鬼狩りは嗤う   作:夜野 桜

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壊れた幸せ

 

 

 

 俺の家は父と母、それから姉のちよと妹のハル、俺も合わせて5人の騒がしい、とても幸せな家族だった。

 

 母は何かと口うるさいし、父は頷くばかりで話を聞いているのかいないのかよく分からない。妹はキャキャっと、なにが可笑しいのか分からないことでいつも笑っているし、姉は母のように口を開けばお小言ばかりだ。

 

 でも、そんなあの人達が俺は大好きだった。

 当たり前のように愛情をくれて、当たり前のように話を聞いてくれて、当たり前のように怒ってくれて、当たり前のように笑ってくれる。

 

 いま思えば、あの頃、毎日が楽しくて幸せだったんだ。こんな日々が当たり前に続くことを、疑いもしてなかった。

 

 

 だけど当たり前なんてものは結局のところただの人の願望でしかない。

 

 

 幸せなんてものは簡単に、ある日突然に壊れてしまうものなんだ。俺はそれをあの日、あの絶望の夜に思い知った。

 

 

 

 

 

 

 

 その日、信乃逗は母にこと付けられた用事のせいで、家に帰るのが夜遅くになった。

 

 

(あれ?……灯が消えてる?)

 

 

 家に着く前に変だとは感じた。遅くなったとはいえ、未だ陽が暮れたばかりの時間だ。こんな時間から家の灯りを消すなんて普段ならあり得ない。

 

 だが、その日は何故か道から家の灯りが見えなかった。奇妙な違和感を覚えつつも信乃逗はそれでも家へと歩を進めた。

 

 

 或いは、もう少し、ほんの少しでも時間が変わればまた違った未来もあったのかもしれない。

 

 

 

 

「……な、なんだよ、これ……なんなんだよ」

 

 

 その光景を信乃逗は忘れることが出来ない。

 

 

 家に入った信乃逗を迎えてくれたのはいつもの心が暖かくなるような騒がしさではなく、耳が痛くなるような静寂と赤くて、紅い……血の海だった。

 

 

 床や壁、家の中には当たり前のように血が飛び散っていて、むせ返るような血臭が玄関先に立つ信乃逗まで漂ってくる。そこには間違いようなない死が広がっていた。家の土間では父が、部屋の奥には母が妹に覆いかぶさるようにしてこときれていた。

 

 

(……なんで……一体なにが……)

 

 

 どうなっているのか、一体何が起きたのか、信乃逗には訳が分からなかった。家の入り口に立ったまま呆然とする信乃逗の疑問には誰も答えてくれない。ただ、いつもは神棚に飾られているはずの立派な刀だけが、月の光を浴びて信乃逗の瞳に冷たい輝きを浴びせるだけ。

 

 

(父さんの刀……なんで……ここに……)

 

 

 場違いな疑問だった。普段は家宝として飾られている刀が何故か土間に落ちているのだとしても、そんなことを疑問に思う余地など本来ならどこにも存在しない。

 

 家族が、愛する者達が血を流して倒れているのだ。その光景を前にして家宝の刀などに気を止めるなど、普通であればあり得ない。

 

 

 だが、それでも信乃逗にはそう思うよりほかになかったのだ。

 

 あまりにも残酷で残虐で惨たらしいその光景が現実であるということを信乃逗は認められなかった。

 

 目を逸らしたかったのだ。

 

 

 現実から

 

 

 与えられた悲劇を

 

 

 瞳に映していたくなかったのだ。

 

 

 それはきっと無理のない反応だったのだろう。彼はただいつものように に、ただ帰ってきただけだ。「行ってらっしゃい」と言われて、家を出て帰ってきたら「お帰り」と、そう言われるのが当たり前だったのだから。

 

 

 

 この惨劇をみるまではそれこそが、雨笠信乃逗の日常だったのだから。

 

 

 

 ただ、この惨劇はそこで終わりではなかった。

 

 

 この時の彼には「お帰り」と言ってくれたかもしれない人がまだいたのだ。

 

 

 

 ガタッ

 

 

 

 不意に、家の奥、暗闇の向こうで人影が映る。

 そしてその影はゆらゆらと信乃逗に向かって歩いてきた。

 

 

「ひっ!?……だ、だれだ!?」

 

 

 身の危険を感じるその状況に、信乃逗は無意識のうちに足元にある刀を手に取っていた。

 

 震える腕で切先を影へと向け、さも勇ましい姿で刀を構える信乃逗の声は怯えきっていて、ガタガタと身体と刀身を震わせる様子はとても戦えるようには見えない。

 

 

「………………」

 

 

 信乃逗の問い掛けにも無言のまま、怪しげな人影が少しずつ、少しずつ近づいてくる。

 

 

「ね、姉さん、……姉さんっ!大丈夫か!?一体どうしたんだよ!?」

 

 

 やがて家の入り口から入ってくる月光に微かに見えてくる影の輪郭を見て、信乃逗は血相を変えて駆け出す。

 

 

 

 近づいて来たその人影は、信乃逗の姉、ちよだった。

 

 

 荒い息を吐きながら、血塗れになってゆっくりと歩いてくるちよに、信乃逗の怯えきった心が一瞬だけ冷静さを取り戻させた。訳の分からない状況、惨たらしい光景、静かすぎる空間、追いつくことすら難しい感情の波に翻弄されきっている信乃逗にとって、親しみなれた姉の姿は彼の精神をこの世に繋ぎ止めることの出来る唯一の光だった。

 

 安堵を求めた信乃逗の腕はしかし、他の誰でもない彼女の姉自身によって止められた。

 

 

「……ないで、……こっちに来ないで!!」

 

 

 家の静けさのせいなのか、それとも単にちよの声はが大きかっただけなのか、この時の信乃逗には彼女の声は、いつもより数段大きく聞こえた。鬼気迫るような様子の姉の言葉に信乃逗は一瞬、躊躇うようにして立ち止まってしまった。

 

 

「……お願いだから、今はこっちに来ないで」

 

 

 泣きそうな声色で、懇願するかのように、ちよは信乃逗へとそう言った。信乃逗は姉の言葉に一瞬戸惑いを見せるが血塗れの姉がすぐ目の前にいて放置するなど出来るはずもない。

 

 ましてあまりにも現実離れした光景を目の当たりにしているのだ。これ以上、家族を失わない為にも信乃逗は姉の言葉に従う訳にはいかなかった。

 

 

「な、なに言ってんだよ、血塗れだろうが……すぐに手当てしないとっ」

 

「……嫌だ、やめて、……私、信乃逗(しのず)を食べたくない、食べたくないのっ!……だから……来ないで」

 

 

 それはこの時の信乃逗にとっては到底理解出来ない言動だった。訳の分からないことを言う姉の様子を見て、信乃逗はこんな悲惨な状況に錯乱しているのだろうとそう思った。

 

 

「訳がわかんないこと言ってないで、早く手当てを」

 

 

「来ないでって……言ってるでしょっ!!」

 

 

 

 なおも近づこうとする信乃逗を見て、ちよは先程よりも余程大きな声で叫びながら、家の壁を叩いた。

 

 

 その時、当時の信乃逗の知る人の身では、不可能な現象が起きた。ちよの拳が振われた瞬間家の壁が轟音ともに崩れ落ちて、彼女が叩いたその壁には人が通れるくらいの大きな大きな穴が空いていた。

 

 

「………っ……」

 

 響渡った音とあまりにも衝撃的な光景に腰を抜かしたように、信乃逗はその場に座り込んでしまった。呆然と穴の空いた家の壁を眺める信乃逗を、ちよは今にも泣き出してしまいそうな表情で見つめながら、静かに微笑んだ。

 

 

「……私は、もう人間じゃないの。……鬼に、なっちゃったの。だから、私に、近づいちゃ駄目なのよ」

 

 

「…………な、なに言ってんだよ?」

 

 

 意味が分からない。

 理解出来ない。

 今日信乃逗の前にあらわれた光景の全てにあまりにも現実味がない。

 

 

「とうさんに、教えて……もらったでしょ、……人を食べる、化け物がいるって……」

 

「あっ、あんなの父さんの作り話だろ!そんなのいる訳が「いたのよっ!…いたから……こんなことに、なっちゃったのよ」っ!?」

 

 

 信乃逗が鬼の存在を否定するその声を悲痛な声色で叫ぶちよの声が掻き消す。嗚咽をこらえるようにちよが語ったこんなことが、この惨状を現しているのはいまの信乃逗にも理解できた。

 

 確かに信乃逗の父はしきりにそういう存在がいると、彼等に話をしてきた。人を殺し喰らう化け物がいることを、人が殺さなければならない化け物がこの世に存在していることを家族以外にも沢山話して聞かせていた。しかしそんな荒唐無稽な話を村の誰も信じていなかったし、当時の信乃逗にとっても素直に認められるものではなかった。

 

 

(鬼なんて……そんなの……いる訳が……)

 

 

 動揺しながらも信乃逗は内心でちよの言葉を否定していた。

 

 当然だろう。普通はそんな話を信じられる訳がない。見たこともない化け物が家族を殺して、人間だった筈の姉は鬼になった。そんな馬鹿げた話を一体どうやって信じれば良いというのか。

 

 

 時間が必要だった。

 次々と訪れる思考と感情の波を整理する為の時間が必要だったのだ。

 

 

 

 だが、運命とは残酷なもので

 彼には、いや、彼等に与えられた時間は余りにも短かった。

 

 

 

 ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、ちよは呆然と座り込む信乃逗の手に握られた刀を見て、それまで絶望一色だったその顔色を急に救いを見たかのような、そんな表情へと変えた。

 

 

「かたな、……とうさんの……刀……」

 

 

 信乃逗の手に握られた刀がちよの瞳にはっきりと映り込む。彼女はその瞬間理解したのだろう。その刀が普通の刀ではないことを。その刀が鬼にとってどれほどの意味を持つものであるかを、彼女は自らの血で理解してしまったのだ。

 

 

「……しのず……お願い……」

 

 

 

 そうしてちよが信乃逗に懇願したその内容は、彼女に取っての最後の、唯一の、希望だったのだろう。

 

 

 

「その刀で……私の首を……斬って……」

 

 

 

 しかし同時にそれは、信乃逗にとっての地獄だった。

 

 

 

 

「い、いやだ……なに言ってんだよ、姉さん……そんなことっ、できる訳ないだろう!?」

 

 

 

 信乃逗(しのず)の悲痛の叫びにも似たその言葉は、ちよにとっては更なる絶望だった。

 

 

「お願い!このままじゃあ私っ、信乃逗(しのず)を殺しちゃう!……いやなの、しのずを食べたくないのよっ!」

 

 

 

 そう言って一歩暗闇から前へと踏み出したちよの姿を見て、信乃逗は言葉を失った。

 

 

「……姉、さん、……その顔…」

 

 

 崩れ落ちた壁から月光が入り込み、その月の光に浮かびあがった彼女の顔はもはや人間のそれではなかった。紅い瞳、血管の浮き上がったような青白い顔、鋭く尖った歯、そして額から生えた、一本の角。

 

 

 今の彼女を見て、彼女を人間だと、そう思える者が果たして一体何人いるか。

 

 

「分かったでしょう……わたしっ……もう……人間じゃない……」

 

 

 絶望に満ちた声を出すちよは、恐らく人を食べたいと言う欲望を必死に我慢していたのだろう。涙と同時におびただしい量の涎を垂れ流している。必死に懇願する彼女の体には鋭く生えた爪が深く食い込む程、力強く両腕が抱え込まれていた。

 

 

「誰も食べたくない、殺したくないのよ。……とうさんやかあさんを、……ハルを、食べたくないよっ……しのずを…食べたくないの!……お願いだから、最期くらい、姉さんの言う事を……聞いてよ……御願いだから……」

 

 

 ちよの必死の形相を見て、信乃逗はやっと彼女の願いが本当に心の内から来たもので、姉がもう人ではないのだということを出来てしまった。

 

 

 『人が鬼を殺すには、首を斬るしかない』

 

 『鬼は絶対に殺さなければいけない』

 

 

 嘗て、信乃逗の父は鬼についてそう語った。

 

 鬼は殺さなければならない。人を喰らうから。

 鬼は殺さなければならない。人を不幸にするから。

 鬼は殺さなければならない。人にとって悪だから。

 

 

(俺の前にいるのは……姉さんだろ?……人じゃない?鬼になった?……それでも姉さんだろう?)

 

 

 信乃逗の前にいるのは信乃逗が大好きな姉だ。

 信乃逗の大好きな家族の一人で、信乃逗の大切な家族の一人で、信乃逗の愛する大事な大事な姉だ。

 

 

 例え、それが人ではないのだとしても。

 例え、それが人にとって許されない存在なのだとしても。

 

 

 信乃逗にとって彼女は紛うことなき、家族だ。

 

 

 「……姉さんっ……ねえさん……」

 

 

 絞りだすようなちよの悲痛な声に信乃逗の体は気がつくとひとりでに動いていた。

 

 

 カタカタとその刀身を震わせながら、信乃逗はゆっくりと鬼へと変わってしまったちよに近づいていく。ちよの悲痛な叫びが、願いが、信乃逗の体をちよへと動かしていく。

 

 

 昔、父が信乃逗に刀の振り方を教えてくれていた。家族を守る為に、愛する人を守れるようにと父が教えてくれた拙い技術だ。

 

 

「……ごめんね、しのず……」

 

 

 がくがくと震える体を必死に押さえ込みながら、滲む視界を必死に拭いながら、自身の前に立つ信乃逗を見て、ちよはその瞳に涙を浮かべながら、微笑んで謝罪の言葉を口にする。

 

 

 信乃逗にとって姉は口うるさい人だったが、同時にとても優しい人だった。いつも誰かを心配していた。その大半はきっと信乃逗や妹のハルのことだったのだと思う。信乃逗が笑顔でいられるように、家族が笑顔であれるように彼女はいつも考えていてくれていたのだ。

 

 

 そんな優しい姉が涙を流して、家族の信乃逗に願うのだ。

 

 家族を喰らわぬ為に、愛する弟を殺さないでいいようにと、弟に一生消えぬ罪を背負うことを願ったのだ。

 

 

 

 もう信乃逗にしか、彼にしか、ちよの願いは叶えられない。

 

 

 優しい優しい姉が、人を殺す悪鬼にならぬように。

 大好きな姉が、人の心のままに逝けるように。

 彼女の心を守る為に。

 

 

「うぁぁぁぁ!!!」

 

 

 信乃逗はその日、父に刀を教えてもらいはじめてから、一番上手く、刀を振るえた。

 

 

 

「ありがとう、……し、のず、……だいすき、だ、よ」

 

 

 

 その言葉を最期にちよは安堵したかのように微笑んで、ぼろぼろと崩れるように消えていった。

 

 

 後には何一つとして残っていない。

 

 

 まるで最初からそこには何もいなかったかのように。

 

 

 姉の姿も

 

 

 家族の笑顔も

 

 

 信乃逗の幸せも

 

 

 全てが消えていた。

 

 

 

「……かあさん……とうさん…ハル…………ねえさん……俺は……おれはっ……」

 

 

 

 

 

 それは、鈴虫が鳴き始めた頃の秋の一夜。

 

 

 

 嘗て笑い声の絶えない賑やかで幸せに溢れた一軒の家の中で、1人の少年の慟哭だけが、虚しく鳴り響いていた。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いでございます!

今回はシリアス!
ついに明かされる信乃逗の過去って感じで書いてみました!
真菰ちゃんは一切出て来てないけど真菰ちゃんは神です。

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