「準備したデメリット、使えるんでしょうか」
動揺を隠せない桜井の問いかけ。今度もアイラの返事はない。
「俺、どうしたら……」
「あわてない!」
一喝。
「こんな程度でアタシが負けるわけないじゃない。予想外の議論なら、それを上回る議論を今から作っちゃえばいいだけのこと。いつものディベートと同じ。そうやって、桜井クンもアタシに勝ったんでしょ?」
「………すいません」
そうだ。予想を裏切る議論。それがアイラのディベートに惹かれた理由じゃないか。何もあわてる必要はない。
「……聞こえていないのか。否定側の立論に入る。否定側の代表者、早く前へ」
自分たちの世界に没入していた二人には、本郷部長の司会進行が耳に入っていなかったようである。
「まぁ、俺の立論に驚いているってことだろう。多少試合が遅れても俺は気にしないさ」
「そうね。正直驚いたわ。こんなにケチくさい、ヘタレな議論を自信満々に喋られてはね」
「何を……!」
アイラの表情は、いつもの不敵な笑みに戻っていた。
「遅れてごめんなさい、本郷部長。否定側立論はアタシが担当するわ」
颯爽と教壇に上がるアイラ。にっこりと桜井に微笑んでから、いつものようにジャッジにあいさつして、アイラのスピーチの幕が開けた。
「こんにちは。まずはスピーチが遅れてしまったことについて謝罪するわ。その分だけ、素敵なディベートをお見せするつもりだから、期待して聞いていてね」
すごいハードルの上げ方だが、アイラが言うんだから、きっと何か考えがあるに違いない。ただ、それが何であるか、桜井には想像もつかない。
「さて、今回の肯定側の提案だけど、確かに素敵なプランだったわ。やりたい企業にワークシェアをさせる環境を整えれば、少しでも問題解決に近づく。肯定側が長々喋っていた問題分析に対してどこまで有効なのかは大いに疑わしいけど、確かにやらないよりはマシね。
だから、否定側として、このプランのデメリットを論じるつもりは特にないわ」
「えっ……!」
背筋が凍りつく。
デメリットを述べないということは、否定側としてプランの問題点がないと認めることに等しい。メリットもないということであれば、肯定側の提案に理由がないということで否定側の勝ちになるが、アイラはメリットが多少なりとも生じることまで認めてしまっている。
すなわち、アイラの発言は、事実上の敗北宣言。
これが、アイラの言う、予想を裏切る議論?
「ふん、勿体ぶりやがって」
勇人の不愉快そうな声に反応するかのように、アイラのスピーチが再開される。
「急いで断っておくけど、これを否定側が負けを認めたという意味で取らないでね。議論に失敗している相手方に勝ちを譲るほど、アタシはお人よしじゃないわ。
肯定側立論は、確かにプランの望ましさは十分示してくれたわ。でも皆さん、思い出してほしいの。この試合で議論になっているのは、桜井クンが決めた論題、全ての企業に対してワークシェアリングを推進するかどうかということの是非。だけど、肯定側のプランは、この論題とは関係ない」
そう言い放つと、アイラはおもむろに黒板の横に置いてあった国語辞書を手に取り、ページを手繰る。
「……国語辞書によれば、『推進』という言葉の意味は『物事を目的に向かって、はかどらせること』とあるわ。議論をする上では、言葉の意味は大事にしなくちゃいけない。当然のことね。
肯定側が提案したプランは、希望している企業にだけワークシェアを行わせるというものよ。肯定側自身も認めていたようだけど、そもそもどれだけの企業がワークシェアを実施するようになるかは、全く未知数。そんな、効果のあやふやなプランが、ワークシェアの実現に向かってはかどらせる政策、すなわちワークシェアの『推進』だと言ってよいのかしら?
それに、日本政府は今でも、労働環境の改善を目指して、いろんな政策を検討しているわ。ワークシェアを支援する政策だって考慮されているようよ。そういう現状の取り組みと比べて、肯定側の提案が何かを付け加えているとはアタシには思えない。推進ってことは、今より積極的なアクションでないといけないはずだから、その意味でも肯定側のプランはあまりにヘタレていて、論題の要求に応え切れていないというべきよ」
まだ頭が完全についていけていないが、アイラの言いたいことは何となく分かってきた。要するに、実施を本気で目指さないプランは「推進」ではなく、論題を肯定したとはいえないということだ。
そんな切り口の議論があったなんて。
「そもそも、やりたい企業を助けるなんて生ぬるい政策に何の意味があるの? そんなことで問題が解決するなら何も苦労しないわ。こうして皆さんを集めて、アタシたちがこうやって試合しているのは、痛みを伴ってでも論題を採択すべきかどうか、熱く議論するためじゃない? 肯定側の提案するプランは、今回私たちが論じるべき論題からすれば想定外の議論。桜井クンの作った論題は、そんなつまらないものじゃないわ。
そういうわけで、肯定側は論題と関係ないプランに基づく議論しかしていないから、論題を肯定できていない。つまり、否定側の勝ちよ」
「す…すごい」
思わず驚嘆を漏らす橘。それは桜井の声を代弁するものでもあった。
アイラはその賞賛を味わうかのように一旦スピーチを止め、しばらくして次の議論に移った。
「仮に肯定側のプランが論題を支持するものだと考えたとしても、アタシたちはそれでも論題を否定すべきと主張するわ。肯定側のプランは論題と関係あるとしてもほんの一例にすぎないもので、実際には今回の論題には大きな問題があると考えるからよ。
全ての企業にワークシェアを推進するという政策は、普通に考えたら、中小企業や、専門性の高い職場についても、労働時間の制限や雇用促進を行わせることを意味するはずよ。そんな、論題から想定される典型例を例に考えてみましょう。
そうやって広くワークシェアを推し進めれば、その分だけ、肯定側が主張するメリットも多く発生するでしょうね。でも、無理やりワークシェアを実現させられた企業はどうなるかしら?
中小企業では、新しく雇った労働者を一から訓練したり、増えた人員を管理するだけの体力がないところが少なくないはずよ。それに、研究者などの専門的技能が必要な職場の場合、ワークシェアをしたくても代わりの人間がいないからしごとが成り立たなくなるし、少ない人員を集中的に鍛えて生産性を効率よく向上させることができなくなるから、競争力の低下も避けられない。
そもそも少なくない企業は、労働者も納得の上で、自主的に集中的に働くことで何とか持っていたりするのが実情よ。そういう実情を無視して、一部の異常な例を解決するために、全ての企業にワークシェアを推し進めるという政策は、全体で見れば企業の破綻を招き、失業のさらなる増加、ひいては日本経済の破滅につながりかねない。
今回の論題は、そんな危険な結果を生み出すものなの。肯定側はたまたま変わった例を引き合いに出して、あたかも論題が望ましいかのように主張しているけど、それは大きな間違いよ」
これまた、桜井の理解を超える議論。相手の出した例を全く無視して、自分たちが準備してきたデメリットを堂々と展開する。
そんなことが、許されるのか?
「ほぅ……カウンターワラントですか」
先ほどまで黙して議論に耳を傾けていた校長先生が、口元に笑みを浮かべた。
「校長先生、あの議論の意味をご存知なのですか?」
「本郷くんは聞いたことがないかもしれませんけど、私が現役だったころにはよく見た、懐かしい議論ですよ。普通はおよそ認められない、理外の議論ですけどね」
「……不勉強で申し訳ありません」
二人のやりとりをよそに、アイラの透き通った声はなおも教室に響き続ける。
「否定側の主張を最後にまとめておくわ。
第一に、肯定側のプランはワークシェアの推進になっていないため、論題と関係ない。だから、その時点で論題の肯定に失敗しており、否定側の勝ち。
第二に、肯定側のプランがワークシェアの推進を意味する政策であるとしても、それはとってもケチな…失礼、特殊な一例にすぎないから、論題の是非をどうこういう理由として参照すべきでない。むしろ、否定側の示す、全ての企業に対するワークシェアの強制という典型例について考えたときの問題を考えれば、論題の採択が望ましくないことは明らかであり、論題は否定されるべき。
いずれにせよ、論題が肯定されていない以上、今回の試合は否定側に投票すべきと言えているはずよ。
これで否定側の立論はおしまい。みんなの清聴に感謝します」
一礼してから、窓越しの陽光に照らされ輝く金髪をふわりと揺らし、アイラは桜井の元に戻っていった。
「先輩…あんな議論、どうやって思いついたんですか?」
「それは、ヒミツ」
「秘密って、どういうことですか?」
「この試合に勝ったら、教えてあげる」
「えっ……?」
謎めいた答えの意味を考える時間は、残念ながら与えられなかった。