「アイラ、存分に準備したんだろうな」
「お兄様こそ、負けたときの弁解は考えてきたのかしら」
「減らず口を叩けるのも今のうちだけだ」
「喧嘩はそこまでにして、選手も揃ったということでそろそろ試合を始めよう」
本郷が兄妹喧嘩に割って入る。
「いいだろう。アイラ、論題は何だ」
「それじゃあ、論題の発案者である桜井クンに、発表してもらいましょう」
「分かりました」
教室が静まり返る中、桜井は声を少し震わせながら、紙に書きつけてきた論題を読みあげる。
「日本政府は全ての企業に対してワークシェアリングを推進すべきである。是か非か」
論題を受けて、場が一瞬ざわつく。
ワークシェアリングとは、勤労者が雇用を分け合うことであり、その推進のための政策としてはパート労働などの働き方の多様化や労働時間の制限などを実施し、労働者の一人当たり労働時間を減らすことが挙げられる。
一人当たりの給料もそれに従って減るが、その分労働負担も減るし、仕事を分け合うことでたくさんの人が働くようになり、失業問題も改善することが期待される。まさに、桜井の問題意識に即した論題である。
もちろん、その反面として、優秀な労働者に仕事を集中させられないことで効率性が下がる可能性や、特に中小企業にとっては多くの労働者を使用することで訓練・管理コストがかさみ負担になるといった問題も指摘されている。その意味で、肯定・否定のどちらに立っても議論することが可能となっている。
そして、アイラたちは当然、その両方のサイドにおいても、予想されるメリット・デメリットや反論を十分に準備してきている。
「……なるほど、なかなか面白い論題じゃないか。では、これから二十分準備時間をもらうぞ。俺は肯定側を選ぶ」
「分かったわ。じゃあアタシたちは否定側ね」
「それでは二十分後に試合を開始する」
本郷の宣言とともに、勇人は何事かつぶやきながら、教室を出ていった。
勇人が教室に戻ったのは、ちょうど二十分後であった。その表情は自信に満ちていた。
「待たせたな。では始めよう」
否定側の面々に歪んだ笑顔を向ける勇人。アイラもその綺麗な顔を怒りに歪ませて応じるが、勇人の視線はそれを避けるようにして司会である本郷に向かう。
「それでは開始する。事前の取決めどおり、立論一回、反論二回の形で行う。まずは肯定側の立論、九重崎勇人君、前へ」
本郷が言い終わるより早く、教壇に立つ勇人。
普段の不良様の格好ではあるのだが、試合に臨む勇人は背筋を伸ばし、凶悪な目つきに緊張を走らせている。これから激烈な議論を展開する姿が容易に想像できる、知的な威圧感を漂わせていた。
「それでは始めよう。無駄な前置きは抜きにして、現状の問題から論じることにする」
肯定側がメリット――論題を採択することで得られる利益――を論じる上で最も重要な議論は、現状の問題に関する分析だ。それこそがまさに、論題を採択すべき理由の中核と言えるからである。その点を最初に論じる点で、勇人の議論は今のところ王道を行っている。
「ご案内の通り、現在日本には多くの失業者がいる。就職氷河期だと騒がれるように、若者の雇用環境は決して明るくないし、不景気のあおりでリストラにより失職する中高年もいる。最近では、資格業だった弁護士や会計士ですら、人員過多といって就職できない状況らしい」
ここまでは予想通りの議論である。桜井にも、新村を思い出して笑う余裕があった。
「その帰結が、失業者の経済苦による社会不安だ。日本では分かっているだけで一年に約千人が失業を理由に自殺しているという。また、イギリスでは若者の経済苦により暴動が起こっているが、失業問題が拡大すれば日本でもいずれ同じことが起こらないとも限らない。
その一方で、日本には仕事が多すぎて苦しむ労働者も少なくない。働きすぎて命まで落とす人が続出している事実は、過労死という言葉がそのまま英語になっていることからも明らかだろう」
直前に準備しただけなのに、統計の数字や最近の社会情勢などをふんだんに織り込んだ、流れるようなスピーチが続く。九重崎勇人、確かに凄いディベーターだと、認めざるを得ない。
「これらの問題に、一刻も早く対策を打つべきことについては、誰にも異論はないだろう。しかし、日本の企業は、少ない労働者を酷使する方が管理コストが安くて効率的であると考えており、政府からの補助金などが出ない限り、労働時間の短縮と新規雇用の拡大というワークシェアを行うつもりはない」
畳み掛けるように問題分析が総括される。現在自発的にワークシェアが行われていない理由を指摘し、論題の採択によるワークシェア推進の必要性につなげている点にも、抜かりがない。
「そこで、今回の論題である、ワークシェアの推進が必要となる」
いよいよ、肯定側の山場、政策内容の提案が行われる。肯定側は、論題に掲げられた政策の実現方法を、具体的なプランとして説明する必要がある。今回のような論題では、そうすることではじめて、論題によって問題がどうやって解決するかを説明することができるようになる。
アイラたちも、肯定側がどのようなプランでワークシェアを推進することができるのか、事前に調べている。どのような施策であっても、合う企業と合わない企業がある以上、デメリットを説明することは可能であるし、アイラたちもそのあたりには抜かりがない。
だから、アイラも、桜井も、勇人のスピーチの続きを一種心待ちにして聞いていたところがあった。しかし、次に述べられた勇人のプランには、そんな二人を苦しめるために仕組まれた、猛毒が含まれていた。
得意満面の笑みで、スピーチは続く。
「俺は、次の5つのプランにより、全ての企業に対してワークシェアリングを推進し、労働時間を分かち合うことを提案する。
第一に、希望する全ての企業に対して、従業員の労働時間に上限を設けることにする。上限についてはいろいろ考えられるが、とりあえず週50時間としておこう。今の労働基準法からすると、概ね月50時間ほどの残業以上が禁止されるというところになる。
第二に、この制限で減少した労働力については、新規雇用とリストラ計画の撤回によって賄わせることにする。
第三に、これらの制度を採用した企業には、報奨金に加えて、職員訓練費用など追加でかかったコストを支給することにする。
第四に、以上の項目が遵守されているかどうか、抜き打ちでチェックすることにする。違反していた場合は、当然報償などは支給されないし、罰金や責任者への懲役刑などが検討される。
第五に、ワークシェア導入後にこれを撤回したい企業は、申し出ることで翌年度から労働時間の上限規制を撤回することができることにする。ただし、報奨金の取り逃げにならないよう、申し出をした企業には過去のワークシェアの実態をチェックする。違反があった場合は過去の報奨金も含めて取り上げるし、罰則の適用もあることは言うまでもない。
プランは以上だ」
ざっと聞いた限り普通のプラン。しかし、何か違和感がある。
悪い予感を断ち切ろうと、横に座っているパートナーに目をやった桜井が見たのは、怒りで引きつったアイラであった。
「やってくれるじゃない……」
アイラの怒りをよそに、勇人は一拍置いて、これまでより若干張った声でプランの補足をはじめた。
「ここで重要な点を確認しておく。俺のプランでは、全ての企業の中から『希望する企業』に限って、制限と補助金を適用する。すなわち、報奨金などの見返りを踏まえてワークシェアが合理的だと考える企業のみが制度を導入し、導入が難しいと考える企業にはワークシェアを見合わせる自由がある。
要するに、推進政策の対象は全ての企業であるが、実際にワークシェアに踏み切るのは、ワークシェアの準備ができた企業だけである。そういう提案をしているわけだ」
「そういうことか………」
ここまで聞いて、ようやく桜井にも勇人のプランの凶悪さが理解できた。
否定側が用意していたデメリットの多くは、無理やりワークシェアを導入させられた企業に生じる不利益だった。しかし、勇人のプランは、ワークシェアを望まない企業には強制をしないから、メリットは少ないながらも発生する一方、企業が困るというデメリットはほとんど生じないことになってしまう。
普通の人間であれば、「全ての企業にワークシェアを推進」と言われれば、全ての企業にワークシェアを実施させる政策を考える。桜井も、そしてアイラも、そう考えて準備してきた。
しかし、勇人はその前提を軽々と無視して、推進することと実施させることは別物だという認識から、全部の企業に実施させなくてよいプランを考え出したのである。
言われてみればそうかという盲点を衝かれてしまった。アイラが感じたであろう怒り、悔しさが、遅れて襲ってくる。それに加えて、自分が作った論題の文言に隙があったことへの後悔。
「俺が…あんな言葉で論題を決めなければ……」
しかし、今は相手の議論を正確に聞き取らなければならない。アイラが負けるところは見たくない。そして何より、自分が負けたくない。
気を取り直して、桜井は勇人のスピーチに意識を戻す。
「このプランによって、経済的負担を理由にワークシェアに及び腰だった企業は、ワークシェアを実施するだろう。どのくらいの企業が参加するかは正直分からないが、報奨金も出ることを考えたら、少なくともゼロじゃないはずだ。
大事なのは、参加企業はゼロではないということだ。少しでもワークシェアに踏み切る企業が増えれば、そこの労働者は過重労働から解放されるし、雇用も拡大する。つまり、俺のプランからは、小さいとしても必ず、メリットが発生するというわけだ。
これから否定側は何かしらのデメリットを主張するだろうが、俺のプランでは希望する企業だけがワークシェアを行うから、問題が起こることはないはずだ。問題が起こりそうならワークシェアを希望しなければいいわけだし、予想外の負担があった場合、途中で希望を取り下げればいい。
そういうわけで、否定側としては、自ら望んでワークシェアを実施している企業での問題を証明しなければならない。難しい課題だが、せいぜい頑張ってくれ。
以上、肯定側立論だ」
自分のプランの意義を駄目押ししてスピーチを締めくくる勇人。これほど説得力があり、それでいて嫌味な肯定側立論ははじめてだ。桜井は歯噛みして、すぐさま絶望的な現実に立ち戻る。
勇人が論じたとおり、今回のプランに対しては、企業側の不利益を論じるデメリットは有効ではない。それとは別に、ワークシェア導入で賃金が下がる労働者の生活苦を論じるデメリットを用意してはいたが、企業がワークシェアで賃金をどれだけ下げるかという点が弱いし、失業よりマシだと強弁されると厳しい。それは当然勇人の作戦に入っているはずだ。
「先輩……どうすれば………」
アイラは眼をつぶったまま、腕組みして何事かを考えている。