「はあ……」
なんとはなしに、漏れてしまったため息。
今日という一日だけで、もう何回目になるだろう。
はっと気がつき、慌てて「いけない」とかぶりを振る。
……手に持ったほうきを、再びちゃんと握りなおして。
余計なことを考えはすまいと、私は神社の境内の掃除に専念しようと努める。
それでも……ときおり、またあの瞬間のことが頭をかすめて――
いつまでも、何度でも湧きあがる、答えの見出せない疑念。
……ああ。
「私、あのとき……。本当にあれで、良かったのかな……」
「那美ちゃん、最近元気がないね。どうかした……?」
私の下宿先、『さざなみ寮』での朝。
それは、たまたま早起きをした私が、朝食作りを手伝っていたとき。
うう……だけど私は食器やお皿をテーブルへと運ぶ係になっちゃっているのが、ちょっぴり悲しい。
ここにはたくさんの人たちが一緒に住んでいるから、大きめのボウルに野菜のサラダが山盛りに盛られて。それをテーブルの真ん中に置いてキッチンに戻ってきたとき、ここの管理人さんである槙原さんが、そう私に尋ねてきた。
「え、えっと~……」
反射的にいつもの自分を取り繕おうとして……すべて見抜かれてしまっているのに気がつく。
「あはは……。やっぱり、分かっちゃいます……?」
あまりみんなに心配をかけたくはないから、なるべく表には出ないようにしてきたつもりだったんだけど。
……あいかわらず嘘とか隠し事といったことが下手だなあ、私。
そんな私に、槙原――耕介さんは、優しい笑顔を向けながら聞いてくる。
「それは……俺や愛さん、それに真雪さんたちには、話しにくいことなのかい?」
私は、あわてて首を横に振った。
「そ、そんなことないですよ。……耕介さんやみなさん、本当に優しいですし……」
それは本心からの、私の思い。
ここに住んでいる人々は、たとえ話を茶化すことはあっても、その裏では真剣に悩みに耳を傾けてくれることはわかっている。
……ここのみんなは、本当にあたたかくて優しい人たちばかりで。そして、とても強い人たちで。
それぞれいろんな境遇を抱えながらも、私を支えてくれるから。
だから……なおさら。
私と同じ、「両親のいなくなった子」の霊を安らかに成仏させてあげられなかったことに、いつまでもくよくよと思い悩んでいる私が……情けなく思えてきて。
まだまだ未熟な自分が、とても悔しくて。
――愛さんや。
ちょっと形は違うかもしれないけど……リスティさんや、そして――恭也さんたちも。
本当の両親はもういないけれど、それでも優しく、暖かい気持ちを忘れずに持ったまま、暮らしている。
あの子だってもっと話し合えば、そうなったかもしれないのに。あの子の想い、あの子が好きだったものをよく知って、ちゃんと寄り添ってあげることができていたら。心の奥底に沈んだ光明を、引き上げてあげられたかもしれないのに……。
もとの優しい子に立ちかえって、みんなに笑顔を向けながら成仏することだってあり得たかもしれない。
それなのに……。
それを私は、「雪月」で斬った。未練も怨念も晴らしてあげることのないまま、霊を消滅させてしまった。
後悔しても、もう戻らない。時間を逆戻しにすることなど、できはしない。
そして何より、これが『神咲一灯流』の道だということもわかっている……けれど。
それでも……。
◇ ◇ ◇ ◇
…………。
さっさっさっ……。
今日も私は学校から帰ってくると、神社の掃除に励んでいる。
境内のあちこちに散らかった落ち葉やちょっとしたゴミ類をほうきでかき集めて、用意したゴミ袋の中に次々と入れていく。
あと少ししたら地面いっぱいに広がった桜の花びらで、これまでとは比べものにならないくらいに大忙しになるだろう。いたるところに舞い散った薄桃色の羽根を無造作に集めては捨てていく行為に少しだけ心が痛むけれど、現実はそうも言っていられない。
――現実。
今の私には、それが少し重たかった。
「あ、こっちにもありますよ」
もう一本、手渡したほうきを握って……私を手伝ってくれる恭也さん。
私からお願いしたわけでもないのに、それが当たり前であるかのようにしてくれる、そんな気遣いが嬉しくて。
恭也さんといるときは、私の心の中もいくらか穏やかな晴れ間を見せてくれる。
だから、こんな時間がこれからも長く続いてくれるといいなと、私は誰にも聞こえないようにこっそりと呟いてみる。
……そしてしばらく2人で、境内の掃除をすませたあと。
私に一枚の手紙を手渡してくる、恭也さん。なんだかちょっぴり複雑な顔といっしょに。
「ええっと……招待状、ですか?」
女の子向けの可愛らしい装飾が縁取り部分に施された、その手紙の表題に目をやって……。
私が何か言おうとするよりも早く。
「ウチの連中がどうしても、というので……」
…………。
あはは。と、私はちょっぴり笑う。
『第1回 那美さん、これからも恭也をよろしくねパーティ』
――恭也さんが手渡すときに複雑な表情をしていた理由。嬉しさといっしょに少しばかりくすぐったさも感じている、きっと今の私と同じ気持ちでいるのだろう。
「……シメてやろうと思ったんですが、なにぶん相手が相手なもので……」
その言葉に、また私はくすりと笑った。
この題名の発案者が誰なのか、私にもだいたいの察しはついたから。
恭也さんが頭の上がらない相手……きっと桃子さんか、フィアッセさん。
「まぁ……なんのかんのと言って、ただ宴会したりみんなで楽しんだりできる口実が欲しいだけなんですよ、ウチの住人は」
あはは……と笑いながら、きっとそんなつもりだけで開いてくれるんじゃないってことが、私にもわかった。
私を誘ってくれるとき、少しだけ無愛想っぽくなるのは、恭也さん一流の照れ隠し。
誰よりもそばにいてほしい人が、誰にも負けないくらいに心配してくれていたんだなぁ……と、それにようやく気付いたから。
私は何ひとつ迷うことなく、この招待に身を委ねることにした。
◇ ◇ ◇ ◇
「那美ぃ~。ホラ飲め。じゃんじゃん行けぇ~!」
とすんっ。
と、私の目の前に、日本酒がなみなみと注がれたコップが勢いよく置かれる。
本人いわく『秘蔵の一本』というその液体は、どこまでも透き通っていて。
ただの真水のように見えながら、だけど水とは似て非なるもの。
当のお酒を注いでくれた人は、当たり前のことだといわんばかりに涼しい顔をしているんだけど……。
「あ、あの……? 私って厳密に言うと、まだ未成年なんですけど……」
そして、明日は恭也さんたちに招待されている日の当日。
だからなおさら、酔っぱらったりしちゃうと困るんだけど……。
「ンだとぉ、あたしの酒が飲めないってのか?」
続けざまに「あ~あ。これだから、やっぱり神咲の人間ってのは……」と、盛大なため息とともに首を振る真雪さん。
「……まあまあ、無理に勧めちゃダメですよ~」
見かねた愛さんが優しい声音とともに間に入って、私のコップをジュースで満たされたそれと交換してくれる。
――私が呼ばれて「さざなみ寮」の中にあるリビングルームに入ったときは……愛さんと、そして耕介さんに真雪さんは、すでにちょっとした酒盛りの真っ最中で。
時刻は、そろそろ深夜にさしかかろうとするころ。真雪さんや耕介さんをはじめとしたさざなみ寮の大人たちは、わりと日ごろからこうしてお酒を酌み交わしているみたいだけど……。
私は未成年だし、お酒にも弱いので……ごくたまにリスティさんも加わっていると聞くこの席には、あまり参加したことがない。
「どう? 明日の出かける準備は、もうちゃんとできた?」
「あ、あはは。そんな、別に大して用意するものとかもありませんでしたし……」
愛さんが入れてくれたジュースを飲みながら、苦笑いを返す私。
あ……ちょっぴり甘めな、りんごジュースだ……。
言葉遣いや話し方はみんなそれぞれ違うけれど、耕介さんや真雪さんも、私に向けてくる視線はいつも暖かさに満ちていて。
と。
そんな私の肩に、機嫌を直したらしい真雪さんが、不意に身を寄せてきて。
「……そういやさ。あたしの知り合いに、それまで持っていた連載を終えたばかりの作家がいるんだけどさ」
「……はい?」
「作品を完結させてから、今になっていろいろと後悔してるんだと。あのときこういう展開にしておけばよかった、あのシーンで別の結末を用意しとけばよかった、とかさ」
「はあ……」
そう語る真雪さんはプロの漫画家さんだから、共感できたりするのかもしれないけど。私には詳しいことはよくわからない。
「でも、もう大団円を迎えて終わった作品を、今さら根幹から崩して改変するなんてできないよな。それは外伝とか、元の作品とは違う世界軸の物語になっちまう」
「む、難しいんですね、漫画の世界も」
「そ。簡単じゃないよな、どこの世界も」
どこまで話を理解できているか不安になりながら応じる私に、語りながらコップの中身を口へと運ぶ真雪さん。
「でさ。終わった物語を作り変えるつもりはない、だけど後悔だけはいつまでも残っている……」
「……はい」
「そんなとき、どうすればいいと思う?」
「……え、えっと……」
「……そいつはさ、決めたんだ。後悔も、反省も全部ひっくるめて、その上で自分が描いたキャラクターたちのことを絶対に忘れないようにしよう、って」
あ……。
少女の霊と、同じことかもしれない。
いくら後悔したところで、時間は戻せない。世界を変えることも、できはしない。
だからといって、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。今この瞬間にも、次の『お仕事』が舞いこんでくるかもしれない。
だから……真雪さんの話すその作家さんは、自分なりに前を向く方法を決めたんだ。
――隠そうとしていたものの、私の気落ちぶりは恭也さんをはじめみんなに気づかれてしまっていたようで。それでも、その理由までは明かしていないはずなのに。
こういうとき、耕介さんや真雪さん、愛さんたちの前では、私はまだまだ子供だなと痛感してしまう。
そして、そんな私でも、いつか大人になるのなら。目の前にいる人たちのような大人になりたい。
「あ~、それで。その。なんだ……」
真雪さんの話に、みんながそれぞれの思いにふけってしまったようで。そんな空気を一掃するかのように、あらためて真雪さんは一度大きく咳払いをすると……。
どこか照れた様子ながらも、私の肩をぽんと優しく叩いて。
「まぁ、明日は思いっきり楽しんで……嫌な気持ちを吹き飛ばせるといいな」
そう言いながら一方の腕を伸ばして、促すように耕介さんをつっつく真雪さん。
すると長身の耕介さんは椅子から立ち上がって。テーブルごしに、少しだけうつむいた私の頭をそっと撫でてくれた。
……あったかいな……。
「だけど、さ。俺たちの存在も、忘れないでくれよ? 相談とか悩み事とか、ここにいるみんなで解決したい、し合おうって思うからさ」
「……はい」
……ここの住人になって。
たくさんの幸せとぬくもり包まれて……包んでくれた、やさしい人たちに……。
本当にみなさん、ありがとう――
私は言葉にならないくらいのたくさんの感謝を、胸の奥で何度もつぶやいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「――さあ! 今日はひさびさ、桃子さん特製のスペシャルメニューも用意したわよ~。さ、那美ちゃんもみんなも、遠慮しないでたくさん食べてね!」
「あ、もちろんうちらも腕によりをかけて作りましたんでー」
「俺が作ったのも、いっぱい食べてくださいね!」
「はにゃ~。ど、どれから食べようか、迷っちゃう……」
桃子さんやレンちゃん、それに晶ちゃんが作った、テーブルいっぱいの料理の数々――
和洋中の全部がそろって色彩豊かなだけでなく、どれもが私にはとても真似できないくらいに美味しそう……。
そして同じように目を丸くしながら、なのはちゃんがつけたコメントが――まさに私の感想そのものだったりするわけで。
「あはは……それにしてもかーさん、ちょっと作りすぎなんじゃない?」
そんな美由希ちゃんのコメントに、桃子さんは軽く口もとに指を当てながら「ちっちっちっ」と否定の仕草をしてみせる。
「な~に言ってんの。育ち盛りの人間がこれだけいるんだもの、きっとみんな食べきってくれるに違いないでしょ? かーさんは、そう信じてるから♪」
「あ、あはは。そうですねー」
私はちょっとぎこちない笑みを桃子さんに向けながら……ちらりと恭也さんの方に視線を送った。
あ。恭也さんも、ちょっと困っているみたい。
「ま、なにはともあれ……準備も整ったことですし」
「それじゃ、そろそろ始めましょうか。あ、桃子さん、乾杯の音頭をお願いします!」
レンちゃんと晶ちゃん、それぞれから促されて――
「え~、それでは。僭越ながらこの高町桃子が、乾杯の音頭などを……」
その桃子さんの声に合わせて、みんなは手に持ったグラスをそれぞれ重ねあわせていく。
はあ……。
みんな、すごいなぁ……。
両手でグラスを持ちながら。半分ほど残っているジュースに唇を湿らすように、ことさらゆっくりと飲む。
みんなの熱気にあてられたように、頬がちょっぴり赤くなっている気がする。
ひとりひとりと、そして次から次へと触れ合いながら、今はひと休み。
そんな私の横で、レンちゃんと晶ちゃんは、いつものように元気たっぷりに騒いでいて。
一見するとケンカをしてばかりいるようにも見えるけれど、本当はあいかわらずの仲良しさんで。
そして、私と一緒に招待された久遠も……なのはちゃんに抱かれながら、その輪の中に加わって楽しそうにしている。
「……那美。ここ、いいかな?」
と。
休憩している私に、フィアッセさんがかたわらの椅子を指差して声をかけてきた。
「あ、はい。どうぞどうぞ」
「それじゃ、ちょっとお邪魔して……っと」
そう言うと、フィアッセさんは私の横に腰を下ろして。
「あ、そういえば。もうお酒、飲めるようになった?」
もちろん、フィアッセさんのグラスに注がれているのは、まぎれもなくお酒。
「あ、あはは。私、まだ未成年ですし……」
きのう真雪さんに言った言葉を、私はフィアッセさんにも繰り返した。
するとフィアッセさんは、少しいたずらっぽい微笑を口もとにたたえながら……。
「恭也もね、お酒あんまり飲めないんだよねー。だからそのぶん、那美には期待しちゃおっかな~♪」
「わ、私も、ぜんぜん強くなんてないですよー?」
思わず慌ててしまう、そんな私を――なんだか楽しそうな表情でフィアッセさんは見つめると。
『でも酔った時の那美の姿も、可愛かったよ~♪』、などとおっしゃる。
恭也さんと子供のとき以来の……2度目に出会った年。そのときに行われたお花見の席で、情けなくも甘酒に酔っぱらっちゃって……。
それからも数回ばかり、フィアッセさんやみんなの前でお酒を飲む機会があったけれど。そちら方面に関しては、これから何年経っても大きな進展は見込めないような気がする。
あああ。だけどフィアッセさんは、あの時の恥ずかしい私の姿が、きっと鮮明に焼きついちゃっているのに違いない。
「……よくよく考えてみると、ちょっと不思議な光景だよね……」
「え……?」
きょとんとする私に、優しい微笑みを向けながらフィアッセさんがつづける。
「だって、生まれた国とか、本当の実家とか、みんな全員いっしょ、というわけじゃないよね。なのに私にとっては、かけがえのない家族なんだもの」
「……はい。よくわかります……」
人と人とのめぐり合わせ。それは本当に、どんな形で訪れるのか、誰にもわからない。
「那美とはこれからも、一緒にグラスを重ね合わせて……。そして、いろんなことを話したいな……」
だから、そこに幸せがあるのなら。幸せであることを、忘れてはいけないと思う。
――フィアッセさんだけでなく。
この場にいるみんなが、きっとフィアッセさんと同じ思いを抱いてくれている。
「楽しいことも……悲しいことも。私や、恭也に……いっぱいいっぱい。お互いにいろんなことを話し合いたいね……」
「……はい。私も……」
そんなフィアッセさんの……そしてみんなの心遣いが嬉しくて――
「……あ」
と、不意にフィアッセさんは立ち上がる。
「それじゃ……あとは本命の方にお任せしま~す♪」
こちらの方に近づいてきた恭也さんに、『こいこい』と手を振って合図をすると。入れ替わるようにしてフィアッセさんは桃子さんたちの輪の中にさっと加わってしまった。
「……あ、あはは」
私と恭也さんは、お互いに顔を見合わせると少しだけ笑って。
…………。
「……元気、出ました」
わずかな沈黙のあと。恭也さんが口を開くよりも早く、私はそう告げる。
「みんなにこんなに親切に、優しく気遣ってもらえて。これからもがんばろう、って……」
「そうですか……それは良かった」
普段はあまり笑顔を見せない恭也さんだけれど、このときばかりは口元をほころばせてくれた。
笑うことには慣れていない人だから、少しばかりぎこちないかもしれないけれど……私には見える、優しい笑顔。
そしてまたしばらく……そっと沈黙が舞い降りて。
あまり口数の多くない恭也さん。――でも、言葉はなくても、気持ちは私にはちゃんと伝わってくる。
「……本当に海鳴の人たちは……ここのみんなは、とても優しい方たちばかりですよね……」
さざなみ寮のみんな。そして桃子さんをはじめとした、高町家の人たち。
それに――恭也さん。
たくさんの優しい人たちが、私を育ててくれている。
「『ありがとう』という気持ちは、本当に言葉では言い尽くせないくらいで……けれど、いつか。私からも、ちゃんと恩返しをしたいな、って……」
その日が来るのは、いつになるか……今はまだ、わからないけれど。
そのときが来るまで、この感謝の気持ちはずっと忘れないように。大切にしまっておこう。
そして。
少女の霊に伝えるべきものは、悔恨の念にとらわれた私ではなく。
少女のことを、そんな彼女を斬ってしまったことをずっと忘れない、私の姿。
そしていつか、ひょっとして。どこかの世界に生きる彼女と再会することがあったなら――
「人生、捨てたものじゃないよ」と、笑顔とともに話してあげたいと思う。
一生忘れられない出会い……。
幾つも過ごす季節の中、「出会えた奇跡」をずっと大切でいられるように。
大切に思う気持ち、ちゃんと、伝えられるように――。
「ありがとう……恭也さん、みなさん……」
私は……。
今の私ができる、精一杯の感謝の気持ちをこめて。
ここにいるみんなに、心の底からの笑顔を向けた。