人生は概ね不毛だ。
小説のような感動的な――実際には箸にも棒にもかからない駄作が殆どだが――出来事なんてめったにない。
英霊が聖杯を巡って死闘を繰り広げる戦争なんてあるわけないし、残念な美少女たちと部室で戯れることができる部活も現実にはない。軽音楽部の卒業旅行でイギリス旅行に行って偶然2回もバンド演奏することはもしかしたらあるのかもしれないが、そのメンバーに可愛いツインテールの後輩が混じっている確率は絶望的に低い。
その事実に気付いてしまった不幸な人間に残された選択肢は、現実を受け止めて大人しく生きるか、現実から逃避するかのどちらかしかないのかもしれない。
でもな。
つまらない人生の中にも、自分にとってゾクゾクできる何かを見つけることは不可能じゃない。
胸躍る冒険や世界征服ほどではないにせよ、世界には俺が参加できる愉快な物語がたくさんあるはずだ。いや、間違いなくある。
こう断言できる根拠だってある。
何も知らないくせに人生が退屈だとか偉そうなことを言って、自分勝手に振舞う生意気な妹に挫折を味あわせること。あいつの顔が屈辱に沈む姿は、きっと見物だろう。
それを実現できるのは俺だけしかいない。
最高にゾクゾクするじゃないか。
「おい、お前ら、ちょっと話がある」
桜井がアイラとの体育館ディベートで勝利して数日後。熱戦の余韻も薄れつつあった平常運転のディベート部にとって、意外な来客が現れた。
いや、正式には客ではなく、れっきとした部員なのだが。
「あら、不良学生がこんなところに何の用かしら」
冷たいアイラの声が迎える。橘の顔もひきつっている。
「ずいぶんな対応じゃないか。俺だって一応部員だぞ」
「そういえばそうだったわね。忘れていたけど、ディベート部にこんなヘタレ部員がいるなんて、恥ずべきことね」
「相変わらず口が悪いなアイラ。こんな無礼な妹を持つなんて、恥ずべきことだ」
平和だった教室の雰囲気が一変する。たまらず、桜井が割って入る。
「勇人先輩、いったい今日は何の用ですか」
そう聞くと、勇人の歪んだ目つきが鋭さを増した。
「今日は、生意気なアイラに本当のディベートを教えてやろうと思って、わざわざやってきた」
「本当のディベート? キスもしたことのないお兄様が、私にディベートを教えてくださるの」
完全に挑発モードに入っている、どう見ても論理的におかしな応答。しかし勇人は構わずに続ける。
「馬鹿は実際に体験しないと分からないだろうから、俺が直接手本を見せてやることにする。アイラ、お前は誰か好きな部員とチームを組め。俺が直々に試合の相手になってやろう」
「……宣戦布告、ってことかしら」
「そう受け取ってもらって構わない」
突然の提案に、アイラも些か驚いた様子で目を見開いている。
しかし、誰よりこの事態に驚いているのは、桜井であった。誰も寄せ付けない完璧な議論を展開するアイラと、それを凌駕する実力を持つという勇人のディベート対決。それは、ただの兄妹喧嘩を超えて、ものすごくゾクゾクするステージではないか。不謹慎かもしれないが、正直なところその試合を見てみたい。
アイラの言葉を聞くまで、桜井はそんなことを思っていた。
「………分かったわ。じゃあ、アタシは桜井クンと組んで、お兄様にディベートを教えて差し上げることにするわ」
「受けるということだな。偉そうな物言いはとりあえず勘弁しておいてやろう」
「ちょっとまってください、先輩方、いつの間に俺を巻き込んで……」
「何か問題ある? 桜井クンの実力をこのヘタレに見せ付けてあげるチャンスよ。このアタシがついている以上、負けるはずないじゃないの」
「そういうことらしい。アイラのようなじゃじゃ馬と組んで議論をするのは苦痛かもしれないが、付き合ってやってくれ」
桜井の抗議に耳を貸すような二人ではなく、兄妹のやり取りは試合の方式に関する話題に移っていた。
「論題は何にするのかしら。わざわざやってきたくらいだから、きっと素敵なテーマを考えてくれているのでしょうね」
「論題はそっちで自由に決めてもらっていい。そのくらいハンディがないと勝負にならないだろう。ただし、せっかくの勝負だから、政策系の論題を選んでほしい」
「あら、女性経験に乏しいことを心配して、お堅い論題をご所望ということかしら」
「お前らが前に体育館でやったディベートが至らないものだったことを心配して、同じ政策系の論題で鍛えてやろうと言っているのだ」
「それじゃあ、ユーモアの足りないお兄様のために、政策論題を選んで差し上げますわ」
まったくかみ合わない会話ながらも、試合の段取りはどんどん進んでいく。九重崎兄妹も、試合自体は待ち望んでいたのかもしれない。
「もうひとつハンディとして、試合まで一週間準備時間をやろう。論題の発表は試合開始二十分前でいい。つまり、お前らは丸々一週間議論を考えることができるが、俺は試合直前までに準備することになる」
「それは…ちょっと……勇人先輩に不利すぎるような………」
思わず橘もつぶやくほどに、それはアイラたちに有利な条件だった。
ディベートにおいては、議論を準備する余裕があればあるほど、強力な議論を展開することができる。普段のディベート部では即興に近い形で試合をしているが、よくよく検討してみれば、即興ゆえの詰めの甘さが多々見られるものだ。
論題が分かった上で一週間もの準備時間が与えられたら、自分たちの議論を強固に作り上げるだけではなく、相手の議論を予想して、徹底的に対策することができる。勇人の提案は、そんな法外なハンディを、アイラたちに与えようというものである。
「大した自信ね。……いいわ、受けてあげる。その代わり、どちらのサイドで試合するかは、論題を聞いてからそちらで決めていいわ」
「そうだな。およそ否定できないような論題で否定側をやらされては、さすがの俺もどうしようもないからな」
「じゃあ一週間後、この教室で会いましょう。そうね…判定は本郷部長と橘ちゃんにお願いするわ。でも、引き分けは困るからジャッジはもう一人必要ね…」
「では三人目は私が引き受けましょう」
突然の乱入者に、驚愕の表情を浮かべるディベート部員。その目線の先には、にこやかに笑う、校長先生がいた。
「実は私も、昔ちょっとディベートをかじったことがあるのですよ。それに、いろいろ問題を起こしているというディベート部がいったいどんな活動をしているのか、私としても興味がありますからね」
おだやかな表情を崩すことなく、校長先生は続けた。
「皆さん、構いませんよね」
あのアイラにも、勇人にも、異論を差し挟む余地はなかった。