この身はただ一人の穢れた血の為に   作:大きな庭

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本日の分割更新の後編。


悪心と善導

 鬱蒼と茂る森の中に居ても尚解っていたが、外は既に日が落ちようとしていた。

 

 余り話し込んだつもりは無かったが、しかし彼女の暴れ狂う感情を受け止めるには、やはり相応の時間を要したらしい。彼女が疲れて眠ってしまうのも無理はないと言えた。今回精神的に強い打撃を受けたのもそうだが、やはり彼女には、三年生になって以降の積もり積もった肉体的な疲労が一挙に襲い来たようだった。

 

 とは言え、このまま外に居る訳には行かなかった。

 日中では未だに寒さが残る日が多く、まして夜が近付いてきているとなれば猶更だ。平静な状態に無かった彼女は先程まで全く感じて無かっただろうが、寧ろ逆にそうであるからこそ、余計に外で寝かせておくような事は出来なかった。そんな真似をすれば、更に酷い体調不良で寝込むのは眼に見えている。

 

 勿論、僕がグリフィンドールに彼女を送り届けるというのは論外であり、スリザリンに連れ帰るという婉曲的な自殺をする事もまた有り得なかったが、都合の良い事に、禁じられた森という場所の近くには彼女を安静にさせておく宛てが有った。

 

 共に居た場所が、禁じられた森の端の端であって良かった。

 ハーマイオニー・グレンジャーを背負って歩いたほんの十メートル程の距離でそれを実感しながら禁じられた森の外に出れば、すぐさまランタンの光と共に大きな影が走ってきた。その正体が誰であるかは、やはり言うまでもない。

 結構な距離が有った筈だというのに、僕達の元に辿り着くまではほんの数秒しか掛からなかったように感じたのは、その巨大な体躯が距離感を狂わせていたからか。或いは、彼がハーマイオニー・グレンジャーの身を案じていたからか。多分、両方では有るのだろう。

 

 そんな彼は僕の前で泥と砂ぼこりを巻き上げながら急停止し、僕の背中に誰が乗っているかを認識した後、その大きな口で怒声を上げようとした。

 

「お前さん、ハーマイオニーに何を──!」

「眠っているだけです。貴方は彼女を起こすつもりですか」

「──うぐっ。むぅ」

 

 端的な僕の叱責に対し変な呻き声を上げて、彼は勢い良く口を閉じる。

 その言葉を証明するように僕の肩口からハーマイオニー・グレンジャーの顔を覗かせてやれば、彼は恐縮したように小さく身を窄めた。それでも彼の身体は、僕と彼女を丸ごと隠し通して尚、後二人くらいは隠れるであろう程に巨大だったが。

 

 そんな彼に対して、僕は彼女を少しばかり持ち上げて告げる。

 

「丁度良かった。僕の代わりに彼女を運んでくれますか? 如何に彼女が僕より小さいとは言え、人一人を運ぶのは流石に重労働ですから」

「……お前さんは意外とデリカシーという物が無いな」

「父親の教育が悪かったので仕方無いでしょう。無理だと言うならば引き下がりますが、どうします?」

「……まあ、ええだろう。うん、まあ、俺としてもそれが都合がええ」

 

 僕の背中から軽々と彼女を取り上げた際に告げられた言葉の真意は問わなかった。僕としても、そのような意図が無かった訳ではないからだ。

 

 しかし相変わらず、その単純な一動作ですらも、ルビウス・ハグリッドという存在は力という物に満ち溢れていた。

 彼が自身の血故に苦労してきたであろう事は解っているが、それでもこういう場合は羨ましくなる。少なくとも、彼は単純な力不足で困難を感じた事は殆ど稀だろうから。

 

 ただやはり、それは無い物ねだりだというに過ぎないのだが。

 

 彼は僕のようにハーマイオニー・グレンジャーを背負うには余りに大きすぎる為、赤子に対してそうするように彼女を抱え込んだ。その後で、彼は僕に対して言葉を投げ掛けてくる。

 

「……それで、お前さんはどうするんだ」

「勿論、帰りますよ。貴方が居れば、彼女は安心でしょう」

「……てっきりお前さんは、ハーマイオニーの傍に居たがるものと思っていたが」

 

 ルビウス・ハグリッドが、言い辛そうなのは、僕と彼の関係を考えれば当然の事だろう。けれども、それに対して僕は微笑みすら返す事が出来た。

 

「今のハーマイオニー・グレンジャーに最も必要なのは、僕では無い。貴方の友人二人の筈だ。違いますか?」

「……そりゃあ、そうだが。しかし──」

 

 彼は口籠り、一応の礼儀として僕は待った。

 そして彼は深く考えながら、それでも確かに言葉を紡いだ。

 

「──ハーマイオニーがいの一番に助けを求めたのはお前さんだった。俺じゃねえ。なら、彼女が目覚めるまで居てやるのが筋だろう」

「……貴方が、それを許さないのでは?」

「俺は友達の友達を手酷く扱う程に落ちぶれちゃいねえ」

 

 ぶっきらぼうに、だがキラキラと輝く瞳を向けて、彼は言った。

 ……そういう所は、彼がまたグリフィンドールである事の証だった。

 

 けれども、それが常に正しい保証は無い。

 特に、友人の友人などという曖昧な存在を安易に信じる事など有ってはならないのだ。その者が自分にとっての友人としても認められるとは限らないし──ましてや、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ような場合も大いに有り得る。

 

「取り敢えず、今のハーマイオニーが外に居るのは良くない。俺の小屋に向かうぞ」

 

 その決定に対し、僕は異論を唱える事は無かった。寧ろ支持していたと言って良い。

 但し、僕はその事によって、彼との会話を打ち切るつもりは更々無かった。彼が仮に僕との会話を続ける気が無くとも、僕は彼に対して聞かせなければならない言葉を未だ持ち合わせて居た。

 

 身長に比例して彼の一歩は大きかったが、ハーマイオニー・グレンジャーを揺らさないよう慎重に抱えて歩いている御蔭で、小走りにならずに済んでいるのが救いだった。彼に普通に歩かれたら、僕は走る事に精一杯で会話など出来なかっただろう。

 

「──それで、貴方は彼女から仲違いの理由を聞きましたか?」

「んにゃ、まだだ」

 

 僕の問いに、彼は力無く首を振った。

 

「ファイアボルトがシリウス・ブラックの送ってきたもんだと言って、クリスマスの頃に口を聞かんくなったのは知っちょる。しかし、今回はその、泣いたまま俺の小屋に飛び込んできて、お前さんが後から来るからと言い捨てた後に森へと走っていっちまったからな」

「……そうですか」

 

 彼女は、事が起こってから殆ど一直線に僕の元に来たらしい。それが嬉しくも有り、さりとて悲しくも有るのは、当然ながら己の度し難い愚かさ故であった。

 もっとも、地面と前方とそしてハーマイオニー・グレンジャーを見るのに忙しい彼は、僕の反応を気にする素振りも無く言葉を続けた。

 

「という事は、お前さんはハーマイオニーから泣いていた原因を聞いた訳だな」

「ええ。ロナルド・ウィーズリーのペットである鼠を、彼女のペットである猫が食べたのが今回の喧嘩の発端のようですよ」

「そりゃあ──」

 

 僕の言葉にルビウス・ハグリッドはあんぐりと口を開けて立ち止まった。

 こちらを見つめる瞳には否定して欲しいという願望が浮かんでいるが、残念ながら僕はそれに応えられなかった。

 

「一応、まさに猫が鼠を食べた瞬間を彼や彼女が見た訳では無いようです。しかし、状況証拠から言えば、僕としてもそう考えるのが真っ当だと思いますよ。僕は動物の生態に余り詳しくは無いですが、僅かな血跡と猫の毛だけを残して、鼠が忽然と消え失せる事は?」

「……有り得ん事じゃねえ。内臓など選り好みして食べ残しをせん限り、猫は鼠程度ならば綺麗に噛み砕いてペロリと喰っちまう。食べた証拠も殆ど残らん」

「……解っていましたが、やはり可能性は低くないようですね」

 

 専門家からの御墨付きともなれば、僕達の結論は正しい事のように思えた。全くもって嬉しくないのは言うまでもないが。

 

「ただ話を聞く限りでは、大喧嘩の要因はそれだけでは無く、ハーマイオニー・グレンジャーが強情にもそれが認められないというのも大きいみたいですが」

「確かにハーマイオニーはちいとばかり頭が堅い所が有るし、ロンも意地を張る所が有るが。いかん、いかんぞ、それは……!」

 

 動揺の大きさから見て、そのような事態は考えて無かったのだろう。彼は自ら言い出した事を──誰を抱いているかをも忘れ、茫然と立ち竦んでいる。

 

 彼女達は二年と少しの間、けれどもその時間に比して濃厚に、確かな友情を育んで来た。

 賢者の石の試練を三人で解決し、秘密の部屋による脅威も乗り越え、そして今回のシリウス・ブラックというハリー・ポッターの両親の仇に纏わる災難についても、彼等は当然に感情を共有し、決意を固めてきた筈なのだ。

 その近しき時間の上に成り立つ結束は間違いなく硬く──しかし、それは過去形になろうとしている。

 

「……まあ、更に詳しい事は彼女から聞いて下さい。貴方にも話す事で、彼女はもう少し落ち着くでしょう。この学内で貴方はあの二人組に次ぐ彼女の友人なのですから、出来る事が有る筈です。いえ、出来る事が有らねばならない」

 

 希望的観測が混じり込んでいるのは、それが僕の本心に反するからだろう。

 

 彼女の前では耐え切った。綺麗事でもって、暗い本音を覆い隠す事が出来た。

 けれども、こうして彼女と離れた今──彼女の熱が無くなった今、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という考えに直面せざるを得なかった。

 

 嗚呼、そうだ。

 僕は心の何処かで歓迎している節が有る。

 

 僕がハリー・ポッターを嫌悪するのは、偏に彼には闇の帝王の影が付き纏うからだ。

 去年バジリスクを恐れたように、彼の傍というのは危険が存在する。そして、アルバス・ダンブルドアが懸念するが如く、何れ闇の帝王が復活するので有れば、彼と親友関係に有るというのは最大級の災厄を招く事になる。ロナルド・ウィーズリーが〝純血〟であるのと同様に、ハーマイオニー・グレンジャーが〝穢れた血〟であるという事実は一切変わらないのだから。

 

 故に、彼女の安全のみを考えるならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そしてこの降って湧いたような絶好の機会は、仮に鼠が本当に猫に食われて居なかったとしても、彼等の間に再起不能なまでの猜疑と不信、そして修復不可能な信頼の破壊を為す事は十分に可能だろうと、冷静に判断すらしてしまっていた。

 

 ロナルド・ウィーズリーという同性の友人を、ハリー・ポッターは見捨てられない。

 ハーマイオニー・グレンジャーと彼ならば、ハリー・ポッターは彼の方を選択するだろう。今回の件で言い分に分が存在するのは彼の方であるとすれば猶更だ。

 

 あの三人組はある種の歪な所が有った。

 

 彼女が自白した通り、男二人女一人という関係は、異常とは言わないまでも稀である。

 

 そして、彼等三人組は酷く気が合うような間柄では無く、逆ですら有り、外部から客観的に見る限りでは寧ろ良く成立していると思う程で、それはやはりトロール退治という共通体験から始まっているのだろう。そして、それ故に彼等は仲良くなった理由を、又は彼等が今も常に共に居続けている根拠を、上手く言語化する事が出来ない。

 友情とはそういう物なのかも知れない──まあ、それを知らない僕が語るのも可笑しいのだが──のだが、さりとて曖昧な関係で有るのは間違いない。そして、であるからこそ、僕はそれが付け込む隙が有るのだと、破壊する隙が有るのだという思考を働かせてしまう。

 

 別に良いでは無いか。

 無二の筈であった親友を喪う程度の事は。

 

 そう思って居た筈の相手に裏切られる場合が有るというのは、ジェームズ・ポッターの例を見て解る通りだ。そして世間的にも、同種の事例など有り触れているだろう。友情は神聖で、尊く、されど永遠とは限らない。その破綻は確かに心に傷を残せども、時が経て尚絶対的に癒える事が無かろうとも、耐えたままに一生を送れぬ程の痛みでは無い。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーとて、一年次とは違う筈だ。

 二年を超える寮生活は、僕にすら一定の関係性を構築する程の物である。

 

 彼女の方にも、親友とまでは言えなくとも、それなりに会話を交わす同性の友人は出来ているだろう。そしてまた、グリフィンドール寮の者達は、彼女がどんな人間かを理解する程度の時間を十分に有していた筈だ。強情で、融通が利かず、知ったかぶりで、しかし努力家で善良な女の子の事を。

 

 だからこそ、ハリー・ポッター達との友人関係が破綻しても、ハーマイオニー・グレンジャーがグリフィンドール寮内において完全に孤立する事は無いに違いない。

 

 嗚呼、それ故に、そんな事を考えてしまうが為に──

 

「今回は、貴方しか居ないんです」

 

 ──僕は今回、彼女の傍に居続ける事が出来ない。

 

 彼女に毒を流し込む事を渇望する己を、強く自覚するが故に。

 

「直ぐは無理でしょう。彼女も、ロナルド・ウィーズリーにも、考える時間が必要です。冷静にはなれなくても、彼等の友情を確認する為の時間が。けれども、時間だけでは無理でしょう。仲直りには切っ掛けが必要で、それは貴方が取り持たなくてはならない」

「俺が……? しかし、そりゃあ──」

「貴方は二人の友人何れとも親しいでしょう。そして、貴方が魔法生物狂いなのも当然知っている。貴方の言葉ならば、届く筈だ。いえ、貴方の言葉だけが届く可能性が有る。僕でも無く、アルバス・ダンブルドアでも無く、ただ貴方一人だけが」

 

 彼は僕の方を困惑と共に見返し、けれども僕はそれを切り捨てるように断言した。

 

 こういうのは理屈では無く、そもそも彼等こそが正論だった。だからこそ、正論を超えた感情論で無ければ、彼等の考えを変える事は出来ない。

 

 ルビウス・ハグリッドという男が魔法生物(ペット達)に対して並々ならぬ愛着を持っているのは、ホグワーツに居る人間であれば、そして彼等の友人であるならば、重々承知しているだろう。同時に、そのような存在を喪った時、彼が激昂しないでいられないであろう事も。

 

 しかし、グリフィンドールである彼は、スリザリンである僕と違い、もっと大切な事を知っている筈だった。だからこそ、その仲違いの間を取り持つ役割を果たす事は、悍ましき僕の希望を容赦無く叩き潰してくれるような真似は、彼以外に出来ない筈だった。

 

「あの三人組が永遠に物別れになって良いと、貴方がそう思うのならば別の話です。けれども、そう思わないのであれば、貴方が動くしかない。……僕から言えるのはそれだけです。後は、貴方に任せます」

 

 僕は彼に言うべきは、ただその事に尽きた。

 それでも、僕がそうして欲しいと言わなかったのは、やはり僕の醜悪さに基づく物に違いなかった。僕にとっては──心がどちらの結末を望んでいるかは別として──どちらになっても構わないという現実は変わらなかったのだから。

 言ってみれば、ルビウス・ハグリッドに最後の選択を任せたのは願掛けでも有り、呪いに等しい物でも有った。

 

 そして、僕の用事は済んだ。

 だからこそ、当然のようにルビウス・ハグリッドの前から立ち去ろうとし、しかし憎らしい程に善良な彼はそれを許さなかった。

 

「待て。お前さんがそう言うならば、こっちにも条件が有る」

「……条件?」

 

 その余りに間の抜けた表現に、僕は思わず立ち止まって振り返る。

 そして、彼自身もその可笑しさに気付いたのだろう。微妙にバツの悪そうな顔をした後、しかしその高い視点から真っ直ぐ僕を見下ろして、ぽりぽりと頬を掻く。片手で有っても、彼女を抱く姿は揺るぎ無かった。

 

「あー、条件というのはちいと間違えた。つまりその、何だ。お前さんがどういう理由でそんな顔をしてるのか解らんし、何故そんな事を言うのかも解らんが、俺のすべき事は解る。兎も角お前さん、ハーマイオニーが目覚めるまで俺の小屋に居ろ」

 

 体躯に比して余りに小さな瞳は、しかしやはり僕の物よりも大きいのだと言う事を感じさせた。

 

「……何故、そのような事を言い出したんです?」

「俺にも良く解らん。解らんが、少なくともハーマイオニーはお前さんが傍に居る事を望むだろうという位は知っとるつもりだ。だから、俺はそう言っちょる」

「……論理の欠片も無いですね。そして一貫して支離滅裂だ」

 

 命令口調の言葉に、従う義理は無い。

 けれども、その誘いが甘いものであるのは確かだった。

 未だ僕自身、己が真にどうしたいのか──彼女にどうなって欲しいのかというのが解らずとも、自分を保てない位に弱り切っていた彼女が心配であるのは、決して偽りでは無かったのだから。

 

「……但し、目覚めるまでです。彼女と違って、僕は一人で城に戻らなければならない」

 

 一緒に帰るというのは論外だ。

 そして、ハーマイオニー・グレンジャーで有れば、ルビウス・ハグリッドが城へと送り届けた所で何ら不自然さは無いだろう。単純に安全という面においても、僕よりは彼の傍に居る方が遥かに良い。

 

「まあそうだな。ハーマイオニーもすぐには城に帰れんだろうし、俺もちょっくら話したい事が有る。それが良いだろう」

 

 そう言ってから、ルビウス・ハグリッドは、むっつりと黙り込んで再度小屋へと歩き始め、僕もまたその巨体に隠れるように、その後を追った。

 

 それからハーマイオニー・グレンジャーが目覚めるまで、僕と彼の間に会話は何ら存在しなかった。冷たい外気を遮断した部屋の中で、暖炉の火が時折爆ぜる音と、彼女の静かな寝息だけを聞きながら、ルビウス・ハグリッドが淹れてくれた熱い紅茶を啜りつつ、彼女が目覚めるのを二人待ち続けた。

 

 そして彼女が寝ぼけ眼のままに目覚め、猫のように僕の手に擦り付けるようとする頭を撫でた後、僕はルビウス・ハグリッドの小屋を辞した。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして僕は当然、職員室に居るミネルバ・マクゴナガル教授の下へと向かった。

 

 教授は僕の顔を見た瞬間に引き攣った顔を浮かべたが、僕の事ではなく貴方の生徒(ハーマイオニー・グレンジャー)の事だと言うと何処か安心したような表情に変わった。

 最初はその理由が解らなかったのだが、そう言えば先学年の最後に一度だけ相談に乗ると言われたのだった。その時が来たのかと思って警戒したのだろう。まあ喜ばしい事に、未だ真に選択に迷うという機会は僕に訪れていなかった。

 

 事情は詳しく話さなかった。

 彼女自身が話すべきと考える事と、そうでない事の差異を、僕には判断出来ない。そしてまた、教授は生徒の悩み相談を受けるのに慣れているのか、余計な事を聞こうとしなかった。ただ単に、ロナルド・ウィーズリーやハリー・ポッターと決定的に仲違いをしたようだとだけ言えば、ある程度察したようだった。その問題の根深ささえもだ。

 

「……解りました。あの子が入学直後に寮に馴染めなかった事は良く覚えていますし、今年は彼女が学業の事で酷く神経質になっていた事も知っています。私からもより彼女を見ておく事にしましょう」

 

 時間が過ぎれば解決するような事では無いと、教授も直感しているのだろう。

 その言葉は重々しく、表情も憂いに満ちていた。

 

 けれども、教授の話はそこで終わらなかった。

 

「貴方はグレンジャーの特別措置の内容を知っているのですか?」

「……何故それを僕に聞くんです?」

 

 一般の生徒を委縮させるには十分過ぎる鋭い視線は、しかし僕に何ら感慨を齎すものでは無い。

 

 けれども、教授の方も僕を咎めようと思った訳では無かった。彼女は僕の反応から答えを見極めようとしたに過ぎない。そして、その結果は彼女を落胆させるものだったようである。何時もの厳然な仮面を捨て、教授は酷く疲れたような表情へと変えた。

 

「……確かに私は誰にも言ってはならないと言いましたが、あの子の杓子定規さをまだ理解していなかったようですね」

 

 ただ、その身勝手とも思える言葉には、僕は顔を歪めざるを得なかった。

 

「教授が彼女の行動の奇妙さの機巧について知っているのは重々承知していますが、口止めしたのであれば責任を持つべきだ。何より、仮に親しい間柄で有ったとしても言ってはならない事というのは、世の中には得てして有るでしょうに」

「……それは認めましょう。この事が他に知れたら大変な事になる筈です。その魅力に取り付かれた者は多く、それが手の届く場所に有ると知って手を伸ばすのを止められない者はまた少なくない。無遠慮な学生が不用意に弄べば、たとえそれが全くの善意に基づくもので有ったとしても、取り返しの付かない可能性になるでしょう」

「……随分と仰々しい言葉が出て来るものですね。どうやら彼女は、僕の予想以上の手段を用いているらしい」

 

 沈痛な面持ちでの教授の返答に、深い溜息を漏らさざるを得なかった。

 

「ただ、私は彼女が自制する事が出来る人間だと信じていましたし、何より彼女は溢れんばかりの才を持っていました」

「……それは、単に彼女の頭が良いという話では無いんでしょうね」

「ええ。そうでは無く、余りに良過ぎるという話ですよ。如何に百点を満点としないとは言え、それが目安である事には変わりはなく、しかし事実上全ての科目で、彼女は百点を付けるでは足りないのだと教師に思わせてしまうのですから」

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは百点満点のテストで百二十点を狙う人間であり、そしてまたそれを出来る人間だった。

 

「単なる優等生、一学生ではこのような特別措置は通りません。それは彼女がポッターと共に解決してきた二回の事件の功績でも有り、何より彼女に対して神秘部が興味を持たなければ、今回のような事は起きなかったでしょう」

「……そのようなヒントを出すような真似をして良いのですか?」

「貴方は多少知り過ぎている方が良いようですからね。それに、貴方はグレンジャーの意思を尊重して最後まで何も言わずにいられる人間では無いですか? もっとも、それが常に良い事で有るとは限りませんが」

 

 今度は、教授の方が溜息をこれ見よがしに吐いた。

 

「グレンジャーは多忙過ぎます。限度を知らないというべきでしょうか。関心の赴くままに、自分が手の届くと判断した部分については、他ならぬ己自身で遣り遂げようとします」

「……それが何か問題でも? それは、彼女の欠点でも有り、良い所でも有ります」

「ええ、それは同意しますよ。だからこそ、彼女には少しばかり余所見をする為の時間的余裕を上げたかったのですよ、私は。ブラックの脱獄が予想外では有りましたが、それでも今年は下手な事は起きないだろうという先方の意見でしたので」

 

 まあ、神秘部の意図を推し量る事程に無駄な行いは有りませんが、と教授は言う。

 

「……しかし、教授の目論見とは真逆になっているようですがね」

 

 僕の皮肉を籠めた揶揄を、教授は何ら否定しなかった。

 

「解っています。グレンジャーがポッター達との付き合いでかなり〝柔らかく〟なったと思って居ましたが、本質は変わらないという事でしょう。あの子は事前に定められた規則を限界まで厳密に守り、そしてまた注意された通りに自分の友人達にも告げなかった」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()という典型でしょう。ですが、それは気軽に用いるには危な過ぎる代物を渡したが故でも有るのでは? ハリー・ポッターもロナルド・ウィーズリーも、思慮深い存在と評するには程遠い」

「貴方のように思慮深すぎるよりも遥かに良いとは思いますがね。……しかし、彼女も今更打ち明ける気にもならないでしょう。喧嘩しているとなれば猶更です」

 

 教授にしては珍しい皮肉は、彼女をして解決が難題であると認識しているのか。或いは、それなりに評価して貰っていると考えるべきなのか。

 ただ、真っ直ぐこちらを見つめる瞳は、少なくとも強い輝きに満ちていた。

 

「兎に角、良く伝えてくれました。ポッター達が私に言うとも思えませんし、グレンジャーとしても告げ口するような真似は好まないでしょう。もっとも、教師が出来る事は彼女を見守り、望むのであれば相談に乗る位の事しか出来ませんが」

「それで十分ですよ。ルビウス・ハグリッドも事情は知っているので、彼とも相談して下さい。もっとも、これは僕に言われるまでの事では無いと思いますが」

「……貴方は交友関係が狭い割に、意外な伝手を持っているのですね」

「単なる成り行きです。別に親しい訳でも有りません」

 

 そもそも、まともに話したのが今日だけだ。

 教授が考えているような関係とは全く持って異なる。

 

「……まあ、そういう事にしておきます。そして、これ以降はグリフィンドール寮の問題となるでしょう。上手く物事が転ぶかは解りませんが、私としては最善を尽くす事を約束します」

 

 教授は少しばかり微笑み、しかし再度厳格な表情を作った。

 

 ミネルバ・マクゴナガル教授は、骨の髄まで教師である事を止められなかった。

 昨年の学期末と同じように、スリザリン生に対してすらも。それは僕が間違いなく敬意を払える点であり、さりとて他の多くの生徒と同じように多少苦手とする点でも有った。

 

 それを面白がるような光を眼の奥に浮かべ、しかし教授は真摯に僕に対して告げる。

 

「ただ、貴方がこのように賢しく振る舞うという事は心配でも有ります。少なくとも、普通の生徒が教授に対してこの類の根回しをするというのは稀です。しかも、それがスリザリン生ともなれば、驚天動地の行いと言って良いでしょう」

「……僕は間違いをしていると?」

「いえ、そういう訳では有りません。ただ、少しばかり偏執的な所が有ると評すべきでしょうか。上手く行っている時は良いですが、それが裏目に出た時が怖くも有ります。何せ、そういう方を私は良く知っているので」

「…………」

 

 僕は沈黙を守った。それがどちらの人間の事だか解らなかったからだ。

 そして、その解答は、教授にとっては大いに不満が残るものだったようである。教授は微妙に呆れと、そしてより強い嘆きの感情を滲ませながら、僕へと言葉を続けた。

 

「──スティーブン。貴方は、グレンジャーを直接止めようとしないのですね」

「……何故、止めなければならないのです?」

 

 少しばかりの惚けと、しかし揺ぎ無い確信と共に僕は答えた。

 

「彼女は前に進もうとし続けている。諦めるつもりは無いという意思を示している。であれば、手伝う事や助言する事は出来たとしても、相手を尊重するのであれば、その()()を止める事はすべきでないでしょう」

「それが全くの真意に基づく物で有るならば、私も賛意を示しましょう。けれども、貴方はそれがグレンジャーの望みで無い事に当然気付いている筈ですが」

「……一応説得はしました。しかしまあ、届かなかったのが現実です」

 

 おどけるように肩を竦め、けれども教授はピクリとも表情を動かさなかった。

 

「ですが、()()()辞めて欲しいという発言はしては居ないのでは無いですか? 美麗に装飾された迂遠な千の言葉よりも、陳腐で単純な一の言葉の方が届く場合は少なく有りません」

「……今度機会が有れば、心掛けるようにしますよ」

「私としては、今すぐそうする事を御勧めしますけどね。──けれども、ホグワーツ生の誰よりも賢明な貴方には、貴方なりの考えが有るのでしょう。これ以上は言いません」

 

 僕がハーマイオニー・グレンジャーについて相談した時よりも遥かに深刻な表情と、大きな溜息を吐いた後、教授は渋々といったように告げた。

 

「もう出歩くには少々遅い時間です。ブラックの消息はあれから掴めていませんが、危険が去った訳でも有りません。自寮に戻りなさい」

「……ええ、そうします」

 

 僕の素直な返答に教授は満足を表すように軽く頷いた後、やはり教師らしい忠告を最後に付け加えた。

 

「私は貴方が色々と問題の有る生徒だと考えていますが、それでも同時に好意的にも受け止めています。だから、その優しさと思い遣りを常々忘れないよう。そして出来ればもう少し広い範囲に、貴方がそれらを与えられる事を願います」

 

 まったくもって、ミネルバ・マクゴナガル教授の忠告は耳に痛かった。




・ロンとハーマイオニー
 ハグリッドの説得は、直接彼等の仲直りについて奏功した訳ではない。
 シリウスの二度目の侵入後にハリウッドの小屋へ二人が招かれ、彼の言葉を聞いた後も、ロンは「気まずそうに」しながらも「ハーマイオニーがあの猫をどこかにやってくれたら、僕、また口を利くのに」と強硬な姿勢を崩していない。
 その後に談話室に戻ってからも、週末にホグズミード行きについて、忍びの地図を巡っての口論をしており、ロンとハーマイオニーは明確に対立を継続している。
 しかし、ホグズミードでの失敗で忍びの地図を没収された後、ハーマイオニーがバックビークの敗訴の知らせを持ってきた際、ハーマイオニーが「でも、望みはないと思う……何も変わりはしない」と言った事に対して、ロンが「いや、変わるとも」「ハーマイオニー、今度は君一人で全部やらなくてもいい。僕が手伝う」(三巻・第十五章)と告げた事を契機として、ハーマイオニーも漸くスキャバースの事を謝る事が出来、彼等の喧嘩は終了する。
 ただし、その後もハーマイオニーのパンク状態が直っていないというのは興味深い。
 イースター休暇前、マルフォイを殴り、呪文学の授業を忘れ、占い学をボイコットするという波乱の一日を経た後でさえも、「ハーマイオニーほど抱え込んだ生徒はいなかった」「目の下にルーピン先生なみのくまができて、いつ見ても、いまにも泣き出しそうな雰囲気だった」(同・第十五章)「ただ一人ハーマイオニーだけがパーシーより気が立っているようだった」(同・第十六章)として、彼女を取り巻く状況が改善した訳では無い。
 彼女の問題が真に解決するには、バックビーク処刑日(試験終了日)を待つ必要が有る。

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