いつの日か、その選択を誇れると知って。   作:23番

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四月


その春を、彼と彼女は未だ知らない。

 俺、比企谷八幡は件の合同プロムを滞りまくりながら消化し、無事三年に進学した。新たな教室に胸を躍らせ(動悸)、まだ見ぬクラスメイトに気を吐き(息切れ)、葉山隼人と海老名姫菜の姿を見て天を仰いだ(気つけ)。そんな俺の高校最後の春は救心と共に始まった。

 何が辛いか。事情を知る人物の生温かい視線が一番くるものがある。まるでさも成長を見守ってきたかの様な眼差し、まるで俺が周りをひっかき回して事を起こしたかのような微笑み、そのすべてに心当たりがあり、いたたまれない俺は黒く平たい甲虫の如く教室、廊下の端をかさかさと逃げ回るしかなかった。

 そんなこんなで幕を開けた最後の春、正真正銘、最後の一年。それももう、ひと月を消化しようとしている。

 未だ慣れない新担任の掛け声と終業のチャイムが重なり静かだった教室に音が満ちる。ボリュームのつまみをゆっくりと回すような、そんな緩やかな喧騒が耳に届く。俺はいつものように鞄を引っ掴むと席を立つ。廊下側の真ん中、不思議と四月最初の席替えでベストプレイスに収まった。どっ、と笑いが起こり、鞄を掛けた肩がびくりと震える。条件反射の様なものだった。自分の事ではないのか、そんな大きく膨らんだ自意識はまだ残像のような影として纏わりついていたらしい。ふっ、と自嘲気味に笑い、教室後方を一瞥してから廊下に出る。なんのこともない、新葉山グループ(仮)が稼働しているだけだった。首元を涼し気な風が吹く。顔を上げて右手を見れば廊下の窓が開け放たれていた。さらにその先には新たな担任が去っていく後姿。すでに教室を出ていたのだろう、ホームルーム後も教室に残り、生徒との時間を大切にしていた平塚先生とはかなりタイプが違う。いや、彼女が異質なだけなのだ。俺は踵を返し、逆方向へと歩き出す。

 ふと、懐かしい香りがして、耳に声が甦る。

『待ちたまえ、比企谷』

 後ろ髪を引かれるように歩みが鈍る。唇を噛んだ。ここで振り返ったら、あの細い拳が飛んでくる気がして。

 ひとつ息を吐いて、大きく一歩を踏み出す。

 背中についた何かを、思い出に繋がった何かを、少し突き放すように一歩、踏み出す。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 小気味よく流れる掛け声。空に弧を描く金属音。そのすべてが自分の周りで起こっている音だとは思えず、ページを繰る手が止まった。教室内に侵入してきた音を捜すように首を巡らせると、長机の先、肩を寄せ合う二人の少女が見える。笑い合うその瞬間を切り取ってコルクボードに張り付ける。それだけで画になる、そんな気がした。

 紆余曲折を得て絡まり合ったその糸は、ようやく一つの答えを紡ぎ出した。

「もーわかんないよお!」

 由比ヶ浜が苦し気な声を上げて上体を逸らした。椅子が軋み、俺の視線も逸れる。バレたら何言われるかわかんねえ。

 じとっ、とした視線を感じる。分かる、分かるぞ。今見たら罵詈雑言で心が死ぬ。

「比企谷君」

「いやまて、冤罪だ」

「何を言っているのか分からないのだけれど、あなた、さっきから本ばかり読んでいてまともに勉強していないじゃない」

 雪ノ下の鋭い指摘を、いやまあ、と曖昧に濁す。無意識に手元にあった文庫本を隠した。「今日の分は終わったんだよ」と肩を竦め、「自習の時間にやった」と言う。

「あら、そうなの」

 雪ノ下が珍しく驚いているので、失礼な、と眉をしかめるが、いつもは集中できないから寝ている、と以前雪ノ下に言ったのを思い出す。なんで今日に限って、と聞かれれば上手く答えられる自信はない。

 今の一瞬でスマホを取り出していた由比ヶ浜が声を上げる。「小町ちゃん今日来れないって」

「あら、それは残念ね」雪ノ下が目を伏せ、由比ヶ浜はがっかりを隠そうともせずため息をつく。

 我が妹ながら人心掌握術をマスターしていることには恐ろしさを越えて愛着しか感じない。やだ、俺ってもしかして気持ち悪い?

 小町という単語に今朝のワンシーンが思い出される。朝食時、小町の小悪魔めいた笑み(超絶可愛い)を。

「そういえば今日夕飯いらないって言ってたの忘れてたわ」

 俺が回想しながらそう溢すと、由比ヶ浜がこくりと頷いた。

「確かに、学年のはじめって特に付き合い多いもんね」

「そうね、どこかの誰かさんには無縁の話でしょうけど」

「いやまて、雪ノ下も大概だろ」

 俺はなにくそ、と一石を投じるが、さらりと軽くいなされる。「あら、私は誘われるもの、誘われもしないあなたと一緒にしないでくれる?」

「ぐ」いなすどころか、弾き返してきやがった。

「でも、今年はそうでもなかったかも」由比ヶ浜が唇を人差し指で弄びながら言う。「みんな受験で忙しいからかな」

「だろうな」「でしょうね」

 それきり心地よい沈黙が訪れ、しばらくの間秒針が鳴る。雪ノ下と由比ヶ浜は勉強に戻り、俺も文庫本に目を落とした。長机に肘をつき、腕で隠すようにして読む。

 妙な視線を感じ始めたのは三十分ほど経った頃だ。

 どこからか見られている感じがして教室内を仰ぐが、俺の他には二人しかいない。気のせいか、と再び文字に目を走らせるが、また視線を感じて顔を上げる。

 バチン、と音がしそうなほど、雪ノ下の視線とぶつかった。なぜ? とクエスチョンマーク溢れる俺を他所に彼女は目を泳がせ、あたふたと机上の参考書を手に取って誤魔化そうと動く。なんとなく居心地が悪くなり、俺も身を捩った。

 そこで突然、ピコン! と音がして、俺と雪ノ下の椅子がガタリと揺れる。

「あ、私だ」俺たちの動揺にも気付かず、「なんだろ」と由比ヶ浜がスマホを手に取る。画面を見ると目を見開き、「ねえねえゆきのん! 見て見て!」と興奮したように声を上げた。「パンさんの映画、今日から公開だって!」

 心臓が破裂したのか、そう思えるほどにびくりと肩が震えた。俺の、そして雪ノ下の。

「面白そうだね! 一緒に行こうよ!」

 由比ヶ浜が満点の笑顔をみせるが、雪ノ下の答えは歯切れの悪いものだった。「え、ええ、そうね」

 様子のおかしい雪ノ下の顔を由比ヶ浜が気遣うように覗き込む。

「あ、ごめん、嫌だった?」

「違うの! それは違うわ、由比ヶ浜さん」雪ノ下が必死な表情で否定する。「ただ、その」

 両手の指をもじもじと合わせる雪ノ下に対面し耳を傾けていた由比ヶ浜だが、持ち前の察しの良さをここで発揮してしまう。

「もしかして、ヒッキーと行く予定だった、とか?」

 ちらりと由比ヶ浜の視線がこちらに届く。俺が目を逸らさないでいると由比ヶ浜は目を伏せ、雪ノ下に向き直った。

「えっと、ごめんね、ゆきのん」

 雪ノ下は黙って首を振る。

 合同プロムの後も、誰一人欠けることなくこの奉仕部は続いている。小町が入ったことで寧ろ増えたといってもいいだろう。だからといって新入部員の募集をしているわけでもなく、平塚先生の紹介という仲介もなくなった為に依頼は現在まで一つもない。ただ、俺たちが時間を共有する場所。流れた時間を噛み締め、それを糧に歩み続ける、そんな場所。

 しかし、変わらず流れる時間の中で変わってしまったことがある。

 俺と雪ノ下の関係だ。

 明確な形を口にした覚えはない。明瞭な思いを表現した訳でもない。それでも、確かに俺は、俺たちは変えてしまった。

 由比ヶ浜は、そんな俺たちにも歩み寄ってくれた。

 三人が三人とも、失いたくないと願ったが故の、回答。歪な三角形。

 ただ俺は、もうそれがただの三角形ではないと知っている。どんなに曲がっていようと、どんなに距離が離れていようと、ちゃんと繋がっていると。

「ゆきのん!」

 陽が傾き始め、太陽の赤々とした熱が肌を焦がす。薄暮が影をさがして侵入してくる黄昏時。一際明るく、立ち上がった由比ヶ浜の高い声が教室内に響き渡った。

「二回! 観に行く気ある⁉」

 雪ノ下はぽかんと口を開けていた。

「え?」

「私もパンさん観たいから、今度二人で一緒に行こうよ!」

 大きな何か、この教室を包み込む蓋の様なもの、それが倒れ、闇が訪れる。じりじりとその瞬間を待っていたかのように顔を出す黒い感情。人の心臓を握りこみ、身体の中心へと引っ張ろうとする苦しい感情。時には人を壊す、そんな恐ろしい感情。

 由比ヶ浜の笑顔は、それを解かす。

「いい、の?」

 雪ノ下は首を縮こまらせ、上目遣いに由比ヶ浜を見た。小さな針でちょんと突けば、溢れてしまいそうな大きな瞳で見つめる。

「だって、あたしも観たいもん! ヒッキーばっかりずるい!」

 びし、と俺に向けて指を指す。

「指をさすな、ていうかずるいってなんだよ」

「ね、いいでしょ? ゆきのん」

 事態を飲み込めていなかった雪ノ下だったが、泣きそうだった顔が破顔する。くしゃりと笑い、大きく頷く。

「ええ、ええ、行きましょう」

 何度も何度も頷く。

「ありがとう、ありがとう由比ヶ浜さん」

 雪ノ下が少し溢れた涙を拭い、抱き着く由比ヶ浜に身を預ける。

 教室内に伸びていた影が勢いを緩め、陽だまりが拡がる。奇跡のような光景が、俺の贔屓目であることは間違えようがない。ただ、そう見えているのだから、仕方がない。

 祝福するように風が吹き込み、春が香る。

 陽はまだ長く、夕日とも呼べない位置を保つ。

 西向きの窓、逆光で視界がぼやける。

 逆光だから、仕方がない。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 数分前、由比ヶ浜が大手を振って教室を後にした。その笑顔は晴れやかでありながら、見え隠れする哀愁とのコントラストで、とても魅力的に感じた。

 そして今、なう。

 碇ゲンドウなう。

 え? 何言ってるかって?

 一つの長机。その対極を治める者同士、戦場は膠着状態へと陥った。初めに切るカードを決めかねているような休戦時に、俺の両手は口元を隠すように組まれた。なぜ、このような状態になったか、それは時間を遡ると分かるはずだ。

『あ、もしかして、ヒッキーと行く予定だった、とか?』

 先ほどの由比ヶ浜の台詞。察しのいい彼女にしては遅れた方だと糾弾すべきか、発せられた言葉。それに対する雪ノ下の答えは、無い。思い返してみれば、雪ノ下は一度も俺と行くとは明言していないのだ。

 当たり前だ、誘われていないのだから。

 自慢じゃないが、雪ノ下との関係が少し変わってから二人で出かけた回数は指二本で足りる。無論、合同プロム会場の下見を含めてだ。俺と雪ノ下が出かける時は今まで、利害の一致、目的の遂行、効率性の向上、などを理由としたものが主だった。出かける為に出かける、そんなトートロジーは俺たちとは縁遠い感覚だった。

 今回も例外なく、どちらからともなく映画に行こうと口に出したわけではない。合同プロム後、領収書の不足が露呈した際に価格の確認と称して二人で休日にミスターマックスや雑貨屋を巡った時も、どちらが主導した訳でもなく、「仕事だからな」「仕事だものね」などとハリボテの理論を盾に擦り合わせた。その時、チラリと話題に出たのがパンさんの映画だった。

 俺の泳ぎまくる視界の端に、もじもじと膝を動かす雪ノ下の姿が見える。顔は俯き、さらさらとした髪が垂れている。赤い髪飾りが膝の揺れに合わせてひらひらと誘うように踊る。まるで迷子の子猫じみた姿に、思わず手を差し出してしまいそうになる。

 まあ、それなら簡単だ。俺は雪ノ下に手を差し伸べ続けると決めたのだから。何度でも、彼女が立ち上がろうと決めた後でも、一人で立てるのに、と呆れた顔で言われようとも、分かってて差し伸べるのだ。だから、今回も、

「………っ」

ごめんむり! 言えない! 八幡言えない! 恥ずかしい! 助けて! この腰抜けを助けてコマえもん!

 腰抜けでしたね。腑抜けでしたね。通常営業でしたね。ごめんなさい。

 ただ、こんな俺でも由比ヶ浜がいるときに、三人で行けばいいなどと提案するのが悪手だとは学んだ。二週間ほど前、ありんこの如く地雷を踏んだ俺に、雪ノ下は口をきいてくれなくなった。正確には口はきいてくれるのだが、摂氏マイナスとみられる笑顔を向けて来るのだ。そして言葉が優しい(ここ重要)。因みに機嫌が直るのに丸一日を要した。

 あの雪ノ下でさえ、論理や効率よりも感情が先走る、そんな状態があることに驚いた。いや、それは嘘かもしれない。知っていた、知っていた上で、俺は存外その事実に高揚していたのだ。俺たちは端的にいえば面倒くさい。秘めていた感情が迸った時、論理的な言葉を弄し、効率という名文を掲げて我を通し、義務という隠れ蓑を利用してその情念を覆っていた。これしか知らなくて、これが今の最大限で、考えうる最善だと思い込むことしかできなかった。

 そして俺は、その面倒くささを、狂おしいほど愛しく感じた。

 だから何度でも、差し伸べることを諦めはしない。

「比企谷君」

 空気を少し吸い、声に変換しようとした刹那に名前を呼ばれる。俺の喉が奇妙な音を出した。「おお、どうした」

「あの、私」

 雪ノ下が一瞬言葉に詰まり、意を決したように顔を上げたその頬は桜色に染まっていた。

「パ、パンさんの映画が観たいのだけれど、その、一緒に行ってくれないかしら」

 唇を浅く噛み、頬を染める。逆光でも分かるその希うような表情に、意識が持っていかれた。微かに震える肩も、不安げにくっついた膝、スカートの裾を握りこんでいると思われる腕の硬直。恐らく阿保面の俺を不安げに見つめる、大きく綺麗な瞳。

「あ、ああ」

 辛うじて洩れた返事は言葉とも呼べないものだった。その情けない事実に俺の顔も熱を帯びる。嬉しさとも、恥ずかしさとも、怒りとも取れる不思議な顔で、雪ノ下は捲し立て始める。「か、勘違いしないで頂戴。あくまで由比ヶ浜さんと行く下見みたいなものなのだから、別にあなたでなければいけないという訳ではなく……」ところが急激にその勢いが落ち、雪ノ下がゆっくりと俯く。

「ど、ど、どうした」

 動揺のK点を越えた俺の頬はぷるぷると痙攣していた。

「ご、ごめんなさい。今のは失言だったわ、いえ、虚言と言った方が正しい…わね」

 半分頭がフリーズしていて、雪ノ下の言葉を再生するのに時間がかかった。

「あ、いや、大丈夫、分かってる」

 何を分かっているんだというんだ。

 多分、二人の顔はもう、見ていられないものだったと思う。

 だから俺が、「じゃ、じゃあ行くか」と席を立っても、二人とも俯いたままだった。

 教室の扉を閉める時、雪ノ下が不意に顔を上げ、視線がぶつかる。

 雪ノ下の照れた微笑みは、控えめに言って宇宙一可愛かった。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 付き合ってるというのは気恥ずかしいものである。まじでSNSとかで自慢しまくる奴らの気が知れない。身近な人間、例えば部活中の葉山などに見られてしまえば、仲睦まじいな、みたいな視線を向けられ、一歩外に出れば、あんな美人とこの腐れ男が? という視線に晒される。それらの意識で一番顕著なのが自宅で、ふと写真フォルダを開けば、この女優顔の少女と俺が? という気持ちに駆られる。すみません最後のはいりませんね惚気ですね悪いかよ。

 言っておくが、あの二人突き合っ、的な視線も感じる。年頃の男子高校生といえどあまりに不躾ではないかと思う。一応釘をさしておくが、そう言った行為には及んでいない。なんなら空気すらない。え、ないの…? と俺が思うくらいにはない。

 まあそれも、俺の横で楽しそうに雑貨を見る雪ノ下を見ればどうでもよくなる。

「それ、買うのか?」俺が訊くと、「待って頂戴、あっちのと迷ってるの」と真剣な表情で顎に手をやる。

「まだ映画まで時間あるし、好きなだけ悩めよ」

 雪ノ下は手元のマグカップから顔を上げ、俺の顔を見ると小さく「ありがとう」と呟いた。

 そんな風に言われるとこっちも恥ずかしくなるんですけど……。

 千葉の映画館併設のショッピングモールには『パンさんハウス』というテナントが入っており、パンさんファンには御用達の店として有名だった。雪ノ下もよく利用していたそう(多分)だが、プロムの件などで時間が取れず最近は来れていなかったらしい。総武校からここに来る道すがら、雪ノ下に『パンさんハウス』の話を振ると行きたそうにしていたので連れてきた次第だ。

 雪ノ下が、合同プロム以来ではないか、という程の真剣な眼差しを向ける先にはマグカップとミニタオルがある。一寸の曇りもない視線は少し引くが、それすら可愛、げふん、何でもないです。

「どっちが可愛いかしら」

「お、え、ん?」

パンさん一色の店内を見渡していると、不意に話を振られて若干キョドる。

「どっちがいいかしらって」

 雪ノ下はそう言い、俺の眼前に二つの品を並べて持ち上げる。

 別にどっちも可愛いと思うけどな、などという地雷を頭の中で回避する。指をさすために腕を持ち上げかけて、やめた。雪ノ下の背後に見えたパンさんのエプロンが、古い記憶を刺激した。

「どっちが可愛いかなんて分かんねえよ」

「あら、あなたの主観でいいのに」

「エプロンぐらい目に見えたり、身に付けるものなら分かるかもしんねえけど……」

 俺が雪ノ下の背中側を視線で示す。振り返った彼女はそれだけで俺の頭の中の概要を捉えたのか、向き直って困ったように笑った。

「そういうのは由比ヶ浜に訊いた方がいいだろ」

「……そうね、そうしましょう」

 雪ノ下は納得したように頷くが、その表情は完全に晴れたとは言えないものだった。だからという訳ではないが、俺は商品を戻しにいく背中に小さく語り掛ける。

「なんだ、その、どうしてもっていう時は、ちゃんと考える」

 聞こえなくてもいいか、くらいの声量だったが届いてしまったらしい。雪ノ下の足がピタッと止まる。チラリとこちらを見て、すぐに前を向いた。

「ええ、期待してるわ」

 素っ気ない返事だった。ただ、先ほどより声音が柔らかくなり、足取りも軽くなったように見えた。

 何より、鼻歌と共にチェックのスカートが跳ねている。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

「小一時間ほどもらえると助かるのだけれど、それは無理な相談よね」

 三番スクリーンを出て、トイレを済ますと雪ノ下はこめかみに手をやって唸り始めた。どうやら映画について語ることが多いらしく、それを整理するのに苦心しているらしい。

「別にいいんじゃね、まだ七時前だし、ていうか腹減った」

「そうね、ご飯にしましょうか」

「その間にまとめといてくれ、いくらでも聞くから」

 そう言って歩き出すと、雪ノ下は小走りで追いかけてきて横に並んだ。

「あ、ありがとう」

 意外そうな顔をしてこちらを窺ってくる。

「いや別に、礼を言われるようなことじゃない」

「そう…、そうかしら?」

「そうだよ」

「そう、ね。ありがと」

「結局言うのかよ……」

 すれ違う男どころか、同性の視線までも惹き付ける雪ノ下の隣はまだ慣れず、意味もなくキョロキョロしてしまう。当の彼女は気にする素振りすら見せず、時折ため息をつくなど、恐らく『尊い……』状態に入っていることだろう。Welcome to Underground……

 平日の為、混雑しているとは言えないがそれなりに歩き辛い。対面から来る人を避けようと横にズレるが、雪ノ下は俯いていてついてこなかった。ぶつかる、と思い咄嗟に腰に手を回す。雪ノ下の身体が硬直したのが分かったが、即座に状況を理解すると、ぽしょりと謝って来る。俺が首を振ると彼女は優しく微笑み、再び思案に入る。細く柔らかい感触が、掌に熱く残っていた。

 ひとつ階を上がって俺が立ち止まると、考え事に耽っていたのだろう、いつの間にか後ろに並んでいた雪ノ下が背中にぶつかってきた。

「きゃっ、ご、ごめんなさい」

「お、おお、いいけど、急に止まってすまん」

 何今の超可愛い録音すればよかったごめんなさい。

「って、ここでいいの?」

 雪ノ下が見慣れたオレンジと緑の外観を眺め、次いで俺の顔を覗き込んでくる。

「だ、駄目か?」

「あなたが望むならいいのだけれど、普段何を食べているの?」

「さ、サイゼとか、ラーメンとか、サイゼとか」

「三分の二も占めているじゃない……」

 雪ノ下は呆れたようにため息をついたが、躊躇う素振りも見せずに店内へ足を踏み入れた。

「あ、別のとこでもいいぞ」俺は無意識に手を伸ばす。

 肩口から振り返るようにして、雪ノ下は微笑んだ。

「いいわよ、好きなんでしょ? それに」

「それに?」俺の腕は中途半端な高度で彷徨っている。

「あなたの好きなものは、私も多分、好きだから」

 そう言い残し、ぷいと顔を背けると店内に引っ込んでしまう。

 ボイスレコーダー、買おうかな……。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 食品売り場を通り過ぎ、先に見える自動ドアの奥に目をやると暗く深い闇が拡がっていた。ドリアをエースとしたサイゼ選抜ともいえるメニューを消化し、ドリンクバーをちびちびとやりながら雪ノ下の熱弁を聞くこと一時間、満足げな笑みを浮かべる彼女を引き連れて店を出た。

 既に夜の帳は降り、街灯が点々と延びていた。時刻は八時を過ぎた頃だろう、雪ノ下の家までは三十分程、九時を回ることはないはずだ。

「あ、雨」

 雪ノ下が珍しいものを見つけたかのような声を出す。俺も目を細めてみると、暗い空に薄く線を引いたような雨が降っていた。適当な相槌を打ちつつ肩に掛けていた鞄に手を突っ込む。

「私としたことが、天気予報を見るのを忘れていたわ」

「傘持ってねえのか」

「ええ、でも大丈夫よ、駅までだから」

 自動ドアが静かに開き、春夜の心地よい風に混じって雨の匂いが鼻孔をついた。横では雪ノ下が小さなハンドタオルと取り出したところだった。俺は取り出した折り畳み傘をバサバサと広げる。

「少し歩く、入れよ」

「大丈夫」

「お前、家まで歩きだろ、送ってくから」

「大丈夫よ」

 雪ノ下が意地を張っているのは誰の眼にも明らかだった。そして恐らく、これは彼女の下手なプライドなどではなく、必然的に起こる状況への気恥ずかしさから来ているのだろう。何を隠そう俺も同じだからだ。しかし、それは理由にならない、俺は雪ノ下が風邪を引いたりするのは望まないし、さらにはお世辞にも彼女は身体が強いとは言えない。

 半ば振り切るように歩き出す雪ノ下、その腕を掴んだ。

「いいから、使えよ」

「いいって言ってるのに…」

 こちらを見る雪ノ下の表情は泣きそうとも、恥ずかしそうとも取れた。

「なんだ、その、困るんだよ」

 回転しない頭から咄嗟に出た言葉はそんな陳腐なものだった。

「困る?」

「……ああ、困る」俺は気を落ち着ける為に一度地面を見た。整備されたコンクリートが雨で光沢を見せている。「雪ノ下が雨に降られていると、俺が困る」

 もぞもぞと動き、雪ノ下は俺の腕から離れた。「なによ、それ」

「だから」俺は髪が濡れ始めた雪ノ下に傘をさす。「入れ、俺が困らないために」

 なんだそれ、と自分でも思う。でも、これしか出てこなかった。話しながら理由を探していた。そのどれもが如何に薄っぺらいことか、本心が剥き出しになっている状態で翳す盾のなんと脆いことか。

 ぷ、と空気の洩れる音がした。

「ぷ、ふふ」

「な、なんだよ」

「ふふふ、いえ、なんでもないわ」

 雪ノ下は笑ってしまった事を恥じるように顔を背けた。しかし我慢するつもりはないらしく、明後日の方向を見て肩を震わせていた。

「あの、雪ノ下さん?」

「ふふ、分かったわ。じゃあ、入れてもらえるかしら」

「お、おお、どうぞ」

「お邪魔します」

 すっ、と雪ノ下は流れるように俺の隣に収まる。近づくことで分かる彼女の白く繊細な肌、細く頼りない首筋、そして遠慮がちに向けられた硝子細工の様な大きな瞳。吸い込まれそうなその瞳から視線を何とか剥がすと、折り畳み傘の歪な柄を持つ俺の手に、彼女の細い指が掛けられていた。ぐい、と押される。

「そっちの肩が濡れているじゃない」

「いや、いいんだ、これは」

 雪ノ下が、仕方ないわね、という表情を浮かべた。「あなた、語彙力の低下が著しいわよ」と言うと、俺の身体に肩をピタッとつけてくる。

 俺が慌てて離れようとするとブレザーの襟を掴まれる。身動きが取れない。ふええ、怖いよお、カツアゲと同じ状況だよお。

「離れないで、その」

 体温が下がったその白い肌は、より朱を際立たせる。夕日だから、暑いから、ブレーキランプが、そのどの言い逃れも通用しない、朱が頬にのっていた。

「あなたが濡れると、私も困る……から」

 春、雨、夜。

 こんなに息がしづらい春はない。

 浅い呼吸が鼓動を急かし、血液が滞りなく流れる。

 きっと、きっと酷い顔をしている。

 知らないから、これから知るから、多分ずっと、ずっと先まで、

 春は、熱い。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 エントランス、高級感あふれるそのスペースで雪ノ下はせっせと俺のブレザーを拭いている。何度断ろうと雪ノ下は拭くことを止めない、そのうち俺も諦めて身を委ねた。

「あの、そろそろいいんじゃ……」

 雨に濡れる前より乾いたんじゃないかという程に拭かれ、流石に制止をかけた。雪ノ下はパチパチと目を瞬かせ、そうね、と言って離れた。

「じゃ、じゃあ帰るわ」

 恥ずかしさからその場を離れたく、早口に言う。

「ええ、あの、今日はありがとう」

 雪ノ下は優しく微笑み、少し頭を下げる。見惚れたのは所作の美しさのせいだ、きっとそうだ。

 じゃあな、と踵を返しかけて、「あ」という雪ノ下の声で足がつんのめる。「どうした」

 振り返って雪ノ下を見ると、もじもじと手を前で組んで何やら迷っているようだった。

「ひ、比企谷君、その、相談があるのだけれど……」

 相談? 神妙な雪ノ下の表情に俺は思わず眉をひそめてしまう。

「相談、ってなんだ?」

「無理なら全然いいのだけれど、あの……」

 ごくり、と喉が鳴る。その音が聞こえてやしないだろうか、そんなことを意識すると唾液がさらに喉に溜まり、もう一度唾をのんだ。バクバクと心臓が騒ぎ、胸を突き破らんと内側から叩き続けている。耳がうるさく、外の音は霞がかかる。緊張で視界が収縮し、狭く、雪ノ下だけを捉える。

 どんなことでも付き合う、それはもちろん本心だった。しかし順序というものがあり八幡そんなことしたことないしでもでも…、なんて少女漫画のヒロインの様な脳内会議が繰り広げられているとは露知らず、雪ノ下の小さな唇がゆっくりと動く。

「……チケットの半券を、貰えないかしら」

 ……版権? パンさんの、か? そうか、雪ノ下はパンさんの版権が欲しいのか。いくら俺でもそれは、いやでも、やるしかないか。八幡、逝きまーす!

「はんけん?」

 フリーズした脳みそで辛うじてオウム返しをする。

「ええ、入場する際にあなたが預かってくれていたでしょう? それを記念に取っておきたい、から」

 雪ノ下は、なんてはしたないことを、と言わんばかりの恥ずかしがり様だったが、脳内にピンク色の風船がぱんぱんに膨らんでいた俺の意識は弾けて霧散していた。

「ああ、いいぞ」

 だから、気が抜けていた。

 チケットの半券が挟んであるはずの財布を取り出した時、角が引っ掛かり、出す予定のない一つの物体が落下した。コンマ数秒の自由落下。パサ、と軽い音がして二人同時に落ちたそれに目を向ける。そこには落下の衝撃で運悪くカバーが外れてしまった文庫本、『パンさん100の名言』があった。

 スーパースロー映像を彷彿とさせる、ゆっくりとした動作で雪ノ下がそれを拾う。

「そういえばあなた、部室で文庫をコソコソと読んでいたわね」

 バレてた。

「どうしたの、これ」

「いや、まあ、偶々本屋で見つけて」

「面白かった?」

「そ、それなりに」

 そう、と雪ノ下は言い、文庫のカバーを丁寧に直して俺の鞄に入れてくれた。そのままクルリと背を向けエントランスの機械に近づくと鍵を差し込んでカチャリと回した。

「ゆ、雪ノ下?」

 呼ぶと、彼女はひらりと舞うように振り返る。

「自惚れでなければ、嬉しいわ」

 視線を俺の手元に向け、半券を持っていることを確認すると近づいてきて手を取った。

「あなたが嫌でなければ、また、私とどこか出掛けてくれる?」

 こてりと首を倒す仕草はまるで小さな女の子のようで、庇護欲の様なものがどくどくと分泌された気がした。俺は握りこまれた手を見つめた後、助走をつけるように息を吸う。

「嫌なわけがない」

「そう、よかった、ありがとう」

 雪ノ下は重力が消えたかのように軽やかな足取りで自動ドアに向かう。そのまま住人達の領域に足を踏み入れると、ローファーを鳴らしてこちらを向いた。

 しっかりと右手を上げ、ひかえめに揺らした。「じゃあ、また明日」

 俺は苦笑しつつも小さく息を吸い、聞こえるように声を張る。

「ああ、また明日、な」

 自動ドアが閉まるのも待たず、雪ノ下は歩き出す。廊下の角を曲がる寸前、こちらを見てもう一度手を振ってきて、俺も振り返す。

 姿が見えなくなったところで俺もエントランスを出た。掌を上に向けて雨を受けてみるが、反応はない。空を見上げると、雲に隠されていた月が顔を出している。綺麗な弓張月が澄んだ空で浮いて見えた。何となく雪ノ下のマンションを下から順に見上げていく、首が痛くなってきて、十五階を数えた時、白い何かが見えた。

 それは確か雪ノ下の部屋で、俺は頭痛がしてくる。

 何故かは分からないが、あの艶めかしい唇が別の生き物のように蠢く光景が浮かぶ。

 ―――つまらない。

 そんな、あの人の声が反芻する。

 ただ、俺は前ほど雪ノ下陽乃のことを嫌いではない。

 もしかしたら彼女はとても〝人らしい人〟なのかもしれない、そう思う時がある。捉えどころのない彼女に関して、一つ確かなことがあるとすれば、まだちゃんと、俺はあの人が嫌いだということぐらいだろうか。

 それで問題はない、何も。

 取り繕って、表皮を覆って、欺瞞で塗り潰す。それでいいのだ。〝本物〟さえ見紛うことが無ければ。

 水滴を振り払うように傘を畳む。

 明日に向けて歩き出す。

 そう、彼女に約束したから。

                                    (了)

 

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