「…………」
目を開けると、そこは見たこともない白い天井だった。
辺りを見渡すと、どうやら保健室のようだ。
身を起こした僕は、何が起こったのかを思い出した。そうだ、僕は男子生徒に首を絞められて気絶したのだった。
首元を触ってみるが、目立った跡は残っていない。あの男子生徒も手加減してくれたのかもしれない。
(手加減……僕のためか彼自身のためか……一体どっちなのだろうな)
自分の保身のために手加減する、何とも人間らしい行動ではないか。僕も今度試してみよう。試すところがあったなら、だが。
喉元を触りすぎて、咳が出て来た。
ゴホゴホとせき込んでいると、不意に気絶する前のことを思い出した。
確か、誰かに声をかけられたのだ。
正確には覚えていない。気絶する前だったのだから、まあ仕方がないと言えばそうなのだろうが、凛とした声で僕らに「何をしているの?」と言っていたのは覚えている。
(奇麗な声だったな……)
透き通るよう、と言ってもよくわからない。どう形容すればいいのかわからないが、とにかく脳内に焼き付くような、美しい声だった。
気を失ったせいで、肝心の顔は見えなかったのだが、多分性交渉したことのない女生徒だと思う。あんな特徴的な声は聞いたことがない。
立ち上がると、首を絞められた後遺症か、少し眩暈がした。しかし壁にかけられてある時計を見ると、そんな眩暈はどこかへ吹き飛んでいってしまった。
(あと数時間で学校が終わるじゃないか。どれだけ寝ていたんだ、僕は)
しかしだからといってサボるというわけにはいかない。保健室から出ると、僕はまっすぐに教室へ向かっていった。
がらり、教室のドアを開け放つと、クラス中の視線が一気に僕に集まり、そして一瞬で逸れた。まあ注目してほしいわけでもない、これでいいさ。
教師に保健室にいたことを伝え、窓側である自分の席に座る。
前を見ると、僕がいない間に習ったであろうよくわからない記号が、黒板の上から楽しそうに僕らを見つめていた。
今更参加したところで、授業内容などわかるはずもない。しかし休むわけにもいかない。
不便な世の中だよなぁ。板挟みの状態の僕が発した愚痴は、誰にも聞かれることなく眠気を誘う春の暖かな日差しを遮るカーテンの生地に吸い込まれていった。
この世界の理不尽さをカーテンに説いているうちに、学校が終わってしまった。
ベルの音を聞きながら、そういえば今日は掃除当番だったなぁなんてことを思い出した。
確か、いつもぎゃーぎゃー騒いでいる男子と二人きりで掃除をしなくてはいけなかったはずだ。
既に若干憂鬱に陥りながらも、掃除用具のロッカーから用具を取り出す。
しかしすぐに問題が発生した。僕と一緒に掃除をするはずだった男子生徒の姿が見えない。
教室中を探したが、やはりいない。多分掃除当番を忘れて帰ったのだろう。
(鳥頭め……いい加減にしろよ……)
心の中で悪態をつきながらも、掃除に集中するためにウォークマンを起動させる。
曲をつけると、安っぽいイヤホンを通して安っぽい曲が、安っぽい僕の耳へと流れ込んできた。
曲名は知らない。僕の母さんの唯一の形見であるウォークマンには、この一曲しか入っていないのだ。
昔流行った曲だろうか、歌詞はありきたりな恋の歌だった。
恋に落ちただの、恋の罠にかかっただの……なんだか物騒な言葉が連ねられている。
そう、よく恋に落ちたと聞くのだが、それは一体どういう感じなのだろうか。どういう音がするのだろうか。
恋に落ちるなんていうのだから、恋から這いあがることもできるのだろうか。それとも、恋というのは蟻地獄のようなもので、もがけばもがくほど沈んでいくという恐ろしい代物なのだろうか。
恋は盲目という言葉もある通り、案外恋というのはネガティブなものなのかもしれない。
話す人もいないので一人でそんな馬鹿げた妄想をしながら掃除を進める。
誰もいなくなった教室の中で、一人箒を掃く音だけが小さく響く。
ふと、教卓の上に何かが置いてあるのが目に入った。紙束だ。
教師が忘れたのであろう紙束を見てみると、テスト用紙である。今日僕が保健室で休んでいる時に受けたものだろう。
面倒くさいが、仕方がない。人間らしさを追求するにはこういった地道なことが大切なのだ。
自分に言い聞かせながら紙束を持ち、教室を出る。
職員室は中庭を通っていかなければならないので、なかなか面倒である。
掃除をしたのかしていないのかよくわからない、薄汚れた階段を一段一段慎重に降りていき、職員室を目指す。
──そして僕は……目的地に着くまでの、暇つぶしにもならないような適当な理由で見た中庭で……彼女を見た。
突然だが、僕は運命というものを信じてはいない。
なるべくしてなる、導かれるように行われる行為とでもいうのだろうか。
運命なんて非科学的なもの、信じるに値しないものだ。
もしも運命があるのなら、それはいつからあったのか、どうやってできたのか、もし運命と違う行為をしたらどうなるのか……などという疑問が上がってきて、胡散臭くなるのだ。
しかしこの時、この瞬間だけは……はっきり言おう、僕はこの時だけはこれが運命なのではないかと錯覚してしまった。
何故だろうか、あんなに非科学的なものだと、信じるわけないと心の中で嘲笑っていたのに……彼女の姿を見ただけで、彼女と目が合っただけで、そんな捻くれた考えも拉げた心も気が付けば、どこかへ吹き飛んでいた。
そう思わせるほどに、彼女の銀の髪は、金の瞳は、そして凛とした顔立ちは……魅力的だったのだ。
僕の腕からするりと、紙束が滑り落ちていった。
ばさばさばさっ!
何かに落ちる、音がした。