―――黄金の一週間。世間がゴールデンウィークと呼ぶその五日間は、春が、その香りを失う前に残した最後の落とし物かもしれない。
「はっ」
表紙につられて買った文庫本。その導入に記された表現に思わず鼻を鳴らした。パタンと閉じ、もう一度表紙を見る。雪が薄く積もった夜の公園でひとりの少女が立ち竦んでいる。その端正で儚げな横顔が誰かに似ていて、思わず手に取った。文体まで見ればよかったと少し後悔しながら、鞄に突っ込む。
ゴールデンウィークに外に出るなど自殺行為。有象無象の人の群れに突撃していくなど、かの特攻部隊を抱えていた国の民であるならば、絶対にやめるべきだと思います。ひきがやはちまん、まる。
ただ、大型連休に噛みついている俺も今現在、自傷行為にひた走っている。携帯を見ると、五月四日、ゴールデンウィーク真っただ中の日付を表示していた。顔を上げれば、目の前を多くの若者が通り過ぎていく。ほとんどが私服だが、なかには制服を着ている人もいる。ちらと彼らの行き先に目を向ければ、壁の看板に大学名と矢印があった。
柱に預けていた体重を浮かせる。券売機に近づき顔を上げれば、上部に設置された路線図を大きく捉える。ひとつの駅にピントを合わせた。
今朝、高校生と思わしき男女がひしめく電車内で人の多さに身を捩っていると、人垣の向こうに見覚えのあるホームがあった。イヤホンで耳を塞ぎ、人の会話から車掌のアナウンスまでシャットアウトしていた為分からなかったが、やはり雪ノ下のマンションの最寄り駅だった。てことは、
「一緒に通うこともできるのか……」
小さく口にしてから、その気恥ずかしさにひとり頭を掻く。
振り返ると雪ノ下がいた。「今日は早いのね」
「…………」
頭に手をやったままフリーズしていると、雪ノ下がぱちぱちと瞬きをする。
「どうかした?」
「い、いや、今、なんか聞いた?」
俺の態度を不審に思ったのだろう、雪ノ下は眉を寄せる。
「何かって、なに?」
「いや、聞いてないならいい、すまん」
あっぶなあああ。あぶ、あぶねえええ。あんな台詞聞かれでもしたら、顔を覆ってのたうち回っておうち帰って叫んでたぞ。
「あ、ゆきのん!」
未だ首を傾げる雪ノ下、その頬がすっと緩むのを俺は見逃さなかった。かくいう俺も例外ではないのだが。視線を声のした方向に揃って向けると、由比ヶ浜が手を振りながら小走りで近づいてくる。その身体に犬のしっぽと耳が見え、俺は思わず目を擦る。
「やっはろーゆきのん! ヒッキーもやっはろー!」
「やっ…、こんにちは、由比ヶ浜さん」
一瞬、雪ノ下は手を上げかけたが、すぐに引っ込めた。それを横目に見つつ、「おお」とぶっきらぼうに返事をする。
雪ノ下の前に立ち止まった由比ヶ浜は、一瞬悩んでから抱き着いた。「ちょっと、由比ヶ浜さん」と雪ノ下はせめてもの抵抗を図るが、強くは押しのけない。念のため由比ヶ浜の背中を見るが、尻尾はなかった、耳も。身体は正直だね、なんて由比ヶ浜が言い出さないかとハラハラワクワクしていると、背筋に悪寒が走った。何かを感じ取ったのは雪ノ下も同じだったのか、由比ヶ浜が走って来た方向、つまり改札がある方へ目を向ける。
あ、と思い出したように由比ヶ浜の肩が縮こまる。「ごめんね、ゆきのん。行きたいって言われて…」雪ノ下はそれに首をふり、「いいのよ」と声を掛けた。それから、再び視線を奥に向ける。
「あんた、まだ二年なのにもう受験のこと考えてんの?」
「えー、まあそんな感じですねー。念のため、的な?」
「ふーん、あ」三浦優美子が、雪ノ下を捉える。「突然で悪いんだけど、雪ノ下さん、今日はヨロシクね」なぜか勝気な顔をする。
「ええ、よろしく」雪ノ下は落ち着いた声音で冷笑を返す。
こっわ……、とじりじり後退りしていると、ちょいちょいと袖を引っ張られた。いつの間にか一色が隣に立っていた。
「ちょっとせんぱい、三浦先輩来るなんて聞いてないんですけど」
「いや、俺はお前が来ることすら聞いてないんだけど」
俺が身を引きながらいうと、一色は大きな瞳を瞬かせ、いっけね、と言わんばかりに舌を出した。はいはい可愛い可愛い。
「優美子も大学について知りたいんだよね! ね!」
由比ヶ浜が手をバタバタとさせる。その様はまるで、揺れ動く天秤をどうにか平衡に保とうと暴れているようだ。
「雪ノ下」と声を掛ける。「そろそろ行かないと目当ての特別講義、席が埋まるぞ」
三浦に張り付けていた視線を悔しそうに剥がし、雪ノ下は動き出した。いや、目を逸らした方が負けとかどこの喧嘩番長?
背筋を伸ばし、実際の身長以上の存在感を感じさせる雪ノ下を先頭に俺と一色が続く。しんがりは由比ヶ浜と三浦が固めた。
「なんだこの編成……」
職業:女王を二人抱えるパーティなんて普通クリア後じゃない? 傍目に見れば強そうだが、その中に加えられた者はたまったもんじゃない。そういえばロールプレイングって大体四人編成だし、ひとり帰ってもいいんじゃないかな?
そんな考え事をしているうちに、陽光の切れ端が無機質な駅構内を彩り始める。ちらちらと目に入る虹色は、今を彩るものなのか、それとも少し先を彩るものなのか、まだ分からない。
× × ×
このオープンキャンパスの目玉のひとつ、テレビにもよく出ている有名教授の特別講義を拝聴する為、その大学で一番広いらしい講義室に入った。しかしすでに席は虫食い状態になっていて、五人が並んで座れるほどの余裕はなかった。二列挟んで二席、三席と空いていた為、二席の方に由比ヶ浜が「優美子と座るよ」と申し出た。俺は三席空いている奥に詰めて座る。
「ふう、なんとか座れたな」
「ええ…、少し見通しが甘かったわね」
俺の左に座った雪ノ下は、不覚だわ、と白装束で腹を切りかねない程に苦い表情をする。あの、世の中の殆どの事と対決していたら身が持ちませんよ?
「なにかしら」雪ノ下が冷たい視線で射貫いてくる。「にやにやして、控えめに言って気持ち悪いわよ」
「控えめにいってかよ……」
俺は右手で頬を揉む。本当に、歪んでいる。俺の人生が苦労することなど自明であるが、雪ノ下も大概だ。価値観は主観である。真っ直ぐすぎる彼女の正義は周囲からすれば認めがたいものであろう。それも、彼女が往々にして正しいが故、劣等感に苛まれる。世の中が間違っているから彼女が間違っているなど、考えるだけで頭が痛い。
「あのー、いちゃいちゃするのやめてもらっていいですかー?」
雪ノ下の奥、つまり左隣から一色が顔を出す。驚いた雪ノ下は頬を染め、「そ、そういうわけでは……」ともじもじ手を動かした。
「え、かわい……」俺は、はっと口を抑える。心の声が出てしまったかと一瞬焦るが、耳に届いたその音は一色の言葉だった。「ちょ、雪ノ下先輩可愛すぎません? それわざとじゃないんですか? 素なんですか? 私って一体……」
一色が何か重たいもので後頭部を殴られたように身体を揺らしている。
雪ノ下の横顔を見て、『でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる』という言葉が思考を横切る。
肌が粟立つ、それから、眩しくて目を逸らした。
わっと歓声が上がり、教壇近くの扉から見覚えのある薄毛の男性が登場した。下品な指笛が講義室に響き、それに呼応するように立ち上がる高校生も現れる。一色が口を半開きにして手を叩く様子が横目に見える。
数回叩いた手を、すっと下げる。熱を持った何かに当たる。びくりと彼女の肩が強張るのを感じる。未だそこにある彼女の小指に手を絡めた。
雪ノ下の端正な顔がこちらに向けられるのが分かった。
でも、それに応えることはできない。ただ、その小さな彼女を抱き締める。
× × ×
心地よい風が手をすり抜けて頬を撫でた。火照った顔に、冬の残り香を感じさせる風が染み渡る。ベンチに座って抱えていた頭を上げ、思い思いに前を横切る高校生を景色の一部として捉える。左手に残る微かな熱を思い出し、再び目を伏せた。
特別講義が終わり、次のブースに向かうことを固辞して今に至る。雪ノ下の顔が見れなかった。なんであんなことをしたのか、今問われても、それは情けない言葉にしかならないだろう。
ベンチがきいと鳴り、隣に誰か座りましたよ、と伝えてくる。由比ヶ浜たちはブースを回っているはずで、恐らく別の団体だろうとそのまま地面と会話し続ける。
数分後、「あんさー」という聞き覚えのある言い方に顔を上げる。三浦と目が合う。「これ、飲む?」ペットボトルを差し出してきていた。
「え、ああ、さんきゅ」予想だにしていない出来事に、思わず従ってしまった。受け取ってしまったものは仕方なく、キャップを開けて口を付ける。
「あんた、体調大丈夫?」
「あ、ああ、なんでもない、大丈夫だ」そういやこいつ、いつぞや一色がふらついてた時も声かけてたな、流石姉御肌。「すまん、いくらだった」
「別にいいって」三浦はぶっきらぼうに答える。
「いや、そういう訳にもいかんだろ」
深い仲でもない、意地でも払おうと財布を取り出すと、三浦が口を挟んだ。
「お金はいいからさ」三浦が息を詰まらせる。「ひとつ聞いていい?」
聞き終わる前から無言で百円玉を二枚摘み出し、三浦の横にぺちりと置く。それを見た三浦が口を震わせ、顔を引き攣らせた。「は⁉ あんた――」
「そんな対価払わんでも、聞きたいことがあるなら聞けばいい」
三浦が言い切る前に、ぴしゃりとシャットアウトする。財布をしまい、煽るようにペットボトルを傾けた。
「なんか、ムカつく」
「悪いな、部長の方針なんだ」
部長の考えは一応、正当な対価は貰う、というものだ。しかし、いち学生の俺に質問することに代償が発生するほど、こちとら人間できちゃいない。ていうかまともな答え出せる気しないし…。
「で、なんだ」
俺が沈黙を嫌い、先を促すと、三浦はゆっくりと口を開く。
「あんさ、あんたらって、どうやって大学選んでんの」
まるで、私のこの質問は墓場まで持って行け、と言わんばかりの目力に気圧される。急かされている気分で、俺は慌てて言葉を紡いだ。
「ま、まあ、普通は自分の目標に合うかどうかだろうな。これになりたいだとか、これを叶えたいだとか。例えば公務員になりたいなら、その大学の公務員試験合格率を見ればいい」公務員試験合格率と就職率の関係が喉を出かかったが、恐らく必要ないだろうと押し込む。「他にも、受けたい教授の講義、ゼミを目的にする奴もいるんじゃないか」さっき聞いた特別講義も、この大学に入れば抽選で受講できるそうだし、と付け加えて三浦を窺う。
「そっか…」と呟く彼女は神妙、というにはいささか哀しみの色が濃い表情をしていた。俺は違和感から目を逸らし、コンクリートの地面に視線を落とした。濃淡を生かしてモザイク模様が描き出されている。そのどれもが白でも黒でもなく、曖昧なグレーで心がざわつく。
「――なんて、考えてるやつ、いんのかね」
「は?」
気付いた時には、その声は三浦の鼓膜に届いていた。自分に呆れてため息をつき、言葉を重ねる。
「俺、大学の中身そんなに重要視してないし」つい先ほどまで講釈垂れていた俺があけすけとものを言うので、三浦の表情が固まる。「だって、どんなところか分からねえだろ。こんなオープンを謳って開催しても、実際どうなのかなんて全く分からん」不機嫌になる寸前、そんな雰囲気の三浦の眼の奥を叩くイメージで続ける。「だから、探しに行くんだろ。やりたいことが見つからないから、皆探しに行くんだ。理由なんてなんでもいい、誰かと一緒に通いたいでもいいんだ。とにかく受かって、その時出来ることに必死になれば、きっと見つかる」
しゃべりすぎたな、と襟足を掻きながら三浦を窺うが、表情を見る限りどうやら満足してくれたらしい。
「なんか、生意気、ムカつく」彼女は少々乱暴にそういい、立ち上がると携帯を耳に当てた。「あ、結衣?」
その背中に向けて、「悪かったな」と弱々しくぶつける。
三浦はくるりと振り返り、薄い唇を動かした。
音はしないが、その波は確かに伝わった。
俺も重い腰を上げて歩き出す。
進まなければ、何も見つからないと知っているから。
× × ×
僅かな喧騒の中、耳を澄ますと、かち、かち、と規則的な泣き声が聴こえている。文字通り一秒と休まず時を刻み続けるその秒針を目で追っていると、一周したところで声を掛けられた。
「せんぱい、雪ノ下先輩とデートとかしてるんですか?」
なんの脈絡もなく、不躾に投げかけられた問いに、先輩らしく咳払いをして答える。
「な、げほっ、こほっ、ちょ、むせ、はっ、ああ、え?」
「いやせんぱい、テンパりすぎです大丈夫ですか」
一色が残念そうな視線、それも使い古された雑巾に向けるような哀愁を称えながらティッシュを渡してくる。「けほ、すまん」
三浦との会話の後三人と合流し、大学内にあるカフェで軽く昼食を済ませる。十四時前には目的のブースは回り終え、解散する運びとなった。駅のホームで別れる直前、再び勝気な笑みを浮かべる三浦の表情は、どこか晴れやかに見えた。
そして当初の予定通り、雪ノ下と由比ヶ浜は雪ノ下邸で開催される誕生パーティーの準備に向かった。俺の仕事は準備が終わるまで一色の相手をすることだった。とはいえ、俺に時間が作れるわけもなく、結局は一色の買い物に執事のように付いていくだけとなった。
どうにか呼吸を落ち着け、ちらりと目を転じれば場所は木の香りがしそうな小さなカフェ、俺の隣には一色の購入した服が入った紙袋とビニール袋があった。ファッションショーを見せられている気分で、「似合う似合う」と連呼する簡単なお仕事の成果だ。あれ、俺に還元されてなくない? 今どきポイントでも還元は必須だぞ?
「はあ…で、なんか言った?」
俺は平静を装い、人生の先輩として聞こえぬふりという汚い手札を切る。休日前の仕事メールはみざる、帰社直前の着信音はきかず、断定的な意見はいわず、これぞ古くから伝承される三社畜の特技だ。
「いや、雪ノ下先輩とデートはしてるんですか、って聞いたんです」
一色はあっけらかんとした様子で同じセリフを繰り返す。ううん、この子に社畜の才能はないのかな?
「ええ…、そんなこと聞いてどうすんの、なに、脅しにでも使うの」
「だから、せんぱいは私の事なんだと思ってるんですか…」
「元請」
「もー、よく分かってるじゃないですかー」
うへえ、と舌を出していると、すっと手が伸びてきて頬をつねられる。「いてえ」
「答えてください」
いろはすこわあ…、と負傷した頬に手を当てる。「まあ、偶に…だよ」
「ちっ、惚気かよ」彼女は大げさに舌を打った。
「ちょっと一色さん? 失礼じゃない?」
てへぺろ、と可愛らしくウインクを決め、下から覗き込んでくる。見透かされそうな上目遣いに居心地が悪くなった。
「週に一回ってとこですか?」
何かを試すような視線。まるで、私にはそれを聞く権利があると、基本的人権の尊重を主張するかのように強く身を乗り出してくる。せんぱいに人権があるように、私には聞く権利があるんです、とか言い出しかねない。
居心地悪くコーヒーを口に含み、俺は明後日の方向を見る。「合計で三回だな」
「はあ、なるほど、まあせんぱいにしてはよくやってるじゃないですか」
一色は感嘆のため息と共に、ソファの背もたれに身体を沈みこませた。ちらりと捲り上がったスカートの奥に視線が吸い寄せられ、慌てて剥がす。それが原因かは分からないが、一色は膝小僧を殊勝に隠した。
ちうちうと、唇を尖らせてカフェオレを飲む姿はどこか不機嫌だ。
十六時過ぎ、夕食前という事もあり店内のひとはまばらだ。じとっとした目つきをする一色からどう逃れようか、と思案すること数分、「一応、内容訊いていいですか」と彼女が口を開く。
「は?」銀行口座の暗証番号でも聞かれたのかと錯覚する。
一色の湿度は高いままだ。「どういうデートだったのか」
「どういうも何も…」
普通だろ、と言う前に塞がれる。「一回目は?」いくら画面をスクロールしても、『答えない』という選択肢がないことを悟り、項垂れる。ついでにいうと、『逃げる』もないし、『たたかう』に至っては最初からない。
「まあ、買い物だな」「二回目は?」「まあ、買い物だな」「三回目は?」
少し胸を張る。
「映画観に行った」
「ああ、パンさんの」
一色は一瞬思案し、それから人差し指をピンと立てた。
「ショッピングっていうからには、何を買ったか聞いていいですよね。夏物の服ですか? あ、でも浴衣もいいですね」
俺は目を逸らす。
「ハリパネ」
一色の顔があからさまに曇る。
「―――ほんっとありえないです! 付き合ってひと月少々なんて、多少あつあつなくらいが丁度いいんですから! なに自信満々に、三回、とか言っちゃってるんですか、それ実質一回ですから!」
「いや、誰も自信満々には」
「そこうるさいです。とにかく付き合ってもデートないとか、せんぱいは釣った魚に餌やらないタイプの男ですか! 期待させるだけさせておいて、手元に置いたら放置の女たらしですか!」
一色が嘆くように頭を抱えるが、その顔がどこか楽しそうで反応に困る。
「いやまあ、そこは温かい目で…」
俺は誰になんの願いをしてんだ。
ひとしきり暴れた一色はソファに深く腰掛けるとカフェオレで一息つく。「まあ、せんぱいですしね」
「そうそう、だからあんま期待すんな」
俺も開き直り、もはやふんぞり返りそうな態度で残ったコーヒーを煽る。
「まあ、期待通りというか、なんというか」一色は呆れた顔で、「とにかく女の敵です」と笑った。
携帯に着信が入り、出ると雪ノ下のくぐもった声が聞こえた。少し新鮮なその音に身を委ねていると、『ねえ、ちゃんと聞いているのかしら』と叱られる。
「ああ、ちゃんと聞いてる」
『そう、ならいいわ、じゃあよろしくね』
電話を切ると伝票を持って立ち上がる。
「行くか」
「はい!」
店を出ると、何故か日の長さに驚く。それが一日の濃さからなのか、それともただ季節によるものなのか、そんなことを考えて頭を振る。重要なのは二度と戻らない今だ。街を焼く西日、複雑な模様を描き出す木立、逆光に目を細める一色、三歩先を照らす街灯。
きっと、すぐ終わってしまうから、好きな時間は短いから、だから、
こんなに眩しいのだろう。
× × ×
数字が順に増えていく、その切り替わるスピードと、箱にかかる重力が比例していないように思えた。十五階に登場したところで喉を鳴らす。扉が開き、家のリビングがすっぽり入りそうな廊下が姿を現す。毎度のことながらそのスケールに頭がクラクラする。左に折れれば、一五〇七のナンバープレートが見えてくる。
初めて訪れた一色は緊張した面持ちで、ここですか、と目配せをしてくる。別にしゃべってもいいんだよ? なんならそこら辺の建物より防音されているまである。
「早く開けろ」じゃないと中の奴等がいつまでも可哀想だ。
「は、はい」
一色はそっとノブに手を掛ける。その重厚な扉を罠でも警戒するようにゆっくり開けるものだから、俺は思わず右手を伸ばし彼女のノブを握る手に重ねる。一色の肩が震える。構わず開ける。その刹那、
パンッ! パパンッ!
「いろはちゃん! お誕生日おめでとう!」
普段は暗く、どちらかというとラグジュアリーな雰囲気の玄関。それが飾り付けられ、華やかなパーティー会場へ向かうエントランスに様変わりしていた。休符を挟んだのち、雪ノ下、由比ヶ浜、そして比企谷小町のクラッカーによって注がれた紙吹雪をその身に受け、一色は飛び切りの笑顔をみせる。
「ありがとうございます!」
飾り付けられたリビングで豪華絢爛なメニューを思うさま貪り、最後に奉仕部の女性陣によって作られたホールケーキを平らげた。当初は緊張気味だった一色も、食事が終わるころには随分肩の力が抜け、今は足を崩している。由比ヶ浜は幸せそうな顔をしてお腹を押さえていた。雪ノ下と小町がお茶を淹れてくれたので、俺は猫舌と格闘を始める。
「でもほんと、皆さん受験で忙しいのにすみません……」一色が我に返ったように身を縮め、由比ヶ浜が首を振った。「ううん! 遅れちゃってごめんね!」
雪ノ下も湯飲みにそっと口をつけ、ほっと息を吐いた。
「ええ、その点は心配ないわ、由比ヶ浜さんには別で課題を用意してあるから」
「そうだったの⁉」由比ヶ浜が項垂れる。
「当たり前じゃない」
一色が嬉しような、恥ずかしいような顔で二人の会話を見ている。
「あら、何を笑っているのかしら比企谷くん、あなたの分もあるのよ?」
「まじかよ」アホの子と同じように頭を下げると、隣に座る小町が「うんうん、いいお義姉ちゃん……」なんて一人で納得している。
「プレゼントは当日に貰っちゃってましたし、私なんかの為に、ありがとうございます」
俺以外の三人が優しく首を振り、話題を変える。そしてその内容がカフェで一色に話したものであったために、食器をまとめてキッチンに引っ込んだ。戦略的撤退と言ってくれ。
シャカシャカと皿を洗っていると、隣に人が並ぶ。
「手伝うわ」
「…サンキュ」
迷って、ありがたく受け取ることにした。
リビングの方では一色と小町のハイテンションな声が聞こえている。その幸せな音に耳を傾けながら、雪ノ下の長い睫毛に気付く。ぱちり、と音がしそうなほど瑞々しい瞬きに我に返る。
「そういえば、結局仲良くなったな」
「一色さんと小町さんのこと?」
「ああ」
俺が泡を落とし、雪ノ下が皿を拭いていく、一枚一枚渡すタイミングが合うだけで、小さく心臓が弾むような気がした。
「私は最初から分かっていたけれど」
「そうなのか?」
「ええ、だって」雪ノ下はその時だけ手を止めた。「どちらも、私が大切だと思った人だもの」照れ隠しか、絹の様な髪を耳に掛けた。形のいい耳が露出する。
「ふっ、そうだな、そうだ」
「その含みのある言い方が気になるのだけれど、まあいいわ」
棘の丸い言葉を翳し合い、自然と口角が上がっていた。その事実に気が付くのは、家に帰ってからになる。
永遠に、この時間が続けば、あわよくばそのまま専業主夫になれないか、そんな果てしなくどうでもよく、呆れるほどくだらないことを沢山考えた。
× × ×
エントランスを抜けて一方通行の自動ドアが開く。「あ」とわざとらしく声を出した。「悪い、携帯忘れた」振り返る由比ヶ浜、小町、一色の顔も見ずに踵を返した。ひとりで乗り込んだ箱のスピードはさっきより遅く感じた。世界の理に反しているからか、これからそれを犯そうとしているからか。
一五〇七のプレートを一瞥する。逡巡の後、インターホンを使わず小さくノックをした。自嘲気味な笑みが零れる。これで反応が無ければ、俺は今日をやり過ごすのだろう。
無情にも、その扉は開く。
「来ると思っていたわ」雪ノ下の表情は優しい。「これでしょう?」その繊細な手には俺の携帯が載せられていた。
「…ああ、すまん」
雪ノ下は眉を下げる。「そんな、謝ることではないわ」
「そう…、だな」
ゆっくりと視線が下がる。薄手のカーディガンに包まれた細い肩。すこしの力でぽきりと折れてしまいそうな華奢な腕。それから、そっと携帯を受け取った。
「どうかしたの?」何かを察した雪ノ下が、首を傾げる。
なんでもない、そう答えそうになる自分をグッと抑えた。
世界を相手にするなんて馬鹿げた表現だ。誰も見たことのない深い森に足を踏み入れるわけではない。そこは既に荒らされて、よく見れば無数の足跡が地面を埋め尽くしている。
周回遅れどころじゃない。
でも、後ろを振り返れば、掘り返して埋めた種が芽吹いている。きっと、世界は変わらない。それはたとえ誰の命を賭したとしてもだ。万物は流転し、間違いも流転する。俺が切った世界を、彼女は愛し続けている。その事実に、
俺は高揚しているのだ。
「一緒の大学に行こう」
呼吸の延長線上、そんな雰囲気で発せられた言葉に、雪ノ下は驚いて身体を固めた。ただ、大きな瞳の奥でゆらっと動く何かが見えた気がした。
「必ず受かる、だから――」
言葉を遮るように、ぽす、と胸に何かが当たる。それは雪ノ下の額で、小さく握られた拳だった。
「ええ、一緒に頑張りましょう」
くす、と笑う声が聞こえてくる。それは伝播し、俺の肩をも震わせる。二人でひとしきり笑った後、雪ノ下の背中に手を回すと、びくと身体が跳ねる。小さなその存在を、優しく抱き締める。
臆病は伝染する。
そして、
勇気も伝染する。
誰の言葉だったか、まあ、今はいいか。
(了)