「あ、いや! そういうことじゃないんだけど」
「いや同年代の友人と祭りを回るのもいいだろう。それに宇津木は頼れる。たまには私以外の男に付き添ってもらって遊ぶのもいいだろう」
これは甚夜の偽らざる本音であった。甚夜は野茉莉のことを心から大切に思っている。それ故に生きる時間の違う野茉莉が、もっと歳が近く一緒に老いていける相手を見つけてくれればよいと常々思っていたのだ。平吉が相手ならば、親友の弟子という点を除いても甚夜は信を置いている。それこそ秋津の四代目は彼にこそ与えられるべきだと思う程度には。
「これもいい機会だから、彼と親交を深めてきなさい」
「……うん! ありがとう父様。それじゃあお言葉に甘えて行ってくるね」
野茉莉は野茉莉で平吉に対して、最初こそいい感情を抱いてはいなかったが今では長い付き合い。彼の変化を見て、彼女自身が自らの価値観で良い人だと感じている。そんな友人からのお誘いとあれば、彼女が嫌に思うこともない。
話はとんとん拍子で進み、野茉莉は心なしか嬉しそうに甚夜の洗ったものを拭いていた。
いつの間にか大きくなったものだ。甚夜は心の中で独り言ちる。おしめを変えていたのも昔の話。一時期はすれ違うこともあったがそれも今ではいい思い出だ。
長い長い生、それも始まりは憎しみに満ちていた。それがいつの間にか一人の子の親となり、その成長に一喜一憂するようにもなった。この娘の存在がそれだけ自分の中で大きな存在かというのを噛みしめる。
そんな愛しいわが子が嬉しそうに友人との予定を話してくれるというのも、またささやかながらうれしい出来事であった。
「野茉莉」
「はい?」
「宇津木は、そうだな。いい男だ」
「もう、急にどうしたの?」
「いや。楽しんできなさい」
「はい! お土産買ってきますね!」
そんな他愛もない、それでいて愛おしい時間はゆったりと流れていった。
鬼人幻燈抄 閑話『平和に微睡む人時の夢』
「それで、昼間に話すと言っていたのは何だったんだ」
「おう。そうやったな」
一日の営業も滞りなく終了し、時間は夜に移る。野茉莉はこの日は自室に戻り、すでに就寝している。鬼そばの店内で酒盛りをしているのは一人の退魔と一人の鬼のみであった。
甚夜は酒を一口であおるなり染吾郎に問いかける。それは昼間の秋津子弟の内緒話であり、染吾郎の言った「これから大変やなあ」についての問いかけである。
この三代目秋津染吾郎、歳を経て老獪さを増した。と同時にどうにも好々爺然としてお節介が増えたため、時折甚夜のことさえ子供に対するように接することがある。
であれば、昼間の様子と合わせて深刻な話ではないのであろうことは予想がつく。しかし大変とはいったい何ごとなのか。問いただしておかねばなるまい。
「まあ、まずは落ち着いて飲めや」
「む、それもそうだな。こいつはいい酒だな」
「最近いいとこの蔵の依頼を受けてな。そのお礼ってことで一番いいのを包んでくれたんや」
すっきりと飲みやすい日本酒だ。切れのある辛口ながらも、くどくなくすんなりと喉を通る。鼻を抜ける香りも酒精のそれよりは香草のそれ。どうやらカクテル、というものに近いもののようだ。
「日本酒でもこういったものがあるんだな」
「そりゃ時代は明治、外来の酒に負けんように、こっちの伝統ある酒蔵も試行錯誤してるようや。こいつは若者向けに拵えたようやけど、僕も美味しくいただいてるわ」
そういいながら染吾郎も酒をあおる。その飲みっぷりは歳のわりに豪快だ。
「それで、昼の続きなんやけどね」
「うむ」
「まあ最近の平吉、ぎこちなかったやん?」
「まあ、それは私も気になっていた」
どうやら件の話は平吉に由来するらしい。
「そういえば野茉莉が宇津木に縁日に誘われたと喜んでいたよ」
「ほう、平吉も頑張ったなぁ。僕の弟子の中でもいっとう腕が立つんに、野茉莉ちゃんのこととなるとどうにも奥手でなあ」
「まあ手慣れているようなやつより、そういうほうが私としても好ましいさ」
「あはは、まあ娘を持つ親としてはそうやろね。今度の縁日で下手打たなければええけどね」
「それは宇津木の度量次第さ」
「せやね……それでな? 今度の縁日で平吉、野茉莉ちゃんに交際を申し込むんやと」
その言葉を聞いた瞬間、甚夜は一瞬固まった。もちろんそこは歴戦の鬼、硬直もほとんどわからぬ程度のもの。
しかし相手はこれまた歴戦の退魔である。甚夜の動揺を見逃すことなくニヤニヤしながら言葉を続ける。
「昼間の話はな、それで結婚を前提にお付き合いさせてくれっていう文句と一緒に、何か贈り物がしたいっちゅう話なんよ」
「……それはなかなか、いやいいんじゃないか」
「甚夜、お互い少しばかり寂しゅうなるな」
染吾郎の顔を見やれば、その表情は言葉とは裏腹にさっぱりとしていた。しかし細められた目には優しい光が見える。
「お前もそう思うんだな」
「そりゃあもう、平吉がこんなにちっちゃいころから見てるんや。それが将来の伴侶についての相談やで? 仕事柄いつ僕の身にって思うと、やっぱり嫁さんはもらえんかったけど、でも子供が巣立っていく親の気持ちが分かったよ」
秋津染吾郎はただの細工師ではない。物に宿る付喪神を使役する退魔の一派だ。それはすなわち常に命の危険を伴い、いつ帰らぬ人になるともわからないということだ。
この三代目秋津染吾郎はそれを危惧し伴侶を持たなかった。それはひとえに彼が秋津染吾郎という名がそれほどまでに重いものだと知っていたからである。ましてや彼は甚夜とともにマガツメについても追っている。
いかに腕利きの退魔といえど、相手は未来の鬼神。生半可な覚悟では務まらないのが今の秋津染吾郎であった。これが血統に根差す退魔なら後継者問題につながるが、幸いにも秋津染吾郎は徒弟を取っての世襲制。彼が伴侶を持たなくてもよかった理由にもなっている。
そんな彼は、だからこそ自らの最高の一番弟子が一人の男としての人生を歩んでいることを心から喜んでいる。
「僕らはいまだにマガツメという最悪の敵を追ってる。でもそれとこれとは別問題や。平吉が一人の女の子を見初めて、その子に思いを告げるっちゅうんなら僕はそれを祝ってやりたい」
「そうだな」
「甚夜、野茉莉ちゃんはほんにええ子や。でも平吉も負けず劣らずいい男に育ってる。そう思わんか」
甚夜は無言で酒をあおる。すっきりとしたその味は、今の甚夜の心持そのものだった。……少し辛口なのは、仕方あるまい。
「まあ、あれで酒が飲めれば一人前だな」
「あっはっは! 君もまだまだ親バカやなあ」
染吾郎は楽しそうにからからと笑う。
酒の香りは清涼そのもの。いつかは一緒にいられなくなる。それがこういう形での別れならば、きっと今までの『失ってきた』別れとは違う別れになるのだろう。いや、これは別れではなく……。
いまだ業を背負ってはいる。しかしそんな生の中、甚夜は本当に一瞬、憎しみを忘れてさっぱりと笑った。
「宇津木なら、野茉莉を大切にしてくれる」
「野茉莉ちゃんなら、平吉のことをしっかりと支えてくれる」
そうして二人は無言で酒をあおった。
夜はまだ長い。男二人、一抹の寂しさを酒精で飲み込み、しかしそれ以上の温かい感情を吐息とともに吐き出した。
※ ※
「それじゃ父様、行ってきます」
「気を付けてな」
「大丈夫、平吉さんも一緒だし」
縁日の日、甚夜は少し早めに店を閉めた。もちろん縁日のために野茉莉が準備をするため、というのもあるが実際は甚夜がらしくもなくそわそわしていたためだ。
今日一人娘が、一人の男と将来を誓うかもしれない。それは思ったよりも甚夜に動揺を与えていた。さんざん親バカ親バカと言われ、それはもちろんと受け入れていた。しかしどうやら思っていたよりも親バカらしい。甚夜はそんな自分を思って苦笑する。
あんなに小さかった、と思い出すのはまだ早いかもしれない。しかし甚夜は自らの変わりようを誇らしく思っていた。変わらない鬼が、憎しみによって堕ちたこの身が、一人娘の行く末を案じ震えている。これほど恐ろしく、心地よいことがあるものかと。
着飾った一人娘はそれはそれは美しかった。金糸の施された少し暗めの赤い着物は、ふと遠い思い出を頭によぎらせる。そして昔から使っているリボンで髪をまとめた野茉莉は、まさに艶やかな着物美人であった。
「それじゃあ、粗相のないようにな平吉」
「は、はいお師匠。……甚夜さんも、えっと、」
「そうかしこまるな。普段通りふてぶてしく堂々と構えていろ。野茉莉を頼むぞ」
「は、いや、おう……行ってきます」
すっかり恐縮しきっている平吉も、浅葱色の甚兵衛を纏っている。約束の時間に染吾郎とともに野茉莉を迎えに来たのだ。ちらりと横の野茉莉をみて赤面する当たり、どうやら着物姿の野茉莉は平吉にとってまだ刺激が強いらしい。
そんな平吉と野茉莉の後姿を見送り、二人の背中が見えなくなった頃に甚夜と染吾郎は鬼そばに戻っていく。
「さて、それじゃあ僕たちは少し早めに楽しみますか」
「そうだな。……二人の行く先に」
「ふふ、せやね」
夕日の差し込む店内、染吾郎と甚夜は少し早めの晩酌と相成った。
「うわ~、もうすっかりきてなかったけど、やっぱりこういうお祭りっていいですね」
「そ、そうですね!」
「どうしたんですか平吉さん? なんか、固くないですか?」
「いや! ちゃうんです、ちょっと、気合入れて修行というか、彫り物を!」
一方、縁日ではというと。
野茉莉は久々の祭囃子にすっかりはしゃいでおり、普段よりはしゃいでいる彼女の姿をちらりと見ては平吉が赤面するということを繰り返していた。
「ほら! あっちも見てみましょう!」
「おわっ!? 手、手が、軟らか……」
無邪気にはしゃぎまわる野茉莉は何の気もなしに平吉の手を取り小走りに動き出す。そんな普段の彼女からは想像できない姿と野茉莉の手の感触に平吉はすっかりリンゴのようになっていた。
しかし次第に平吉も平静さを取り戻し、純粋に祭りを楽しむようになっていた。出し物を楽しみ、喧騒を楽しみ、そしてなにより思い人とともに歩くことを心から楽しんでいた。
彼もまた心に傷を持っているものである。幼いころに鬼に両親を奪われ、いざ平吉もというところで染吾郎に救われた。
それからというもの、秋津染吾郎のもとで自らの腕を磨く日々は辛くなかったと言えばウソになる。秋津の名は伊達ではない。世襲制の細工師は周りにも多くの志願者がおり、幼い平吉は日々取り残されないように細工師として、退魔として修練を積んできた。
折れそうになったことも幾度もあり、また心より慕う師が鬼とともにいることも心の奥では疑問に思っていた。
しかし染吾郎のもとで修練し、鬼そばに通うことで世の中には悪い鬼というものばかりではないことを知り、その鬼の一人娘と出会って青い恋も知った。
どこかで彼もまた立ち止まってしまっていた。しかし、いつしか憎しみだけではなく、様々な感情を知るに至る。
平吉はいつかの鬼とは違う、まっすぐな青年へと育っていた。
「あっ!」
「野茉莉さん!?」
どれくらい時間がたっただろうか。朱かった空はいつしか暮れ、祭りも落ち着いてきたころ。隣で歩いていた野茉莉が急につんのめって、平吉が慌ててそれを支えた。
「あちゃ、切れちゃった」
へへ、と照れ臭そうに笑う野茉莉の草履は鼻緒が切れていた。
「野茉莉さん、実は足もいたかったりせえへん?」
「えっと……少しだけ」
「目いっぱいはしゃいだもんなあ。ちょっと座れるとこ行こか」
「うん」
「ちょいと失礼」
いうなり平吉は野茉莉の背に手をまわし、膝裏にも手をまわすと彼女を横抱きに抱えた。
「あ、いや!? 平吉さん、重いでしょ、肩貸してくれるだけでも」
「これでも鍛えてますから」
「あ、ありがとう……」
野茉莉は借りてきた猫のようにおとなしくなった。暗くなっていてよかった思ったのは、もちろん野茉莉だけではないが。
勢いに任せてかっこを付けた平吉は、ふわりと香る甘い香りに充てられつつも平静を装っている。
装っているが、少々早足になっていた。そして早足に動けば揺れるもので、野茉莉は平吉の胸元にそっと体を寄せる。その柔らかな感触を極力意識しないようにしつつ、平吉は境内の石段に野茉莉を降ろした。
「草履、見してな」
「うん」
少しばかりおとなしくなった二人の間に、無言の間が訪れる。祭りの気配は少し遠く、二人だけの時間が流れる。
「はい、できましたわ」
「わ、早いですね」
「これでも最高の細工師のお師匠のとこで修行してますから」
そう誇らしげに言う平吉の笑顔は、無邪気ながらも自信にあふれたものであった。野茉莉は思わずその笑顔に見惚れてしまう。
暗がりの中、うっすらと提灯の明かりが二人を照らす。気が付けば周りに人はおらず、薄暗がりの中で野茉莉と平吉は二人きりであった。
「えっと……」
数舜見つめあい、ふと平吉が言葉を漏らす。
「……あ、いや! 鼻緒、ありがとうございます!」
「いやこちらこそありがとうございます」
「え?」
「あれ?」
「ふふ、なんで平吉さんまでお礼言うんですか」
「それも、そうやな」
奇妙なやり取りの後、二人はどちらからでもなく笑いだす。からからと笑う平吉と、口元を隠しながらも肩を震わせて笑う野茉莉。穏やかな時間が流れた。
そして一通り笑った後、おもむろに平吉が口火を切った。
「野茉莉さん」
「はい……どうしました?」
気が付けば平吉はいつになく真剣な顔をしていた。提灯の揺らめく火が照らすその顔は、いつもとは違う雰囲気を醸し出している。
自然と野茉莉も真面目な顔になっていた。口を引き結び、平吉の目を見つめる。
「野茉莉さん。これを、受け取ってほしい」
「えっと、これは」
それは小さな指輪であった。ただ普通の指輪と違うのは、それが木彫りの細工であるということである。
「俺が彫った、木彫りの指輪です。今持てる俺の技を使って、心を込めて彫った指輪、です」
「ありがとう、ございます。……きれい」
細やかな模様が彫られたそれは、生半可な技術では到底彫れないことがわかる一品。それも当代秋津の一番弟子が持てる技を詰め込んで作ったそれは、師の彫るそれと遜色ない出来。
「野茉莉さん、西洋では想い人に指輪を贈る習慣があります」
「え……それって」
「俺は、宇津木平吉は、葛野野茉莉さんに結婚を前提にお付き合いをしてほしい」
そして、平吉は自らの思いを告げた。
※ ※
「それじゃ、また」
「はい、また」
二人は鬼そばに嫌に静かに帰ってきた。とはいっても、それは気まずい沈黙というよりは、なすべきをなしたが故の沈黙か。平吉はすっきちとした顔で、野茉莉はどこかもじもじとうつむいて帰ってきたものの、別れの挨拶はしっかりと。
「ほな行こかな。甚夜、野茉莉ちゃんもおやすみ」
「おう」
「はい、おやすみなさい」
子弟の足取りは軽やかだ。嬉しそうに肩を組む染吾郎の横顔は、今までに見たことがないくらい嬉しそうで。そしてそれに応える平吉は一皮むけた男の顔をしていた。その後ろ姿はまるで実の親子のようだ。いや、それ以上のものがあるだろう。血以上のつながりをにじませながら、二人は月明かりに照らされながら歩んでいく。
それを見送りながら横目に野茉莉を見やれば、髪の隙間からほんのりと上気した顔が見える。
「野茉莉、夏でも夜は冷える。入ろう」
「うん、父様」
がらりと戸を閉めて店内に戻り、二人はそのまま居間へと向かう。その間二人は無言であったが、野茉莉はそわそわとしている。
そんな様子を横目に見つつ、甚夜はさてどうしたものかと思いにふけっているうちに野茉莉が甚夜に声をかける。
「父様、お茶入れるから、おはなし、しない?」
「そうだな。祭りの話でも聞かせてくれ」
「うん……」
いそいそとお茶を入れて戻ってくる野茉莉から湯飲みを受け取りながら卓に座り、甚夜はそれを一口すする。そして野茉莉はそんな甚夜の対面に座り、買ってきた土産を渡しながら祭りの話を始めた。
どこか懐かしい風景を思い浮かべつつ、甚夜は野茉莉の話に相槌を打つ。露店で買った商品のこと、染吾郎の品だというそれを丹念に品定めする平吉の話、一緒に食べた縁日のお菓子がおいしかったこと。そのどれもが、甚夜の古い思い出を優しく刺激する。
「そうか。楽しんできたんだな」
「とっても楽しかったよ」
「それはよかった。宇津木に任せて正解だったな」
「うん……父様」
一通り話し終え、お茶のお代わりをもらいながら甚夜は娘に視線をやる。
「どうした」
野茉莉は一呼吸おいて、そして告げた。
「私、平吉さんに交際を申し込まれました。結婚を前提にって」
そういいながら、彼女は平吉から贈られた指輪を卓に置いた。
その一言に、甚夜はふっと笑みを落とす。
ついに、来たか。
「そうか」
「うん。受けて、いいのかなって」
しかし帰ってきた言葉は意外なもの。逡巡を意味していた。しかし甚夜は柔らかな表情で先を促す。
「私、平吉さんのこと、確かに好き。でもそれって友人としてだと思ってた。思ってたんだけど、お祭りで見る平吉さんはいつもと違くて……でもそれは悪い意味じゃないの。かっこよかったし、私がこけそうになった時も助けてくれたの」
「そうか」
「うん。でもね、私、この話を受けたら、今までと、みんなの関係が変わっちゃうんじゃないかって。……少しだけ怖い。もちろん驚いたし、それに……嬉しかった。でも怖いの。これで平吉さんとお付き合いして、そして結婚して。でもそうしたら、私はもう父様の」
「野茉莉」
少しばかり感情が乱れている野茉莉を遮るように甚夜は声をかけた。
変わるのは怖い。そう言ってくれた娘に、この一瞬でどれほど甚夜は嬉しくなっただろうか。言葉にするのは、無理というものだろう。
しかしそれはいけない。変わることを恐れる。確かにわかる。だが、
「野茉莉、変わるのを怖がって立ち止まってはいけないよ」
「父様……」
「いいかい、人は変わる。成長し、学び、出来ることが増え、為すべきことが増え……それはとても忙しくて、また恐ろしいことだ。人の生というのは決して短くはなく、それでいて一瞬で過ぎ去るものだ。そしてふと振り返った時、あの時こうしていれば、もしこうしていたらと思うことも多々あるだろう。
それは誰もが通る道で、誰もが成してきたことだ。宇津木はその覚悟をもって、一歩を踏み出した。一人の男として、そして一人の人間としてだ
野茉莉、私は君の親であり、しかし鬼だ。変わらねばならぬ時に道を違えた落伍者だ。そんな私の元で、貴女はこんなにも美しく育ってくれた。鬼でありながら野茉莉のような娘を持てたことを私は誇らしく思う。だからこそ、野茉莉には変わらねばならぬ時を違えないでほしい」
優しい言葉は自然と野茉莉の心をほぐしていく。立ち止まり、その場で揺蕩ってしまいたいときもあるだろう。
でもそれが続いてしまうようでは、縛ってしまうようではよくない。甚夜は育ち続ける一凛の花に、せめて凍り付かないでくれと思いを伝える。
「でも、私はまだ、父様と……まだ娘としても、母様としても、まだまだ……傍に」
頬を伝う雫が一つ、また一つとその桜色の頬を零れていく。優しく育ってくれた。それが何よりも嬉しくて、甚夜は野茉莉の涙を掬う。
「野茉莉。変わってしまっても、変わらないものもある。たとえ君が私の元から巣立っても、それが永遠の別れではない。会おうと思えば、またいつでも会える。私は野茉莉がその尊い人生を歩き続け、いや歩き終えてからも、野茉莉の家族だ。
……ありがとう、野茉莉。こんなに醜く堕ちた私を、一人の親にしてくれてありがとう。そして、私に母のぬくもりを教えてくれて、ありがとう」
「とう、さま……」
「私も寂しいし、怖い。こんなに怖いと思ったのは初めてだ。だが、鬼に縛られて人の君が立ち止まってはいけない。何より立ち止まってしまった私が、少しでも前に進めるように野茉莉には私の前で、こんな私を引っ張っていってほしい。……私は、野茉莉の親としても、子としても、君には心から幸せになってほしいと思っているんだ」
そして野茉莉は大粒の涙を零しながら―――それでいて美しい花のような笑顔で甚夜の胸に飛び込んだ。
「と、さま……とう、さま……!」
「ありがとう。私にはもう涙は流せないけれど、そんな私の分まで泣いてくれて、ありがとう。だからどうか、幸せになってくれ」
「わた、しこそ……、とうさまの、娘にして、くれて、ありがとう……」
長く生きた。憎しみにまみれ、立ち止まり、ただ力が欲しかった。すべてを切り捨てても力があればいいと思っていた。だが、その道すがら様々な余分を知り、いつしかそれが本当に、本当に大切だと心から思えるようになった。そしてそれを時に自らの手で失い、苦悩もした。自らの弱さに打ちのめされ、それでもその弱さを愛おしいと思えた。
親子はそれから、長い間互いの体を抱きしめ過ごした。
それからは目まぐるしかった。いざ二人が付き合えば、それはそれで寂しいのが親心というもの。もっぱら何かあれば甚夜と染吾郎にしばかれるのは平吉ではあったが、それでも二人は順調に交際し、そして結ばれた。
葛野野茉莉は宇津木野茉莉となり、彼女の薬指には鮮やかな木細工の指輪が嵌められている。鬼そばは鉄面皮の親父が一人で切り盛りしているが、常連から看板娘がいねーとさびしいやい! と言われるのが新たな習慣になった。
そんな鬼そばにも、小さな子供を抱えた野茉莉が訪れるようになった。前よりも一層にぎやかになった鬼そばは、かつての江戸の思い出の場所を彷彿とさせるようになった。やいのやいのと騒ぐ孫相手に甚夜は優しく微笑み、ひげを引っ張られながらも染吾郎はにやけ面を隠さない。
野茉莉と平吉はそんな子たちを抱え上げ、常連たちに騒がしくてごめんなさいねと言えば、常連たちも温かく笑う。
そんな一時の平和が、かけがえのない思い出として刻まれていくのだ。
※ ※
それはひと時の夢、ひと時の幻
※ ※
「ああ、そんなことがあったら良かったよ、夕凪」
「久しぶりだね、甚太」
そしていつしか、思い出の河川敷へと再び舞い戻る。甚夜はいつしかの浪人姿に。傍らには、金糸をあしらった派手な赤い着物を着崩した花魁風の女―――夕凪がいた。
「<空言>、か。たしかにあれは空言だよ、夕凪」
「……お節介、だったかな」
「過分にな」
しおらしくつぶやく夕凪に、甚夜はそっけなく返す。しかしその顔は穏やかで、愛おしいものを抱きしめている父親のようだった。
「どうして今になって」
「あんたが、もし幸せじゃなかったら。もう一度やり直したいと思ってんなら……せめて幻くらいは見せてやりたかった。それじゃあ駄目かい?」
「天邪鬼が嫌に素直じゃないか」
「別に。ちょっとした気まぐれだよ。あんたが見たかった景色から覚めたら、少しは驚いた顔するかなって」
嘘ばかりだ。夕凪は、夕凪の<力>は甚夜の中で彼の苦悩を見つめていた。それでも天邪鬼な彼女は、すぐには浮かび上がってこない。だからこれはふとした瞬間にしてやった悪戯だと。そんなのは嘘八百もいいところだろう。
「お前が野茉莉をだしに嫌がらせなんて、するわけがないだろう」
「ふん、買い被りだよ。私は子供が嫌いなんだ」
そう言った夕凪の横顔は、惚れ惚れするほどの笑顔だ。まるで家族を慈しむ母親のように。
「甚太」
「なんだ」
「もしかしたら……こういうこともあったかもしれない。それを見せたのは、私の自己満足で、酷だったかもしれない」
そんな訳あるものか。この未来を、一時でも見れただけで幸せだった。
もう終わってしまって、甚夜なりにケジメもつけて。それでも夕凪がこれを見せたというのなら、もしかしたらまだ心残りがあったのかもしれない。
「それでも、そういう夢を見るくらい悪くないさ」
「そっか……さて、今度こそ行くよ」
「ああ」
ふわりと立ち上がり、夕凪は歩き出す。いつの間にか景色は紅の河川敷から、宵の江戸へと変わっていた。
「夕凪」
「なんだい」
「それでも、あの子は俺の娘で、お前の娘で……幸せなオシロイバナだったよ」
それを聞いた夕凪は、今度こそ振り返らない。優雅に手をひらりと振ると人ごみに消えていった
―――さようなら
それはどちらの口から洩れたものだったのか、薄れゆく甚夜の意識では判断がつかなかった。
※ ※
それは人時の夢、人時の幻。
優しい嘘つきの、臆病な天邪鬼の、精いっぱいの勇気。
※ ※
「甚夜、居眠りなんて珍しいね」
「……みやか、か」
「お昼食べいこう?」
目を覚ませば、そこはすっかり見慣れた教室の机であった。どうやら盛大に居眠りをしてしまったらしい。
まったく。悪戯といえば、確かにそうだ。学生の本分を疎かにさせるなど罪深い女である。
「どうしたの?」
「いいや。夢を見ていたのさ、とてもいい夢をな」
そう言って甚夜は立ち上がり、呆けて立ちどまっているみやかを促す。
「さあ、昼時だぞ。ぼさっとしていては時間が無くなる」
「あ、ちょっと……あんな顔、初めて見た」
「どしたのみやかちゃん?」
「あ、薫。みた、今の甚夜の顔」
「うん、見た」
そして二人は声をそろえて言うのだ。
あんなにやけた顔初めて見た、と。
『平和に微睡む人時の夢』・了