今日も榛名は空を見上げる。何処までも続いている青い空。その美しい空を瞳に映し、ぼんやりと瀬戸内の埠頭に腰掛けていた。呉に来て幾日経っただろうか。
到着した時には艤装がボロボロだった。レイテ沖海戦から帰還までの間、本格的な修理を受けさせてもらえなかった。本来発揮できるはずの力も、今は出すことも叶わない。
「いい天気です」
修理に関しては順番待ちということもあり、榛名よりも先にするべき艦があった。待っている間はすることもないので、こうして海岸線からはみ出しているコンクリートに腰掛けているのだ。
今日までは冬空でも温かい日が続いていたが、どうやら明日から天気が崩れるみたいだ。雪でも降るかもしれない、なんて考えながらも果てしなく続く海を見つめる。
足先まで打ち付ける波に目線を落とし、冷たいながらも透明度の高い海の下に目をやる。海に浸ったコンクリートには海草がこびり付き、藤壺が平らだった人口壁に段差を付ける。ふわふわと漂う海草の周りに、小魚が纏わりつき、じゃれ合っていた。
榛名は魚を見て『美味しそう』とは思うこともなく、ただゆらゆらと漂う姿を何も考えずに眺めるだけだった。
「榛名さん、榛名さーん」
「……は、はい? 何でしょうか?」
海を見下ろしていた榛名に声を掛けてきたのは少年だった。呉鎮守府の近くに住んでいる少年。呉市街からやってきている男の子だ。
数年前から国内の食糧事情が芳しく無い。軍人であれば、それなりの食事は保証されている。だが銃後の民間人はそうもいかない。農耕・酪農を行って得られた食物が軍隊へと引き渡され、数えきれないほどの人々は少ない食べ物を分け合って生活していた。もちろん、満足とは程遠い量だ。いつも腹を空かせている人たちは、農家から物々交換で得たり、野山に入って時には木の皮を齧るなんてこともしているという。
少年はその内の一人であり、腹を空かせた家族のために市街から出て食べ物を探し歩いていた。前回会った時は、食べられる木の実を見つけたと言って、ポケットや帽子が膨れ上がる程入れていたのだ。
「一昨日持って帰った木の実、皆喜んでました」
「それは良かったです。今日も探しに来たんですか?」
「はいっ!! 木の実よりもいいものを食べて欲しいんです。お母の腹ん中に赤ん坊がいるんです。だから、お母には栄養がつくものを食べて欲しくて」
「それじゃあ木の実では駄目ですね。本当なら榛名が工面をしてあげられればいいんですけど……」
「そんなこと頼めませんよ!! 榛名さんは海軍の軍人さんですから、軍人さんは僕たちを守った正当な報酬としてもらってるんですよ?!」
地は黒だった赤錆色になりかけている学生服の袖から除く細い腕は、男の子としては少し細すぎる腕だ。誰がどう見ても健康状態が良くないのは明白だろう。
榛名としても、何かの縁で袖を擦り合った中である少年が困っているのなら、何かしら手助けができればいいと想っていた。
だが、少年はそれを断固として拒否する。理由は『榛名が軍人であり、軍人は陛下や臣民を守る使命があり、そのためにはしっかりと食事を摂らなくてはならない』というものだったのだ。
「ではどうするんですか?」
「野山に罠でも仕掛けますよ。もし駄目だなら海で魚でも」
「それは……いいのでしょうか?」
「大丈夫です!! 皆やってますからね」
「そう、ですか……」
『皆やっている』。つまり、少年の周囲の人、友人たちは近所の人もやっているということだろうか。皆、それほどまでに困っているということだ。
このような現実を突きつけられるのは今に始まったことじゃない。通常艦艇の搭乗員の方々は皆、満足に食事を摂れているように見えていた。白米を幸せそうに食べている姿を何度も見ているからだ。しかし、民間人となると話は別だ。榛名の目の前にいる少年もそうだが、近くを歩いている人々は皆、痩せ細っている。会話も聞こえてくるが、酷い場合だと餓死している人もいるそうなのだ。
榛名は食うに困る人たちが減れば、と思っていた。戦争を続けていれば、国内が困窮することは分かっている。しかし、現実を直視する余裕が今まではなかった。こうしてポツンと海を眺めるだけで一日が過ぎていくような、このような状況にならなければ。
それに、たとえ軍人であったとしても、食事を満足に摂れる保証はどこにもないのだ。榛名は海軍だが、陸軍だとかなり酷いという。国内にいるならまだしも、本州から出ている軍人には、まともな補給を受けることも出来ないと聞く。それこそ、戦闘した結果死ぬ兵士よりも、食事が満足に摂れずに餓死する兵士の方が多いというくらいに。
そもそも、食事を満足に得られない理由としては、軍隊が本来であれば生産者である人を兵士として徴用していることが一番の理由として挙げられている。働き盛りの若い男たちは、そのほとんどが戦地に送られているのだ。一方、生産地である田園や農場では、働き手である男がいなくなったことから、老人や女子供がせっせと働いている。しかも、近頃になると、その唯一の働き手である女子供でさえ、兵器生産工場の人手に駆り出されているという始末。それでは、国内で生産できる食料が激減してしまうというのも仕方のないことであるのだ。
元気に榛名の元から走り去って少年を見送り、物思いに耽る。何度考えたことか分からない。あのような少年たちが、どうすれば減っていくのか。榛名だけの力ではどうすることも出来ない。艦娘全員で考えたならばどうか? 海軍の生き残りで考えたならばどうか? 軍全体で考えたならばどうか? 日本国民全員で考えたならばどうか? 結局、榛名の欲しい解は得られないまま、時間だけが過ぎていく。修理の知らせを持った伝令が来るわけでもなく、何かいいことがあった訳でもない。今日という日が、"今日も"なにもなく終わっていってしまう。