昼前の暑くなってくる時分、今日は曇りがちなので日射が厳しくはない。自転車をこいで、山の中には入る。藪が深いわけでもなく、まばらに木が生えている山なので、そこまで苦労せず進んでいく。
いくらか歩いて、先導する留が止まった。
「二人とも気を付けて!」
“魔力です。マスター”
警告の言葉と同時に視覚からも異常が伝わって来た。地面からしみだしてきたと感じられるほど唐突に、濃い霧が視界を埋める。
幻術か?誰かが俺の右手を握った。驚いて息が詰まるが、この感触には覚えがある。
“マスター分断されたようです。いえ、魔力や気配を感じないだけで、すぐ近くにいるのかもしれませんが”
“なるほど……どうすべきだろう?”
“下手に呪術を使えませんし、……今の声、何か感じましたか?護符は?”
確かに笛の音のような、遠吠えのような音が聞こえた。俺には何の影響もない。
“何もない、と思う”
少しまずいかもしれない、平衡感覚も地面に立っている感覚もなくなってきた。アーチャーは大丈夫だろうか?令呪を使うか、離脱すべきだろうか…
“これほどの異常、キャスターでしょうか?”
確かに吸血鬼がここまでやるとは……吸血鬼ならおかしくない気もする。急に前方の霧が薄れて、次第に木や茂みの影が見えてくる。
さらに霧が晴れて、そこには少し前に顔を合わせた吸血鬼、隼が立っている。予想はしていたが、彼女が件の吸血鬼だったのだろう。
「やあ、到くん。また会いに来てくれたんだね。会えてうれしいよ」
一度目の邂逅はこちらから会いに行ったつもりはない。アーチャーが握る手に力を込めた。逃げるつもりだろうか?しかし、今は確認することがある。
「隼さん。私も会えてうれしいです。数日ぶりですね」
「あの時はありがとう。結界を通してくれたから、簡単に欲しいものが手に入ったよ」
アーチャーを連れているこちらを警戒してか、隼は以前あった時のように距離を詰めてこない。
「それは良かったです。それで、欲しいものとは何だったんですか?」
「え~、気になる?気になっちゃう?」
「はい。すごく興味があります」
「ほら、これよこれ」
隼が着ているパーカーの袖をまくり上げる。右腕の表面が、銀色のあみだくじの線のように光っている。おそらく筆川さんに回収してほしいと頼まれた魔術刻印だろう。しかし、こちらの油断を誘うためか、簡単に見せびらかしてくる。吸血鬼の見掛け上の幼さに油断してはいけない。
「隼さんは魔術師になりたかったんですね」
「んんっ、到くんもバカなことを言うんだ。……ああ、でも、ふっ、…くっ…、ふふ」
隼は震えだして、耐えきれなかったのか笑いだした。
「ああもう、うまいこと言うんだもん。そう。私は魔術師になりたかったの」
「夢がかなったんですね?」
「うんうん。だから今はとっても機嫌がいいの。……機嫌が……ね」
その表情は柔らかいものであるが、隼の黒い虹彩は俺の目を強く射抜く。俺の頭の中で弾けて燃える何かがあるような……
そろそろ本題に入ってもいいかもしれない。
「隼さんは……令呪を持っていますか?」
「令呪?ほら」
隼が右手の甲を見せつけてくる。確かに令呪がある。
「あなたのアーチャーと違って、うちのキャスターは隠れてしまったわ。ごめんなさい。あの子は怖がりだから、許してあげて」
「はぁ、はい」
サーヴァントの話までしてくれるとは思わなかった。しかしキャスターか。この霧、そして隼。勝ち目がないかもしれない。
「隼さんは魔術師になりました。その上で、聖杯戦争に参加しようと考えているのですか?」
隼は目を細めて笑った。アーチャーが俺の一歩前にでる。
「ごめんなさいね。あの子が勝ちたがっているから、自分からリタイアはしないつもり。でも、私が手助けしたら簡単に勝っちゃうから、私はキャスターを手伝ったりしないわ。安心して」
隼の真意がよくわからない。困惑していると自分の周りに目で確認できるほどの魔力が広がっている。それが俺の方に急速に集まってくる。アーチャーに手を引かれて走り出す。俺の背中にかけられた声があった。
「ブルーローズ」
“マスター!”
アーチャーの緊迫した声が耳に刺さる。
「キャスター。到くんは死なないように、遊んであげて」
隼の令呪の赤い光に送られるように、魔力の奔流に呑まれた。
視界が白く染まる。無意識で呼吸しようとして、水を飲みこんでせき込む。それも自分温体から空気が奪われる結果にしかならない。水の中だ!
気が付けば荒波に呑まれたようだ。上も下もない。大きな洗濯機の中に入ったかのように、あらゆる方向に体がもっていかれる。
令呪を使わなければ!……令呪に何を命じればこの状況を脱出できる?
“マスター!宝具を使います”
念話で届いた声に安心する。
「デッドエンド」
重い水が耳をふさいでいる中でも、アーチャーの毅然とした言葉が耳に届いた気がした。
ステータスを見た時から思っていた。ああ、なんて自分にぴったりなのだと。視界が切り替わる。もう少し勝ち続けて、魔力を手にすることができたら、そのときもここにたどり着くのかもしれない。アーチャーと一緒に薄暗い廃校の中にたどり着く。
激しくせき込んで、飲み込んだ水をなんとか吐き出す。めまいがして、視界が真っ黒になる。何かの破壊音に気が付いて顔をあげると、……視界がかすれているが、アーチャーが何かを床に押さえつけている。
ようやく見えてきた、あれは絵でしか見たことがない人魚だ。あの人魚がキャスターのサーヴァントだった。ステータスが見える。
クラス名キャスター、筋力E、耐久E、敏捷E、魔力A、幸運B、宝具B、陣地作成A、道具作成C。
キャスターが何かをしたのか、俺の近くで髪を裂くような音が響く。俺が身に着けていた護符が破られる音だ。
「やっぱり、マスターがはずれだったなぁ」
キャスターの美しい声が聞こえる。続いて、アーチャーの手がキャスターの胴体を貫く鈍い音がした。耳をふさいどけばよかった。
護符を確かめる。半分ほどは焼き付いてダメになっていた。キャスターを消滅させたアーチャーが駆け寄ってくる。
「マスター、大事ありませんか?」
「大丈夫だよ。ありがとうアーチャー。でもアーチャーの宝具は強かった。ごめん、少し低く見ていたかも」
宝具ランクEのアーチャーがランクBのキャスターに宝具の打ち合いで勝利した。宝具のランクは高い方が勝つものでもないようだ。
「運がよかった。それだけです。宝具はどちらも結界だった。こちらが先に魔力を使っていたら勝てはしなかったでしょう」
確かに魔力をだいぶ消費した実感がある。この勝利は運がよかったのか、隼もやる気がなかった。それに、別れ際の隼の令呪、あれは……
アーチャーがこちらと顔の高さを合わせる。嫌な予感がする。
「アーチャー、何を?」
「いえ、なんでもありません」
アーチャーが離れていく。いや、戻って来た。
「マスター、宝具の結界を解きます。あの吸血鬼がどう動くかわかりませんし、所在不明のアサシンもいます。帰るまで油断しないように、お願いしますね」
「ありがとう、気を付けるよ」
アーチャーの結界である廃校の景色が消えて、山の中に戻って来た。
視界に突然、隼と黒い影を被ったような人間?が現れた。とんでもない速度で戦闘している。あの影を被ったように上半身が黒いのは、サーヴァントだ。
クラス名バーサーカー、筋力A、耐久A、敏捷A、魔力C、幸運D、宝具D、狂化A。
見えたステータスに、知っている存在だと一瞬だけ油断した。相手はバーサーカー、理性を放棄した獣のサーヴァントであるのに。バーサーカーは見開いた眼で突然現れた俺たちを一瞥し、そして矛先をこちらに向けた。躊躇なくこちらに一直線に向かってくる。速すぎる!
アーチャーが何かをしたのかバーサーカーに黒い軌跡が走る。バーサーカーはそれを簡単に避けて、一度距離をとって、進路を変えて俺に迫ってくる。バーサーカーが俺にたどり着くよりも早く、アーチャーがヘッドスライディングをするような前傾姿勢で俺の目の前に走りこむ。それよりも前にバーサーカーの振り下ろした腕の前に、隼が割って入った。隼を構成していた青く輝く魔力が飛び散り、そして少し遅れて血が……。バーサーカーが目の前にいて、再び腕を振るっているのに、隼は肩越しに俺を流し見て、言葉を漏らした。
「えへへ、よかった。到くん」
弱弱しい声は、そう聞こえたような気がした。気のせいだろうか。気のせいであってくれ。まさか、吸血鬼が自分を庇ったなんて。そんなことが……あるわけがない。庇ってないと信じたいのか?それとも庇ったと信じたいのだろうか?バーサーカーの右腕が隼の体を切り裂き。左手は隼の右腕を掴んで肩口の肉ごと引きちぎる。派手に飛んだ血や肉片が俺の頬や手にまでかかる。お願いだ。もうやめてくれ。
アーチャーが俺を向かい合わせで抱きかかえるようにして、走り出す。俺は手を伸ばして、隼がバラバラにさせるところを見ていることしかできない。
「戻って、戻ってくれ、アーチャー」
おかしい、おかしい。はじめから吸血鬼は、隼は退治してしまえと考えていたはずだ。なんでこんなにも心乱される。言葉を交わすんじゃなかった。……アーチャーは冷静さを失った俺を無視して、冷静にバーサーカーから距離をとってくれていた。
「ごめん。アーチャー、なんでもないよ」
隼を解体して、散らかしたバーサーカーがこちらに向かってくる。アーチャーも十分早く走っているはずなのに、バーサーカーの姿はどんどん近づいてくる。アーチャーが俺という荷物を抱えていなければよかった。このままでは追い付かれる。
バーサーカーは急に立ち止まると、自分の体をむしりはじめた。そして自分の体を腕で引き裂いて、霧散した