とある日の夜、自室において今井リサは考えていた。先日、海へ行った時に見た光景について。
「洸夜……」
あの日彼女は、幼馴染に促され洸夜と紗夜の後を追った。その先で見たのは、自身の愛する者が肉親に蹂躙されている、まさにその場面であった。
「なんで……」
彼が、そして自身が何をしたというのか。何故彼がここまでの仕打ちを受けなければならないのか。そう思うたびに、彼女の瞳からは涙が溢れる。
「どうして……こんなに酷いことに……」
何もできずにただ見ているだけだったあの瞬間の自分。その事を自覚する度に彼女は激しい嫌悪を自身に向け、彼同様に自身を傷つけていた。
無論、そんなことをしても何が変わるわけでもない。それもまた理解している彼女は、洸夜以上にボロボロだった。
「洸夜は……私の彼氏なのに……」
無意識に溢れたその一言。それと同時に、あの日突きつけられた日菜の言葉が彼女の脳裏を過ぎる。
『当たり前じゃん。だってお兄ちゃんは——
鮮明に焼き付けられた日菜の顔と、突きつけられた言葉。それらをが彼女の中を駆け抜けた後、とある思考が彼女の中で湧き上がる。本来ならば至らないであろう考えが。
「洸夜は……本当にモノ……なの?」
そう認識した途端、彼女の中で黒い何かが渦巻いて行く。洸夜が欲しい——否、洸夜を返せと。
自身の中で決意が固まった彼女は、徐に立ち上がると衣服の袖で頬を伝っていた涙を拭う。
「もしそうだって言うなら……アタシは洸夜を——
頬を伝う涙を袖で拭ったリサは、写真立てに飾られた満面の笑みを見せる自身と彼の映ったツーショット写真を見据えるのだった——
同時刻、洸夜は明かりと呼べるものが一切存在していない自室にいた。
「ねぇお兄ちゃん、いい加減に答えてよ。今日千聖ちゃんと何してたの?」
「だから……何もしてないって……」
「じゃあなんで、お兄ちゃんから千聖ちゃんの使ってる香水の匂いがするの? それはどう説明するの?」
洸夜の喉元に添えられていた日菜の両手が、彼の喉を徐々に徐々に締め上げていく。それに伴い彼は、苦痛に身を捩らせ日菜の手を振り解こうと必死になる。
しかし彼の両腕は手錠により背面側で固定されており、振り解く事は愚か足掻く事で精一杯であった。
「日菜、その辺にしておきなさい。そのままじゃ兄さんが死んでしまうわ」
「はーい」
「ゴホッゴホッ……」
紗夜に咎められた日菜は、洸夜の喉元を抑えていた両手を外す。それと同時に、突然気道が開いた反動で洸夜は激しく咳き込む。
「それで、白鷺さんとは何をしていたのかしら?」
「何も……ゲホッ……してないって……」
「嘘を吐いてもいい事ないわよ?」
床に横たわる洸夜を見下し、疑問と共に冷たい視線を向ける紗夜。
「嘘って……」
「電源が落ちる前までの音声は残っているのよ?」
「そこまでで、お兄ちゃんが千聖ちゃんと一緒にいた事は確か。それに、お兄ちゃんの言葉でカラオケに行ったこともわかってるんだよ?」
「……」
追い討ちを掛けるかの様に、追求してくる日菜。対する洸夜は無言のまま視線を背けていた。すると突然、紗夜が彼の上に跨る。
「私達には聞く権利が、貴方には話す義務があるはずよ」
「義務……ね」
視線を逸らしたまま吐き捨てるように言葉を溢す洸夜。その直後、紗夜が洸夜喉へ手を掛け勢いよく力を込める。これにより洸夜は、再度抵抗することができないまま首を絞められる。
「別にいいのよ。私達は貴方が動いていなくても」
「……グッ……アッ」
喉仏の真下に添えられた紗夜の親指がめり込む。それに伴い激しい痛みと圧迫感が彼を襲う。
急激な締め上げを前に彼の意識は遠のいていく。そしてまさに意識が消える瞬間、突如紗夜は彼の喉を締め上げるのをやめる。
「……ハァッ……ウッ……ゲボッ……!」
突然入り込んできた外気に彼の体は驚き、空気が入る事を拒絶するかの様に咳き込み、何かが込み上げてくる感覚に襲われる。故に洸夜は身を捩らせ激しく悶える。
喉元を激しく駆け昇ってソレが遂に限度を超え、床に蹲る形になった洸夜は激しく嘔吐する。
「オエッ……ゴボッ……オエッ……」
床に吐瀉物を撒き散らした彼は、力無く床に倒れ伏す。そんな彼の様子を暫く眺めていた日菜がそっと彼の耳元に顔を近づける。
「まだまだ終わらないよ……お兄ちゃんがやった事に対しての釣り合いが取れてないからね」
狂気を宿した笑みと共に投げられた日菜の言葉が、彼の全身を駆け巡った後に忌まわしき記憶の数々を呼び覚ます。監禁され、虐げられていたあの日々の出来事を。
「ウッ……オエエエッ……」
今度はストレスとトラウマ故に込み上げてきたものを、再び床へと撒き散らす洸夜。そして一通り吐き戻した所で、彼は吐瀉物の上に力無く倒れ込む。
「まさかもう終わり、なんて思ってないよね?」
「ウッ……エッ……?」
生気を帯びていない眼差しで日菜を見上げる洸夜。対する日菜はそんな事などお構いなしに続ける。
「こんなのまだまだ序の口だよ?」
「ア……アアッ……」
日菜の放った言葉が洸夜の中の恐怖を煽り駆り立て、悪寒として彼の全身を駆け抜けていく。同時に、彼の表情は目に見えて青ざめていった。
「良いよお兄ちゃん……そういう表情大好き」
そう言って上唇を舐めずる日菜。その姿は正しく捕食者と言うにふさわしいものであった。
「日菜、先に片付けるわよ。時間は沢山あるし——何より兄さんは、逃げたりしないでしょうから」
「はーい」
部屋を後にしていく2人の背を見送った洸夜は、絶望に打ち拉がれる。彼に訪れる苦痛の数々が、止む気配を見せなかったが故に——
翌日の昼下がり、花咲川女子学園の校舎内にて千聖は花音と共に歩いていた。
「ごめんね千聖ちゃん。本探すのに付き合ってもらっちゃって」
「いいのよ。花音の頼みだもの」
軽い会話を交えながら、教室へと歩みを進める2人。そして教室を目前とした時、不意に千聖へと声がかけられる。
「——白鷺さん」
呼び止められた千聖が振り向くと、両腕を胸前で組みこちらを見据える見知った少女の姿があった。
「あら、紗夜ちゃん。どうかしたのかしら?」
「ええ、少し白鷺さんとお話ししたいことがありまして」
「私と……?」
暫しの間首を傾げた千聖であったが、何かを納得したように肯き花音の方へと視線を向ける。
「ごめんなさい花音。私は紗夜ちゃんと少しお話してくるから、先に戻ってて貰っても良いかしら?」
「うん、分かった。また、後でね」
「ええ」
教室内へと消えて行く花音を見送った千聖は、紗夜の方へと向き直る。
「場所を変えましょうか。聞かれると、少し面倒な話なのでしょう?」
「そうですね」
千聖の言葉に頷いた紗夜は、千聖と共にその場を後にする。そして2人は、人気の無い校舎裏へと場所を移した。
「ここなら基本的に誰も来ないはずね。それで、話って何かしら?」
「単刀直入に聞きます。先日洸夜に、何をしたのですか?」
紗夜の問い掛けの後、2人の間には沈黙が訪れる。同時に互いの間で見えない何かが弾け合っていた。暫しの後、静寂を突き破るかの様に千聖が口を開く。
「彼に何をしたか、ね。それは、カラオケでの話でいいのかしら?」
「ええ」
千聖の返しに、険しい表情のまま頷く紗夜。対する千聖は、そっと口角を吊り上げると紗夜に問われたことへの返答を行う。
「貴女達2人がしていることと、同じことよ」
「……ッ」
屈託の無い笑みと共に飛ばされた返答は、紗夜の表情を驚愕へと染めていった。
「何故……」
「彼が欲しい以外の何者でもないわ」
「白鷺さん……ッ!」
悪びれる様子も無く答えた千聖を前に、紗夜の中で何かがキレてしまい、反射的に手を上げていた。
対する千聖は、顔色1つ変える事無く自身目掛け振りかぶられた紗夜の手を受け止める。
「感情任せの行動はあまり感心できないわね」
短く且つ冷淡に返した千聖は、紗夜の手を離すと再度口を開く。
「貴女も日菜ちゃんも彼の事を自分の
「それが分かっているのならどうして彼に手を出したのですかッ」
「さっきも言った様に、彼が欲しいから。それに彼は——貴女達のモノでは無いでしょ?」
「それは……」
千聖の問い掛けを前に紗夜は思わず言葉に詰まる。彼女の中に、千聖の言葉を否定できるだけの材料がこの場に無かったため。そんな紗夜に追い討ちをかけるかの様に、千聖は再度言葉を投げつける。
「少なくとも、彼自身の口からは聞いていないのは確かよ」
告げ終えた千聖は、未だ黙り込んだままの紗夜を横目に彼女へと背を向ける。
「それじゃあ花音を待たせているから、私はこれで失礼させてもらうわ」
1人その場に残された紗夜は、込み上げてくる感情を必死噛み殺しながら強く両手を握り締めた——
放課後、倉中第一高校の人気の無い図書室にて1人卓につきつっ伏せる洸夜の姿があった。そんな彼は不意に訪れた揺さぶられる感覚により、微睡より意識が覚醒する。
「……ん……はい?」
顔を上げた先に居たのは眼鏡を掛けた男性の姿。この図書室の司書を務める人物である。
「ごめんね、もう閉館なんだ」
告げられた洸夜が壁に掛けられた時計を見やると、時刻はそろそろ5時を回ろうとしていた。
「あ、もうそんな時間ですか……」
彼は終業後から今の今までこの図書室に入り浸っていたのだ。なるべく遅く、帰宅する為に。
「すいません……こんな時間まで」
「いいえ。帰り道気を付けてくださいね」
「はい」
手元にあった文庫本を返した洸夜は、一礼すると図書室を後にした。そして人影の無い校舎を抜け校外へと出た。
「どうするかな……」
僅かな茜を残す暗がりを見上げながら、溜息混じりに溢した洸夜は重い足取りで王子駅を目指して歩み始める。
「人多いな……」
帰宅ラッシュの時間帯を迎えた王子駅前は、行き交う人々で溢れていた。洸夜はその人波を掻き分けて都電の乗り場へと向かっていく。
「ここだったよな……って、え?」
停留場に着いた洸夜は、驚愕のあまり目を見開いた。本来ならこの場では出会わないであろう人物の姿がそこにあったため。
「リサ……?」
「……洸夜!」
洸夜の姿を見るなり、リサは勢い良く彼へと抱きつき顔を胸に埋める。対する洸夜はと言うと、突然のことに再び驚愕していた。
「リ、リサ……?」
「洸夜……洸夜……ごめん……ごめんね……」
涙と共に、震える声で謝罪を述べるリサ。それを聞いた洸夜は、俯いた後にそっと彼女を抱き締める。
「俺の方こそ……ごめんね」
規則正しいリズムで、リサの背を優しく叩く。幼い子供を寝かし付ける親の様に。暫しの間そうしていると、リサの
「大丈夫?」
「うん……洸夜に会えたのが嬉しくて」
涙を拭いながら答えたリサは、洸夜に笑みを向ける。対する洸夜は押し寄せた罪悪感故に俯いてしまう。
そんな洸夜の姿にリサが首を傾げていると、電車が停留場内へと進入してくる。
「行こう」
「え……?」
困惑する洸夜の手前、洸夜の手を握ったリサはそのまま車内へと入っていく。結局洸夜も、状況を飲み込めないままリサと共に電車に乗り込む。
そして2人は、人もまばらな都電に揺られていく。その間両者の間に会話は無く、只々流れ行く車窓を眺めていた。互いの手を固く繋いだまま。
「降りよ」
町屋駅前停留所に電車が着いた時、突然リサは洸夜を引き連れ降車する。まだ、目的地と思しき停留所についていないにも関わらず。
「どこに向かってるんだ?」
手を引かれながら歩く洸夜がリサへと問うも、彼女から返答は無く連れられるがまま進んで行き、いつしか人気の無い路地へと入って行った。すると突然、その路地の中程でリサは足を止め、繋いでいた手を離すと洸夜の方へと向き直る。
「ねぇ洸夜——その首どうしたの?」
「え……?」
唐突に投げられた問い掛けに洸夜は慄く。というのも、彼の首元は昨日の1件で大きな跡が残ってしまっており、それをメイクなどにより偽装していた。
だが、今のリサにはその偽装が見抜かれていると言う事実を前にした洸夜は思わず首元を抑えた。
「やっぱり、何かあったんだね」
「まさか……ブラフか?」
洸夜の言葉に首を縦に振るリサ。そこで彼は、自身が嵌められたという事実に気付く。
「信じたくは無かったけど、気になってた。2人に何かされたんじゃないかって。だから聞いた。それで分かった。何かされてるんだって」
淡々と告げられていく言葉とは反対に、リサの表情は目に見えて沈んでいった。
「アタシもう辛いよ……洸夜が紗夜と日菜に何かされてるのを見てるの……」
「リサ……」
瞳から涙を溢れさせ、悲痛な思いを述べるリサをそっと抱き寄せる洸夜。直後、2人の元へと近付いて来る1つの足音が洸夜の耳に届く。
「……?」
不審に思った洸夜は顔だけを其方へと向ける。すると街頭の作り出した灯りの先にある暗がりから人影が現れる。彼の良く知る人物が。
「——あんまり遅いから迎えに来たよ、おにーちゃん」
「日菜……」
突如として姿を現した日菜を前に洸夜はその場に立ち竦む。対して日菜はと言うと、微笑みながら1歩また1歩と2人の方は歩み寄って行く。
「なんで……俺がここに居ると思った?」
「なんとなく、かな。それで、お兄ちゃんはリサちーと何してるの?」
「それは……」
鋭く冷たい日菜の問い掛けにより言葉を詰まらせる洸夜。すると突然、リサが日菜を遮る様に洸夜の前に立つ。
「洸夜を奪い返しにきたんだよ」
「へぇー……そうなんだ。私達から奪い返そうとしたんだ」
「そうだよ。それに洸夜が紗夜と日菜の
「あるよ? ね、お兄ちゃん?」
小悪魔の様な笑みを浮かべた日菜は洸夜へと視線を向け、それに吊られてリサもまた洸夜の方へと視線を移す。
「俺は一言も……そんなことは言っていないが?」
「そうだね。確かに言ってないね」
「じゃあ、なんで——」
疑念と共にリサが日菜へと視線を移した途端、すぐ隣から大きな物音が聞こえ慌てて視線を戻す。するとそこには、荒い呼吸で路面に膝を着いた洸夜の姿があった。
「洸夜!」
目線を洸夜に合わせ屈んだリサは、彼の左肩に両手を添え顔色を伺う。そんな2人を暫く眺めていた日菜が口を開く。
「それが、証拠だよ」
「え?」
「私達が居ないと生きていけない。それが今のお兄ちゃん」
そこで言葉を切った日菜は、洸夜の傍らにしゃがみ込むと彼を右側から支えるようにして立ち上がる。
「そういう訳だから、じゃあねリサちー」
それだけ残してその場を去っていく2人を見送ったリサは強く拳を握る。
「そんなのじゃ、納得できるわけないよ。あれが証拠だなんて、認められないよ」
壊れ始めた洸夜の片鱗を目の当たりにしたリサは、己の無力さと込み上げてくる悔しさに挟まれ感情の整理が追いつかなかった。
「アタシは……ッ!」
感情の波を抑え切れなくなったリサは遂にその場で蹲り泣き始めた。1人静かに。それと同時に再度誓った。必ず