(弁護士業界の実情は、一頃より就職は楽になっているようですが、そこまで変わらないところです)
「というわけで、早速議論の準備をはじめるわよ」
「…先輩、やっぱり俺が参加することになっているのは納得行かないんですけど……」
「桜井クン。あのヘタレは、アタシだけでなく、あなたのことも馬鹿にしているのよ。あの男がさりげなく、体育館ディベートの中身にケチをつけていたのに気付いてなかったの?」
確かにそんな発言はあったが、あまりの展開の速さに、桜井にはそれを気に留める余裕はなかった。改めて思い出した桜井の目には、じわじわと怒りの色が現れてきた。
「わかりました。やるからには絶対勝ちましょう」
「当たり前よ。負けるなんて言葉はアタシの辞書には存在しないんだから。……とはいえ、アイツが相手ってのは、悔しいけれど厄介ではあるわね」
あれだけ馬鹿にしていても、さすがに実兄の実力は認めざるをえないらしい。それだけ、勇人のディベートは手ごわいということだろう。
そして、実際に勇人に鍛えられた桜井自身が、そのことを嫌というほど分かっている。
「どういう論題を選ぶかがポイントになりそうですね」
「そうね。じゃあ、その役目は桜井クンに任せるわ。アタシをゾクゾクさせるような素敵なテーマをよろしくね」
「えっ」
それは桜井にとって意外な大役だった。入部して以来、桜井が論題を作ったことはまだない。そしてこの勝負は、ただの試合ではなく、アイラと勇人のプライドを賭けた大勝負だ。
「論題なんて気軽に考えればいいのよ。桜井クンが気になった問題と関係する政策をテーマにするだけ。ただし、当たり前だけど、実際に行われている政策はやめてね。議論できないことはないんだけど、とってもややこしいから」
そんなレクチャーめいた、説明にもなっていないような説明を一通りしたなり、アイラはおもむろに帰ろうとする。
「そんな、俺、自信ないです」
「期待してるからね」
不安げな桜井の頬を柔らかな手の平でそっと撫でて、アイラは帰っていった。
「……そんなことされたら、断れないじゃないですか」
桜井に論題のあてなどあるはずはなかった。夜通し考えても、論題のアイデアは一向に出てこない。
今思えば、毎日のように議論の種になる論題を用意していた本郷やアイラは凄いことをやっていたんだなぁと、桜井は改めて感心させられていた。
しかし、感心しているだけでは論題はできない。
まずは行動あるのみ。
「なぁ、最近気になるニュースとかないか?」
「はぁ? いきなり何だよ」
「いいから。お前もニュースくらい見るだろ」
「……そうだな、俺の愛しのアキちゃんがミュージシャンのトム・フックと交際してたってニュースだな。くそっ、嫌なこと思い出させやがって……!」
「誰だよアキちゃんって。そんなニュースあったか?」
「誰だよって、お前『花咲くアロハ』の奈子ちゃんのCVをやってるアイドル声優のアキちゃんを知らないのか! 信じられねーな」
「そもそもお前がアニメ好きだったこと自体知らなかったよ」
「アキちゃんは特別なんだよ! お前も一回見れば分かるよ」
一番手近だという理由だけで郡山に質問したことをさっそく後悔させられる、ある意味想定内の反応。しかし、桜井も一度話しかけた手前、CVって何だよとか、ハワイっぽいタイトルのアニメの内容などはスルーして、当初の質問を続けることにする。
「その話は後で聞くとして、俺が聞きたいのは、社会問題とかそういうニュースのことなんだが」
「そんな難しい話俺に聞くなよ。もしかしてそれって、またディベート部絡みか?」
「その通り」
「お前、ほんとどうかしちゃったんじゃないか。まぁ俺には関係ないけど、お前どうして、そんなにディベート部に関わるんだ? やっぱりあの美人の先輩のためか」
「そんな理由でディベートをやってるわけじゃないよ」
九重崎の話題になると、どうしても動揺が抑えきれない。しかし、桜井の心の揺れに気付くほど、郡山は敏感ではない。
「まぁ、付き合ってからも部活を続ける必要はないもんな。ディベートが将来役に立ったりするとか、そういうことか?」
「いや……そういうわけでもなくて………」
桜井はまだ、アイラのように「全身がゾクゾクする」といったストレートな言葉でディベートの楽しさを語ることができなかった。説明したところで、郡山に伝わったかどうかは定かではないが。
「ディベートって要するに、相手を議論でやっつける競技だよな。そういう競技をやってたら、将来弁護士とかになって、たっぷり金を稼げたりするんじゃないか。もしそうなら、ディベートをやるってのも悪くないな」
郡山はディベートや弁護士の仕事について大いなる誤解を抱いているに違いないのだが、桜井がそれを正す暇はなかった。
「郡山君、弁護士なんてそんなにいい仕事じゃないわよ。私の従兄が弁護士を目指しているんだけど、大学院にすごくお金はかかるし、試験は難しいし、そのくせ合格しても弁護士が多くなりすぎて仕事がないから、就職も大変らしいの。うまく行って大きな事務所に就職できても、奴隷のような忙しさで過労死寸前って話よ。私は絶対弁護士にはならないわ」
「……新村、お前何か弁護士に恨みでもあるのか?」
「そんなことないけど、ちょっと気になったから。話の邪魔してごめんね。じゃあ、私は先に部活行ってるから。桜井君もまた明日!」
新村は従兄と何かあったのだろうか。そんな疑問を抱いて然るべきところであるが、桜井はそんなことが気にならないほど興奮していた。新村の思わぬ発言に、論題のヒントを見出したのだ。
もちろん、弁護士になるつもりなんて微塵もないし、弁護士への同情も全然ない。そんなの、試験を受ける前に分かっていたことなんだから、新村の従兄には悪いが自己責任だ。
でも、仕事がしたくても仕事がなくて働けない人がたくさんいて、その一方で過労死する人間がいるというのは、弁護士業界だけではない。
そんなアンバランスな状況を改善する政策はないのか?
あるとして、どうして実施されていないのか?
桜井の足は、まっすぐ図書館に向かっていた。
「いいじゃない。はじめて決めた論題としてはセンスがあるわ」
桜井の決めた論題は、とりあえずアイラのお眼鏡に叶ったらしい。
「そう言ってもらえてほっとしました」
「アタシは桜井クンを最初から信じてたけどね。じゃあ後は、この論題を元に議論の準備ね。」
それからの毎日は、テーマの政策についてインターネットや本で調べ、展開できそうな議論を考えることで暮れていった。普段の即興ディベートからして、一週間というのは長い準備時間に思えたが、実際に準備してみると、考えても考えてもキリがない。
「先輩、こうやって試合前に準備してディベートしたことってあるんですか?」
「ううん、アタシはそういう面倒くさいのが嫌だから。それに、直前に論題が分かる方がワクワクするでしょ」
「じゃあ、こうやって事前に準備してディベートするのは初めてなんですね」
「そう。あのヘタレバカ、それを知ってて、ハンディだとかいって準備時間をアタシたちに準備しているのよ」
「それでも、事前に準備できるってのは、俺たちにかなり有利であることは変わりませんね」
「あいつのことだから、準備を無駄にするような何かがあるに違いないわ」
「先輩はそれが何か分かるんですか?」
「全然予想できないわ。それだけに、あのヘタレがどんな奇策を用意しているか、今から楽しみで仕方ないわ。それに、桜井クンとこうやって準備するのも、思ってた以上に楽しいしね」
勇人の秘策を楽しみにするような度胸はなかったが、アイラの最後の発言には桜井も同意するところであった。試合までの一週間は、桜井にとって、アイラと過ごせる望外の幸せであった。
そして、二人は万全の準備を終えて、試合当日を迎えた。