雷帝の魔本   作:神凪響姫

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間章 心に焼かれて

 騒ぎを聞きつけ、少女がやって来たときには、既に事態は収束しかかっていた。

 

 

 

 見慣れた光景は、そこにはなかった。かつて親友と駆け回った緑の庭も、日が暮れるまで遊び回った草木生い茂る林も。活気溢れる田舎町の一角は、既に過去の良き思い出通りの姿を失っている。

 

 かつて将来を語らった色鮮やかな日々を頭の片隅に留めて、少女は愕然と膝を落とす。

 

 視界に広がるのは、自然の優しさ溢れる緑ではなく、黒と織り交ざる鮮明な赤の色。飛散した赤の色は大地の草を塗りつぶし、天に向かって伸びる木々は異なる色で覆い尽くされ。穏やかな午後の町並みを跡形も無く壊している。

 

 音が聞こえる。

 

 自然が悲鳴を上げている。

 

 本来あるべき姿を失った見渡す限りの赤い光景に、少女はただただ眼を見張るだけ。

 

 

 声も出ないとはまさにこのことか。

 

 何が起きたか、何が原因なのか。聡明な彼女の頭からは理屈が消し飛び、やがて真っ先に思い至ったのは、己の半身とも言うべき親友のこと。何よりも大事な人のこと。

 

 

 どこにいる。

 

 無事なのか。

 

 お願いだから。

 

 一体どこに。

 

 

 

 

 

 ―――いた。

 

 

 探し人は、簡単に見つかった。気が動転していたのだろう、ちょっと目線を移せば、小屋の影にあたる場所で佇んでいた。見た限り怪我はなく、いつも通りの姿だった。どこか呆けたように燃え盛る家屋を眺めているのが少しばかりの違和感が頭の片隅を過ぎったが、それも自分の住む家がこの有様では仕方ないと判じて、気に留めなかった。

 

 親友の方は。

 

 直後、視界にソレが映る。

 

 

 親友の傍らに、もう一つの影がある。

 

 

 

 

 

「―――やぁ。久しぶりだね」

 

 

 

 

 

 親友が振り向くよりも早く、少女の存在に気づいたのは、傍らに立つ影――少年だった。

 

 あまり見慣れない背格好の、子供である。初対面、ではない。数週間前から、親友の家で同居していた子供だった。遠い場所からやって来たらしく、行くあてもなく身寄りの無い彼のために、親友は少しの間だけ、自宅での滞在を提案した。少女は反対したものの、親友の強い押しに負け、不安に思いつつも認めたのは記憶に新しい。

 

 外見とは不相応に落ち着き払った言動が印象的で、育ちの良さがなんとなく感じ取れた。言葉遣いも丁寧で、誰とでも分け隔てなく穏やかな物腰で接するため、数日の後には少女も認識を改め、大丈夫だろうと安心していた。

 

 しかし。

 

 目の前のこの惨状を目の当たりにして、普段同様の不敵な笑みを浮かべる少年は、一体何なのか。

 

 湧き上がる不信感に身を任せ、少女は問いただす。一体何が起きたのかと。何を知っているのかと。

 

「何、彼女が望んだことだよ。私は少しばかり力を貸した。それだけのことさ」

 

 ややズレた答えに、少女はこみ上げる不信感を隠せない。

 

 ふと。傍らに立っていた親友は、そこで少女の存在に気づいたらしく、少し驚いたように振り向いた。

 

「……ああ、来ていたのね。ごめんなさい、ちょっと呆けていたわ」

 

 振り返った親友の無事な姿に、少女は一度胸を撫で下ろす。だがそれも、親友の浮かべた薄い笑顔を見るまでの間だけだった。

 

 おかしい。

 

 確かに親友は笑っている。けれども、いつもの薄く優しい笑みとどこか違う。

 

 まるで、そう。

 さっき生まれたばかりの人形のような―――作り物めいた表情に、胸の中の不安が途端に勢力を増す。

 

「見て。これ、私がやったのよ」

 

 すごいでしょう? と。

 

 自慢げに語らう親友は、両手を広げる。立ち上る黒煙を背景に、赤く染まる空を抱くように、やはり親友は、心底嬉しそうに言う。相も変わらず、どこか嘘くさい薄っぺらな表情のまま。

 

 開いた口が塞がらないとはこのことか。つい先日まで、将来の夢を楽しげに語ってくれた時の親友の面影など、彼方へと消え去っている。

 

 同じ顔なのに、同じ人なのに。そのはずなのに。

 

 

 

 これは、何だ?

 

 

 

 少年と、目線が合う。豹変した親友を見てもなお変わらぬ毅然とした態度。少女の驚愕する姿を見て、わずかに深める口の弧。少女はそれを見て直感した。こいつが何かしたんだ――普段ならば到底働かない第六感とでも言うべき感覚が、確信へといざなう。

 

 何をした、と少女は問う。親友はこんなことをする人じゃない、お前が何かしたんだろうと、半ば確信を抱きつつ怒声を放つ。

 

 案の定、少年はさらりと答えた。

 

「何、ちょっとした手品ってやつでね。少々彼女の精神に仕掛けを用意しただけのことさ」

 

 聞きようによっては、はぐらかすような言い草である。眉をひそめる少女の態度に、ますますおかしそうに少年の口の端が釣り上がるのを、少女は見過ごした。

 

 しかし、と少年は少女の介入を拒絶する。

 

「ただ、人間というのは君らが考えているよりかは少々複雑でね。闇雲に精神をいじれば良いという話では済まなかった。我々が持つ本来の力を引き出すには、『心』の力というモノが深く関わっているため、感情を喪失すると途端に精神が生み出す心の力は弱くなる。人格が心の力の強弱を生むという説もあるが、ならば記憶を奪ってはどうか? と考えた。

 しかしそれも否。記憶を奪えばその人物を構築する精神すらも消失する。真っ白な状態、生まれたばかりの赤子同然だ。それではまともに動くこともままならず、力を引き出す以前の問題だ。

 さりとて人格を操作するには少々骨が折れる。何故なら人格の再構築は君が思うほど容易ではない。一度白紙にした上で新たな人格を用意するのは、そうだね、一度完成した芸術品を壊して同じものを作れと言うようなものなのかな? まぁ、いかんせん確実性に欠ける手段である。残念ながらこの案は没となった」

 

 少年は長々と話した後、少女の目を見て僅かな間を置いた。

 

 

「残された手段は一つ。……私は彼女の『罪悪感』を取り除いた」

 

 

 少年は、教鞭を振るって細かく説いた。

 

 何が悪いのか。何が間違っているのか。

 

 今の彼女には、判断することができない。物事の良し悪しを断定する根底の感情を排除された今、彼女の行動を束縛するモノは何も無い。ブレーキを欠いた列車同様、一度下した決定事項が過ちと思った際、足踏みをするのに必要な罪悪感がない以上、踏み込んだ足を引っ込める判断ができない。分からない、のではなく、できないのだ。何故なら、『何故やめるのか』という疑問さえ、差し込むことすらできないのだから。

 

 とはいえ、感情面での否定がなくとも、理性的な否定がある。単純な話である。殺人はいけないことだ、だからしてはいけない。親にそう諭されれば子はその理屈に納得する。倫理的にまずいから、同じ人を殺めるのは法的に禁止されているから。そういった物事の判断ができない年頃でも、親に幾度も教え込まれれば、誰でも否応なしに納得せざるを得ない。

 

 少女は既に自分の中で完成された倫理観、論理的判断基準、常識が存在している。如何に罪悪感を取り除こうと、悪行に対して己の中のロジックと合わないならば、その行為は決行されない。

 

 

 

 本来ならば。

 

 それを、

 

 

 

「あとは、私が耳元で囁けば良いだけさ。君は被害者である、君は力を持つ人間である、君はやりたいことをやれば良い。何故なら君は力を持った人間だ。つまり――選ばれし者なのだから、と」

 

 そう囁くだけで、あとはこの有様。迷うその背中を軽く後押しするだけで、ブレーキのないまま坂を転げ落ちていく。

 

 本当に良いの? と。一度でも迷えばそれで終わり。でもそれはダメなんだと、ストップをかける『何か』が訴えない限り、じゃあやってしまおうとすんなり通ってしまう。論理や理屈が介入するまもなく、下された命令を忠実に実行してしまう。

 

 何故なら、―――所詮理屈など、感情を持つ人間が生み出した言い訳にすぎないのだから。

 

 

「お分かりかな? 所詮、人の道理など、軽く息吹きかけるだけでこの程度、脆く儚く砕け散ってしまうものなのさ」

 

 悲しいね。少年は嘲る様に嗤った。人間という生物の有り様を、唾棄するように。

 

 ゆっくりと、少女は友人へと目を向ける。

 

 認められない。彼女は常々己の過酷な境遇に苦しんでいた。人と違う環境、幼い子供に与えられる無残な仕打ち。どうしてどうしてと、夜な夜な声を押し殺して涙する友の小さく掠れた叫び声を、窓越しに聞くしかできなかった。やがて命さえも投げ出しかけた友に、生きてくれと願い、今まで肩を組み手を取り合って生きてきた。家族よりも強固な絆を感じ、それがいつまでも続いていくのだと思っていた。

 

 思っていた。

 

 思っていたのに。

 

 こんな。

 

 こんなことが。

 

 これが、

 

 

 

 

 

 

 

 これが、やさしかったわたしのともだちなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――否、それは正しい認識だった。

 

 醜悪。少女は眼前で歪に形作られた表情の変化を、心の奥底でただ一言、そう断じていた。本当に人なのか、人であればコレは人間らしい何かを著しく欠如したナニかでしかなく、仮に人で無いとすれば、それは本来ここにあってはいけないモノであり、成る程、それならば、この胸中に渦巻く不気味で不快で気持ちの悪い黒い違和感も和らごう。

 

 せめて偽者であってくれと、最後の希望に一縷の望みを託し、見たくもない現実を、今一度、見る。

 

 彼女の顔は、とても晴れやかだった。

 

 罪の意識から解き放たれ、清清しい笑顔のまま。

 

 

 熱風が吹き寄せる。

 

 耳元で、何かが不規則に揺れていた。

 

「―――――――あ、」

 

 思考が飛ぶ。空白になった少女の身体から、力が抜ける。目尻に熱がたまってゆき、目の前の景色が僅かに歪む。

 

 そうか。

 分かってしまった。

 

 ある意味、そうなのだ。

 

 彼女を救ったのは、私ではなく―――

 

「さようなら。ごめんなさいね。けれども私、この幸せな感覚を、手放したくないの」

 

 友は小脇に挟んでいた本を持ち上げる。象形文字の描かれた不思議な本だった。歪み始めた視界の中で、友の手元で本が大きな光を発していた。それが何をもたらすのか少女にはうっすら理解できていたが、音も思考も何もかも受け付けず、人形のように地べたに座り込んだまま動かなかった。

 

 友は何かを言った。

 

 直後、視界を潰さんばかりの爆光が溢れ、圧力の壁が襲いかかる。

 

「――――――」

 

 名前を呟く。

 

 最後の声は、少女もろとも砕けて燃えた。

 

 

 

 

 

 

 粉塵が、舞っていた。

 

 やがて火柱に飲み込まれ、業火の中へと吸い込まれてゆく。

 

「……さぁ、邪魔者はもういない。もっとも、その邪魔者も塵となって消えたようだが」

 

 少年は、固めていた笑みを消す。立ち昇る新たな爆炎の向こう側をしばし見つめていたが、やがてそれも興味を失い、目を逸らす。

 

 友は肩を下ろすと、小さく息をついた。少年から見る限り、その横顔に憂いの色は一切窺えない。ただ疲れた、という作業の後の一息。それだけである。長年の親友をこの世から消し飛ばしたというのに、罪悪感の欠片さえも抱いていなかった。

 

 御しやすいものだ。少年は内心ほくそ笑む。長々とご高説をたれたものの、結局人間も魔物も精神的構造は大差ない。ただ端から見て如何に滑稽に映るかの差だ。

 

 人間は脆弱である。力もなく能もない。数多存在する生物の頂点に錯覚している愚かな知的生命体。唯一少年が評価できるのは、魔物の力を引き出せるということ、魔物と同程度の知能は持っているということ。その二点だけ。

 

 如何に魔物の力が優れていようとも、引き出す術が無ければ宝の持ち腐れ。忌々しくも引き出す鍵は唯一この人間が持っている。それは認めねばならなかった。

 

 そして、魔物と似た精神構造であるからこそ応用が効いた、精神操作。少年は手のひらを見つめる。かつての世界にいた頃と比べれば力は格段に落ちている。それでも人間の心に細工をする程度、造作もない。子供が粘土をこねるようなもの。想定した形にちょっといじっただけのこと。

 

 所詮こんなものか。少年は、傍らに立つ友の最初の一歩とも言うべき展開に、それなりに満足げな息をつく。どうやら思惑通り、罪悪感は綺麗に取り払われている。これなら今後、人間の心情で状況が悪化することはないだろう。良心とやらのせいで足を引っ張られる、罪悪感に戸惑い力が出せない。容易に想像がつき、少年は肩をすくめた。

 

 ふと、思う。

 

 自分はどうだろう。種族が違うとはいえ、同じ生き物。有象無象ではない、これから共に戦っていく唯一無二のパートナーである。同じ心を持った生き物なのだ。自分の都合で精神を操り、望まぬ戦いを強いる。

 

 それに対する罪悪感を、持っているだろうか。

 

「ククッ」

 

 否、と少年は即座に嘲笑。罪悪感とは、それすなわち罪の意識。己のどこかに存在する良心の呵責が心に生む負荷であり行為に対するブレーキ。脳が叩き出す理論への対抗馬である。

 

 少年とて無情ではない、心ある魔物だ。無残な仕打ちに心を痛めることもあるし、友の境遇に同情したりもした。辛ければ泣くし、嬉しければ笑い、腹を立てれば怒り、楽しいことがあれば胸を躍らせるだろう。行動に行き過ぎた点があるとはいえども、生物の範疇から決して逸脱していない。

 

 心という場所に罪悪感が生じるかといえば、間違いなくイエスである。何故なら感情を持つ生物全てに罪悪感がある。だからこそ躊躇うし、戸惑う。少年は非道と呼ばれる行いに手を染めつつも、やはり一生物である以上、それ相応の感情は持っているのである。

 

 

 

 

 

 もっとも。

 

 罪悪感はあっても、―――抱いてなければ意味はないわけだが。

 

 

 

 

 

「さ、いきましょう。これからは自由なの、もっと楽しく生きないとね」

 

 友はサッパリした顔で踵を返した。轟々と燃え盛る我が家に未練はないらしい。一度も振り向く気配なく、その場から立ち退いた。

 

 なんて良い日なのだろう。友は最後に晴れやかな顔で空を仰いだ。夜の帳を引き裂く赤の色に背を向けて、手に持つ本を大事そうに抱えて。ようやく得た自由の感覚に、大事な何かを欠いた心を躍らせる。

 

 もう戻れない。引き返せない道を進み始めた。行き先は地獄の坂の終着か、それとも奈落の底か。

 

 少なくとも、自由な空を見つめる友にとって、気にも留めない瑣末事だった。

 

「ククク……ああ、今日は本当に良い日だ」

 

 最後に。最後に一度だけ、少年は背後を振り向いた。たった数週間ほどだが、仮宿となった住処が燃えているのを、その目で捉えた。

 

 罪悪感などまったく抱いていない。しかし僅かな間ではあるが、平和ボケした人間の子供と共に生活する体験は、過ぎ去ってみれば思ったほど悪いものでもなかったのかもしれないと、益体の無いことを考える。

 

 それもそのはず。今日という日が訪れるまで、少年は一度たりとも、友の心に手を加えたりしなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さようなら。君とはどこか違うところで会えるよう願っておくよ。―――ミス・ココ」

 

 

 

 

 

 

 


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