※C96で発刊しました弊同人誌「オブリガート」収録の内の一本です。konoquro様による挿絵は弊誌購入してお楽しみ頂ければと思います。 http://alice-books.com/item/show/8841-1
別に、フォルテールを弾けることが、華々しい音楽家生活とイコールであるわけではないと、学生の時に知ってはいた。
私自身はただの落ちこぼれで、卒業演奏のパートナーも、結局先生から相手をあてがわれてなんとか演奏まで漕ぎ着けたようなものだ。卒業演奏のパートナーは将来の相手になる、とはまことしやかに言われてはいたけれど、そのスタートラインに立つことも許されなかった。そもそも相手は女子だったし。
だから、卒業演奏の出来も、まずまずの結果ではあったのだけど、そもそももっといい演奏が出来たと思わずにはいられない。落ちこぼれでも、自分がどれ程の実力を出せたかということぐらいは把握している。
パートナーは全力を尽くしてくれていたことがわかっていて、だからこそ余計に申し訳なさが先立ったというか。三年間の道楽の集大成に付き合わせてしまって悪かったというか。
――そんなこんなで、卒業してから、フォルテールをいじることはめっきり少なくなってしまった。たまに気が向いた際にいじるくらいだ。
弾くことを嫌いになったことはない。強制されると嫌なだけで、思い出した時に気ままに触れるのは、基礎を学んだからこそ、ピオーヴァ入学前より増えた。演奏のイロハを学んだからこそ、一応は頼まれてボランティアで弾くこともあったし、それで僅かながらの謝礼を頂いたこともある。
だけど、ピオーヴァに在学したからこそ、自分の演奏は殆ど子供が弾くのと変わらないものだと、私だけが知っている。私の故郷は他にフォルテールを弾ける人がいないから、そのことが知れ渡っていないのは、きっとよいことなのだけど、その状況が心苦しくもあった。
だからこそ、たまには誰か私の演奏をわかってもらえる人に、私の演奏を聴いてほしい、そう思うことがある。それは、必然的にこの町の人以外で、不幸にもそうした人と接する機会はなかったのだけれど。
そして、そんな私の住む町に、フォルテールの旅芸人による演奏会のお知らせが入ったのは、開催の前日になってからだった。
ヴェルティン夫妻と名乗るその旅芸人は、どうやら活動を開始してあまり日が経っていないらしい。似顔絵なども特にない、質素なお知らせの紙は、ぱっと見では、そもそも商売っ気がないな、という感想しか抱けなかった。
そういえば、久しく他人のフォルテールの音色をここ最近聴いていない。結局趣味程度にしかなりはしなかったけれど、だからこそどうせならたまにはプロの演奏を聴くのも悪くない。ともすれば、少しはフォルテールの話で盛り上がれるかもしれない。
卒業して故郷に帰って、ピオーヴァに進学していた間を除き、客としてずっと顔馴染だったトラットリアの店員という形で食い扶持を得た私の、久々のちょっとしたやる気だった。
当日の会場は、町一番の広場とのことだった。既に多くの人が集まっている。
地方の田舎町に、娯楽は片手の指で数えられる程しかない。その中でも音楽は別格だ。ちょっとした催し物でもすぐに人が集まる。今回みたいに、町の外から誰かが来る時の集まり方は尋常ではない。ちなみに演劇やサーカスなどの劇団が来る時は冗談でなく全ての町の人が集う。
私がピオーヴァで落ちこぼれだったのは、今から思い返すと、割と都会なピオーヴァの町の、そういう娯楽に目移りするところも大きかったのかなと、今更ながらに思う。それは、別にピオーヴァの町に責任転嫁するということじゃなくて、ただ私が自身を律することが出来なかっただけだから、強いて言うなら自分のせいだ。
今回は、完全にフォルテールだけの演奏らしい。夫妻だというのなら、一人がフォルテールを、もう一人が歌を歌えば、それこそ見栄えもよくなるのではというようにも思うのは、紛いなりにもピオーヴァの卒業公演を経験したからだろうか。そもそも、どちらかが歌を歌えるのかどうかまで、知る由もないのだけど。
歌といえば、綺麗な歌声を、卒業の直前に耳にしたことを、不意に思い出した。私が卒業する直前に出会った、その次の新入生の子。あれは、間違いなくすごい才能だった。
あの子は今どうしているのだろう。あれから数年経ったが、彼女はまだピオーヴァに在学しているはずだ。
今頃、自慢の歌唱力をもって、私なんかとは比べ物にならない程、いい評価をもらっているのだろうか。卒業演奏の相手の声掛けを、多方面からされているのだろうか。ともすれば、意中の相手がいて、その人のために歌声を披露しているのだろうか。
「どうした、考えごとか?」
「え、ええ、私がピオーヴァにいた頃に、出会ったことのある人のことを。その時にその子と交わした約束のことを」
「今からでもそれをやろうとは思わないのか?」
「それが私には到底届かないということがわかったのが、ピオーヴァでの三年間の収穫ですよ。私は実質落ちこぼれみたいなものだったのに……何より、今から目指したところで、悪いじゃないですか。これでも精一杯働かせていただいているつもりなのに」
「はは、まぁそれもそうだな。とはいえ、夢を追いたいと思ったら、早い内に言うんだぞ。働き手は極論誰でもいいが、自分の夢は自分にしか成しえないからな。中堅になって、俺が手放したくないと言い始める前に」
そう言って、その妙齢の男性――私が今働くトラットリアの店長は別の所へ向かっていった。
実際、店長が言うことは間違いではない。業務内容のことだけで言うならば、私の代わりは誰でもいいし、その上であぁ言ってくれている。
つくづく、店長も人がいいなと感じる。そうでなければ、あぁものびのび働けっこない。だからこそ、現状にそれなりに満足してる節はあるし、わざわざ夢を追わずとも、となってしまうのだ。
そんなことを考えている内に、誰かが拍手をし始めた。私の目に、演奏者の姿が入るより早く、拍手が聴衆に広まり、いよいよ始まるという雰囲気を否が応にも醸し出す。
そして、やがて私の視界に入った演奏者の片割れを見て、私は完全に固まってしまった。あの姿は、私から見ても印象的だったから、間違えるわけもない。
フォルテールを弾けたの? 歌を歌わないの? 歌うのが好きじゃないの?
だって、その子は。
「リセ……ちゃん……?」
自ら歌を捨てるわけが、ないのに。
演奏自体は、殆ど耳に入ってこなかったような気もする。だけど、少しばかり耳だけに意識を集中させた時に感じたのは、泣きたくなるぐらいに感情を揺さぶる音と、改めて私自身に才能がないという事実だった。
正直、理解が追い付いていない。歌を歌うことが好きだった彼女が、誰からも制約を受けることのない場で、歌うことを一切しない。
歌の代わりに、私が出す音色では、到底辿り着けないような音の厚みを持って、歌うようにフォルテールを弾いている。彼女もフォルテールを、少なくとも私よりはうまく弾けるという事実が、元からペラペラな私の技術の僅かな自信をも砕いていく。
衝撃だった。確かに、彼女に会った時、どの科に入るかということは聞いていなかったけど、あの時、あぁも楽しそうに歌うから、てっきり声楽科に入るものだと、私が勝手に邪推はしていた。だけど、どうしてリセちゃんは、歌を歌うでもなく、フォルテールを弾いて、そしてそれだけなのか。歌を歌うでもなく、何かを慈しむかのように、静かにその指から音を奏でるだけなのか。
「えっと、皆さま、僕たちの演奏を聴いてくださってありがとうございます。それでなんですけど、折角ですから、何か皆様のご要望にお応え出来ればとは思うのですが、如何ですか、何かありますでしょうか?」
不意に、演奏者の旦那の方がそういうことを口にしたのが聞こえた。なら、私が望むことはただ一つ。たった一つだけ。
――一つだけなのに。どうしてだか、その勢いが出ない。
こんなの、私の性格じゃないのに。何かあるなら、やらずに後悔するよりやって後悔するような人間なのに。
「――特にないですかね。すみません、無茶振りを失礼しました。それでは、あと数曲やらせてもらおうかなと思います」
結局、その場では、手を挙げるという事が出来なかった。だから、私が彼女に対して尋ねる機会は失われてしまった――と思ったのだけれども。
振り返れば、機会というものは、自分から動かずとも勝手にお膳立てがされていることもあるもので。つまり先程の会話は伏線だったと、後から私も知ることになった。
「――以上で、今回の演奏を終了したいと思います。ありがとうございました」
「おーい、兄ちゃん、ちょっと待ってくれや」
それまで、聴衆から拍手以外の反応がなかった中初めてあがる、演奏者を呼ぶ声。
その声の主を私は知っていた。一言でいえば、私の雇い主――店長だ。って、まさか。
「いやぁね、この町じゃフォルテールが弾ける人は一人だけでな。彼女がピオーヴァに行った時は、町中総出で送り出したもんさ。今じゃ帰ってきて普通にこの町で働いてはいるんだが、折角だし彼女と話をしてやってくれんか」
ちょっと待った。そりゃ私から行くつもりがあったとはいえ、どうして勝手に私の身の上が紹介されているのか。
「えぇと……おっ、いたいた、おーい! お前だお前! 折角だから挨拶させてもらえ! こんな機会またとないだろ!」
あぁさっきの会話の時点でこれは狙っていたな初めからこのつもりだったんだろう私の与り知らぬところで何おっぱじめてるのよとか色々言いたいことはあるけれども。
でも、幸いにして、初めての相手じゃない。そうでもなければ行くこともないけれど。
「ほら、私だよ、私!」
「えっと、あなたは、確か……」
――うっすらとでも、覚えていてくれたのかな。彼女はきっとあの後様々なものに揉まれたのだろう。私を忘れていても、それも致し方がないのだけど、それでも、記憶の残滓にあるのならば。
この子の前では、沈む顔はきっと似合わない。だから、少しでも前向きに、もっと思い出してもらえるように。
「ラッセン・ナートよ。あなたがピオーヴァに入学する前に出会った。覚えてない?」
旦那さん――夫妻と名乗っているのだからまず間違いはないはずだ――にはお借りする旨の断りを入れて、私が働くトラットリアに客として入る。店長が取り計らってくれたようで、ひとまずリセちゃんが何かしら頼む分にはどれもお金を取らないらしい。
「いやぁ、でも驚いちゃった。まさか結婚までしてるとはね」
目の前に置かれたコーヒーを、冷めない内に口を付けて、リセちゃんにもそのように促す。おずおずと口を付ける様は、少しだけ小動物のそれっぽい。
「あれ、でもそういえば、私たちってそういえば三歳差だったわよね? なのにどうして――」
――あれ。だから、リセちゃんは、もしかすると、本来ならまだピオーヴァにいるような年齢じゃなかったっけ。
その事実に気付いてから、違和感が加速するまではあっという間だった。それらをまとめると、リセちゃんはピオーヴァに何らかの理由でいられなくなった、そしてそれは旦那さんが何かしら絡んでいるだろうということ。
「ねぇ……旦那さんって……」
旦那さんが何か誑かした? 二人きりの逃避行? 少なくとも、先程の演奏を聴く限りは、落第で退学したというようなことは考えづらい。
仮にもピオーヴァにいた身、演奏の良し悪しなんてものは、少なくともこの町の人の中では理解出来る方――というつもりではいる。その上で、先程の演奏の質は、明らかにプロみたいな活躍が出来ていてもおかしくない域のそれだ。
若くして、その才能を生かして、旅芸人。おかしい、明らかに彼女の実力に対して結果が見合っていない。
一体、何があったのだろう。事件に巻き込まれたとするならば、誰が悪いのだろう。
あ、そうだ。そういえば彼女、私と二人きりになってから、一言も発していない。
その事実に気付くと同時、初めて彼女は、私に向かって微笑んで、一言だけ発した。
「――慌てなくても大丈夫ですよ」
内容もそうだ。だけど私が一番驚いたことはそこじゃない。
明らかに、声がかすれている。先程の演奏の疲れもあるのかもしれない。だけど、そうだとしても、かつての『綺麗な声』からは、それが程遠くて。
「え、えっと、リセちゃ――」
「――ふふ」
だけど、表情だけは変わってないなと、ふと思った。その上で、あのおどおどとした感じは抜け、ゆったりと、まるで貴族のような落ち着いた振る舞いをしている。
「ラッセンさんが思っているだろう疑問、全てお話ししますよ。ゆっくりにはなってしまいますが」
その口調は、緩慢としたものであっても、だけどどことなく有無を言わせない、厳格な響きを内包しているように聞こえて。
だから、私は相槌を打ちつつ、その話を聞くしかなかったんだ。
「だから、今私は殆ど声を出さず、そして歌を歌うこともなくなりました」
「――大変だったんだね」
そして、聞き終わって私が言えることもそれしかなくて。
「えっと、喋り疲れたよね、ほら水飲んで飲んで」
そんな話を聞かされるとも思っていなかったから、ひとまずは回したとも言えない気を回すしかない。既にリセちゃんの前に置かれていたコーヒーは空で、お代わりを持ってきてくれる算段にはなっているのだけど、生憎店内が少し慌ただしくなっているタイミングで、どうにもそれをやれる状況にないらしい。私が取りに行ってもいいのだけど、いいから彼女と話せ席から立つなと店長から釘を刺されていてそれも出来ない。
リセちゃんの喉がくぴくぴと断続的に水を通していくのを見届けて、改めて私は幾つかの質問をする。
「その……リセちゃんは、後悔だとかはしてないんだよね?」
「いえ、全くそんなことはありません」
その即答は、表情を見ればわかる、自信を持ったものだった。
「クリスさんには、本当に感謝しているんです。広い世界を見せてくれようとして、そして今実際にクリスさんと共にその広い世界を、揉まれつつそこに立っていますから」
それは、自分が歩んできた道への絶対的な肯定。
「何より、クリスさんがずっと傍にいてくださいます。好きな人と共に歩めています。その上でやりたいこともやれています。現状を最大限に生かせています」
それは、共に歩む人がいることへの感謝。
「きっと、始まりは様々な幸せの形があったのでしょう。そしてその中からは、最良の形というものを、恐らく選択は出来なかった気はしています。それでも、私自身が選びうる、少なくとも直近では、最良の選択肢を選び続けられたと思っていますから」
それは、過去にあっただろう後悔からの決別。
「だから、選ばなかった、失ったものへの寂しさみたいなものがないと言えば嘘になりますけど、後悔をしていないというのは本当のことです」
私には、とてもじゃないがこんなことは考えられない。あったかもしれない未来を考えて、その道に突き進む自分の姿を夢想して、そこに立てていない現実の自分と見比べて、勝手に後悔を繰り返すだけだ。
天才だと思って自惚れて。進学して現実を知り。落ちこぼれとして故郷に帰ってきた。三年間が無駄だったとは思わないけど、あまりにも選べなかった、選ばなかった選択肢が多すぎた。そしてそれが多すぎたということ自体が、私の想像上の産物でしかない。
才能の差、と言い切ってしまえばどれ程楽だっただろう。上には上がいることを知って、そして追いつけるわけもないと早々に諦めた私を、リセちゃんはどう思うだろうか。
「――ラッセンさんから見て、この声のことは、どうするべきだと思いますか?」
「どうするべきって……治せるならお金出してでも治さないのは損じゃないの?」
「あ、説明不足でしたね。治せるか否かではなく、私のこの声のことを喧伝して活動をすべきか、という話です。ラッセンさんから見て、意見があるならと思ったのですけど」
「声が殆ど出ないフォルテール弾きの少女という売り文句をつけるかどうか、ね……」
正直、私の感覚ではどちらが正しいのかわからない。そういう時は、せめてどちらの方がリセちゃんのためになるかという観点から考えるべきなのだろうけど。
で、その上で私の率直な感想を言うならば。
「それで困ってないなら、そのままでいいんじゃないかな」
「――ありがとうございます。正直、私もそう思っていました」
あくまで、自身と旦那さんの実力を把握しているからこその結論。あれなら、わざわざそれ以上の余計ともとれる情報を入れる必要性も感じない。
「確かに、声の話をした方が、皆さんからの同情なども集められるのかもしれません。ですが、今私はこうしてここにいて、そして与えられた状況でフォルテールを弾いている。それ以上でも以下でもないんです。だから、余程お金に困らなければ、またいつか誰かしらに気付かれなければ、そのままでいいかなって思っていました」
だけど、彼女は、リセちゃんは、本当にそれでいいのだろうか。どうしても外野からすると、もっと他にいい方法があるのではと、つい考えてしまう。
「何より私が、そうしたくないんです」
だってそれが、どうにも私にはカストラートのようにしか見えなかったから。
カストラート。近代以前に、第二次性徴前の男児を去勢し、ボーイ・ソプラノの音域や声域を可能な限り維持しようとしたもの。かつて教会内で女性は声を発することを禁止されていたが故に、その代わりとして、変声期前の音域と成人男性の声量を求められたが故に必要とされた人。
成り立ちが成り立ちなだけに、女性のカストラート――女性だから呼称するとするならば『カストラータ』だ――は存在しない。だけど、リセちゃんのそれは、正に『そのために声を奪われたフォルテールの弾き手』であるとしか形容しがたくて。
「本当は、それを武器にするのは違うとは思ってはいますし、だからこそ私もクリスさんも前面には押し出さずに活動していますが、正直、今でもそれでいいのか悩むことはあります。実際、生活が豊かであるわけではないですしね」
とはいえ全く喋れない訳ではないですしね、と付け加えるリセちゃんの表情は、少しだけ寂しそうなのを私は見逃さなかった。だけど、それを見つけたところで何にもならないことを、私も理解してしまっている。
「――ピオーヴァには、行こうと思わないの?」
それは、誰かが尋ねなければ答えようとはしないだろうパンドラの箱。
「私は、クリスさんがどう思っているのか、私も尋ねたことがありません。だけどわかるんです、私とクリスさんはきっと同じ考えで、その時が来たら口にせずとも同じように動き始めるんだろうなって。といっても、ふふ、ラッセンさんには、言わなければ、どうするかなんてわかるわけないですよね、流石に」
それを、リセちゃんが考えていないわけもなく。
「私たちからは、ピオーヴァに行くことはない、だけどどこかで評価をして頂いて、いつかピオーヴァの誰かからお声がかかった時、私たちはピオーヴァに戻ることになるのだろう――少なくとも私はそうだと考えています」
そしてその答えは、私には眩しすぎるものであるというのも、また自明の理で。
「別に、父を恨んでいるわけではないんです。だからこそ、いつかは父と再会出来るのを、私は心待ちにしています。こればかりはクリスさんは考えていないでしょうし、私も口にはギリギリまで出来ないでしょうけどね」
改めて、勝てないなと感じた。それは技術的な面と同時に、精神的な面で、私なんかより立派であると思わされる。
だけど、それが嫌味ったらしくは聞こえない。彼女の来歴と、現状と、そして今後の考えを以てして、今いるべき場所にいる。
「――そういえば、ラッセンさんは、最近はフォルテールを弾いていないんですか?」
そんなことを考えていたら、不意にリセちゃんの方から質問が飛んできた。
「あー、全くやってないということはないけど。気が向いた時に誰に聴かせるでもなく弾く、という感じだから、殆ど向上心もなく趣味でやってる、というのが近いかな」
「また、しっかりやってみようとは、思わないのですか?」
「人前で演奏ってこと? いや無理無理無理! 私のような落ちこぼれなんかより人前でやるべき人は幾らでもいるのに、まず私にってことはないって!」
「そうでしょうか? いつか共に演奏をした時のフォルテール、私は好きだったんですけど……それともそれは、ラッセンさんにとって満足のいかない音色だったのでしょうか?」
その声に、はっとする。思わず彼女の瞳を覗いてしまう。
嘘は言っていないようだ。あの時だって、お世辞だったろうけど、心からの本心で口にしてくれていることはわかってはいた。だから、きっと今も、という気はやはりするのだけど。それでも――。
いや待て。まさか。彼女は本当に。
「私は、あの時の演奏が、素直に素晴らしいものだったって、今でも思っています」
――あぁ。いい加減私も気付くべきだったんだ。この子は、お世辞なんて言うような子じゃない。初めから本心で口にしてくれていたんだって。
「勝手な推測ですが、ラッセンさんが落ちこぼれというのなら、それは三年間義務としてフォルテールを弾いていたからじゃないでしょうか? 私だって、強制されていたものがフォルテールではなく歌だったら、歌う事自体をしようとはしていなかったかもしれません。ですから、ピオーヴァを卒業している今こそ、好きなようにやればいいんですよ。自由でもって、それを人に聴かせてみればいいんですよ」
そしてその推測は、好き勝手やっている今だからこそ、その通りだとわかる。
「だから、何にも縛られずに、常に即興のような、好き勝手に弾くようなものなら、それを生かせるんじゃないかって……すみませんそれこそ好き勝手な事言っていますね」
そんなことはないと、リセちゃんの言葉を否定して肯定することは簡単だ。だけど、その言葉がすぐに出て来ない。きっと、私が挫折を再び経験するかもしれなくて、その時に傷つくのは私だとわかっているから、素直に頷けない、それだけ。それだけだと、わかっているのに。
そんな折、そろそろ二人の意識からも抜け落ちかけていた物事が一つ。
「はい、おまっとさん」
目の前の、空いていたコーヒーカップが下げられ、新たに湯気を立てたカップが二つ、私たちの前に置かれる。
「すまないね、急に混んじゃうわ原材料を切らして買いに走らなきゃいけないわで遅れちまった。そんでこれは二人にお詫びのケーキっと。ラッセンも今日は別に駄賃いいや」
切れた食材を買いに走って慌てて調理もこなしたその足のままなのだろう、店長が息を切らしてまくしたてる。流石に私が手伝ってもと思うのだけど、店長から今日は席に座ってろと厳命されている手前、動きようがなかった。
「それで、だ。ラッセン。少しばかり二人の話がこっちの耳に入ってきてたけど、何度でも言ってるが、何かするなら早い方がいいからな。俺はそれしか言わないけど、ラッセンが何かしたいというなら、止めることもしないぞ」
それは、店長が常々、先程も口にしていた事。だからそれ自体に目新しさはない。
だけど、今このタイミングでそれを言うのは反則だ。そしてこの事は、第三者がいる場所では、これまで店長も決して口にしなかった。
つまり、私も、腹を括る必要が、急に出てきてしまったという事で。
「期待、されているんじゃないんですか?」
あぁもう。どうして私の周りは理解者しかいないのだろう。幾ら何でも気が回りすぎだ。時と場合によっては私が余計なお世話だと逆上してもおかしくないのに。
「――うん、私はまたリセちゃんと一緒に演奏したい。以前、一緒に演奏出来たらっていう約束をした時とは、思っていたものが違うだろうけど、それでも」
だから、私がすべきことは、気付けば一つしかなくて。
「いつまで、この町に?」
「明日には出る予定ですけど、そこまで急ぎじゃないです」
「なら、明日早い時間に少し私のために割いてくれないかしら。まずはリセちゃんのお眼鏡にかなわないと話が始まらないからね」
それは、私が不可能なものだと思っていた。だけど、彼女がそうでないとずっと思っていてくれていたのならば。
「やっぱり、あの時の約束を、果たしたいから」
あの約束から今までの年月は、全て私が作り出した嘘つきな光景だったのだろう。
「えぇ、私もそれを望んでいます」
そして、私が嘘つきでなくなるとするならば、目指すところは一つだけ。
「――そうであったら、いいですね」
一生懸命弾いて、その腕を認めてもらおうとして。今はまだ、私は嘘つきなままだ。
だけど、嘘つきにだって矜持がある。落ちこぼれにだって、目指したい場所がある。
きっと、今もまだ井の中の蛙でしかないのだけど、その井戸が、外の世界と同じくらい広いのならば、外でだって通用はしうるのだから。だから、今は井戸の中を私の音で満たすことを考えればいい。そうすれば、いつか井戸の中の音に気付いた外の誰かが、私を引き上げてくれるだろう。
そんなことは無理だと思い込んでいたけど、ともすれば、彼女らの横に並べるように。
「――さぁ、また本気でやってみますかぁ」
果たされることのないと思っていたいつかの約束を、今度こそ果たせるように。