重いスーツケースを抱え上げて、人目につかないようにと四時間も暗い山中を歩き回って、ようやく目的のものが見えてきた。月の光も雲に散らされて、1m先も見えないような闇の中に、浮かぶように白い光が帯をなしている。……こちらの行く手を遮るように。
幾分前に感じていた複数の魔力も今は感じないほどに離れて、しばらくは身の危険はないだろうと思う。もちろんあの結界の外側ならば。……白い光で遮られた奥はますます暗く、魔力など探らせてはくれない。
さあどうしようか、試しに投げ込んだ石は…………どうなったのだろう?少なくとも界面で爆発などはしなかった。次は魔力を、と言いたいところだが間違いなく感知される。
いつ仕掛けるべきか、どうしたもんかと結界沿いに歩いていると、前方から少しの魔力を感じる。地脈の末端があるのかもしれない。もう少しだけ近づいて、刺激臭が鼻を突いた。なんとなく予想はついたのだが、それを確かめようと視線を向ける。……木々や茂みの奥には結界の光も届いていない。当然のように見えない。
少し迷って、結局ペンライトを使うことにした。うまくいけば結界を押し通ろうとした者の末路を拝めるかもしれない。
灯りに照らし出された現場はひどく荒らされているように見えた。魔術的守りを仕込んであったと見える紺の外套らしきものは大きく切り裂かれ、そこそこ綺麗に切れている断面からは混ざった中身が……あまり見ないようにしよう。下半身とちぎれとんだ手ぐらいは確認できるのだが、胴体や頭は見えない。持ち去られたのだろうか。傍らに落ちている手提げかばんはファスナーが壊れるほど乱暴に開かれて、中身が散乱している。そこまで確認してペンライトを消した。全体的に現場が魔力でぬれていることから考えると、俺のようなハイエナ魔術師もどきの殺し合いだろう。もしくは結界の中の連中が猟犬でも放っているのか。
ああこの死体だけ漁って帰りてえ。
とも言ってられない。何にせよ結界の間際という現在地に危険物があることは確かだ。さっさと結界内に侵入した方がよさそうだ。懐から取り出したルーペ越しに結界を観察する。膨大な魔力が循環しているが、致死性の変なものは仕込まれていない……と信じることにしよう。この程度なら全力で魔力を使えば侵入できないことはないはず。その後は魔力がきれそうだが、その後のことは後で考えよう。どうせダメでもともとなんだから。
魔術回路に魔力を通す。緊張からか魔力の乱れに伴って回路がきしみをあげる。まあ問題はない。結界の光を頼りにメモ帳に目を通す。やはりフローチャートを持ってきたのは正解だった。……変な属性はない。変な物理的な罠との接続もない……はず。大丈夫、大丈夫、俺にはできる。結界に魔力を入れる。慎重な作業、焦ってはいけない。ごうごうと風が鳴るような音が気になる、集中を乱すな。気が付いたら横に吹っ飛んで地面とキスをしていた。
急いで立ち上がって目に入ったのは。
全身魔力ぬれの、いや魔力そのもののような人だった。青い燐光で底上げされている背は、それでも俺の方が高い。服はスタジアムジャンパー、その下から除く脚やまくり上げた袖から除く腕なんて心配になるほど細い。なのに、こいつから感じる圧倒的な魔力はなんだろう。地脈そのものが人の姿をしたような。……どう考えても化け物だ。スーツケースが手元にないので仕方なく懐を探る。そいつは悠長にこちらに頭を向けて観察しているのだろうか。逆光で真っ黒の顔に白い月が現れる。びくっと伸びあがってしまった。歯だ、捕食するつもりなのか?……落ち着いて、落ち着いて、何をすればいいのだろう。考えはまとまらず立ち尽くす。まさに蛇に睨まれた蛙である。何をしても状況を悪くするような気が…
「ねえ、あなた。この結界を開けられるよね?」
親し気に話しかけながら、そいつはゆっくりとこちらに近づいてくる。この流れはまずい。先手を取って腹でも見せればよかったか?自然そのもののような強大な存在に対して、こちらの退魔の札はスーツケースにあるし、もうどうしようもない。観念して返答する。
「……はい。人一人通れるぐらいなら」
2mほど離れてそいつは立ち止まる。緊張で内臓が縮こまる。命乞いは聞いてくれるだろうか。そいつはこちらの目をまっすぐ視線で射抜いて、一瞬だけ右に、俺の右腕に視線をやった気がした。青い燐光の奥には、黒い髪、黒い服、黒い虹彩。一瞬だけ向いた視線の動きを逃さなかったのは運がよかったのかもしれない。そいつはこちらに一歩二歩と近づいて、伸ばされた指が身動き一つとれない俺の胸を突く。少しぐらつく、生きた心地がしない。
「私は、この先に行きたいのだけれど、いくらかかる?」
結界の先に行きたいのだろうか。見逃しては欲しいが、葉っぱのお札など受け取ってもしょうがない。
「いえいえ対価なんて……ははは、無料で、ロハで、すぐに結界を破りますよ。ええ本当に」
「それじゃあ、お願いしようかな」
愛想のよい返答に油断していたら、そいつの手が俺の襟をつかんで引き寄せる。う、うかつだった。数センチの距離で目が向かい合う。食われるのか、俺は。威嚇するように窺うように視線が鋭く、俺の目を通り抜けて脳にまで刺したようで。
頭の中で小さく弾けるように灯った違和感があった。
怯えるように化け物の顔を見る。幼げな、白く滑らかな肌に丸っこい目。愛嬌があるなと感じないこともなかったかもしれない、その目が細められ、こちらを見定めるように不躾な視線を向けてこなかったのだとしたら。
緊張の中、時間がいくら立ったのかもわからないが、化け物は目を閉じ、口を開けてニッコリと笑った。わき腹から背中へ震えが伝わる。死ぬ。死ぬ。漏れだしそうな情けない悲鳴をかみ殺す。歯が軋みをあげる。
化け物はこちらを弱虫と見て苛立ちを覚えたのか乱暴に鼻を鳴らした。
「私が綺麗だからって挨拶を忘れたの?ボク、自分のお名前は言えますか?」
馬鹿にするような軽い調子。
「た、……建持、到と申します」
口に出してから気が付く。化け物に名前をわたすなんて!
「ふ~ん。到くんだね。……でもどうしようかな。教えちゃおうかな。
到くんは私の名前、聞きたい?」
相手の名前を受け取るかどうか、どっちだ?似ている妖怪の話を聞いていたら正解がわかったかもしれないのに…。
今は相手の機嫌を損ねることが怖かった。
「知りたいです。教えてくれますか?」
化け物は口角をあげて笑みを深めた。……何も言わない、沈黙が恐ろしい。
「お願いします。教えてください」
「よろしい!私は隼。よーく覚えておいて。チャンスは一回よ。それじゃあ到くん。……よろしく」
冷たい息とともに最後に一言残して目が離れていく、襟が解放される。よろめいたが何とか倒れずに踏ん張る。
「さて、ただで結界の先に届けてくれるんだよね?」
「はい」
黒い瞳の鋭い視線から解放されて一息ついているところ、こちらの外套がわしづかみにされた。そして隼はそのまま俺を引きずるように歩いていこうとする。鬼だろうか、化け物にふさわしいとんでもない力だ。咄嗟にあげた一言は運がよかったのだろうか。
「あっ!荷物!」
隼が止まる。そして俺が指さした方向に転がっていたスーツケースを認めて、そちらに進路を変更した。隼はスーツケースを右肩に担ぐと、左手で俺の右腕を握りなおして走り出した。あまりに常識はずれなこのスピード、見た目は人間と変わらない。……精霊か妖怪か、……鬼だろうか、角が小さい。
俺は引きずられ、押しが地面や植物と激しく接触して跳ね上げられる。いくら魔力を使ってもこのままでは全身の骨や肉が折れてしまう。
「ストップストップ、死ぬ。死んじまう。
助けて隼。止まって……」
俺の情けない言葉を受けて、隼が止まる。隼はこちらに振り向いて、ごめんごめんと軽く謝って、へたり込んだ俺の膝や靴についた土を手で払っている。なぜ手を使う。俺のハンカチは隼の手を拭いて汚れることになった。
ひと段落して隼は俺の外套の袖口をつかんだ。
「到くんは脆いからここからは歩いていこうか」
ゆっくり歩いてくれるらしい。とはいっても、そもそも移動する必要があるのだろうか?
「結界の向こうに行きたいだけなら移動する必要はないんじゃ……ないですか」
隼は立ち止まって、こちらの顔を覗き込む。その表情は少し楽しそうだ。
「ちょっとやることあってね。……気になる?気になっちゃう?……到くん?」
視線だ。またこの視線で心臓が激しく鳴る。頭がくらくらして、吐き気がする。状態のよくない頭で、どう答えればいいのか。また悩ませる。
隼は立ち止まっている。はよ歩けや。この化け物との別れがどんどん遠ざかっている気すらする。このままでは話が進まない。このまま隼と一緒にいると恐怖と緊張で頭がおかしくなりそうだ。
「……歩きながら聞かせてください。見られていると、……こう、落ち着いて話ができない」
隼はため息をついて、再び歩き出す。俺の手を引いて。その足取りが軽くなった……気がする。
「ここよ、ここ」
隼が立ち止まる。俺は周りを見渡すが、特に気が付いたことはない。何のことはない結界がある深い山中である。最初に隼と出会った場所と大して変わらない。
「ここを開けて。到くん。ただでやってくれるよね」
隼は、にこにこと結界を指さしている。なんでわざわざここを開けようというのか。この造りの結界は一定のはず、弱いポイントなんてない。こちら側、結界、どちらでもないならあちら側……考えてもしょうがない。のんびりと時間を使って機嫌を損ねるわけにもいかないので早速取り掛かる。魔力を指先から放つそれを固定して針のように。結界の白い魔力を薄皮に削いで、自分の魔力を刺していく。数千本のコードの束から一本をニッパーで切り飛ばすようなもんだ。難しくはない。結界の主には、すでに侵入を察知されたろうが。……急き立てる緊張感が指先を震わせる。少しづつ魔力を増やして、川の流れに突き出した石のように、俺の魔力を避けて結界の魔力が回りだす。結界の空白をこじ開けて、……うまくいった。結界には1m四方ほどの穴が開いている。にもかかわらず結界の魔力は迷いなく循環している。
「出来ました。隼さん。これでいいですよね」
振り返ると、隼は満足そうにうなずいている。
「おおー、えらいえらい」
そいつの手のひらが俺の頭頂を撫でる。勢いあまって首が飛ぶんじゃないかと冷汗をかいたが、意外にもその手つきはやわらかだった。自分より幼い存在に頭を撫でられるのは落ち着かない。ある種屈辱的ですらある。
それよりも時間が無い。異常を察知した中の魔術師が飛んでくるはずだし。
「名残惜しいですけど、早くいかないと通れなくなりますよ」
「それじゃあ、ありがとね!到くん、また会いましょう」
そいつは軽やかに結界をくぐりぬけて、結界の先で振り返って、一度だけこちらに手を大きく振って、木々の奥へと消えていった。
別れ際の言葉が不穏すぎる。塩でもまいた方がいいだろうか。……それよりも急いだほうがいい。隼が適当に放り出していたスーツケースを持ち上げて、俺も結界をくぐる。
侵入成功。任務は次の段階だ。