暗がりに一人立ち尽くしている。湿気た匂いが鼻に入る。積る葉も濡れた、冷たい土の上だろうか?ああでも、目に入る光景を確かめてみたら簡単にわかる。これは夢だ。目の前に自分がいるのだから。
歳は五歳を超えていくらかだろうか、母の腰にしがみついて、そう記憶の通りに今にも泣きだしそうだ。
「お母さん。僕は出来損ないなの?」
母はそう、しゃがんで俺を抱きしめた。母は震えて、泣いているのだろうか。幼い俺に返される言葉はない。この後はどうだったのだろう。思い出した日もあったかもしれない。
この日も淀む。忘れたい思い出として、しっかり堆積する。上から別の日が降って来た。
歳は十の頃。兄さんと向き合っている俺だ。
「お兄ちゃん。僕は死ななきゃいけないの?いやだよ。怖いよ」
兄さんが何かに耐えるように手のひらを強く握りこむ。兄さんの顔ばかり窺っていた、あの日の自分は気が付いていたのだろうか。
「父さんも爺さんも婆さんも同じように死んでいった。怖がってはいなかった。大丈夫だよ。怖がらなくていい。到だけじゃない。母さんも俺もそして今はいない子供たちも、同じように死んでいく。すぐに俺が到のところに行くさ。だから父さんと待っていてくれないか。怖くない、みんなが一緒だ」
あの日の自分は、その言葉に少しでも救われたのだろうか。納得できたのだろうか。それすらも無意識の大岩の下に封じ込めてしまっているのだろう。
忘れない。思い出さない。思い出したくない。そんな日々が降り積もって自分を形作る。忘れもしない、思い出しもしない、だから前に進めもしないのだろうか。幼い自分は変わることができたのだろうか。目の前の自分は一人取り残されて、ふてくされて膝を抱えて座ったところだった。今の自分も、あのような姿なのか。
力なく下に垂らしていた右手をつかんだ手の感触がある。誰が今の自分に寄り添ったのだろうか。見たくないからと過去送りにし続けた。たまりにたまった、よどんだ奥の奥に。誰にもたどり着かせていないのに。暖かい手の感触に引かれて、右に目を向けたが、そこはただ黒いだけだった。それでも、その姿は黒い記憶の奥に隠れてしまっているけれど、目に見えなくても感じる輪郭がある。
「ありがとう。あなたは
夢から覚めて飛び起きる。その勢いで胃の中身が出そうになるので口を押えた。吐き気がする。頭痛がひどい。くらくらする
「マスター…、建持到様、マスター!」
自分の名前を呼ぶかすれた声がかけられた。見上げると長い毛の塊が、いや髪が長いだけだ。膝までの髪の毛にぶかぶかの白く長い服。見たことない妖怪だ。それに今まで目にしたことがないほどの魔力を感じる。符を探さないと。外套は着ていないし、ポケットを探ろうが役に立ちそうなものはない。スーツケースはどうしたんだったか…
頭は働かないが、妖怪を見ていると浮かぶ言葉がある。
「アーチャー?」
「はい、あなたのサーヴァント、アーチャーです」
サーヴァント!危険な使い魔。そんなものが目の前にいる。目の前にいるのに、なぜか焦るような気持ちはない。むしろ落ち着くような。
「んっ?あなたの?」
「はいあなたが令呪で私を呼びました。私はあなたに仕えるサーヴァントです。大丈夫ですか?危険だと思って、その場を脱するために呪術を使いましたが、マスターの魔力を使いすぎてしまったようで」
アーチャーはしゃがみこんでこちらの顔を見ている。見えているのだろうか?アーチャーの顔は長い髪の毛の奥に隠れている。その姿は少し怖い。
「脱した、ってそういえばここは?千里さんは?」
立ち上がって見まわす。上下左右、全てが灰色の暗いかすれた壁となっている。色はともかくこの構造には見覚えがある。薄汚れているが学校の廊下だろうか。壁に並ぶ窓の奥をのぞくが上から下まで曇り空が広がっている。これは幻覚?
「私が召喚されたときに他のサーヴァントもいました。その場での交戦を避けるため、私たちは手ごろな場所に転移してきたのです」
ここはどこかの廃墟だろうか。俺と召喚されたアーチャーだけがここに……。それよりも、アーチャーはあの場が危険だと判断して離脱したことが問題だ。そこには千里さんがいた。
「アーチャーさん。知り合いがあの場にいたんです。戻らないと」
アーチャーが指で自身の髪の毛をかき分ける。それに呼応して、アーチャーの黒い眼が露わになる。黒い眼。切れ長で白目が存在しないかのようなそれは、視線を示すものというよりも、白い顔に空いた穴か傷跡のような……
頭がぼんやりとする
「マスターは魔力を使ってお疲れのようです。すでにいくぶん眠っていらっしゃいましたが、もう一度お眠りになってはいかがですか?」
「いや、もういいかな。ちゃんと起きているよ」
「もう会話はできそうですか?いくつかお話しておきたいこともあります」
「はい……」
話か……なんでこんな状況になっているんだろう。選択一つで簡単に命を落としかねない苦境に立たされている。
俯きがちに眺めていた右手をアーチャーが両手で包んだ。纏った魔力が少しだけ冷たい。はっとしてアーチャーの方を向く。相変わらず髪の毛の塊しか見えないが、その奥から落ち着いた声をかけてくれた。
「落ち着いて、大きく息を吸ってください。……まだお疲れなんですよ。休憩しましょう」
「ありがとう、アーチャーさん。大丈夫。大丈夫です。もう少しだけ、呼吸が落ち着くまで」
大きく息をはく。いつのまにか意識せずに恐怖心や緊張感に支配されていたのかもしれない。難しい任務を預かって、化け物に立て続けに遭遇して、すっかり参ってしまっていた。触れあうだけではない。右手の甲の令呪から自分以外の何かと、アーチャーと魔力がつながっていると感じる。魔力が流れる温いつながりが安心感を与えてくれる。思い返せば千里さんがいつくしむように令呪を撫でた、指先の温かさも蘇ってくる。右手は暖かく、一転して頭は冷たく思考が戻ってくる。俺は大丈夫。そのはずだ。
「アーチャーさん。もう大丈夫です」
「わかりました。マスター」
アーチャーの手が離れる。それを名残惜しく目で追ってしまう。……これでは寂しがりの子供じゃないか。自分の内心にカツを入れる。
「それで、アーチャーさんは話があるんでしたっけ」
「さんはつけなくとも、アーチャーで結構ですよ」
「アーチャーさんの方がとしう…目上ですから」
アーチャーは何を思ったか、足で二度三度と床を擦る。…ん?
「アーチャーさん。なんで靴をはいてないんですか?」
「私は常に少し浮いているので靴は必要ないです」
「そうですか……すごいです」
アーチャーは咳払い一つして、
「そろそろ本題に入りましょう。マスターは聖杯戦争について、どれぐらい知っていますか?」
さすがに君たちサーヴァントを呼び出して、それをつぶして魔力に変換する儀式だよとは言いかねた。
「魔力を集める儀式だとは知っているよ」
「サーヴァントについてはどうでしょうか?」
「降霊術で呼び出した使い魔と聞いているよ。アーチャーさんもそうなんですよね?」
「降霊とは……少し違うかもしれませんが、おおむねその認識でいいかと思います。問題なのは、サーヴァントは強い力を持つ存在で、呼び出された七体が最期の一人になるまで争う。マスターも無関係ではいられません。巻き込まれてしまいます」
「最後の一人?」
呼び出したサーヴァントをつぶして魔力にしたいマスターと抵抗するサーヴァントの争いかと思っていたが、そうではないのだろうか。サーヴァント同士も争っている?
「はい。最後まで生き残ったサーヴァントとそのマスターは聖杯を得る。それによりサーヴァントは受肉の権利を得て、マスターは膨大な魔力の使用権を得ることになります。つまり私たちは私たち以外の六組を排除する必要があります」
「魔力はともかくサーヴァントは受肉が欲しいと?」
この辺りは聞いたことがない話だった。
「受肉、過去の記録であるサーヴァントが新たに肉体を得ることです。私含め全てのサーヴァントは受肉を目指している」
受肉というが、アーチャーのようなとんでもない存在がほいほい肉体を得ているとするとこの世界がぶっ壊れてしまうのではないだろうか?まあ、そんな心配今はいい。それよりも自分のことだ。
「まあアーチャーさんの話がその通りだとしたら、俺は他の六人のマスター集団から狙われることになるんじゃないか?勝ち目なんてないような気が……」
「いえ、そんな的確にこちらが不利になる確率は低いのでは……」
「他の六人のマスターは多分グルだ。同じ家の出のはずだし。……ん?いや待てよ生き残るのが一人ならマスターはほとんど死ぬのが確定する?」
そこに付け入るスキがあるかもしれない。それとも術師達はすでに死ぬのが確定したマスターを五人用意して、勝者まで決めているのだろうか。意識を失ったホムンクルスなんかをマスターにしたのか?
「いえ、必要なのは六体のサーヴァントの犠牲。マスターが命を落とす必要はありません。サーヴァントを失ったマスターが他の参加者から見逃されるかはわかりません」
ますます、この儀式に俺が参加している意味がない。命があるうちに儀式から抜けなければ。しかし、アーチャーはどうなるのだろうか?いや、そもそも他の六人のサーヴァントも受肉を目指しているとすれば。談合なんて実現するのだろうか…
「俺はどうしたらいいのだろう、アーチャーさん」
「現状では様子見に徹しましょう。さいわい、私は潜伏に向いています。マスターも守りやすい」
アーチャーさんの言葉は妥当な気がするが、それはそれとして少しだけ気がかりがある。
「千里さんが心配だから、少しだけ見てきたいんだけど」
「危険です。罠です」
アーチャーが俺に詰め寄る。少し圧倒された。目線を合わせるようにアーチャーが少し頭を下げた。
「アーチャーさん……」
アーチャーが手で髪をかき分ける。露わになった黒い右眼がまっすぐにこちらの右目を射抜く。