「…ありがとう九重崎愛良君。また、九重崎勇人君と桜井祐也君にも改めて礼を言おう。以上をもって今回のディベートを終了する。互いに知略を尽くした、素晴らしいディベートだった」
アイラの降壇からしばらくして、聞き手の思考が落ち着いた頃、少し慌てたような本郷の声が響いた。
「続いて勝敗のジャッジに入ろう。橘詩織君」
あわてて橘が口を開く。
「えっと、あの……こ、今回は肯定側に投票します。理由は…肯定側の提案は論題を支持するもので、それによって論題の望ましさは示されたと思うからです。否定側が主張した、他の典型例に基づいて論題を判断すべきという議論は、正直、よく、分かりませんでした……」
消え入るような声。申し訳なさそうに俯きながら、最初の判定を下す橘。
アイラは黙って、眼を瞑っている。
「では、次は私の評価を述べよう。
肯定側の提案は、確かに論題を支持する一例であり、そのメリットも十分に示されていた。しかし、否定側の指摘するように、それが今回の論題の是非を評価する上で十分な例であるかという点について、この試合では説明が尽くされていなかったように思われる。否定側の言うように、この論題ではワークシェア推進の方向性が問われている以上、全ての企業に何らかの前進が見られるようなプランを元に論題を評価すべきと考えたから、否定側の挙げた例で懸念されるデメリットを考慮する必要がある。
そして、そのデメリットはメリットを上回っているといえるから、私は否定側に投票しよう」
一対一。勝負は、最後のジャッジに委ねられた。全ての視線が、ゲストの温和な笑顔に集まる。
静寂の中、校長先生が口を開いた。
「両サイドの皆さん、お疲れ様でした。素晴らしい議論でした。
さて、私の評価ですが、肯定側の提案が論題を支持するものであること、そのメリットが証明されていることについては、確かに認められるでしょう。問題は、それだけで論題が肯定されているといえるかです」
試合の争点を明快に摘示する。校長先生がディベートに通じているということは、もはや疑いない。
「否定側の主張は、論題を支持する典型的な政策に基づいて論題の是非を評価すべきというものです。しかし、肯定側が的確に述べたとおり、肯定側には論題から生じうる全ての政策を正当化すべき義務はないし、否定側があげた例も、通常取られるであろう救済措置などを無視する点で、典型例というには厳しいでしょう」
真っ当な指摘に、胸が苦しくなる。
「では、肯定側の提案をもって、論題が肯定されたと見てよいか。確かに、肯定側の議論は、論理的には論題を肯定したといえるものです。ですが、先のような問題はあるとはいえ、否定側の主張を全て退けることには抵抗があるのも確かです。
否定側の挙げた例は確かに典型例とはいい難い。では、肯定側の提案はどうかというと、これもまた論題の想定する例とは遠いし、否定側も言うように、いかにも試合に勝つための便宜的なプラン設定という批判は免れないでしょう。少なくとも、こういう無難なプランを念頭に議論することに、あまり価値はないように思われます。私も教育者ですから、否定側のいう教育的要請には、大いに納得させられるところです。
ですから私は、否定側の主張のうち、肯定側の提案を元に論題の是非を判断することができない事情があるという部分については、理由があると考えました。そして、否定側の挙げた極端な例を考えるまでもなく、全ての企業に何らかの形でワークシェアを推し進めるとすれば当然弊害があるだろうことは否定側の説明からも明らかであり、それを上回るメリットがワークシェアの一般論として説明されたとはいえないことから、肯定側は論題を肯定しきれていないと考えます。
よって私は、否定側に投票します」
「なん…だと……」
勇人が顔を凶悪に歪ませながら呻く。
「以上、二対一で、この試合は否定側の勝利とする。九重崎愛良君、桜井祐也君、おめでとう。
両者の健闘を称える」
聞き手であるジャッジ三名の拍手が響く。
否定側が……アイラと、俺が…勝った………。
「……アタシたち、勝ったのね?」
「先輩、聞いてなかったんですか?」
今しがた勝ちを確信したかのように演説していた人間が発したとは思えない、か細い声。
「よかった……」
安堵して、机にへたり込むアイラ。最凶であり、最強の敵だった兄に勝ったのだから、無理もない。
「……先輩でも、そんな姿を見せることがあるんですね」
「…馬鹿!」
机に突っ伏したままだから、どんな顔をしているかは分からない。だから、桜井がその怒声の真意を知るのは、少し後のことである。
ともかく、あの勇人に、勝利した。
アイラに迷惑を掛けなくて済んだ。…いや、この試合だって、俺がずいぶん足を引っ張ったわけで、アイラに迷惑を掛けたことには変わりないのかもしれないが。
素直に喜べない桜井の視界に入ってきたのは、金色に輝く短髪だった。
「今回の試合は負けを認めよう。思っていた以上にやるようだな」
「…いや、俺は……」
「否定側立論の内容だけでは、俺の議論は敗れなかっただろう。そこで泣いてる奴だって、そんなことは分かっているはずだ」
視線を再び横にやる。少し崩れた金色の長髪は、ただ風に揺れているだけで、動かない。
「今回はハンディをくれてやったが、それなりに戦うだけの実力があることも分かったから、次こそは実力の差を思い知らせてやろう」
「わざわざ負け惜しみを言いにきたの…このヘタレが」
くぐもった罵声を無視して、勇人は教室を後にした。
他に居合わせた部員やゲストも、変な気を遣ってか、いつの間にか教室からいなくなっていた。