激しい火花が、何度も散っている。
ぶつかり合う牙と爪は、金属音にも似た激突音を響かせ、ジム内の空気を震わせている。フィールド上。睨み合う二体のポケモンと、相対する二人のトレーナー。観覧席には、人は多くなかった。もう夕刻だ。本日のソウリュウジムの、ラストバトルだった。
「エンブオー、ニトロチャージ!」
ジム入り口側、挑戦者である少年が、相棒のエンブオーに指示を飛ばす。オーダーを受けたエンブオーが、巨体を屈めて突進態勢に入る。重量級のエンブオーの体重全てを乗せた「ニトロチャージ」は、綺麗に決まればバトルの主導権を一気に握れる技だが、直線的で読みやすい技でもあった。つまり、逆撃のリスクが高い。
「受け止めろ、フライゴン」
指示は短く、淡々と。おれはおれなりのバトルの流儀に則り、エンブオーと相対するフライゴンに告げる。フライゴンは落ち着いて、エンブオーを正面から見据える。身構える姿勢に、動揺はない。不安要素は見当たらない。
一瞬の間、そして、撃発。
ぎりぎりまで下半身に力を溜めたエンブオーが、フィールドを砕く勢いでフライゴンに向けて吶喊する。直後に、激突。エンブオーの体重を全身で受け止めるフライゴン。流石に数歩分、押し込まれるが、ダメージは想定内に抑え込んでいる。十分に、及第点だ。
「逃すな、そのままドラゴンテール」
「なっ! エンブオー、避けろ!」
遅れて意図を悟った挑戦者が声を張り上げるが、エンブオーの体重にこのゼロ距離では、回避は無謀というものだった。逆撃のドラゴンテールがエンブオーの脇腹を薙ぎ払い、そのまま大きく吹き飛ばす。内壁に叩きつけられるエンブオー。轟音がジム全体を揺らし、巨体はぐらりと頽れた。
「エンブオー、戦闘不能。よって勝者、ジムトレーナーのアマモ」
その日最後の挑戦者が、頭を下げた。
ソウリュウシティは、イッシュ地方の北部に位置する都市である。伝統的な石造りの建造物が立ち並ぶ街並みは、イッシュ地方最古の都市にふさわしい貫禄を感じさせ、人々を時代の変遷や流行から守っているようでもある。
時間がゆっくり流れる街。それが、二年前に初めてこの都市を訪れたおれが最初に抱いた印象だった。
日は、すでに暮れていた。本日の挑戦スケジュールを全て消化し、ソウリュウジムはすでに終業時間に入っている。今日の挑戦者の中には、ジムリーダーのアイリスにまでたどり着いたトレーナーはひとりもいなかった。最近の挑戦者は、どうにも歯応えがなくていけない。最後の、エンブオーを相棒としていたトレーナーにしても、ソウリュウジム以外の七つのバッジを集めたと言っていたが、バトルの腕は洗練されているとは言えなかった。七つのバッジは全て、パワープレイで手に入れてきたものなのだろう。期待外れと言わざるを得なかった。思わず、ため息を漏らす。
「おつかれー!」
と、ノックもなく休憩室のドアが開いて、能天気な声が室内に響き渡る。入室してきたのは、褐色の肌とボリュームのある長髪が特徴的な少女。このソウリュウジムのジムリーダーである、アイリスだった。
「あれ、アマモだけ?他のみんなは?」
「ジムの後片付けをしてるよ。おれはバトルの後だから休んでていいって言ってくれた」
「ああ、今日の最後の挑戦者はアマモが相手をしたんだっけ。結果は?」
「36点。日を改めてお越しください」
「ええー、またあ?」
唇を尖らせてあからさまに不満を露わにするアイリス。挑戦者を追い返したおれへ、糾弾の視線を送ってくる。
「アマモはさあ、ちょっと挑戦者に厳しすぎるところがあるよねえ。アマモの基準で挑戦者を追い返し続けてたら、しまいにはソウリュウジムに挑戦者が来なくなっちゃいそうだよ」
「今日の相手はバッジを七つ保有していた。うちを取れば八つ目だ。つまり、ポケモンリーグへの挑戦資格を手に入れることになる。生半な判定はできない」
「そうかもしれないけどさあ、でも、アマモの場合はバッジを持っていないトレーナー相手でも厳しくするじゃん」
「ジムトレーナーを倒すのが難しいのは当たり前だ。ジムバッジはそんなに軽いものじゃないだろう」
「むう、限度ってものがあると思うけどなあ」
ぐちぐちと不満を溢すアイリス。これは、いつものやり取りだ。ジムリーダーとして、挑戦者を迎え撃つことに喜びを感じているアイリスは、なるべく多くの挑戦者に自分の元まで辿り着いて欲しいと思っている。だから、ジムトレーナーとして挑戦者を厳正に判定するおれのスタイルをたびたび批判する。とは言っても、ほとんど口だけの批判で、本気で改善を要求しているわけではない。じゃれあいのようなものだった。
「じゃあさ、挑戦者が来ない分、責任取ってアマモが相手してよ」
「……」
この流れも、いつも通りだ。暇を持て余した我らがジムリーダーは、ジムトレーナーに溜まったストレスをぶつけようとする非常に凶暴な習性を持っている。わざとらしく「責任」などという言葉を使ってはいるが、バトルをするための口実が欲しいだけで、必要とあらば言いがかりをつけてでもバトルに持ち込む。ソウリュウジムのおてんば姫ことアイリスは、そういう少女だった。
例えお遊びのようなバトルでも、アイリスの相手が務まるトレーナーは、イッシュ地方屈指の規模を誇るこのソウリュウジムにもそうはいない。大抵は、おれを含めて二、三人のトレーナーがターゲットに選ばれる。今日はそのお鉢が、おれに回ってきたようだ。
「仕方ない、わかった。ただし使用ポケモンは一体だけだ。手短に済まそう」
「やったー!」
短い休憩だった。後片付け中の同僚に、少し時間を延ばしてもらわなくてはなるまい。おれは苦笑しつつ、椅子から立ち上がった。
おれとアイリスがバトルを終えて、ようやく今日のソウリュウジムは解散と相なった。同僚と挨拶を交わして、それぞれの帰路に着く。すっかり日は暮れて、街には街灯が点いている。シャガ市長の家までアイリスを送っていくのは、話の流れでおれの役目ということになった。いくらジムリーダーと言えども、アイリスとてうら若い乙女である。それなりの気遣いはマナーの範囲だった。
人通りの少ない夜のソウリュウシティを、アイリスと二人で並んで歩いていく。
しばらく、会話はなかった。バトルを終えたあたりから、アイリスの様子が何か変だ、ということには気付いていた。バトルの内容に不満があったわけではないと思う。お互いに全身全霊で戦ったわけではないが、緊迫したいい勝負だった。アイリスも満足した筈だ。
何か、アイリスの中で懸念材料があるのか。おれは横目でちらちら顔色を伺いながら、ぐるぐると考えを巡らせていた。
「アマモはさ」
唐突に、アイリスが口を開いた。視線は地面に向けられたまま。口調になんとも言えない真剣さを感じて、おれは心の中で身構える。
「アローラからひとりで旅をしてきたんだよね」
「あ、ああ……」
おれは返事をしたが、会話の行先が見えないせいで、語尾が弱々しくなった。
「寂しくなかったの? ひとりで」
「いや、ひとりと言っても、ポケモンは一緒だったし、旅には出会いもあったからな。ホームシックに陥ってどうしようもなくなる、ということはなかったよ」
「そっか……」
なんだ、この違和感は。胸の中がむずむずするような感覚に襲われ、おれは無意識に少しだけ身をよじらせる。
「実はさ」
シャガ市長の自宅まであと数十メートルというところだった。アイリスは足を止めて、こちらを見ていた。
「私ね、旅に出ようと思ってるの。ジムリーダーを辞めて、ひとりでイッシュ地方を巡ろうと思ってる」
おれは頭で考えるよりも先に、反対の言葉を口にしていた。
「それはだめだろ」
胸の内で沸騰した焦りが、吹きこぼれたかのような言葉だった。おれの返答を聞いて、アイリスはきょとんとしていた。おれも同じくらい、呆気に取られていたと思う。
「なんで?」
心底不思議そうにそう尋ねたアイリスに、おれは少し考えたあと、最もらしい理由をこじつけた。
「ジムリーダーがジムを放棄してのんきに一人旅なんて、そんな無責任が許されるとは思えない」
「のんき」とか「無責任」というワードに反応したのだろう。アイリスは唇を尖らせて言う。
「もちろん、やらなきゃいけないことはちゃんとやってから出ていくつもりだよ」
「そういうことじゃない。ジムリーダーの後任なんて、簡単に見つかるわけないと言ってるんだ」
ポケモンジムは、ポケモンリーグ直轄のトレーナー育成機関である。ジムの長であるジムリーダーはジムトレーナーたちを教導する立場であり、ジムバッジを求めるトレーナーに対しては試験官の役割も果たし、さらにはその街の保安官としての役割も兼ねる重要な役職である。ゆえに当然のことだが、ジムリーダーは職を辞するとき、後任のジムリーダーを指名する必要がある。とはいえ、ジムリーダーとしてふさわしい資質を備えたポケモントレーナーは、そう多くいるわけではない。だから老齢のジムリーダーの多くは、あらかじめ引退に備えて若い後継者を育成しておく。滞りなくジムを運営するための、一種の慣習のようなものだった。その辺りの事情は、アイリスもよく理解しているはずだ。なにせ、前ジムリーダーであるシャガ市長が後継者として育てたトレーナーこそ、アイリスなのだから。
「それはもうおじいちゃんに相談したもん。そうしたらおじいちゃん、しばらく代理ジムリーダーを引き受けてもいいって言ってくれたよ」
前ジムリーダーのシャガ市長を、アイリスは「おじいちゃん」と呼んでいる。血の繋がりは無く、あくまで師弟関係だそうだが、二人には家族同然の絆があった。おれは漠然と、おれと養父と似たような関係なのかもしれない、と想像していた。シャガ市長からしてみれば、アイリスは孫娘のようなものだ。おねだりをされて、断りきれなかったのかもしれない。
「……旅に出て、何をするんだよ」
「ジムを巡って、いろんな人とバトルをするの。新しいポケモンと出会って、仲間を増やして、それで、ポケモンリーグに挑戦する。――私、イッシュ地方のチャンピオンになるの」
チャンピオン。ポケモントレーナーたちの頂点。この地方で最も偉大なポケモントレーナーの称号。
「私、生まれは竜の里で、幼い頃におじいちゃんに連れてこられてソウリュウシティまで来たけど、あんまり街の外には出たこと無かったんだ。旅行って言っても大抵はジムの人とかが一緒についてきてくれてたし、整備された道を自動車で走るくらいで。だから、誰の手も借りずに一人で自分の力を試してみたいってずっと思ってたの」
夢を語るアイリスの目には、一人旅への憧れがありありと浮かんでいる。旅先で出会う新たな仲間や、避けがたい困難、そして孤独でさえも、アイリスは望んでいるように見えた。これまでに何度も見た目だ。おれが旅の話をしているとき、彼女はいつもこうやって目をきらきらさせながら聞いていた。
ああ、これはだめだ。おれはソウリュウジムでジムトレーナーとして過ごした二年間の経験から悟る。こうなったアイリスは止められない。一度こうと決めたアイリスは、絶対に自分の意思を曲げない。おれや他のジムトレーナーが、後から翻意させられた試しは一度も無い。アイリスの中で、旅に出ることはすでに決定事項なのだ。
そう認識した途端、おれの中でまたしても焦燥感が膨れ上がった。おれの中に、アイリスがいなくなることをどうしても受け入れられない自分がいる。何としても止めなくてはならない。理由も分からず、その気持ちだけが暴走しているようだった。
「ジムトレーナーのみんなはどうする。後任の目処が立ったからって、みんなの了承を得ないままに出ていくつもりか? それとも、ジムトレーナーはジムリーダーの部下だから許可を取る必要はないってことか?」
「そんなわけないじゃん。ちゃんとみんなとも話をしてから行くよ」
「でも、お前はすでに心を決めているだろう。自分ひとりで決めて、後から了承を取ればいいというのは、考えが勝手すぎるんじゃないのか」
流石に罪悪感が刺激されたのか、アイリスがぐっと押し黙った。
「……でも、もう決めたことだよ」
俯いたままで、アイリスは言う。その言葉は頑なで、おれの反論など受け付けないと決め込んでいるようだった。もう何を言っても無駄な気がして、おれは脱力感に襲われた。
「このことを、他に知ってる人は?」
「おじいちゃんだけ。他のみんなにはまだ話してない」
「なんで最初がおれだったんだ?」
アイリスはすぐには答えなかった。どう答えるのが最も無難なのかを、模索しているようだった。しかし、答えは出なかったのか、やがて諦めたように口を開いた。
「……アマモなら、応援してくれると思ったから」
残念に思う気持ちや、恨めしさや、失望が、複雑に混じり合った声音だった。アイリスがなぜそう思ったのか、おれには理解できなかったが、おれの行動がアイリスの期待を大きく裏切ってしまったことだけは、はっきりと分かった
「悪かったな。ご期待に添えなくてよ」
思わず吐き捨てた台詞は、自分でも予想外なほどに皮肉っぽくなっていた。誤って人を傷つけてしまったときのような冷ややかさが、背筋を貫く。おれはアイリスの表情を確かめるのが怖くなって、彼女に背を向けた。そして、逃げるようにその場をあとにした。
イッシュ地方でジムトレーナーになる前、おれは旅をしていた。各地の強豪トレーナーを訪ねては道場破りまがいのことを繰り返す、流浪のポケモントレーナーだった。故郷のアローラ地方を出てから、相棒のジャラランガとともに、たくさんのトレーナーと戦った。バトルは勝つことも負けることもあった。めっぽう強いトレーナーと出会えたときには、頼み込んで弟子入りのようなことをしたこともある。ただ、ソウリュウジムに来るまでは一ヶ所に長期間留まったことはない。気の合う友人や、心地の良い環境に恵まれても、しばらくすると心の中に靄のような違和感が生まれて、自分が何か間違ったことをしているような気持ちになったからだ。今の自分は時間を浪費しているばかりで目的に近づけていない。そんな感覚に突き動かされて、衝動的に旅に戻る。そういうことの繰り返しだった。
目的というのは、父親の遺志を継ぐことだ。と言っても、血の繋がった父親ではない。おれの養父になってくれた人のことだ。おれは幼い頃に両親に先立たれて、引き取り手のいない状態だった。親戚もおらず、一緒にいてくれるのは、初めて捕まえたポケモンであるジャラコだけ。そんなおれの前に現れたのが、ポニ島で島キングの役職についていた、おれの養父だった。
「今日からここがお前の家になる。ワシがお前の父親じゃ。ワシには孫娘が一人おる。ハプウという名前じゃが、お前とは年も近い。妹だと思って接したらいいじゃろう」
養父はどこにも行く当ての無かったおれとジャラコを引き取り、面倒を見てくれた。実の孫と同様に可愛がり、しかも甘やかすばかりではなく、厳しく鍛え上げてもくれた。
「強くなれ。強さは船じゃ。それさえあれば、どんな荒波も乗り越えられるようになるぞ」
ポニ島の中で一番強いポケモントレーナーだった島キングは、そう言っておれとジャラコのコンビを徹底的にしごいた。島キングの鍛錬は良く言っても大雑把で、悪く言えば野蛮で前時代的で効率性に欠けるものだったが、おかげでおれとジャラコのバトルの腕はめきめきと上達し、同年代ではほとんど敵なしになった。
鍛錬中、島キングはことあるごとに、人とポケモンの関係が生み出す強さについて語った。
「最上は、人がポケモンの強さを引き出し、ポケモンもまた人の強さを引き出すという相乗関係じゃろう。それこそ最も理想的な人とポケモンの関係なのじゃ。ワシは若い頃、ポケモンと長い時間を共に過ごし、共に戦うことでその理想に近づこうとした。いくつもの修羅場を潜り抜け、限りなくその理想に近づいたと自負しておるが、同時に、完全には理想を達成できなかったという思いもある」
この話をするときの養父はいつも少しだけ寂しそうで、弱々しい感じがした。おれは強くて豪快な養父のことが好きだったから、養父には暗い顔をさせたくなかった。
「ワシはな、アマモ。もしお前にその気があれば、お前にその理想を継いで欲しいと思っている。どうじゃ?」
「継ぐよ。じいちゃんの理想は、おれが叶える」
おれはよく考えもせずに、いつもそう返事をした。養父にはいつも通り元気でいて欲しい。その一心から発した言葉だったが、何度も繰り返すうちにその言葉はおれの中に浸透し、おれはやがて、養父のためだけでなく自分のために、この理想を叶えたいと思うようになっていった。養父が病気がちになり、鍛錬を一人で行うようになっても、理想は消えるどころかますます強くなっていった。
ジャラランガと一緒に強くなりたい。そのために、もっとたくさんの強いポケモントレーナーと戦いたい。アローラの中だけじゃない。世界中のポケモントレーナーとバトルをしてみたい。
「お前の素直な気持ちに従いなさい」
死の間際、養父はおれにそう言った。
「ハプウのことは、ポニ島の住民がよくしてくれるじゃろう。お前はお前のやりたいことをしなさい。そのための強さは、もう十分身についているはずじゃ」
ぼろぼろと涙を零しながら返事をしたおれに、養父はにっこりと笑った。
アローラを出て、カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウの名だたるトレーナーたちを訪ねた。強力な野生のポケモンが棲まう区域に進んで足を運び、艱難辛苦を乗り越えた。
そして、二年前。
おれはソウリュウシティを訪れていた。
しばらく、ジムでアイリスと会えない日が続いた。
アイリスの退任までまだ時間はある。そう自分に言い聞かせながら、おれはなんとかアイリスを説得するつもりでいたが、アイリスの方はおれをまだ避けているようだった。喧嘩別れのようになってしまったあの日の夜のことをまだ引きずっているのだろう。あれは完全にこちらの過失なので、アイリスを責めることはできなかった。ただ、アイリスを本気で翻意させようと思うなら、わずかな時間も惜しかった。おれはアイリスをなんとか捕まえようとして、アイリスはおれから逃げ回る。そんな状況が、数日間も続いていた。
そんな最中、おれはシャガ市長から呼び出しを受けた。元ジムリーダーとはいえ、現在はジムの仕事に関わっていないシャガ市長が、ジムの職員を直接呼び出すというのは珍しいことだ。おれは訝しく思いながら、呼び出しに応じて市長室へと赴き、そこで予想外の人物と顔を合わせた。
「久しぶりだね、アマモ」
ヒョロ長い体躯の上に白衣を羽織った、ボサボサ髪の青年。全く見覚えのないシルエットにしばし固まったおれだったが、やがてその柔和な笑顔の中に知己の面影を見出した。
「お前、ヒイラギか。見違えたな」
「おお、よかった。思い出してくれなかったらどうしようかと」
手を差し出して、自然な流れで握手をする。
ヒイラギは、アローラにいた頃のおれの友人だ。住んでいた島は違ったが、よく一緒に遊んだ仲だった。事情があっておれが旅に出る直前の数年間は関係が疎遠になっていたが、それでもおれにとってはアローラで最も関係の深い間柄だった。
「驚いたよ、アマモ。こんなところで君に会うことになるなんて」
「ああ、今はソウリュウジムでジムトレーナーをしているんだ。お前はなんでこの街に?」
「研究発表会さ」
予想外の答えに、おれはぎょっとした。
「お前、ポケモン博士になったのか?」
「まだ見習いだよ。ククイ博士っていただろ?あの人のお付きで来ているだけなんだ」
ククイ博士というのはメレメレ島の外れで研究所という名のあばら家を建てて日夜ポケモンの研究に励んでいる学者だったはずだ。面識はないが、変人の噂はアローラではすぐに拡散するので、存在自体は知っていた。
「それで、今日はどういう?」
おれは待ってくれていたシャガ市長に本題を切り出した。
「うむ、実は、ヒイラギくんの依頼で修行の岩屋を解放することになってな」
修行の岩屋というのは、ソウリュウシティの西に位置する天然の洞窟だ。人の生活圏にほど近い場所に位置するわりに強力な野生のポケモンが出没する危険地帯であり、そのためソウリュウジムの管理下に置かれている。リーグトレーナーでもない限り一般人が単独で入ることは許されておらず、入るとしたらジムトレーナーが護衛としてつくことになる。
「三日間泊まりがけの研究調査だ。岩屋に入る研究者はこのヒイラギくんのみ。アマモには、その護衛についてもらおうと思っている」
おれは顔を顰めそうになるのを、努めて堪えなければならなかった。アイリスの出発の日までもう時間がない。少しでも時間が惜しいこのときに、三日間もジムから離れた場所で過ごさなくてはならない、というのは正直に言って辞退したい話だった。しかし、ヒイラギはおれの古い友人であり、ジムトレーナーの中で誰が護衛につくのが最も適しているかを考えれば、「嫌です」とは言えなかった。
「……分かりました。調査は明日から?」
「そうだよ。キャンプの道具は自前のを持ってきているから、最低限の用意だけしてきてくれ」
予定を確認した後、頭を下げて市長室を辞去する。
部屋を出た後で、そういえば、と疑問に思ったことがあった。シャガ市長は、おれとヒイラギが旧知であることを、事前に知っていたのだろうか。可能性がないこともないが、確率は低い気がした。互いに初対面のはずの二人だ。軽い雑談から、おれという隠れた共通の知り合いを探り当てるのは困難のはず。
だとすると、もしかしたらシャガ市長がおれを呼び出したのは、アイリスとの関係がぎくしゃくしていることを気遣ったからなのかもしれない。
仮にその通りなら申し訳ないな。おれは思わずため息をついて、また廊下を歩き出した。
おれがヒイラギと出会ったのは、メレメレ島の南東の砂浜だった。メレメレ海と呼ばれているその場所は、高レベルのポケモンがあまり出現しない比較的安全なエリアであり、子供たちだけで行ける格好の遊び場になっていた。何人もの子供たちが仲良し同士で集まってポケモンを戦わせたり海で泳いだりしている中で、ヒイラギはたった一人で自分のポケモンと向き合って、何やら真剣にノートを取っていた。おれはその様が珍しく、またその当時はメレメレ島に特別仲のいい知り合いがいなかったのもあって、ヒイラギに声をかけた。
「それ、何書いてんの?」
「誰だ、君は?」
「おれ、アマモ。ポニ島のアマモ」
「僕はヒイラギだ。このノートは育成計画が書いてある」
「いくせいけいかく」
「そうだ。僕の相棒のイワンコを、このアローラで一番強いルガルガンに育てるための計画書さ」
「へええ」
鼻高々にノートを掲げて見せたヒイラギの様子が面白く、おれはヒイラギにちょっかいをかけることにした。
「アローラで一番強いってことは、ライチさんよりも強くなるってこと?」
「当たり前だ」
「でも、ライチさんは島クイーンだよ? カプ神に認められた、アーカラ島一番の実力者」
おれは毎日の特訓で島キングの実力を身に染みて理解していたので、同等の実力を持つライチさんに勝つことが、どれほど困難なことかを分かっていた。
「今はそうだ。でも、未来はどうなるかわからない」
ふんすと鼻息を鳴らして、ヒイラギはそう言い切った。言っていることは正しいが、正しいことを言い切ることは決して容易なことではない。おれはますます、ヒイラギに興味を持った。
「それなら、特訓しなきゃだね」
「特訓?」
「そうそう。おれもポケモンを持っている。君のイワンコと戦わせて、経験を積むんだ。そうしたら、おれもヒイラギも両方強くなれる」
「なるほどな、いいんじゃないか。ただし、特訓の内容はおれの計画通りにしてもらうぞ!」
「バトルができるならなんでもいいよ」
そうして、おれに初めての友達と新しい日課ができた。夕方あまり遅くまで外にいると両親が心配するとヒイラギが言ったので、特訓は早朝にメレメレ島で行うことになった。おれは毎朝、メレメレ島まで出かけて行って、ヒイラギとバトルをする。
特訓は、おれとヒイラギが出会った南東の浜辺ではなく、北東のカーラエ湾という所で行った。海繋ぎの洞窟という洞窟を抜けて行かなければ辿り着けないカーラエ湾は、「特訓」にふさわしい秘匿性を備えていると、おれとヒイラギで合意したからだった。
そうして初まった特訓だったが、予想外なことに、ヒイラギはバトルがめっぽう弱かった。いや、ヒイラギはおれとしかバトルをしていなかったので、客観的に弱かったのかどうかはわからないが、とにかくおれとヒイラギに限れば、戦績は大きくおれの方に傾いていた。
「ちくしょー!なぜだ、なぜ勝てない!」
毎日負け続けても、ヒイラギは諦めなかった。几帳面にノートに敗因の分析を書き込み、対策を立てる。メレメレ島にあるポケモンスクールに顔を出して、教師に質問をして新たな知識をつけ、それを生かした作戦を立てる。そうすると、少し勝率が上がる。しかし、おれが新しい作戦に慣れてくると、勝敗の天秤はまた元の位置に戻る。そういうことの繰り返しだった。
「ふうむ、この作戦はここがダメだったのかもしれないな。イワンコの能力を生かしきれていない。そもそもアマモのジャラコは防御が硬いんだから……」
足を止めて殴り合いをするよりもイワンコの敏捷を生かしたヒットアンドアウェイでうんぬんかんぬん。
ぶつぶつと独り言を呟きながら怒濤の勢いでノートを埋めていくヒイラギは、そばで見ているとすごい迫力で、ヒイラギのバトルに対する情熱が伝わってきた。当時はまだ島キングの夢を継いでおらず、バトルをするのもヒイラギほど一生懸命ではなかったおれは、ヒイラギに聞いたことがあった。
「なんでそこまでやるの?」
「なんでってなんだ」
「いや、普通さ、そこまで一生懸命やらないじゃん。毎朝バトルしてるのに全然勝てなくて、それでも勝つための方法を考えてさ。他の人はそこまでやらないでしょ」
ヒイラギは少し考え込んでいたが、やがて顔を上げて言った。
「アローラで一番強いトレーナーになろうと思った。だから一生懸命やる。それだけだな」
毎日毎日おれに負け続けても、ヒイラギはやはり言い切った。何が彼をそこまで駆り立てるのか、まだ夢を抱いたことのなかったおれには、理解できなかった。
だからおれは、ヒイラギが特別にすごい人なのだと解釈することにした。ヒイラギは特別強い心を持っていて、夢を叶えるまで諦めない人間で、尊敬すべき人物なのだと。その考えはとてもしっくり来たし、間違いないことのように思われた。いつかきっとヒイラギは、夢を叶える。そのとき、おれはきっと誇らしい気持ちになるだろう。彼の一番近くで応援して、彼と対等に戦い続けたのは自分なのだと。
だけど、特訓の日々はあるとき唐突に終わりを告げた。日課を始めてから、三年目のある日のことだ。いつもと様子が違うヒイラギに連れられて、おれたちはカーラエ湾にやってきた。
「今日は、手加減抜きで戦ってほしい」
「え?」
「ルールはどちらかが戦闘不能になるまで。いつもの組み手じゃない、本当のバトルをしたいんだ」
ヒイラギの目は真剣で、おれは思わず頷いていた。
バトルが始まり、互いの指示が浜辺を飛び交った。ヒイラギのイワンコはすでにルガルガンに、おれのジャラコもジャランゴに進化していた。ヒイラギの気迫はいつも以上に強くて、それに応えておれも夢中でジャランゴを戦わせた。
勝負がついたとき、浜辺に立っていたのはジャランゴの方だった。おれはジャランゴを労い、ヒイラギは倒れ伏すルガルガンに近づいて行った。
「ごめんな、ルガルガン。よく戦ってくれた」
ヒイラギはそう言って、ボールにルガルガンを戻した。
「ヒイラギ、今日は一体」
「アマモ」
どうしたの、と聞こうとしたところだった。
「今までありがとう。明日からは、ここには来なくていいぞ」
「は?」
「特訓は、もうやめにする。いろいろ考えたけど、これが最善だろうと思う」
「え、ちょ、なんで」
「すまない」
ヒイラギはおれに頭を下げて、そのあと急に走り出して去ってしまった。おれは後を追おうとしたけれど、砂浜にヒイラギの特訓ノートが落ちているのを見つけて、足を止めた。
ノートを拾って、表紙を眺める。分厚いノートだ。ヒイラギは几帳面な性格で、ノートの種類は初めて会ったころに使っていたものを一度も変えていなかった。表紙には、「特訓ノート40」と書かれている。四十冊目ということだろう。こんなに分厚いノートを、三十九冊分も埋めてきたのか。そう考えた瞬間、ずっしりとノートの重みが増した気がした。
ノートを開いて、ぱらぱらとめくる。ヒイラギのノートの中身を見たことはなかった。ヒイラギはノートを肌身離さず持ち歩いていたし、特訓をしているとき以外は常に何かを書き込んでいた。覗き見る機会など、これまで一度も無かったのだ。
ノートには、おれとこれまでこなしたバトルの、細かい分析や反省点が詳細に書き込まれていた。弱点を克服し、長所を伸ばすために、自分がどういうトレーニングを積むべきなのか。それがとても具体的に、克明に記録されている。バトルの戦術をプロのトレーナーの著書に学んだり、ルガルガンの潜在能力を引き出すために与える餌についても相当吟味していたらしい。毎朝の特訓以外にも、ヒイラギはおれの知らないところで努力を積み重ねていた。
このノートはきっと、おれが見てはいけないものだった。おれは罪悪感に襲われて、ノートを閉じた。
何がきっかけだったのかは分からない。いつまで経ってもおれとの差が埋まらないことを、苦慮していたのかもしれない。バトルに負けたとき、平静を装っている裏で、死ぬほど悔しがっていたのかもしれない。少しずつ溜まっていった無力感が、前触れもなく破裂してしまったのかもしれない。
ノートの最後のページには、こうあった。
「アマモの才能が羨ましい」。
淡々と努力を積み上げていたヒイラギらしくない、弱気で安直な言葉。いいや、そうではない。これはきっと、心の底から絞り出した本音だったのだ。おれが当たり前に持っているものを、ヒイラギは持っていなかった。おれが当たり前に見ている光景が、ヒイラギにはいくら目をこらしても見えなかった。ヒイラギは三年の特訓の末にそれを悟り、然るのちに夢を諦めたのだ。
このノートをおれに読まれたと知ってしまうことは、きっとヒイラギには屈辱だろう。おれはノートを砂浜に置き、ヒイラギが回収できるようにしておいた。
これ以降、おれとヒイラギは疎遠になり、おれがアローラを出るまでの数年間、顔を合わせることは無かった。あのノートをヒイラギはちゃんと回収できたのか、おれは今でも、その答えを知らない。
翌朝、おれはジムには顔を出さず、直接ヒイラギと合流して修行の岩屋へと向かった。付近にテントを張り、研究調査の準備を整える。
「調査の主目的は、ポケモンの分布の確認なんだ。僕が研究しているのは、各種ポケモンのルーツだからね。現在その地に住み着いているポケモンはもともとはどこから来たのか、それを調べるのが僕の仕事なんだ」
まあ、三日間で調べられることなんてたかが知れているけどね、と、申し訳無さそうにヒイラギは言った。
ジャラランガをボールから出して、修行の岩屋へ入る準備を整える。
「ああ、君のジャランゴ、進化したんだね。もうあれから随分経つもんな。当たり前か」
ヒイラギはそう言うと、自分もモンスターボールを放ってルガルガンを外に出した。
「じゃあ、行こうか」
そうして、探索は始まった。ポケモンはあらゆるところに住み着くため、分布を調べる作業は簡単ではない。洞窟を進みながら、地上、水上、地中とあらゆる場所を調査するヒイラギに同行し、襲いかかってくる野生ポケモンを撃退する。
三日間それを繰り返して、ヒイラギはそれからソウリュウシティを発つらしい。
「研究者も忙しいんだな」
「まあ、まだ自由に自分の研究ができる身ではないからね」
探索中、会話は多くなかった。おれたちが最後に会ってから経過した時間は、おれたちの間から話題という話題を奪い去ってしまっていた。黙々と作業を進めるヒイラギを横目で見ながら、おれは気まずい沈黙にじっと耐えていた。
何を話したらいいだろう。何を話すべきだろう。何を話すことができるのだろう。
ぐるぐるとそんなことを考えているうちに日程はどんどん消化され、ついに三日目の夜になった。明日の朝テントを引き払ってソウリュウシティに戻り、ヒイラギはそのあとすぐにククイ博士と出発する予定になっている。
つまり、ヒイラギと何かを話すとしたら、この時間が最後のチャンスということだった。
おれは焚き火を見つめながら、つい先ほど思いついた「話題」を出すべきかどうか悩んでいた。思いついたときは、聞いてはいけないことだと思った。でも、ここで別れたらこの先いつこれを問う機会が訪れるのだろうと考えると、聞かずに別れるのはもったいない気もした。
焚き火が風に揺れて、おれは話を切り出した。
「なあ」
「うん?」
振り返ってこちらをみるヒイラギの目には、何の負の感情も浮かんでいない。劣等感も、敗北感も、何も。三日間ずっと、そんなものは欠片も見つからなかった。
「どうしてお前は、あのとき『本気のバトルをしてほしい』なんて言ったんだ?」
「あのとき?」
「おれたちが最後にバトルをした、あのときだ」
「……ああ。あのときか」
ヒイラギが近寄ってきて、焚き火を挟んだ向かい側に腰を下ろす。木の棒で火をいじりながら、記憶を辿るように話し始める。
「三年間って、長いと思う、短いと思う?」
質問の意図が掴めず、おれは無難な答えを返すことにした。
「人によると思うが」
「同感だ。そして少なくとも、あの当時の僕にとって、君と特訓した三年間というのは、今の僕の十年にも匹敵する長さを持っていた。なぜだと思う?」
「さあ。年齢の問題じゃないのか」
「内容が濃かったからだよ。一日の間に無数のことを考えて、試行錯誤して、一秒たりとも無駄にはしない。そうやって、毎日を使い切っていたからだ」
おれは細かい文字で埋め尽くされた「特訓ノート40」を思い出した。
「アローラ最強のトレーナーになる。島キングや島クイーンを超えて、カプ神にもその実力を認められるような、そんなポケモントレーナーになる。それが僕の夢だった」
「ああ、知ってる」
「頑張って頭を使って、思いつくこと全てやって、努力に努力を重ねた――それでも、僕は君との実力の差を埋められなかった」
言葉に棘はない。事実を淡々と語っている声音だった。
「そうしてある日、僕はふと疑問に思ったんだ。僕は夢に向かって進んでいるつもりでいたけど、本当にそうなのか。もしかしたら僕の中からすでに夢に対する情熱は失われていて、ただ夢を追いかけることが目的になっているんじゃないのか、って」
人が夢を追いかけるのは、夢を叶えるためだ。しかし、あまりに険しい道のりを目にしたとき、人はしばしば、夢を叶えるためではなく、夢を追うために夢を追うようになる。夢を叶えるという本質を見失ってしまう。
「僕は、それは不誠実なことだと思ったんだ。だってそれは、夢を叶えるふりをしながら、心の中では夢を諦めているということだから。嘘をついているということだし、人生を浪費しているということでもある。もし自分がそうなのだとしたら、僕は自分のことを許せないと思った。それで――君にバトルを挑んだんだ」
おれはいまいち因果関係が飲み込めなかった。ヒイラギが抱えていた悩みはわかった。しかし、その解決方法として、おれにバトルを挑むことがなぜ有効なのか、理解できなかった。
「そうだね、なんと言ったらいいかな」
ヒイラギはまた少し黙り込んで、思考に耽った。おれは焦らされるような思いでそれを待った。
パチ、と音を立てて、火花が舞った。
「こういう言い方はどうだろう。僕はあのとき、僕の夢をふるいにかけたんだ」
「夢を、ふるいに?」
「そうだ。いつも通りの、いくらでも負けが許される組み手ではなく、公式ルールのバトルをすることで、僕自身の中にあった甘えを排除した。勝たなければならない勝負というものを演出して、僕の夢に対する態度が正統かどうかをテストしたんだ」
「それに負けたから、夢を諦めたのか」
「いいや、負けたからじゃない。僕が夢を諦めたのは、真剣勝負に負けた僕自身が、『しょうがない』という気持ちになっていたからだ」
いいかい、と彼は人差し指を立てて言った。
「『悔しい』でも、『どうすれば勝てた』でもなく、『しょうがない』だったんだ。理性がいくら嘘をついても、感情に嘘はつけない。アローラで一番強いトレーナーになる、という夢を持っていた僕が、同年代のトレーナーに敗れて『しょうがない』と思うのは、それは、許されないことだ。だって、僕自身が、僕が負けるのが当たり前だと思っていたということなんだから」
そこまで言われて、ようやくおれも理解が及んだ。たしかにそれは、致命的なことだ。
「僕は確信した。僕の夢が、もはや叶えるためのものではなく、追いかけるためのものに成り下がっていたことを。だから僕は、やめることにしたんだ。自分に嘘をついてまで、続けることではないと思ったから」
それで、話は終わりだった。ヒイラギはこれ以上話すことはないという表情で、おれもそれ以上の質問はしなかった。どちらからともなく立ち上がり、焚き火の処理を済ませて、テントに入る。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
寝袋に潜り込んで、おれは目を瞑った。睡魔はすぐにやってきて、おれは抗う間も無く、眠りに落ちていった。
その晩、おれは久しぶりに、夢だとわかる夢を見ていた。
記憶がはっきりしていて、判断力も鈍っていない。さっきまでテントの寝袋の中にいたはずなのに、今のおれはポニ島の島キングの家にいる。つまり、現実ではない。夢である、というわけだ。
家の中には、誰もいなかった。島キングも、ハプウちゃんもいない。ドアを開けて見ると、子供の頃から慣れ親しんだポニ島の風景が、そのままに再現されている。しかし、人の気配はひとつもない。大人の声も、子供の声も聞こえない。
「貸切のポニ島か、これはいい」
夢ならではの光景だな、と少しわくわくしながら、懐かしい我が故郷を散策する。
古道から原野を抜けて、様々な形の船が集まる海の民の村へ足を運ぶ。さまざまな水棲のポケモンを模した船は港に鎮座しているのに、相変わらず人影はない。桟橋を歩いて、端に腰掛ける。足のすぐ下で細波が押しては引いている。海の向こうは、流石におれの記憶では再現できなかったのか、もやがかかってよく見えない。
アローラの夢は、随分と久しぶりに感じる。ヒイラギと話をして、アローラの光景を思い出したことが原因だろうか。
桟橋に座ったまま、寝る直前の会話を思い出す。
「夢をふるいにかける、か」
とても、納得できる話だった。
人が夢を諦めるというのは、そういうことだ。全力で足掻いて足掻いて、あらゆる道を模索して、意思力を振り絞って、その結果を目のあたりにして、そこでようやく「諦める」ことは可能になる。それ以前の状態では、そもそも人は「諦める」を選択することもできない。せいぜいが「忘れる」とか「投げ出す」が選択肢にあるくらいだ。でも人は、一度抱いた夢を完全に忘れ去ることはできないし、どんなに遠くまで投げ飛ばしたと思っても、気持ちが切れていない限り、夢は後を追ってきてしまう。
だから結局、夢を抱いた人間の最善手は全力で挑戦することなのだ。それで夢が叶うとしても、叶わないとしても。
だけど。それならどうして。あの言葉こんなに、おれの胸を痛めるのだろう? 一体なぜ、おれは正しいはずのことを正しいと認められないのだろう?
何かが胸の内側で喚いていた。胸郭を突き破って、外に出てこようとしているようだ。胸の手を当てて、呼吸を整えようとした。どこからか声が聞こえてくる。耳に慣れた声音。
『答えを、教えてやろうか』
「答え?」
『その胸の痛みは、罪悪感だ。お前の心はいま、罪の呵責に耐えきれずに歪められている』
「罪悪感?おれが?」
『後ろめたさ、と言ってもいい』
「なぜ、おれが?」
『お前は自分に嘘をついているからだ。醜い嘘を』
「何のことだ」
『アイリスがジムを去ると聞いて、どう思った?』
不意に、頭の中につい先日の口論が蘇ってきた。おれの反駁に戸惑うアイリスの表情。おれは焦っていた。アイリスがどこか遠くに行ってしまうのを、何とか阻止しようとしていた。そして、勢いで吐いた言葉で、アイリスを傷つけた。
『なぜそうまでして、お前はアイリスを引き止めたかったのか。理由は何だ?』
理由。おれがアイリスを必要とする理由。決まっている。アローラを旅立った日から、おれの行動は全て、島キングから受け継いだ理想を達成するためにあった。
「アイリスに勝つため。アイリスの本気を引き出して、彼女を超えるためだ」
『
ばっさりと、おれの威勢を断ち切るように、声が言う。
『
それは、核心を突く言葉だった。あいまいな言い訳も言葉遊びも許さない。そんな鋭さを含んだ言葉だった。
『おれは知っているぞ。お前は、一度だって、本気を出してアイリスと戦ったことはなかっただろう。お遊びのようなバトルに付き合うことはあっても、真剣勝負には応じなかった。なぜだ?』
おれは答えに窮した。なぜだかは知っている。しかし、それを口にすることはできない。認めるわけにはいかない。
『分かっているはずだ。お前自身のことなんだから。分からない振りをして、逃げ回るのはもうよせ』
追及され、喉が鳴った。少しでも気を緩めれば、言葉にしてしまいそうだった。
『ならば言ってやる。怖かったんだろう。本気の勝負をすれば、言い訳ができなくなるから。お遊びのバトルなら、負けたっていくらでも言い訳ができた。『本気を出しさえすれば』と、自分を納得させることは容易だった』
おれが沈黙を保っても、声は止まなかった。むしろますます勢いを増して、濁流のように迫ってくる。
『だけど、一度でも本気でバトルをしてしまえば、その言い訳はもう通用しなくなる。安全な隠れ家が無くなって、彼我の実力差を直視せざるを得なくなる』
だめだ。それ以上言わせてはいけない。どうすればこの声は止まる? どうすれば止められる?
『お前は知っていたんだ。自分のドラゴン使いとしての資質が、アイリスに遠く及ばないことを。本気のバトルをしてしまえば、その事実が誰の目にも明らかに露呈してしまうということを。あの日お前の才能がヒイラギから夢を奪ったように、今度はお前が、夢を奪われてしまうということを』
ことここに至って、おれにはこの声の正体が掴めていた。しかし、それでもなお、声を止めるためにおれができることは何も無かった。
『だからお前は、アイリスと本気のバトルをするわけにはいかなかった。あれこれ理由をつけて、バトルを回避し続けた』
上体を屈め、耳を塞いで聞こえないふりをする。無駄だった。声は外から響いているのではない。この声はおれの頭の中から聞こえているのだ。
『しかし、お前はアイリスとの勝負をお預けにしたままソウリュウジムを去ることもできなかった。見なかったことにして忘れ去るには、アイリスの才能は凄まじすぎたからだ。自分の理想を体現している存在を、目の届く範囲に留めておきたい。その欲求を、お前は堪えきれなかった』
この声はおれ自身だ。おれ自身の過去だ。かつて島キングから理想を受け継ぎ、必ずそれを実現すると誓った日のおれ。
『結果、お前はソウリュウジムに籍を置きながら、アイリスとの真剣勝負を避けるという形で問題を保留にした。目の前にそり立つ決して超えられない壁を、いつかは超えるのだと自分に言い聞かせて、ずるずるずるずると居座り続けた』
「過去」は決して手加減をすることなく、おれを糾弾する。
『夢を追うふりをして、二年間も夢から目を逸らし続けた。自分に嘘をついて、正当化に正当化を重ねて、現実を直視することから逃げ続けた』
そして、ついに決定的な言葉を口にする。
『おれがなりたかったのは、お前みたいなやつじゃない』
真後ろに、人影。
おれは振り向こうとして、いつのまにか自分の体が宙に投げ出されていることに気付いた。どぱん、と破裂音が聞こえて、海面に叩きつけられる。声を上げようと開いた口に、海水が入り込んでくる。空気を吸い込もうと慌てれば慌てるほど、喉を海水が埋め尽くしてゆく。
溺れる!
水をかいてなんとか浮き上がろうとするが、体はまるで鉛の重石でも括り付けられているみたいに、どんどん沈んでいく。
揺らめく海面の向こう。桟橋に立つあの日のおれが、こちらを見下ろす眼差しを最後に、おれの視界は真っ黒に暗転した。
初めてソウリュウジムを訪れた日のことだ。おれは当時のジムリーダーだったシャガ市長にバトルを挑んだが、スケジュールの都合で断られてしまった。
「代わりと言ってはなんだが、ジム内を見学していくといい。今はちょうど私の弟子が、挑戦者の相手をしているはずだ」
他人のバトルを見ていても仕方がない。いつものおれならそう考え、さっさとジムを後にするところだった。しかし、何かが気にかかって、おれはシャガ氏の提案に従うことにした。
バトルフィールドを見下ろせる観覧席に座り、ちょうど挑戦者を迎え撃っていたそのジムトレーナーを観察する。
「(女の子、か)」
ジムトレーナーは、おれと同じか、さらに若いくらいの年頃の少女だった。シャガ氏の弟子と聞いて、なんとなく筋骨隆々の偉丈夫を想像していたおれは、興味を引かれて彼女をじっと観察した。
褐色の肌とボリュームのある長髪が特徴的だ。目には強い好奇心が宿っており、口元にはうっすらと笑みを浮かべている。緊張している様子は微塵もない。強いな、と確信する。審判が宣言し、バトルが始まる。――そして、すぐに終わった。
しばらくの間おれは、観覧席から立ち上がれないでいた。放心状態で、頭の中でさっき目にしたバトルを何度も何度も反芻していた。
それまでの旅の中で、強者と対面し、気迫に鳥肌が立った経験はいくらでもあった。だけど、バトルを横から見ているだけで震えさせられたのは、その日が初めてだった。それくらい、圧倒的な内容のバトルだった。挑戦者が弱かったわけでは決してない。少し見ただけでも、高いポテンシャルを持つポケモンを、妥協せず鍛え抜いているいいトレーナーだと分かった。戦術にはやや定石に寄りすぎる部分はあったが、思考停止というほどではなく、妥当な指示を出していたように思えた。十分に強者と呼べるレベルだ。
そのトレーナーのパーティを、少女はオノノクス一体で壊滅させていた。
特別な技を使ったわけではなかった。見たことのない奇策を炸裂させたわけでもない。少女がオノノクスに指示したことは、ポケモンスクールで習うような初歩的なものばかりだった。それでも少女は勝った。タネも仕掛けもない圧勝。それが意味することはひとつ。少女のオノノクスは、挑戦者のパーティなど問題にならないくらい強かったということだ。
見つけた、と思った。おれが旅を続けてきた理由。島キングがかつて求めた境地。「人がポケモンの強さを引き出し、ポケモンもまた人の強さを引き出す」。少女とオノノクスは、まさしくその理想を体現する存在だった。
「(彼女に勝つことができれば)」
そのときこそ、おれはおれの夢を叶えることができるはずだ。
おれはその日から、ソウリュウジムのジムトレーナーになった。
アイリスとようやく顔を合わせることはできたのは、ヒイラギがソウリュウシティを去ってからさらに一週間近く時間が経過した後のことだった。朝早くからジムの前で待っていたおれに、アイリスは目を大きく見開いた後に、警戒するように細めた。
「アマモ……」
「よ、よう」
なるべく友好的に。そう考えて頭の中で何度もシミュレーションしていた一言目だったが、案の定というか、ぎこちないものになってしまった。
「明日、旅に出るんだって? 同僚から聞いたんだけど」
「……」
「そんなに睨むなよ。あの日のことは悪かったと思ってるから」
アイリスは低い唸り声を上げながら、じりじりと距離を取り始める。いつでも逃げられる態勢を整えているようだ。野生ポケモンのようなその挙動に、おれは思わず苦笑した。
「反対なんでしょ、アマモは。私が旅に出るの、だめだって思ってるんでしょ?」
「ああ、まあ、だめっつーか、おれが嫌っつーか。いや、そうじゃない。それはもういいんだ。そもそもジムリーダーを辞めるとかどうとかは、お前自身の問題で、おれがどうこう言うべきことじゃなかった。色々言ったのは、あれはおれのわがままだ。すまなかった」
そう言って、頭を下げる。アイリスはおれの態度の変わりように驚いていたようだったが、「まあ、いいよ」と言って、許してくれた。
「それから、もう一つあるんだけど」
「なに?」
警戒態勢を解いたアイリスが、首を傾げる。
言うのか。本当に。胸の奥から、恐怖がまた湧き上がってくる。
言うだろ。普通に。そうしないと、島キングには怒られちまうだろうし、ヒイラギには笑われる。僕が負けた男は、こんなに心の弱い男だったのかって。そうだろ。
目を瞑って、深く息を吐いて。それから、言った。
「バトル、付き合ってほしいんだけど」
怪訝な様子のアイリスに、おれは「ただし」と、言葉を重ねた。
「公式ルールで。いつものお遊びじゃなくて、本気で、お前と戦いたいんだ」
それで、アイリスはようやく、何かを察してくれたようだった。
「わかった、いいよ。やろう、本気のバトル」
早朝のソウリュウジムには、おれとアイリス以外にまだだれも来ていなかった。バトルフィールドのドアを開けて、おれとアイリスそれぞれのトレーナーエリアに立つ。
「使用ポケモンは一体。ルールは、――どちらかが戦闘不能になるまで」
「わかった」
対面に立つアイリスの雰囲気は、二年間見続けてきたものとはまるで違っていた。いつもは天真爛漫さの裏に隠されていた、「竜の心を知る娘」アイリスの本質。誇り高いドラゴンポケモンを心酔させ、その潜在能力を余すところなく引き出す、ドラゴン使いとしての天性の資質。それが、まるでオーラのように彼女の全身から滲み出ている。
「行け、ジャラランガ」
「出番だよ、オノノクス」
同時にボールを放り、互いの相棒を戦場へ送り出す。アイリスのパートナーは、オノノクス。初めてソウリュウジムを訪れた日に見た、あの個体だ。平均的なオノノクスよりも一回り大きな肉体に、抑え切れないバトルへの興奮がみなぎっている。並のポケモン相手なら、技を使わず身体能力のみで圧倒できそうなほどの存在感。
おれの相棒は、同じドラゴンタイプのジャラランガ。アローラで一番最初にゲットした、おれの最も古い友人。共に島キングのしごきに耐え、島を出た後も旅の苦難を一緒に乗り越えた、おれの半身だ。
「開始の合図は?」
「いつでもいいよ」
おれが聞くと、アイリスは答えた。
このバトルに、審判はいない。結果を見届けるのは、おれとアイリスの二人だけだ。他の誰の記憶にも残らない勝負。路上の野良試合と同じ、意味のない試合。それでいい、と思う。
「ジャラランガ、ビルドアップ」
「オノノクス、竜の舞」
最初の指示は、ほとんど同時だった。
両者とも、選択したのはポケモンの能力を引き上げる補助技だった。一対一のバトルとはいえ、互いに高いポテンシャルを持つドラゴンポケモン同士。序盤のうちに強化を積んでおくのは、ほとんどセオリーだ。
「オノノクス、ドラゴンクロー」
先手を取ったオノノクスが、フィールドを割り砕かんばかりの勢いで猛進し、空手の達人が放つ貫手のような、極限まで洗練された「ドラゴンクロー」を繰り出す。脇腹に強烈な一撃を喰らい、ジャラランガが数歩分後退する。
「ジャラランガ、リベンジ」
冷静さを保て。自分に言い聞かせながら、指示を飛ばす。
がしり、とオノノクスの右腕を左脇に挟み込んでいたジャラランガは、そのまま右拳の強烈な一撃をオノノクスの胸板にたたき込む。
まずは、挨拶がわりの一撃。ここから、バトルは加速していく。
「オノノクス、ダブルチョップ」
「ジャラランガ、回避しろ」
回数重視の「ダブルチョップ」で細かいダメージを稼ごうとするアイリス。素早さでアドバンテージをとっているのを生かして、一撃離脱戦法を採用したらしい。広いフィールド上でオノノクスに回避に徹されたら、こちらには苦しい展開になる。
「(なら、そうさせなければいい)」
判断は一瞬だった。
「ジャラランガ、挑発しろ」
指示するが早いか、ジャラランガは刃物を擦り合わせるような不快な鳴き声を響かせ始めた。オノノクスの足が止まり、低く唸り声を上げてジャラランガを睨み付ける。ジャラランガがオノノクスに侮辱の鳴き声を浴びせ、オノノクスが喧嘩を買ったのだ。これで、オノノクスは回避に徹することはできなくなった。
「続けてボディプレス」
「あなをほる!」
空中に飛び上がり、オノノクスを下敷きにするように放たれた「ボディプレス」は、オノノクスが地中に潜ったことで不発に終わる。
地中に潜ったオノノクスの位置を探ろうと、ジャラランガが警戒態勢に入る。
「真下だ、ジャラランガ!」
しかし、オノノクスはジャラランガの死角から現れ、そのまま強固な頭蓋をジャラランガの顎に叩きつけた。クリーンヒットだ。吹き飛ばされ、フィールド上を転がるジャラランガ。
「くそ、ジャラランガ!」
動揺している。舌が乾いて、指示がうまく喉から出てこない。
戦況が不利なのはそうだ。だけど、この程度のピンチは、これまでの旅の中でも何度もあった。
何が原因だ? 考えて、刹那のうちに答えは出た。アイリスの視線が、まっすぐにおれを捉えている。まるで野生のドラゴンポケモンに睨まれているような圧力。プレッシャーが、おれの身を竦ませている。
「(逃げるな)」
震えそうになる身体を叱咤した。
「(ジャラランガは全力で戦ってくれているぞ)」
アイリスのオノノクスに、ジャラランガは決して引けを取っていない。それは、おれたちの旅が決して無駄ではなかったことの証明だ。
「(今ここが、おれの夢の分岐点だ)」
心臓がどくどくと音を立てていた。全身の血が、いつもの数倍の速度で身体中を駆け巡っている。肌が、微細な空気の流れを感じ取っている。口角が自然と吊り上がる。
「ジャラランガ、はらだいこ」
ジャラランガが己が身を削って、攻撃力を最大まで強化する。オノノクスに受けたダメージと相まって、体力はほぼ限界まで落ち込む。しかし、ジャラランガは逡巡することなくおれの指示に従ってくれた。まるで、おれがそう指示することを予め知っていたかのような反応だった。
おれの思考がジャラランガに伝わり、ジャラランガの覚悟がおれに伝わってくる。
それが嬉しくて、おれはまた笑った。
フィールドの反対側で、アイリスも笑っている。クライマックスの空気を感じ取っているのだ。
「受けて立つよ。オノノクス、げきりん!」
「ジャラランガ、
フィールド中央、二頭の竜が激突する。互いの死力を尽くした一撃。衝撃がジム全体を震わせる。巻き上げられた土煙が目に入るのも構わず、おれはじっと、爆心地を見つめていた。
静寂ののちに、ずずん、と巨体の頽れる音。
土煙が晴れ、おれは、この勝負の行く末を見た。
バトルが終わっても、ソウリュウジムにはまだ人影がなかった。自分の相棒をそれぞれ労ってモンスターボールに戻したあと、おれたちはフィールドの中央に歩み寄って、互いに握手をした。
どんな言葉をかけるべきか。一瞬、そんな思惑が交錯して、奇妙な静寂を作る。
その沈黙を破ったのは、やはりというか、アイリスだった。
「いやあ、楽しかった!」
そう言ってアイリスは、いきなりフィールド上に大の字で寝転がった。
「ええ!何してんの!?」
なんとなく厳粛な気持ちになっていたおれだったが、予想外の行動につい素っ頓狂な声を上げてしまう。
「いいじゃん、誰も見てないんだし。おじいちゃんに知られたら絶対怒られちゃうから、今までやったことなかったんだよねー。でも、今なら大丈夫でしょ?」
おれは少し逡巡したが、やがて観念して、アイリスの隣に同じように寝転がってた。全身の力を抜いて、背中でフィールドの固さを感じとる。
「うわ、おれ、ジムの天井なんて初めてしっかり見たかも」
「あー、たしかに。ジムの天井なんて、普段じっくり観察する機会ないもんねえ」
特に意味もない、他愛のない雑談だった。それでも、明日からはできなくなるのだと思うと、名残惜しさで貴重に感じられた。
「それにしても、楽しかったねえ」
「ああ、そうだな。結果はちょっと拍子抜けだったけど」
「あはは、そうだね。まさか
土煙が晴れたとき、おれのジャラランガとアイリスのオノノクスは、互いに重なり合うように倒れていた。どちらも完全に気を失っていて、立ち上がる気配もない。審判のいないバトルでは、勝敗はつけようもない。おれの夢をかけた勝負の結果は、引き分けだった。
「なんだか締まらない気もするな」
「あはは、アマモ、絶対勝つ!って感じだったもんね」
そうだ。心の底から、勝ちたいと思っていた。勝たなければならないとすら思っていた。実際には、勝つことはできなかった。しかし、負けることもなかった。
「ああ、けど、今から思えば最良の決着だったかもしれない」
「へえ、なんで?」
「だって、勝敗はお預けってことだろ? なら、またいつかアイリスと再会したときの、お楽しみにできるじゃないか」
そんな考え方ができるようになったのも、実際に一度本気で干戈を交えたからだった。おれの中で呪縛のようになっていたアイリスに対する劣等感は、今や容易に無視できる程度のものになっている。
「アマモはさ、これからどうするの?」
「これから?」
「ずっとソウリュウジムでジムトレーナーをやるってわけじゃないんでしょ? ……まあ、アマモがずっといてくれたら、おじいちゃんは仕事が少なくて助かるかもしれないけど」
悪戯っぽく言ったアイリスに、おれは苦笑を返す。少し考えてから、返答した。
「そうだな、おれは、一度故郷に帰ろうと思っているんだ。ハプウちゃん……故郷の友だちが、この前名誉ある役職に就任したっていう報せをもらったから、そのお祝いに」
「へええ、アマモの故郷ってあのアローラ地方だよね? 南国リゾートかー、いいなー、私も行ってみたい!」
「でも、アイリスにはやることがあるんだろ?」
「うん!」
そこでアイリスは人差し指を立てて、天井を指差した。アイリスの目には、その指の先に、このイッシュ地方の頂点が見えているのかもしれない。
「だから、そうだね。チャンピオンになってから、自分へのご褒美ってことで遊びにいくことにする」
「そっか」
「うん」
そこで、また少し静寂が訪れた。気まずい沈黙ではない。心地よい雑談の中の、心地よい休憩だった。
さて、さっきはアイリスから切り出してくれたし、今度はおれが切り出そうか。
「なあ、アイリス?」
「なあに?」
「チャンピオンって、イッシュ地方で一番強いトレーナーなんだよな?」
「そうだよ?」
「8人のジムリーダーと、四天王に勝った挑戦者と戦うのがお仕事なんだよな」
「そうそう!」
「それじゃあ、おれがもしアイリスに会いたくなったら、その12人に勝てればいいわけだ」
そこでアイリスは、マメパトがタネマシンガンを食らったような顔をして、二、三度瞬きを繰り返した。そのあと思い切り破顔して、声を上げて可笑しそうに笑い出す。
「あはは、あはははははは!」
「な、なんだよ。おれ何か変なこと言ったか?」
「言ったよー!友だちなんだから会いたくなったら普通に会いに来たらいいのに、わざわざ挑戦者として会いに来るなんて、そんなこと言うのアマモくらいだよー!」
アイリスは上体を起こして、目尻に溜まった涙を拭いた。おれもつられて、上体を起こす。
「うん、じゃあ、待ってる。だから、真正面から会いに来てよ。それで、もう一回今日みたいな楽しいバトルをしよう。今度は、イッシュの頂点で!」
アイリスはそう言って、ぐいっとおれの眼前にグーを突き出してくる。おれは笑って、その小さな拳に自分の拳をこつんと当てた。
船の上から、おれはアローラ地方の姿を視界に捉えている。
旅の終わりが近づいてくるにつれて、さまざまな記憶が急速に頭の中を駆け巡っている。楽しかったことも辛かったことも、順不同で次々と再生されていく。
人が死の間際に見るという走馬灯みたいなものかもしれないな、と思って、少し可笑しくなる。
「旅の死、か」
だけど、おれの旅はここで終わりじゃない。島キングから継いだ夢に加えて、今のおれにはアイリスとの約束もある。旅に出る前よりも、むしろ旅に出る理由は増えたのだ。旅に出る理由をひっさげて帰郷するというのもおかしな話だが、旅人とは得てしてそういうものなのかもしれない。
「ともあれ、だな」
いよいよ視界の中央で、ポニ島の港がはっきりとしてきた。何人か、友人が出迎えに来てくれているのも見えている。
これからも、おれの旅は続いていく。それでも、今はひとまず。
「ただいま、アローラ」
潮風が吹いて、言葉を彼方までさらっていった。
いくつか注釈を先に。
1.当作品における「ソウリュウシティ」は、「ポケットモンスターホワイト、ホワイト2」に登場するものを採用しております。
2.当作品においては、ハプウの島クイーン就任時期が「ポケットモンスターブラック2、ホワイト2」以前という設定になっておりますが、これは何の根拠も無い完全な独自設定となっております。
以下、後書きです。
お目汚し失礼しました。こちらは、せめて剣盾発売前には投稿したいなと夢見ていた作品の供養投稿になります。書き直しを繰り返しているうちに当初予定していたプロットからは大幅に変更された出来上がりになってしまったので、やっつけ気味に終わらせて完成ということにしました。
当初考えていたのは、「アローラ出身のドラゴン使いの主人公が、各地方のドラゴン使いのトレーナーを訪ねて教えを受けていく」というものでした。各地方のドラゴン使いというのは具体的には、ワタル、イブキ、ゲンジ、シャガ、ドラセナのことですね。ドラゴンエキスパートのキャラクターに共通する強キャラ感が好きで、「史上最強の弟子」よろしくドラゴンエキスパートのキャラクター全員から教えを受けたオリ主を書きたいな、と思ったのがそもそものきっかけだったのですが、書いているうちにどんどん迷子になり、剣盾が発売になってドラゴンエキスパートがもう一人増えてしまった(言わずと知れたキバナ様のことですね)というのもあって、大幅な路線変更を余儀なくされ、結局このようなアイリスとのライバル(?)関係にフォーカスした短編に転生を果たしました。
最後になりましたが、読者の皆様におかれましては、このような作品に目を通していただいて、本当にありがとうございました。また別作品でも、よろしくお願いします。