ヴィラン名 『チェンソーマン』 作:ナメクジとカタツムリは絶対認めない
ここはどこなのだろう。誰もどこにもいない、何もかもない、見渡す限り真っ暗な不思議な空間に、デンジはひとり、ぼーっと寝っ転がっていた。
仰向けの状態から首を動かしてみても、人の気配は一つも無く、そこにあるのは空虚な闇のみ。しかし、何故か孤独による寂しさなどは感じられない。デンジは自分が何故ここにいるのか考える。
(俺ぁ確か…、──そうだ、あの変態ヤローに殺されて…つーかここどこだ…?)
あのヒーロー殺しの顔を思い出して顔をしかめるデンジ。しかし、その顔は、突如頭に感じるふわふわとした感触によって和らいでいった。
(…何だ…コレ…。すげー、気持ちいい……)
まるで誰かに頭を撫でられているようなその感触に、デンジはうっとりとした。人生で今のように優しく撫でられる事はなかったので、笑顔のまま受け入れるデンジ。しかし、すぐにはっ、と気を取り戻す。
(そーだ…ヤオヨロ達と一緒に来てんだった…)
このショッピングモールに同行していた雄英の生徒たちを思い出し、穏やかであった心の中に焦りが混じる。どこで道草を食っていたのかと尋ねられると困る。何故なら目の前で凶悪ヴィランを見逃してしまったのだから。そうすると好きな彼女からは失望されてしまうだろう。
故に、デンジは速やかに帰らなければならない。だが───。
(あ〜…、なんかどうでも良くなってきたぜ……)
ふわふわと頭を撫で続けられているデンジは、次第にここにいる事を望むようになっていた。
ここでは自分に仕事をさせる奴らは居ない。『血をくれ』などというイカれた女も居ない。自分に痛みを与える奴も、ましてや自分を殺すような輩も居ない。それでいいじゃないか。それに、もし八百万やねじれに役に立たない事がバレたら、女も居ない、飯もマズい、糞みたいな所に閉じ込められて、一生つまらない人生を送るハメになるかも知れない。それならここで一生気持ち良くなった方が良いだろう。
──その甘い感情がデンジの脳内を埋め尽くしていく。デンジはそう決め、自分の頭を優しく撫で回している感触に身を委ねた。
突然、がしっ、と顔の左右を掴まれ、首から上が固定された。
(──お?)
今まで優しげな手つきだったのが、急に荒々しくなった事によりデンジは混乱する。
抗議するように体を動かすが、何故か首から上は一向に動かす事を許してくれない。しばらくすると、顔に何やら生暖かい空気が当たる。そして────、
──にゅるん。
デンジの口内に、ぬるぬるとした温かいものが侵入した。
「ンゴォ!?」
その突然の出来事に、デンジはパニックになり、体を暴れさせる。しかし、その抵抗も虚しく、その侵入した『もの』はゆっくりと、それでいて確実にデンジの口内を蹂躙していった。
頭の中にぴちゃぴちゃと水音が響く中、デンジはこの感触が何なのかもがきながら考える。
(な…なんだコレ…?何されてんだか全くわかんねえ…けど!や、柔らかい!柔らかい!こ…これって…!)
自分の全ての歯を
(ベロだ!!)
その結論に至った瞬間、真っ暗であった周りは明るくなり、デンジの意識は現実へと戻って行く。
そして、デンジはゆっくり目を開けた。すると、そこにいたのは────。
「──んっふ、…あれ?起きましたか…。──まあ良いです、これからいっぱいできますしね」
最初に目に映ったのは恍惚とした目だった。腫れぼったい目には、どこか狂気的な危ない印象を受ける。お団子を二つ作った髪型は、一見乱雑に見えて綺麗に整えられている。口から少し見える犬歯は鋭く尖っており、何故か唇は濡れていた。
白いセーターはデンジの血で赤く染まっているが、そんなことは気にも留めない様子だった。
少女はデンジに向かって満面の笑みを向ける。
「お久しぶりです、デンジ君!さ、帰りましょう!」
「オ…ああ?──お前、と、トガ!?」
デンジは目の前に居る少女──トガヒミコを驚きの表情で見つめる。それを受けたトガは嬉しそうに瞳孔を開いてデンジに詰め寄った。
「うんうん!トガだよ!あなたの奥さんのトガヒミコです!デンジ君急に居なくなっちゃうからビックリしちゃった!でもねでもね、見てこれ!デンジ君の血!これの匂いを辿って探したんだよ!大変だったなぁ…。あ、探すのは全然大変じゃなかったんだけどね?この匂いを嗅いでたら…なんかどんどん興奮してきちゃったの…。だから他の人に興奮を覚まさせてもらったんだぁ…。エヘヘ、なんか恥ずかしいですね…。こんな身体にしたんです…責任、取ってくれますよね?取るって約束したもんね?ぜぇったい、逃がさないからね?──あ、そうでした、話戻すけど何で逃げたんですか?私の愛を試すため?でもそれだったら何かヒントとか残すと思うんですけど、なんにもなかったから、さ────。そんなに、わたしからにげたかったの?」
ドロドロに濁った昏い眼でデンジを見つめるトガに、デンジはタジタジになりながらも説明する。
「あー…、いや、あのさあ…ちょっと今忙しいんだよ。だからー、あーっと」
「おんな?」
その瞬間、周囲の空気が変わった。朗らかな雰囲気であったその場は瞬く間に重圧に覆われる。その体が押しつぶされそうな重圧を放っているのは、目の前にいる少女であった。
「女なの?私言ったよね、浮気はダメだって。デンジ君は私のモノなんだって。それにさあ…私に言えばその人になってあげられるんだよ?それで良いじゃないですか、私がいれば良いんですよ。なのに…なのになのになのになのになのになのになのに」
「う、うおおお…!」
その狂気を正面からぶつけられたデンジは反射的に胸のワイヤーに指をかける。それを見たトガはにんまりと笑った。
「──チェンソーになるつもりなの?やめといたほうが良いと思うけどなぁ…」
「お前が俺ん事殺そうとするからだろうが!血ぃばっか吸いやがってよ〜〜!」
そう言い放ち、デンジは胸のワイヤーを引っ張る。ヴヴン、と言う音と共に、デンジの姿は異形の姿に─────、
「…アア?」
なれなかった。普段より短めのチェンソーの刃が頭から出ただけで、姿は何も変わることは無かった。その事に動揺するデンジ。それに構わずにトガは軽い足取りでデンジに近寄っていく。
「不思議だねぇ、不思議だねぇ?『なんでチェンソーになれないんだ』って思ってるでしょ?──それはね、さっき倒れてた時にデンジ君が抵抗できないように───血をいっぱい出させたの」
説明をしながらも血に塗れたナイフを手に持ち、ゆったりと接近するトガにデンジは舌打ちをする。
(おいおい、これヤバくねーか…血が足りてないせいで、目がチカチカすんぞ…!血、血…!)
焦りながらも周りを見渡すデンジ。その視界は一つのものに留まる。それは、『ヒーロー殺し』に殺されたヒーローの死体であった。
(あ…あいつの血ぃ…飲みゃチェンソーになれる…!)
ヒーローの血を貰うことに決めたデンジは、全速力で死体に駆け寄ろうとする。しかし、デンジは一つ失敗を犯していた。それは、考えることに夢中になり、トガの動きを全く見ていない事だった。
トガは手に持っていたナイフで──まるで、友人に挨拶をするかのような自然な動きで────デンジの脇腹にナイフを突き刺した。
「ギャアッ!」
悲鳴を上げるデンジにトガは恍惚とした表情を浮かべる。
「…ああ!イイ!イイよデンジ君!そのまま私だけを見て感じて聞いて味わって匂って私だけのデンジ君でいてよ!その方が絶対────」
「────何、を、してるんですの?」
路地裏に、一人の声が響く。その声は、デンジがよく知っている声であり───そして、今ここに居てはいけない人物の物だった。
「────ヤ、ヤオヨロ!?」
刺されながらも驚愕するデンジ。しかし、それもすぐに焦燥に変わる。
「オイ逃げろ!死にてぇのか!」
「…デンジ君、私だけを見てって言ってますよね?」
「イっギャアアア!!」
ズズズ、とナイフを動かすトガ。それを見た八百万は目の色を変える。
「やめなさい!それ以上の事は許しませんわ!」
「ん〜?…アハッ、『許しません』って言ってますけど…足、震えてますよ?」
「──ッ!」
己が怯えている事を指摘され、動揺を隠せない八百万。それを一瞥したトガはデンジの方に顔を向け、八百万に声を掛ける。
「──まあ、いつもなら見られたら殺すんですけど…、今日はすごくキモチいい日なので許してあげます。はやくどっか行ってください」
「──断りますわ」
その言葉をばっさり切った八百万は、目の前で自分を睨みつけている血塗れの少女を睨みつける。
「私が憧れたヒーローは──ヴィランに尻尾を巻いて逃げ帰る物では無いので」
「…へぇ、ヒーロー志望の方ですか。大層な事言ってますけど、アナタ一人でどうにかできるとでも?私、強いですよ」
そう八百万にデンジの体から抜いたナイフを向けるトガ。しかし、その殺意を向けられた八百万は怯えの表情をしておらず、不敵な笑みを浮かべていた。
「いつ『私一人だけ』──と言ったでしょうか?」
その言葉と同時に路地裏にヒーローが数人現れる。それを見たトガは目を見開く。
「君の友達から通報を受けたんだが…これはひどいな」
「後は我々に任せておけ、よく頑張ったな」
「人質を取っているぞ、気を付けろ!」
(ヒーローがここに来るために、時間を稼ぐため私とわざと対話をした──?足が震えるほど怖いのに──?)
するとトガは、ため息を吐く。そして、横にいたデンジをヒーローの方へ投げ渡した。
「ァあ」
「──デンジさんッ!」
それを抱きとめる八百万。死にそうになっている筈のデンジは、どこか幸せな表情をしていた。
それを見たトガは一瞬顔をしかめたが、すぐにいつもの微笑を作る。
「──デンジ君は預けときます。運びながら逃げられないですからね。預けるだけ…ですよ、預けるだけ」
そう言ったトガは猿のような素早い動きで闇の中へと消えていった。それを急いで追うヒーロー達。その光景を見て、初めて窮地を脱した感覚が八百万に追いついた。
力が抜け、デンジと一緒に倒れ込む八百万。ふと、デンジの顔を見ると、先ほどまでの苦悶に満ちた表情では無く、幸せに包まれた表情をして寝息を立てていた。それを見た八百万は苦笑する。
「…良かった」
クラスメイトが自分らの所へ来るまで、八百万は、優しい表情でデンジの頭を撫で続けていた。
「おんなじ学校…って事は、デンジ君…学校行っちゃったの?あの女の子とも仲良くなってるし…、──まあ、いいですけどね。それに収穫もありました。────『ヤオヨロ』ちゃん、か──、フフッ、アハハ!アハヒハハハハハッ!」