この身はただ一人の穢れた血の為に   作:大きな庭

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アズカバンの囚人の章終了。
時系列の見直しは二話前に記した通り。第十六章から第二十二章は一日の出来事なんですね。二月のシリウスの二度目の襲撃から四か月空いています。
この作品のスタンス上予測はされているでしょうが、来年は映画で省かれたS.P.E.Wについても当然触れます。

加えて何時もながら誤字・脱字報告、助かっております。
それに限らず、これでは文意が通らないだろうという指摘も非常に有り難いです。これらは読者様を醒めさせかねない事だと理解していますが、本当に無くならない……。


読書亡羊

 あのハーマイオニー・グレンジャーとの逢瀬以降、特に変わった事は無かった。

 

 彼女はあの時の事についてやはり触れず、そして僕から少しばかり距離を置いた。それが単純な気恥ずかしさから来る物で無い事は明白だった。

 

 もっとも、友人達と仲直りをしたという報告だけは、彼女から直接受けた。

 彼女は細部まで語ろうとしなかったが、ホグズミードを訪れた以降に、彼女はロナルド・ウィーズリーに謝る事が出来、彼の方もまた彼女を許したらしい。結局の所、彼等の関係は──そして、彼女とロナルド・ウィーズリーとの間の絆は、僕が想像した程に脆弱でも無かったという事かもしれない。それが多少意外に感じた事も、否定しない。

 

 とは言え、その誤算に対して僕が抱いた想いは、やはり一言では表し難いものでは有った。

 ただ、喜ぶべきでは有るのだろう。どんなに歪で在ろうとも、それが彼女にとって本当に心が許せる場所であり、所属すべき集団であるのだと認識出来るのであれば、それを肯定する事は〝正しい〟在り方の筈だった。

 

 一方で、共に伝えられたヒッポグリフ裁判の敗訴については、案の定というべきでは有った。

 ドラコ・マルフォイが騒いでいた為に結果は知っていたが、それでも彼女の口から聞くというのはまた違う感慨を齎す物だった。

 

 僕の表情をどう解釈したのか、貴方は出来る限りの事をやってくれたわという慰めの言葉と、これからはロンも頑張ってくれるって話よとの励ましの言葉を彼女は残した。

 ()()に関して僕が更に手伝う必要が有るかと問えば、取り敢えず私達の方でまた検討し直してみるという事で彼女は婉曲的に断った。それについても、まあ何も言うまい。彼等は今まで離れた分を取り戻し、友情を再確認する時間が必要に違いなかった。

 

 その後の月日は一瞬だった。

 

 誰かに殴られるような立場に無いドラコ・マルフォイが何故か頬を腫らしているという謎の事象が有ったり、イースター休暇中の宿題でビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルが死にかけていたり、グリフィンドールがスリザリンを二百三十対二十で盛大に叩き潰して優勝した為に寮が崩壊しかけるという事態が有ったりしたが、概ね学生としての平和な日常が続いていたと評する事が出来よう。

 

 そして、シリウス・ブラックという大量殺人犯の事ですら、試験という学生の直近の危機が迫ってくると、多くの生徒が忘れ去っていた。

 

 再度図書室で良く見かけるようになり、また少しばかりの会話を再び交わせるようになったハーマイオニー・グレンジャーも、殆ど例外で無いように見えた。

 寧ろ、敗訴によって使い物にならなくなったルビウス・ハグリッドの授業改善を殆ど放棄し、自分の事に専念しなければならない程に、彼女はその傾向が特に強かった。彼女は明らかに神経質になっており、自身を取り巻く殆どに対して苛立ちを見せていた。

 

 その姿を見る度、ミネルバ・マクゴナガル教授の忠告を僕が思い出さなかったとなれば全くの嘘になる。けれども、今の彼女が聞き入れる事は無いだろうという確信も有った。言葉だけで簡単に変われるのならば何ら苦労しないのだから。

 しかし、試験が終わった後であれば──彼女の心労が明確に減り、それでも何も変わらないのであれば、彼女と少し話が出来るかもしれないとも思っていた。

 

 ただ、ミネルバ・マクゴナガル教授に相談した際の感触からは、教授もまた現状を放置したまま来年度へと進ませる事はしないだろうという確信もまた有った。

 そして、僕に代わって教授こそがそれを解決してくれる事を期待しなかった訳では無い。僕に対してすら忠告を惜しまないあの公平にして厳格な教授であれば、生徒を導く事に関しては僕より遥かに〝上手く〟やってくれる筈だった。

 

 だから、僕は学ぶ事に、力を求める事に溺れた。

 ……溺れてしまった。

 

 なまじ暇が出来たと勘違いしてしまったが故に、リーマス・ルーピン教授の好意を不運にも獲得してしまったが故に、そのような愚行に陥ってしまった。

 

 僕にとっての世界は、狭かった。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーのように友人が居る訳でも無く、ロナルド・ウィーズリーのようにチェスを初めとする娯楽に没頭するでも無く、ハリー・ポッターやドラコ・マルフォイのようにクィディッチ狂いであるという訳でも無い。

 

 つまるところ、彼女と同様に、僕は学び以外の事を知らなかった。

 寧ろ、僕を構成する要素は、ハーマイオニー・グレンジャーという唯一の例外を除けば、それ以外に全く存在しないと言って良く、もしかすれば一番興味を有しているかもしれない〝マグル〟趣味に興じる事は、スリザリン寮内に居れば当然ながら不可能だった。

 

 故に、ホグワーツという生温い揺籠へと慣れてしまった者は──寮内の派閥の力学からも半ば解放され、二年間の貯金と経験によりドラコ・マルフォイへの助力も片手間に出来るようになり、ハーマイオニー・グレンジャーに対しての心配を放棄した愚か者は、叡智の追求の延長として、魔道の探究に堕ちてしまう事こそ必然だった。

 

『それは必要なのか』

 

 あの冬の森の中で、僕は彼女にそう問うた。

 ……嗚呼、そうだ。彼女に諭したつもりでありながら、しかしその言葉が僕自身に返ってくるという事を、全くもって意識していなかった。

 

 寧ろ彼女以上に悪質だろう。

 僕の原初はハーマイオニー・グレンジャー以前、あの本にこそ存在する。

 それが齎す末路は眼前で確かに見届けた筈であり、また自分がどのような存在であるか認識していた筈だった。けれども、誤った。それは、僕が確かにあの父親の血を引いているという、全く嬉しくない証なのかもしれない。

 

 結局の所、僕は善良な学生としてその生活を無為に、自動的に過ごすだけで、その延長線上に確固として存在する解答へと辿り着く事が出来るのだと勘違いしてしまった。……馬鹿な話だ。この二年間、本質的にそうで在った事など無かっただろうに。

 

 僕はハーマイオニー・グレンジャーでは無く、ましてやハリー・ポッターで無い。学び以上の気付きを得られる天才的な存在でも、その身に有する機知と才気を万全以上に行使出来る英雄的な存在でも無いのだ。

 単なる凡愚であり、だからこそ本当に大切な事を、過去と同じように間違える。

 

 目的無しに獲得する暴力程に、無意味な物は無い。

 僕はそれをハーマイオニー・グレンジャーの為だと──バジリスクの前で何も出来なかった事を繰り返さず、そしてまた三年前に母を喪った事を繰り返さない為だと、確かな目的に基づく物だと、そう勘違いしていた所が有ったのだろう。暴力こそが、弱者を守る為の最小限の力こそを有していれば運命を、世界を変えられるのだと心の何処かで思っていた。

 

 けれども、僕は知っていた筈では無いか。

 

 自身の学びが、得た力が何も救わなかった事を──救う事の出来る材料を確かに手元に持っていながら尚、僕がそれを見過ごした為に、母の命という代償を支払う羽目になってしまった意味を。

 

 学年当初から一貫して関心が無かったシリウス・ブラックについて、僕はその立場を変えなかった。変える意義を感じなかった。彼が如何なる存在であるかを知りながらも、僕に出来る事は無いだろうと、無視をし続けた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、だ。

 

 何度学んでも、真に重要な事を学ぶ事は出来ない。だからこそ、人は教訓を残す。

 そしてその教訓を知る者ですら大半の場合に遵守する事が出来ないからこそ、それは後世にも残る教訓足り得る。それはこの瞬間も、やはり変わるものではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 学期末試験最終日。

 それに至っても、僕の生活は日常のままだった。

 

 試験前と試験中は、ヒッポグリフの処刑に浮かれようとするドラコ・マルフォイを黙らせる事は簡単だったが、終わってしまえばそれを止める事は出来ない。

 

 正確に言えば控訴が今日であり、一応の望みは存在するという事だが、しかし既に処刑人を連れて来ているという。ハーマイオニー・グレンジャーからの連絡が何も無くとも、()()()ヒッポグリフの末路は既に目に見えていた。

 ドラコ・マルフォイは、今夜になれば父上からあの獣畜生が処刑されたという知らせが来るに違いないと、明らかにわくわくした様子を隠し切れて居なかった。

 

 結局の所、やはり何も変わらなかったのだ。

 

 魔法界がそういう場所である事など、最初から解っていたのだ。

 僕が見て来た事柄が、聞いてきた内容が、そして我が父の遺した言葉が、それを明示していた。ただ、僕が彼等と違うのは、それが決して正しいと思えないという事だけだ。

 ……そして付け加えるならば、僕が彼等に比べて圧倒的に能力も実力も才能すらも劣り、黙認するしか出来ないという事も。

 

 しかし、リーマス・ルーピン教授は、敬意を払うべき大人は言った。

 君が変えようとは思わないのかと。

 

 未だに、僕はその光景を思い描く事は出来ない。それは変わらない。だが、夢が見られないままでも、進む事は出来るのでは無いか。僕は最近そう思うようにもなって来た。

 それは、三年間で()()()()()()()()()()()()からも無縁では無いだろう。僕の実力は確かに向上していた。同時に限界もまた見えたような気がしても、何だかんだ言ってやはり、僕は自身の成長に対して喜びを感じられない程に、枯れ果てた人間でも無かった。

 

 確かに、僕は今、ヒッポグリフ一匹すらも救う事は出来ないが。

 けれども、同じような事を繰り返さないで済むような日が来るのを願うというのはやはり許されるのでは無いのだろうか。この日の無力と、屈辱を忘れずにいられれば、()()()良い方向へと向かうのでは無いだろうか。

 

 そのような、自分らしくも無く、そして何処か腑に落ちきらない思考を巡らせながら何時の間にか眠りに着き──そして、叩き起こされた。

 

 真夜中を遥かに過ぎ、既に眠っていた生徒を目覚めさせる蛮行を為したのは、それを為す事が出来たのは、セブルス・スネイプ寮監しか有り得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 明日、正確に言えば、今日の事が今から憂鬱だった。

 

 よりにもよって、昨日は試験終了日だったのだ。それに全寮制という要素が加われば、生じる結果など解り切っている。

 つまり、嵌めを外して夜更かしする人間はそれなりの数が居た。普段であれば首席や監督生も止めただろうが、流石に一年を締め括る一つのささやかなイベントを制止する程の堅物である訳でも無い。そして教授陣の方も、眠りに就きたい人間を妨害すると言ったような度が過ぎた行為が発生しない限りは、それをとやかく咎め立てる程に狭量である訳でも無い。

 

 言ってみれば、所謂打ち上げ会は一つの伝統だった。

 

 そんな中に、用事が無い限り寮内へと立ち入らない筈のスネイプ寮監が入って来た瞬間の、彼等の反応を見る事が出来なかったのは少々残念な気がしないでも無かった。

 

 だが、最も重要な事はそれでは無く、要するに、激情に震えながら僕を叩き起こす寮監の姿を目撃した人間は相当数居たという事だ。

 ……まあ、叩き起こす際の一連の騒ぎで、少なくとも男子寮で眠っていた大半は起こされた気がしないでも無いので、結局は同じ結果になったのかもしれないが。

 

 ただ、今の目下の問題は、他のスリザリン生では無く、やはり僕の方を睨みつける寮監の方だろう。外見上はある程度落ち着いたようだが、その内に煮え滾る感情は何ら鎮静化していないのは、僕からすれば明らかで在ったが。

 

「……それで、一体全体何の用事なのです?」

 

 温かな談話室から寒々とした研究室まで連れ出され、椅子も無く立たされたままの僕は、多少のウンザリした想いと共に問い掛ける。

 流石に眠気は飛んでいた。真昼だろうが真夜中だろうが、ここは不気味で、薄暗く、そして陰気なのだなという感想を抱く余裕すら有った。

 

 そんな僕に対して、寮監は押し殺した声で言った。

 

「事は急を要するのだ、レッドフィールド」

「……まあ、そうでしょうね。何ら急ぎではないにも拘わらず学生を叩き起こすような寮監が居れば、僕は驚きますよ」

 

 その言葉は半ば挑発で在ったが、寮監は全く表情を動かさなかった。それは僕のそれが通じなかったという訳では無く、より大きな感情と目的意識に支配されていた。

 

「今の我輩は、お前の戯言を聞いている暇など無いのだ」

「……ならば、どういう有意義な会話を僕としようとしているのです?」

「──今宵、シリウス・ブラックが捕まった」

 

 その言葉には、多少驚きを覚えはした。

 しかし、アルバス・ダンブルドアの縄張り(ホグワーツ)で一年間逃げおおせたとしても、いずれ限界が来るのは解り切っていたし、それが今だったからと言って事は驚くに値しないのかも知れない。そんな思いが存在していたからこそ、多少で済んだのだった。

 

 だからこそ、真に驚きで在ったのは、次の言葉だった。

 

「それも、我輩の働きによってな」

「…………」

 

 別に、寮監の実力を侮っていたという訳では無い。

 けれども、アルバス・ダンブルドアが熱心に、全ての人間に先行して確保しようと考えていたであろう事を見透かしていたからこそ、言わば今世紀で最も偉大な魔法使いを出し抜いたともいえるその言葉が僕にとって予想外で有ったというのは間違いなかった。

 

「……それで、その偉業を為した寮監は、僕に何の用なのです? マーリン勲章勲一等には流石に値しないと思いますが、勲二等であれば十分でしょう。シリウス・ブラックは魔法省の体面に泥を塗りまくった訳ですからね。まさか御祝の言葉を期待していると?」

「無論、そんな事など期待していないとも。何せ、我輩は既にそれらには値しないのだ。すなわち、シリウス・ブラックは今宵、同様に逃げ出してみせたのだから」

「────」

 

 冷ややかな言葉に、僕は口元を引き締める。

 ……嗚呼、そういう事なのか。寮監が何故わざわざ僕を叩き起こしてまで話を聞こうと思ったのか。その理由が、多少は見えて来た。

 

 そして、それに少しばかりの満足を覚えたらしい寮監は、しかし淡々と言葉を続けた。

 

「シリウス・ブラックは、魔法省の監視下に置かれていた。そして杖を持っていなかった。しかし、吸魂鬼の接吻が執行される寸前に、どういう理由か忽然と消え失せた」

「……消え失せた? それはまた意味が解りかねますね」

 

 やはりぴくりとも表情を動かない寮監に、流石に困惑の言葉を返す。

 

「姿くらましがホグワーツ内では不可能な以上、尋常な手段では不可能では? 噂に聞く希少な『()()()()()()()使()()()()()()? というか、警護の者は一体何をしていた訳です? その人間の話は?」

「非常に遺憾な事ながら、部屋の中にはシリウス・ブラック以外誰も居なかった」

「……まあ、どういう経緯でそんな事になっていたかは、聞かない事にしましょう。どのような場合でも、不愉快な事にしかならないようですからね」

 

 魔法省の人間が大犯罪者を恐れて職務放棄したにしろ、あの老人の意図が介在しているにしろ、或いは他の理由が存在するにしろ、どの道ロクでも無い事は明らかだった。

 

「……それで、寮監は一体何を僕に聞きたいのです? 正直言って、シリウス・ブラックについて僕が知っている事は余り無いと言って──」

「──ポッターだ!」

 

 そこで、寮監の堪忍袋の緒が切れた。

 

「このような珍妙極まりない事には、間違いなくポッターが絡んでいる! そして、ダンブルドアもだ! あのグリフィンドール共は、あろう事かシリウス・ブラックの妄言を信じ、逃亡に手を貸した! 魔法界の法を犯し、社会の秩序を乱し、人々の安寧を害し、己の愚昧さを証明するような行いをした!」

 

 その怒声は廊下にまで響き渡るのではないかと思う程に大きく、耳鳴りに顔を歪めざるを得なかった。この寮監は、城中の人間を起こしたいのだろうか。

 

「……そうで有ったとして、何故僕に聞くのです? その話の中に、スリザリン寮内で眠りに就いていた僕が出て来る余地など無い筈ですが?」

「我輩は知っているのだ! お前がダンブルドアとこそこそと接触していた事を」

 

 ……成程、それは盲点だった。

 

「お前は学年初めから、校長室へと何度も通っていたな? 真っ当に廊下を使用していなければ誰も気付かぬとでも? それは余りにも我輩を見くびり過ぎだ……! そして、我輩が問い詰めてみれば、ダンブルドアは語るべき事では無いと言って回答を拒絶した」

 

 思い返せば、去年に僕を呼びに来たのはミネルバ・マクゴナガル教授だった。

 まああの老人が彼女相手でも閉心術の事を語るとは更々思えないが、しかし寮監がその内容を知る機会というのはまず無かったのだろう。

 

 そしてまた、僕とあの老人との間で為された会話の内容は、この寮監にこそ語るべきでも無かった。元死喰い人──しかも、恐らくスパイなどという怪しまれる立場の人間──に対して、分霊箱の事を知られるというのは、余りにリスクが高すぎる。

 

 ただ、やはり寮監の考えは勘違い甚だしかった。

 

「生憎ですが、その件はこの騒ぎの真相とも関係有りませんよ」

 

 激昂する寮監を前に、僕は肩を竦める。

 

「校長閣下と接触が有ったのは事実ですが、冬季休暇中でそれは既に終わってしまった。あれ以降、僕は校長閣下に接触していませんし、何をやっているのかも知りません。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今回何をやらかしたのか知らないが、あの老人は全てを語ってくれる程に素直では無い。

 一昨年は説明責任。去年は真実追求。その何れにも、あの老人なりの意図が有り、僕との会話は老人にとって必要性を見出せる物だった。しかし、今年のシリウス・ブラック関連の事象において、僕が必要とされる事は有り得ない。

 

 シリウス・ブラックはハリー・ポッターと深く関係を有する人物であり、また今年はかつての親友が──リーマス・ルーピン教授が都合良く校内に居る。今日は満月だから話を聞けないだろうが、夜が明ければ事情聴取は出来る筈だ。そう考えると、僕の存在が必要とされるような隙間などやはり存在しなかった。

 だからこそ、それは確信で有ったと言って良い。

 

 けれども、そのような正論は、怒りで歯を剥き出しにする寮監には通じないらしい。

 ……まあ、このような言葉で納得出来るならば、セブルス・スネイプ寮監では有り得ないと言えばそこまでだが。

 

 そして、残念ながら僕は寮監を止める言葉を偶々持ち合わせて居た。

 

「要するに、アルバス・ダンブルドアが学年当初に予想していた通り、シリウス・ブラックは無罪だった。つまりは、ピーター・ペティグリューが生きていて、彼こそがポッター家の『秘密の守人』だった。今回の真相はそういう事ですか」

「…………」

 

 半ば遣る瀬無く紡いだ僕の言葉に、寮監は眼を剥いた。

 

 別に、その内容自体に衝撃を受けた訳では無いだろう。発言の端々を聞く限り、寮監はそれを否定する立場だ。だから、僕が言った事自体が──恐らく、アルバス・ダンブルドアやハリー・ポッターの言い分と殆ど一致したであろう事こその、その表情だった。

 

 だが、寮監は我に返り、今度は僕に対して嫌悪を剥き出しにした。けれども、僕はそれに馬鹿正直に付き合う気は無かったし、僕が言葉を吐く方が早かった。

 

「ハリー・ポッターはシリウス・ブラックの無罪を主張したんでしょう? ならば、ピーター・ペティグリューの事を何と言っていましたか? 出来れば、十二年前に衆人環視の状況で大通りを吹き飛ばして死を偽装した手段まで判明すると有難いんですが?」

「言うまでもない……! あのポッターめ達は、ウィーズリーの鼠がどうとか、ピーター・ペティグリューが『動物もどき(アニメ―ガス)』だとか、そのような明らかに錯乱した内容を──」

 

 その言葉が、途中で切れる。そして、寮監の表情が醜く歪み、歯噛みした。

 

 気付いたのだろう。思い当たったのだろう。

 ……ただまあ、僕は遠慮してやるつもりは無かった。安眠している所を叩き起こされたのだ、寛容になど成り得ないのは当たり前だった。

 

「しかし、錯乱しているとは酷い言い草ですね。論理の欠片も無い。寧ろ、僕としては貴方が逆に、シリウス・ブラックが有罪だと考えるよう、ピーター・ペティグリューから錯乱の呪文を掛けられている可能性こそ主張したい所ですが」

「……っ。ポッターは十三の若造だ! その証言など信用に値せん!」

 

 寮監はそう反論する。気付きながらも、しかしそれを認められないというように。

 

 そして、全くもって都合が良かった。今の寮監には何時もとは違い、付け入る隙が有り過ぎた。解ってはいたが、余程シリウス・ブラックに対して強い憎悪を、復讐の念を抱いていたという事らしい。そして、その感情は、賢人の眼を曇らせるには十分だという事だ。

 

「馬鹿な話だ。非魔法界では六歳程度の人間にも証言の価値を認めますよ。十七歳に達して居ないからと言って、それが無価値な筈も無いでしょう」

 

 僕は冷笑し、そして続ける。

 

「第一、既に貴方はお忘れのようですが、前回の魔法戦争において、自分は服従の呪文を掛けられて闇の帝王に従っていたという、信じるに値しない証言が裁判中にどれ程有りましたか? 僕は今まで彼等が十三歳以下の少年少女だったとは知りませんでしたが」

「! それは関係無いだろう……!」

「ええ、ですからやはり単なる皮肉ですよ」

 

 寮監は激昂の表情を見せ、しかしそれは僕には張子のようにしか見えなかった。

 

「元死喰い人である寮監に聞きますが、シリウス・ブラックは死喰い人だったんですか?」

 

 言葉を遮って発した僕の言葉に対し、寮監は怯んだ表情をした。

 

「まあ、スリザリン寮の死喰い人関係者も知らないようでしたので予想はしていましたが、その様子だと貴方もそのような事実に心当たりが無いようですね」

 

 僕としては、シリウス・ブラックが死喰い人である事実を寮監が知っていた可能性を一応排除しては居なかった。仮にその場合だと面倒な事になるとも考えていたのだが、しかし、そうでないのであれば話は至極単純だった。

 

「嗚呼、別に反論は要りませんよ。円満な職場形成の為に闇の帝王がスパイの顔合わせをしてくれるとも思えませんしね。だからそれから解るのは、シリウス・ブラックが死喰い人で無かったという事実では無く、貴方は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事実です」

「…………」

 

 論理というような仰々しい表現も要らない程の、単純な理屈だ。

 

「そもそも信用性の話ならば、僕はハリー・ポッターを支持しますよ」

 

 そしてこれについても、やはり単純な、人の感情を踏まえた上での理屈である。

 

「ジェームズ・ポッターとリリー・エバンズの殺害の一件に、貴方は()()()()()()()()()()()()だ。一方で、ハリー・ポッターにとって、シリウス・ブラックは愛する両親を裏切った憎い仇の筈だ。であれば、シリウス・ブラックを陥れる証言をする事は普通でも、それを庇う必然性は無い」

 

 寮監は何故か絶望的に打ちのめされた表情をしたが、知った事では無い。

 僕は、但しあるとすればと容赦なく続け、それを口にした。

 

「彼が本当に無罪で、仇が別に存在した場合ですがね」

 

 そして、どれ程までに魔法界が曖昧のままに物事を進めているのか解るものだ。

 

 吸魂鬼による接吻(死刑執行)がされる寸前だった?

 

 非魔法界のこの国では、死刑制度はもう数十年前に事実上廃止されている。

 それは国家による個人の権利の究極的剥奪という行為に際して、適正手続を保証しきれないと断じたが故である。僕としては別に死刑制度の是非などどうでも良いが、しかし最低限の手続保証が無いままに即執行は普通に問題だろう。

 

 特にシリウス・ブラックの場合は、十二年前に裁判をやらないまま監獄に叩き込んだのだ。

 たとえフリで有っても、表向きの建前や大義は必要だ。でなければ、暴力という規則こそが至上命題となってしまい、行き着く果ては無秩序で有る。

 その点で言えば、まだ闇の帝王の方が、まだ話が通じる存在と評すべきだろう。少なくとも、彼は純血至上主義という解りやすい法則の下に統治を試みようとしたのだから。

 

 とは言え、その適当さの割にのうのうとシリウス・ブラックを十二年生かしておいた事が不可解──と一瞬考えたものの、そう言えば、アズカバンは更生施設でも贖罪施設でも無く単なる拷問施設であった。

 楽に殺したくないから監獄に叩き込んでいるだけで、生かしたくて生かしている訳では無かった。正気を喪って勝手に衰弱死してくれるという効率的なオマケ付きですら有る。その割に闇の魔法使いに対しては効力が薄いというのは……成程、あの老人が忌み嫌うだけ有るかも知れない。

 

 ただ、今は魔法界の司法制度について語るべき場などでは無かった。

 

「既に寮監も御気付きのようですが、『動物もどき』ならば死を偽装する事も簡単ですね。非魔法族は人が鼠になるとは思わないから、爆発後に跡形も無く消えれば粉々になったと考える。残っていた肉片は指の一本、ならば自分で切り落としでもしたんでしょうかね」

 

 それに変化出来る事を知っていたであろうシリウス・ブラックが気付かなかった、或いは逃げ出した鼠への執拗な追跡に移らなかった事は疑問だが──それ程までに実際の爆発現場というのは破壊的で、彼にとって予想以上の物だったのかもしれない。

 

 本当にガス管を爆発させたか、或いは非魔法界の爆弾を用いたりしたのか。

 無論、大穴として、彼が卓越した魔法使いで有った可能性も大いに存在する。ギルデロイ・ロックハートが一分野において天才的であったように、首席や監督生の陰に隠れたピーター・ペティグリューが、彼等と同様の傑物で無かった可能性を否定する材料は全く無いのだから。

 

「となれば、他の二人、ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックも『動物もどき』だったと考えるのが素直でしょうか。嗚呼、確か『動物もどき』への変身には杖が不要だった筈ですから、シリウス・ブラックがアズカバンから脱獄した手段もこれで説明が付きそうですね。人の方は脱走対策をしているとしても、動物まで防ぐ構造とは思えませんし」

 

 『動物もどき』は高度な魔法だが、その〝魔法的〟性質に比して、魔法族にとっては魅力的な魔法では無い。何故なら、犬や猫に変身した所で、何ら強靭になれる訳でも無く、利便性が増える訳でも無いからだ。

 

 魔法族には羽の代わりに箒や姿現しが有り、牙の代わりに死の呪文や磔の呪文が存在する。

 そして何より、一時的な姿の変容で有れば、単なる変身術を用いる事も可能だった。無論、『動物もどき』まで行き着く魔法使いは殆ど例外無く卓越した変身術の腕を持つ事は言うまでも無いが、しかしながら見た目が映える割に非主流(マイナー)な魔法の典型と言って良い。

 

 それを敢えて習得した理由は──三人が習得したという予想が正しいという前提で有ればだが──これまた予想出来なくも無い。但し、仮定に仮定を重ねたものである以上、大した確度を有するものでは無いのだが。

 

 しかし、少なくとも同時に判明した事が有る。

 それはリーマス・ルーピン教授も『動物もどき』の事を知っていたという事だ。

 

 加えて彼等が未登録(非合法)で有る事もまず間違いない。

 仮に登録されているのであれば、シリウス・ブラックが魔法省の眼を掻い潜って逃亡を続けられる筈も無いし、何よりアルバス・ダンブルドアがさっさと捕まえているだろう。

 あの老人が犬猫一匹程度を一年間も捕捉出来ないとすれば、それこそ今世紀で最も偉大な魔法使いの力量を侮っていると言えるのだから。

 

 そしてまた、教授から隠された事に対して僕は何ら落胆を覚えはしない。

 誰にだって語りたくない事は有るし、それが親友達の違法行為であるというのであれば猶更だった。アルバス・ダンブルドアにも伝えていないのであれば、わざわざ僕に対して伝える理由など余計に存在しない。

 

 嗚呼、明らかな事はもう一つ存在したか。

 

「つまるところ、()()()失敗したようですね」

「────」

 

 打ちひしがれていた寮監は流石にその言葉に顔を上げ、僕の方を憎悪でもって睨みつけ、唇を捲り上げるように歯を剥き出しにし、けれども何も言わなかった。

 

「貴方がシリウス・ブラックを捕まえ、しかしハリー・ポッターがピーター・ペティグリューは生きていたと主張して彼の逃亡に手を貸したというのならば、貴方もその場に居合わせたという事でしょう。つまり、貴方はハリー・ポッターや〝旧友〟を憎み過ぎるが故に、真犯人を逃したという事に他ならない」

「……ブラックは、十六の時に殺人鬼の本性を露わにした。あの男は我輩を満月の夜の人狼の下に誘い込み、そして殺そうとした」

 

 その解答には、もはや笑う気にもなれず、溜息を吐くしかなかった。

 

「シリウス・ブラックが忌むべき殺人鬼で有る事と、彼がポッター家の事件の犯人では無いという事は両立するでしょう。頭の良い寮監ならば当然に理解しているでしょうに」

 

 僕は当然の事を述べた。述べた筈だった。

 ハリー・ポッター、或いはリーマス・ルーピン教授に対して寮監が理性的になれないのは重々承知しているが、それでも本質的には傑出した頭脳の持ち主で、合理的に振る舞う事が出来る存在であるとは思っている。そして、当然ながらその身に有する才能も。

 

 僕が同じ年数を生きた所で、やはりこの教授までは至る事が出来ないだろう。特に今年度の充実した一年は、それを予感させるには十分だった。やはり、力に惹かれ、それを求めようとも、出来ない人間は出来ない。そんな諦念を感じないでも無かったのだから。

 

 ……嗚呼、だから、それがセブルス・スネイプという人間の逆鱗に触れる言葉であるのだという事に、僕は到底思い当たれはしなかったのだ。

 

()()()()()()()()()()()……!」

 

 寮監は、ずっと激怒していた。

 僕を連れて来る時も、連れて来てからも、僕の()()に打ちひしがれていた時さえも。

 

 だが、それはまだ抑えが効いていたのだと、僕は今この瞬間に知った。

 強烈な自己否定と共に僕へと叩き付けられた感情は、ある意味でアルバス・ダンブルドアを凌駕するほどの脅威を感じさせるものだった。そして、それは人間で有れば誰もが当然に持ち得る、強力にして諸刃の武器である筈だった。

 

「真に頭が良いのならば! 我輩はあんな言葉を吐いたりはしなかった! その意味を、自身を直視しようとしないで、闇の魔術に傾倒する事など無かった! 己の立ち位置が敵対と訣別を意味する事だと当然に理解した筈であり、ましてや余計な密告など当然しなかった!」

「…………」

 

 荒々しく髪を掻きむしりながら発された、その言葉の意図は知れない。

 

 だが、それを考える前に寮監は杖を抜いていた。

 去年の決闘クラブの相手は無能であったが為に、寮監が授業以外でそれを行うのを見たのは事実上二年前が最後だった。けれども、今回はあの時以上に速く、滑らかで、そして鋭かった。僕が何度もそれ以上の技量(アルバス・ダンブルドア)を見た事を差し引いても尚、僕が憧れ、羨み、しかし至る事が出来ないであろう卓越性を証明するものだった。

 

 杖先は、僕の心臓へと向けられている。

 二年前と違うのは、寮監が僕に対して本気で魔法を撃つ気があるという点だった。

 

「スティーブン・レッドフィールド」

「何でしょう、セブルス・スネイプ()()

 

 煮え滾る殺意と共に、彼は問うた。

 

「貴様は、ハーマイオニー・グレンジャーを穢れた血(Mud-blood)と呼べるか?」

 

 一瞬であれ、その質問に虚を突かれたのは間違いなかった。

 寮監が、そのような不可解な質問をぶつける意図が、それを推測する材料すらも、僕には全く思い当たらなかったからだ。

 

 けれども、それを僕から得る事が真に重要だと思っているらしい寮監は、解答するまで引き下がる気は無いという意思を全身でもって表示していた。

 

 故に僕は、暫しの間考え、そして可能な限り真摯に答えた。

 

「……恐らく、それが正しいと考えたのであれば」

 

 流石に断言は出来なかった。

 しかし、そう確信したのであれば、僕はそれを躊躇わないだろうという予感も有る。

 

 母は、僕に比類なき愛を残した。何も与えられずとも、何も出来ずとも、全世界で唯一譲れない物の為に、ただ想うが故にその命を投げ打ってみせた。

 

 そうであれば、僕がハーマイオニー・グレンジャーを真に愛すると確信し、その時が来たと考えるのであれば僕は同じ事をするだろうし、ましてやそのような存在で無いという諦念が有ったとしても、真意でない言葉を吐いて見下げ果てられる程度の些細な物であれば、僕は好意と恩義の為にそれを行うだろう。

 

 僕の解答に微動だにせず、寮監は問いを続けた。

 

「ならば、他のマグル生まれを穢れた血と呼べるか?」

「呼べますよ。必要であれば」

 

 今度は先程よりも簡単だった。

 僕にとって、ハーマイオニー・グレンジャー以外のマグル生まれに対し、思う所は何も無い。嫌われた所で何ら痛痒を感じないし、そもそも僕への悪評を考えれば、既に蛇蝎のように嫌われている筈だった。だからこそ、それは考えるまでも無い当然だった。

 

 だが、寮監はその言葉にこそ大きな反応を示した。杖腕を震わし、激情を押し殺すように息を深く吐き、そして言葉を紡いだ。

 

「必要が無ければ?」

「呼びませんよ。そもそも僕は〝マグル(Muggle)〟という用語自体が好かない」

 

 非魔法族というような表現(No-wizardkind or No-maj)も直接過ぎて好む所では無いが、自他の識別以上の意味が籠められているように聞こえる〝マグル(Muggle)〟の響きに比べれば、遥かにマシなように思えた。ただ、これはどちらかと言えば僕個人の趣味嗜好に近い類の問題であるが。

 

 しかし、僕が答えた瞬間、寮監は天井に向かって哄笑を上げた。

 それは、人はこれ程までに激情を籠める事が出来るのだという、悍ましい笑いで有った。そして長い笑いが終わった時、僕の方を再度見据えた時、そこには冷たく滾る殺意が現れていた。

 

「……嗚呼、我輩は間違っていた。全くもって違っていた。我輩は貴様を嫌悪すべきだと思っていた。似ているとすら考えていた。しかし、違うのだな。嗚呼、そうとも。()()()()()()()()()。相容れてはならないでは無く、相容れようと思っても無理な話だった」

「何を──」

 

 当たり前の事の筈で、しかし同時に細部が僕の認識と違っていた。

 けれども、寮監は答えずに呪文を紡いだ。

 

開心(レジリメンス)……!」

 

 刹那、僕は自身の成果を発揮する事に全力を尽くしていた。

 それは偏に反復訓練の賜物であり、また半年という短期間であっても最高の教師から個人授業を受けた事に基づく当然の帰結である。たとえ相手が杖有りで、本気で開心術を掛けられようとも、容易く余計な情報を掬い取らせる真似を許しはしなかった。

 

 さりとて、やはり所詮は一年の付け焼刃で有り、そしてまた寮監は、アルバス・ダンブルドアに及ばずとも、僕と比較すれば隔絶した力量を誇る開心術士だった。

 そして何より手法が違った。アルバス・ダンブルドアの物が掴みどころ無く流麗で芸術的な侵入であるとすれば、寮監の方は僕の心を破壊する事を厭わない野蛮で暴力的な侵入だった。

 

 寮監の望まない方向へ捻じ曲げようと試み、間違った方向へ誘導する為の罠を仕掛け、全く偽りの記憶を造り出し、最後には虚無の殻で守ろうとも、全ては蹴散らされ、打破せしめられ、意図された目的は達成させられた。

 

 そして、セブルス・スネイプ()()は笑った。

 

 何時も通りの調子を取り戻し、陰気に、ねっとりと粘着的に。

 ハリー・ポッターに対するのと全く同様の──否、それを上回る悪意と殺意を籠めて。しかし、声色だけは何処か愛撫するように愉し気に。

 

 ……僕が真に闇の魔法使いと向き合う経験は、事実上一度も無かった。

 

 三年前は、直接顔を合わせるという点においては無いまま全てが終わった。

 二年前のクィリナス・クィレル教授は一つの闇の魔法使いの極致では有ったが、それでも僕に対しては教授である事を貫き、スネイプ教授の来訪を歓迎し、僕を連れ出す事を肯定してみせた。

 一年前はギルデロイ・ロックハートが僕に対してその内に秘めた本性を露わにする事は無く、真の黒幕には僕が接触する事すら無かった。

 

 だからこそ。

 真黒のローブを纏い、暗鬱なる魔法力を全身から滲ませこちらを睥睨するこの教授こそが、僕が初めて直接対面する本物の闇の魔法使いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「成程、成程。校長閣下とコソコソやっていたのはそれが理由か」

 

 意図した目的を達成した教授は、唇を捲り上げるようにして邪悪に笑った。

 

「悪くは無い。一年にしては上出来だと言えよう。少なくとも、我輩は何故君がそれを学んだのか、また何故校長閣下が直々に教える必要性を感じたかまでは──心を掬い取れなかったのだから。しかしまあ、未だ三流である事も事実だ。そこまで強固に防備を固めては、その先に何か有るのだと疑わせるような物だ」

 

 右手に握った杖を軽く弄びながら、寮監は喜色すら滲ませる。依然として瞳の内に燃える悪意と殺意は揺らいでいないが、表面上は友好的とすら言える態度だった。

 

「閉心術の基本にして奥義が心を空にする事で有るのは事実だ。しかし、全てを無で満たすというのが適切で無い場合も往々にして存在する。特に、多くを知っておかねば安心出来ない相手に対して、全くの無心というのは危険極まりない」

 

 その言葉は独白めいていたが、やはり僕へと教えを授ける物である。

 

「相手が見たい物は見せなければならない。それも露骨にでは無い。多過ぎず、しかし少な過ぎず、相手が苦心して掬い取った物と思わせねばならない。そして、その裏にこそ真に見せたくない物を隠し通して見せる。匙加減が重要だ……繊細で、大胆で、時に一握りの人間的愚かさすらも必要とされる作業だ」

「……それは、貴方の経験則に基づく物ですか」

「否、一般論に過ぎぬ。君は我輩が決してそれから逸脱しない事は解っている筈だが?」

「……ええ、そうですね。重々承知していますよ」

 

 そしてそれが全くの間違いでは無い。その教えは確かにあの老人から受けたからだ。

 しかし、それを実践出来はしなかったし、仮に試みようとも、失敗した事だろう。教授の前では、僕の力など吹けば飛ぶような物だった。けれども、将来の事を考えるのであれば、それは出来るようになっていなければ話にならない筈だった。

 

「さて、本題に戻ろう。つまり、シリウス・ブラックめの事についてだ」

 

 悠然とした態度で、ゆったりと教授は言葉を紡ぐ。

 

「要するに君は、ダンブルドアとの間で、学期前が始まる前に、ブラックが無罪である可能性を共有した。その事について相違無いな?」

「……僕を仲間に入れるのは止めて欲しいですね」

 

 間違った解答である事を予感しながらも、僕は渋々言葉を紡がざるを得なかった。

 

「それを真剣に検討していたのは、あの老人だけですよ。僕はシリウス・ブラックやピーター・ペティグリューがどんな人間か知りませんでした。偏向的に歪められた、書籍の情報しか持ち合わせて居なかった。冤罪だと判断するまでの材料は無かった」

「しかし、お前は我輩にその可能性が存在する事を伝えなかった」

「訊かれませんでしたからね。貴方がシリウス・ブラック、ひいてはリーマス・ルーピン教授を怪しんで居たのにも、相応の理由が有るのだろうと考えていた訳ですし。つまるところ僕はこの件について──」

「──中立的だった。そのように言いたいのだな?」

 

 僕の内心を正確に見透かし、言葉を引き取る。

 背筋を凍らせ、酷く心を掻き乱すだけの痛撃を、教授は的確に放ってみせる。

 

「我輩は去年言った筈だ。お前達は、興味が無い者に対しては酷く冷淡だと。そして、弱者が強者を上回る事も有り得るのだと。だからこそ、貴様等は容易に間違える」

「……今回が、そうであると?」

「君は今回珍しく物分かりが悪いようだが、我輩はそのように言っている」

 

 顔を近付けながら、教授は粘つくような言葉で続けた。

 

「先程において、君は我輩が失敗したと言ったな。しかし、君は()()()また失敗したのだと考えないのかね? ブラックの事を我輩に告げず、闇の帝王に忠実なる配下をおめおめと逃がすような事態に陥らせてしまった。その罪科を、全く意識しないで居られるかね?」

「……普通に考えて」

 

 僕は感情を押し殺し、言葉を紡ぐ。

 

「闇の帝王は十二年間復活出来ないままだった。如何に死喰い人に日和見主義者が多くとも、まさか彼の忠義者が全てアズカバンに行った訳では無いでしょう。それが一人増えたからと言ってどうなるというんです?」

 

 闇の帝王は深く隠れ棲んでいる。

 塵のような存在と評しながら尚、アルバス・ダンブルドアは諸悪の根源を見つけ切れず、そしてまた滅ぼし切れていない。滅ぼすのに手順が必要な事は判明しているが、しかし、さながらアズカバンのように手元に管理して置けば如何様にでも出来る筈だ。しかしそれを行わないのは、やはりその隠蔽においてあの老人を超えているという事を意味するのだろう。

 

 加えてその程度は、自身の信奉者で有った死喰い人に対してすら適用される程の、徹底的な物のように思える。

 何せ十二年もの間、死喰い人達は、闇の帝王が未だ健在だというような活動を殆ど行っていない。一部の狂信的な残党達ですら散発的で、統制が取れて居なくて、だからこそ英国魔法界の人間の多くは、闇の帝王の死体を確認せずとも、彼が死んだのだと考えているのだろう。

 

 そして、教授は口元を歪めたままに鷹揚に頷いた。

 

「その通りだ。鼠のようにこそこそとした小物が、闇の帝王の陣営に舞い戻った所で、大きく物事が変わる訳では無いと考えるのは至極真っ当では有る。だがな、偏執的なまでに疑心暗鬼な我々は、果たしてそれで満足出来るかね?」

「…………」

「お前は今世紀で最も偉大な魔法使いが万能で無い事を理解していたと思っていたがな」

 

 それは失望を隠さない、皮肉の言葉だった。

 

「いや、我輩が君を過大評価していたのだろう。賢者の石の時の一件にこそ、君の本質というのは明らかにされていたのだから」

 

 二年前。

 僕は教授を踏み台として、あの老人と接触した。

 それこそが正しいのだと、そのような自惚れた考えのままに。

 

「君が賢者の石について気付いた事が、図抜けて賢いと我輩は言わん。ダンブルドアがポッター共に気付かせようとしていたのは明らかだからな。あのグレンジャーと付き合いが有れば、思い当たる事は出来ただろう。そしてまた、止めようとした事自体もまた良い。気に入らない物を叩き潰してやりたいという頭が空っぽの行いは、まさしく子供っぽいと評せよう」

 

 そうだ。校長室へ赴く前、僕はその不愉快な物を何としても是正するつもりだった。

 子供がうろつく学び舎の中に、危険物を保管するなどというのはどんな理屈が有ろうとも正当化されない。まして、後に解った事では有るものの、同時に校内へと危険人物を招き入れてすら居た。教職者として、そんな真似は絶対に許されよう筈も無い。

 

「校長室に向かうあの瞬間までは、お前はドラコと一緒だった。決闘と称してポッターを嵌めようとしたように、秘密の部屋の伝説に乗じてマグル生まれの者達を脅迫したように、或いはクィディッチの試合で吸魂鬼の仮装をしたように、あの時お前は感情の赴くままに〝抗議〟へと向かった。それはスリザリンらしく無いが、されどその年齢らしい行動だった」

 

 ……だが。

 

「貴様は妥協した」

 

 あの校長室で、子供らしく行う事を辞めてしまった。

 いや、僕が最初から子供らしかったという訳では無い。僕は僕のままだった。だから、僕の本質は元より〝正しい〟物では無かったという事なのだろう。

 

「賢しき子供のように振る舞わず、愚かな大人のように納得した。挙句、ダンブルドアの行動に賛同すら示し、その正しさを疑わせないままに進ませてしまった。

 ──あの老人と接触させれば、君は癇癪を起こすだろうという我輩の予測にも拘らず」

 

 教授はスリザリンだ。僕が教授を理解し得るように、教授もまた僕を理解し得る。そして、本質だけを考えれば、僕はあの老人に融和する態度を示す事は無かっただろう。だからこそ、その予測が大いに外れていたという訳では無い。

 

 けれども、教授は知らなかった。アルバス・ダンブルドアにとってのアリアナ・ダンブルドアが、僕にとっての母で有った事を。そして何より、悪辣なる我が父の存在を、この教授は知り得なかった。

 

 しかしその事は、誤ってしまった事に対して、何の言い訳にもならないのだ。

 

「さて、スティーブン・レッドフィールド。時間旅行は魔法の中でも最大の秘奥であり禁忌でも有る。しかし、()()君が二年前に戻れると仮定して、果たして同じ行動を取るかね? ダンブルドアに対して、君は妥協するかね?」

 

 答えはしない。

 生徒が教授の思い通りに動く訳では無い。

 されど、大概の場合において、正しいのは生徒でなく教授の方だった。

 

「そして今年。君は間違いなく我輩よりも情報を得ていた筈だった。加えて、君の頭脳であれば、我輩より少しだけ賢い君であれば、今宵の事について上手く解決出来る可能性を有していた。我輩はその程度には君を評価している。だからこそ、君に問おう。

 ──果たして君は、今学年において本当に正しい選択肢を選んだのかと」

 

 解っていた。己の心が答えを出していた。

 

 今年が気楽だった? 

 馬鹿な話だ。僕が単に怠惰に身を任せただけだった。

 

 シリウス・ブラックが冤罪か否かにかかわらず、十二年前の真実を握っている者が確たる目的を持って動くという意味を軽んじ過ぎた。如何なる理由が有れど、その行動の先は闇の帝王の存在に繋がっている事など解っていたというのに。

 

 闇の帝王を──塵のような存在で居ながら尚、並外れていた悪の魔法使いの復活を真に防ぐ気が有れば、二年前直接対面しかけたあの脅威を本当に懸念するのであれば、僕はその復権の可能性を低減させる為にありとあらゆる最善を尽くすべきだった。それは巡り巡って、ハーマイオニー・グレンジャーを、〝マグル生まれ〟の魔女を守る事になった筈だ。

 

 だと言うのに、僕は手を抜いてしまった。

 

「……嗚呼、我輩はお前を、君を責めているつもりは無いとも」

 

 慰めの言葉を、全く本心では無いと解る声色で教授は紡ぐ。

 

「ホグワーツの三年生一人が行動したとて、一体何を変えられよう? 闇の魔術に対する防衛術教授も、魔法薬学教授も、魔法魔術学校校長も、変身術教授を初めとする他の大人たちも、今回残らず無様を晒し、残らず役立たずだった。だから、君が何も動かなかった所で、何も変わらないし、責任は無いのだ」

 

 教授は残酷にそう保証する。

 けれども、僕自身がそれを認められるかは別の話だった。

 

「我等にこそ責任が存在する。……しかし、嗚呼、愚か者の発言として聞いてくれたまえ。仮にこの先数年以内に闇の帝王が復活する事態に陥った場合、まさに今宵こそ致命的に誤ってしまったのだと。防げた筈の事柄を、見当違いの愚行により看過したのだと」

 

 予言では無い。教授自身が、その発言内容を信じては居なかった。

 今宵逃げ延びた闇の帝王の召使いを、そこまで高く評価しては居なかった。

 

 しかし、万が一より遥かに高い確率で、それは確かに現実化しうるという事を、教授は──元死喰い人は断言しきってみせた。

 そうさせたのは、彼の元主人の存在の強大さを重々承知するが故。教授が過去に崇拝を捧げ、そして今をもって尚強い恐怖を抱き続ける悪の大魔法使いとは、そのような存在だった。

 

「ルーピンも同じだ」

 

 僕に対する物と別種の憎悪を籠めて、教授は低く呟くように言う。

 しかし、その言葉こそが僕にとっての痛撃となる事を、教授は真に理解し尽くしていた。

 

「満月の今宵、ルーピンは脱狼薬を飲み忘れた。懐かしき旧友達との再会出来るかもしれないという慶事に気を取られ、恐らくは地図を覗き込む事に夢中となってな」

「────」

 

 思わず呻き、歯を食い縛った。

 それは、駄目だ。それは、在ってはならない。

 

「我輩は、今年の初め、校長閣下に告げた。狼人間を招き入れるのは譲歩するとしても、我輩が一度殺され掛けた時と同様の事態が再び生徒に対して起きるのであれば、我輩は自身の正義に従って行動すると。そして、校長閣下は当然了承した」

 

 あの老人ならば、そうするだろう。

 無駄に信頼する事を好む人間であり、何より実際、リーマス・ルーピン教授は白だった。

 

 シリウス・ブラックと繋がっているかという一点について、アルバス・ダンブルドアは正しく解答を導いていた。そうであれば、シリウス・ブラックに対する守護として、またハリー・ポッターに対しての教師として、これ程相応しい役割は存在しなかった。

 

 しかし、それ以外の点において、彼を配置した事は正しかったのだろうか。

 

「嗚呼、『動物もどき』の事を黙っていたのも置いておこう。それは究極的には生徒を危険に晒す物では無かったのだろうからな。そして、我輩は最善を尽くしたとも。七面倒な脱狼薬を手間暇掛けて調合し、飲み忘れたような場合は──今宵のような場合は手自ら持っていく事すらした。我輩が嫌がらせをしたと思われるなど断じて許せるものでないのだから」

 

 言葉通り、教授は為すべき事を遣り遂げたに違いない。

 単純に、教授が有する恨みを晴らすのであれば、薬に細工をすれば済む。この教授の腕前をもってすれば、完全な改造までは行かずとも、多少効能を弱める程度の事は出来た筈だ。けれども寮監は恐らく、魔法薬学教授としての矜持をもって、それを良しとしなかった。

 

「だが、ポッター共の眼の前で、あの考え無しの畜生は変身した。君はどう考える? 自分が何者か正しく意識しているならば、教師として、大人として、適切に己の体調を管理すべきでは無いかね? たかが薬を飲む程度、ほんの十秒も有れば足りる程度の行いの筈だが」

 

 リーマス・ルーピン教授は、三十年程も狼人間をやって来た筈なのだ。

 その危険を、恐ろしさを、子供が狼人間に堕ちた際に受けるであろう社会的な迫害を、知っていた筈なのだ。

 

 しかも彼はホグワーツ在学時と違い、既に成人してしまった狼人間なのだ。特に満月の晩は厳格に自制しなければ、フェンリール・グレイバックと何ら変わらない、危険な闇の怪物に堕ちてしまうのだ。けれども、彼は間違えてしまった。

 

 人は過つものだ(To err is human.)が、それでも取り返しの付く物と付かない物が存在する。一度の失敗でも決定的に信頼を破壊してしまう物と、そうでない物が存在する。

 

 そして、今回の件がどちらであるのか言うまでも無い。

 

「杖を使え」

 

 教授は、傲慢に宣告した。

 

「レッドフィールド。ダンブルドアから開心術も習ったのだろう? 我輩がその練習台となってやろう。だから使え。使うのだ……!」

 

 その怒声に弾かれるように、僕は杖を抜いた。

 一瞬教授が瞠目したのは、それが教授の予想した以上の速度だったからかもしれない。今世紀で最も偉大な魔法使いが幾度もそうするのを見て来たのだから、当然では有った。けれども、僕にとって一切の喜びを齎すものでは無かった。

 

「……開心(レジリメンス)

 

 その瞬間に、僕は教授の心をいとも容易く読み解く事が出来た。

 一切の抵抗は無かった。無いように見えた。自分が卓越した開心術の腕を有するのだと、その方面に才能が有るのだと強く誤信させる程滑らかに、多くを得る事が出来た。

 

 だが──それは確実に、意図的に招待されたのだろう。

 僕はそれを積極的に得ようとしなかったし、それらの思念が教授の中に有る事もまた知らなかった。ただ単純に教授が、僕程度には作為を悟らせない程に見事な閉心術士だというだけだった。

 

 僕が見えたのは、四人の男達が一人の男を虐める風景。

 それも一つでは無く、複数。御丁寧に、学年が上がっても──僕の年齢を超えても尚、それが続けられていた事まで見せてくれた。

 

 その一人の側は、勿論セブルス・スネイプ教授である。そしてその四人の方もまた、その内三人とは直接会った事は無いにしても、全員の名前を識別する事が出来た。それらの誰もが、未来の姿へとその面影を残していた。

 

「見たか? アレらがジェームズ・ポッター、シリウス・ブラック、リーマス・ルーピン、そしてピーター・ペティグリューという愚連隊の本質だ。傲慢で、不愉快で、独善的で秩序を気に掛けない、自分こそが社会正義の化身だと疑って居ないグリフィンドール共だ」

 

 教授の腕前で有れば、嘘の記憶を作る事が出来ただろう。

 そして僕程度の力量では、やはりそれを見破る事は出来ないだろう。

 

 だがそれでも、見せたくない部分を隠そうとした面が有ったとしても、教授が全くの偽りを造り上げて開示した訳では無いというのは理解していた。教授の態度が、声が、感情が、そして何より僕の急所を正しく把握しているで有ろうスリザリン的存在が、そのような無駄な事をする筈も無かったのだ。

 

「そして、リーマス・ルーピンという低劣な男よ……! あれは仲間達に好かれ、集団に所属し続けたいという我欲のみが先行し、本来のグリフィンドール的気質を──騎士道精神的な正直さも勇敢さも何ら持ち合わせていない馬鹿者だ!」

 

 それ自体が非難に値する訳では無いだろう。そう思ってしまうのは真っ当的な感情だ。

 また、彼が何も止めなかったからと言って彼が悪であるという訳ではない。人は一概に割り切れる物では無いという事は、誰よりも多面的なアルバス・ダンブルドアが、眼前に居るセブルス・スネイプ教授が、我が母が、そして父が、そうである事を僕は見て来た。

 

 けれども、そのような心の大半を確かに占めているその人間の本質が、ふとした瞬間に顕れ出る事を──それが時には致命的な間違いを招く事もまた知っている。

 

「あの男は、二十年近く経った今でもその本質を変えていない。何もしない事が正しいと考えている、ポッターとブラックの腰巾着でしかない。……そしてレッドフィールド」

「…………」

「スリザリンである君には告げておこう。我輩は今朝、ルーピンの秘密についてうっかり口を滑らせるような心持ちである。さて、君は止めるかね? 君はあの()()が辞めさせられない事こそが、社会の理屈として正しいと思うかね?」

「……その行いに、僕の解答は必要ですか」

 

 僕の絞り出した言葉に、教授は陰鬱な微笑みを返した。そして、それで十分だった。

 

「……()()、うっかりであるから正しいも何も無いでしょうが、しかし仮定の話をさせてもらうならば、些細な過失でそれを行ったとしても、貴方は間違っていない。そしてアルバス・ダンブルドアは正しい行為を止められない。少なくとも僕は、そう感じて居ます」

 

 教授の希望通り、その当然の立場を宣言する。

 その裏に僕がどんな想いを抱こうとも、それは確かに僕の価値観であるのだから。

 

 リーマス・ルーピン教授は、今まで教授足り得て来た。

 つまり、これまで彼の秘密を──狼人間である事を、殆どの者から隠し通す事に成功してきた。彼は毎月不可避的に起こる変身の為に一ヶ所に留まる事は出来ず、それ故に本来の能力を考えれば余りに役不足な仕事に従事し続けていようとも、真の意味で狼人間を取り巻く受難に対して彼自身が直面した事は無い。

 

 しかし、それも終わる。

 もはや平穏と幸福の日々は訪れない。彼は侮蔑され、迫害され、何処にも受け容れられる事も無く、死ぬまで異端で在り続ける。

 

 その結末の決定的な引き金を引くのは眼前の教授であるが、されどそれを何もせず見逃すという点において僕は同罪だった。何もしない事も、行動する事も、目的を果たせなければ同罪であり害悪ですら有る。それが、此度の苦い教訓とも言えた。

 

 だが──僕も一方的に終わらせる気も無かった。

 ……それが意地ですら無く、全く持って無意義である事は理解していたけれども。

 

 しかし何であれ、僕に開心術を使わせたのは、悪手とは言わないまでも緩手だった。

 教授は僕から正しく事実を隠し通したが、しかしそれでも読み取れる事柄というのは存在する。開心術とは書物を読むが如く心を覗くような単純な術理では無く、深淵にして重層的な迷宮の中から真実を拾い上げる作業であり、そして何より僕もまたスリザリンである為に、それを見通す事が可能だった。

 

「僕がハーマイオニー・グレンジャーに固執するように、貴方もまたリリー・エバンズに執心している。一年時から貴方が僕を嫌い続け、そして僕が貴方の事を好きになれなかった根源の理由は、そういう事ですか」

「────」

 

 その言葉に教授は揺らぎ、だがすぐさま平静を取り戻した。

 流石にそこまで意図して読み取らせようと思った訳では無いだろう。教授が僕に対してそこまで親切な真似を行う義理はやはり存在しない。

 

 けれども、知られた所で教授にとって痛恨という程では無かった。御互いが御互いの弱みを握っているのだから、寧ろ状況が解りやすくなっただけだった。

 

「……成程、僕は貴方と相容れてはならないと心の何処かで感じて居ましたが、しかしそれは勘違いだった訳ですね。僕は望んでも貴方になれない」

 

 この教授が今此処に存在する事こそが、僕と教授が似て非なる絶対の証だった。

 

「だろうな。我輩もそう確信している。そして、それを知れただけで今宵は我輩にも一応の収穫が有った。つまらん物では有るが」

 

 そう表情だけは冷淡に告げ、しかし瞳と言葉には灼熱が渦巻いていた。

 

「都合が良いからついでに忠告してやろう。我輩には珍しく、善意をもって」

 

 黒衣の闇の魔法使いは、僕を睥睨する。

 

「なあ、レッドフィールド。君はこの三年間、小賢しく、そして上手く立ち回って来たつもりなのかも知れぬ。そして、目的を幾何か果たしたのやも知れぬ。けれども、考えた事が有るかね? 闇の帝王が復活した際に、君がどう見られるかという事を」

 

 言われずとも解っている。

 僕は目立ち過ぎた。そして、それが実力に対し分不相応だった。

 

 真なる闇の帝王の前では僕は塵以下の存在であり、行動も思考も容易く蹂躙される事だろう。逆らう事など出来はしないし、勝利する事などもっての他の筈だった。

 であるからこそ、僕はやはり闇の帝王が復活する事に繋がる事態を予見すれば、採るべき行動は最初から一つしか無かった筈だった。そして既に、歯止めを利かせる事が可能で有ったその分岐点は通り過ぎ、その点において最早取返しが付きようもない。

 

「便利な従者(手足)を獲得した闇の帝王が復活されるまで、果たしてどれだけ掛かるだろうな。四年か、三年か、或いは一年か。あの方の知識と叡智は、君が想像する以上に深いぞ?」

 

 塵のような存在。一歳の赤子により凋落を齎された存在。

 しかし、それでもアルバス・ダンブルドアは警戒し続け、そして心の何処かで復活を疑っていない。史上最悪の魔法使いというのは、そのような不世出の傑出した怪物だった。

 

「無論、君が逃げるというのであれば構わない。少しばかりの優秀性を見出しはしても、たかがホグワーツの学生一人に固執する方でも無いからな」

 

 だが、と教授は続ける。

 

「君が在学中に闇の帝王が復活し、それでも特定の目的の為に君がここから逃げようとしない場合。君は死喰い人候補生(スリザリン)として当然に選択を迫られるだろう。そして、自身の命を保全するという最小限の目的に留まらず、闇の帝王の眼を盗んで己の目的を果たそうとするならば、その道程は酷く険峻な物になる」

 

 残念ながら今年、ハーマイオニー・グレンジャーとハリー・ポッターの絆は破壊されなかった。寧ろ、それを強固にしてしまったのかも知れない。泡沫の感情を──彼女の一時の、いずれ終わる幸福を願ったが故に、取返しが付かない事を招いたのかもしれない。

 

 しかし、僕はこれから何を為すべきなのだろうか。

 

 クィリナス・クィレル教授は、闇の帝王に叛逆しようとした末路を示し、同時に、真なる邪悪の前では逃げるべきだという言葉を残して死んだ。

 ギルデロイ・ロックハートは、身に余る大望を抱き、英雄に対して害意を向けた結果その代償を支払い、自身の存在を喪失した。

 そしてリーマス・ルーピン教授は、敬意を抱くに値する大人であった筈の彼は、間違ってはいけない部分で致命的に間違い、己の不始末によって()()平穏な生を放棄した。

 

 彼等からの教訓の下で、僕はどう動くのが正しいのだろうか。

 その答えは出そうになく──しかし、いずれ出さなければならない時が必ず来る。

 

「闇の帝王は、無駄に慈悲を御掛けになる存在では無い。そしてまた、アルバス・ダンブルドアも冷徹な策謀の過程に容赦を放棄出来る存在だ。リリーは死んだ。我輩がどう動こうとも、どう無様に請い願おうとも、儚く命を散らされた。偉大なる英雄達の狭間で、凡庸なる我輩の意思や希望が受け容れられた事など、真に一度も無かったとも」

 

 その瞳の内に、苦渋も悲嘆も読み取れない。

 セブルス・スネイプという存在は、その物語は既に終わっていた。僕が一つの終わりを迎え、しかし新たな固執の対象を見出した一方で、彼は既に執心の対象を喪い、そして何も始められなかった。彼の心は現在に向けられておらず、過去に留まっている。

 

「スティーブン……否、ステファン・レッドフィールド。君がハーマイオニー・グレンジャーを、己にとって真に大事な存在だと考えるのであれば──」

 

 セブルス・スネイプ教授は、既に失敗した者として、重々しく忠言を残した。

 御互いの息の掛かる程に近い距離で、しっかりと視線を合わせ、殺意と憎悪、そして僅かばかりの羨望を籠めて。

 

「──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 期末試験が終われば、学生の一年など既に終わったような物である。

 

 狼人間が教授をやっていたという醜聞は大いに話題となったが、休み前で浮かれる生徒の前では所詮は一過性の物でしかない。

 そして、さっさと消費されて忘れ去られる事になったのは、リーマス・ルーピン教授が大多数の生徒にとって良き教師で有ったというのも少なくないのかもしれない。つまるところ狼人間という疑いなく邪悪な存在が、善良な行いをする存在である事など有ってはならないからだ。

 

 試験終了の翌々日、ハーマイオニー・グレンジャーから、ふくろう便が届いた。

 正直言って、迷いはした。やはり断るべきだと感じはした。だが、彼女をずっと避け続ける事は出来ないし、理由を告げないままでは彼女は強情さを発揮するだろう事も予測が付いた。そして何より──彼女が僕の解答を持っているのだという事を、期待してはいた。

 

 久々に会う彼女の表情は、酷く晴れやかだった。

 友人二人と喧嘩していた頃とも、仲直りをした後も尚神経質で有った頃とも違う。試験中の苛々していた態度とも違う。何の心配も持たず、未来に対して希望を持ち、明るい将来を何ら疑っていない善なる表情だった。

 

 彼女の問題は完全に解決していた。それもこの上無く良い方向に。まるで何らかの()()が、彼女を一回り大きくしたようだった。

 

「ねえ、ステファン! バックビークが逃げた事を聞いたかしら?」

「……ああ」

 

 弾むような言葉に、僕は小さく頷く。

 無論、ドラコ・マルフォイが癇癪を起こしていたから知っていた。

 

「その事だけど、あのね。私も色々と考えたけど、やっぱり裁判に一番協力してくれた貴方には言っておくべきだと思って。実は、バックビークは──」

「──度し難い事に、魔法省の役人が正規の手続をもって下した判決に反し、魔法大臣の眼を掻い潜って逃亡した。それ以上でも以下でも無いだろう」

「……え?」

 

 彼女は僕を見上げ、僕は彼女を見下ろした。

 

「話すべきでない事は有る筈だ。君が学年中一貫して、全ての選択科目を取るのに使っていた手段をハリー・ポッター達にも告げなかったように。秘密というのは、容易に明かされてはならない。世の中には、口を噤まなければならない事実というのが有る」

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは、酷いショックを受けているようだった。

 

 ……嗚呼、それは不可避な事だろうと、頭の何処かで理性が言う。

 僕は今まで一度たりとも、彼女に対して感情的な振る舞いをした事は無かった。僕にとって、己の模倣対象であり、超え続けていなければならない存在は──父は、一度も子供に対してそのような態度を見せなかった。僕はその行いを学習する機会が存在しなかった。

 

 けれども、今の僕はそう在る事が出来なかった。

 

「……すまない。君が少しばかりでも打ち明けようとしてくれた事は多少嬉しく思う。だが今は、頭の整理が付いていないんだ。これは僕の個人的な、君には全く関係無い事情だ」

「ステファ──」

 

 彼女が後ろで何かを言っていた。けれども、振り向く事は出来なかった。

 理屈では無かった。これが自分にとって正しい行いでは無く、彼女を傷付けるような間違った行いにしか過ぎず、何の結果にも繋がらないというのは解っていた。

 

 だが、僕の奥底から湧き上がる衝動的な激情がそうさせた。

 たとえそれがどのような結末を導く事になろうとも。今の僕の心は、その愚行を肯定していた。

 

 その後、ハーマイオニー・グレンジャーが僕を呼びだそうとする事も無かった。

 僕は図書室に以降一度も向かう事無く、残された日々は何事も無く過ぎて行った。平和であり、気楽であり、日常的で、単なる一学生の風景を超えるものでは無かった。

 

 アルバス・ダンブルドアからの手紙はやはり来なかった。

 リーマス・ルーピン教授からの手紙もまた。

 

 そうして、僕の三年目が終わった。




・ヴォルデモート卿の復活の確定
「闇の帝王は、友もなく孤独に、朋輩に打ち棄てられて横たわっている。その召使いは十二年間鎖につながれていた。今夜、真夜中になる前、その召使いは自由の身となり、ご主人様の下に馳せ参ずるであろう。闇の帝王は、召使いの手を借り、再び立ち上がるだろう。以前よりさらに偉大に、より恐ろしく。今夜だ……真夜中前……召使いが……そのご主人様の……もとに……馳せ参ずるであろう……」
(三巻・第十六章)

 上記の予言が為されたのは、事が起こる当日。
 そして、一つ目の予言と違い解釈の余地が無い程に(とは言えそれを聞いたハリーにはミスリードとなっている)その内容は明快な物である。
 
・動物もどきの意義
 動物もどきが魔法族にとって左程魅力的ではないという事は、現実世界で出版された『吟遊詩人ビードルの物語』のダンブルドアの解説によって示されている。
 また、ハーマイオニーが第二の課題で、水に潜る為の手段として「ヒトを変身させるところまで習っていたら良かったのに! だけど、それは六年生まで待たないと行けないし」(四巻・第二十六章)と発言したり、或いはケナガイタチに変えられたマルフォイの例、半サメに変身したクラムの例など、人の変身は動物もどき以外でも明らかに可能である。
 ただし動物もどきにも優位性は少なからずあるようであり、作中では杖を使用せずに変身可能、吸魂鬼の影響を受けにくい(但し「心が複雑でなくなる」)、狼人間に襲われない、動物(クルックシャンクスや他の鼠)と意思疎通が可能などが挙げられる。リータ・スキーターが(或いはシリウスも)立入禁止を受けながらも校内に入り込めたのもその一つかもしれない。
 非合法・未登録の動物もどきは見破る方法が有るらしい(作中の1926年の『変身現代』2579)

・三年目のアルバス・ダンブルドアの動向
 全てを打ち明ける五年目において、ダンブルドアは「わしは遠くから見ておった。きみが吸魂鬼と戦って追い払うのを。シリウスを見出し、彼が何者であるかを知り、そして救い出すのを」(五巻・第三十七章)と述べている。
 ダンブルドアが何時の時点で逆転時計の使用に気付いたか不明だが、バックビークの処刑時点には、「マクネア、バックビークが盗まれたのなら、盗人はバックビークを歩かせて連れて行くと思うかね?」「どうせなら、空を探すがよい」(三巻・第二十一章)と発言しており、外部からの介入には気付いているように読み取れる。
 何れにせよ典型的な時間旅行物の例に違わず、時間を遡ったハリーが(ダンブルドアでは無く)守護霊の呪文を使ってハリー自身を救うのをダンブルドアが見てしまったという点において、所謂親殺しのパラドックスに纏わる議論が発生する。
 尚、ダンブルドアがシリウス達はアニメ―ガスであるのを知っていたかは、「まことに天晴じゃ──わしにも内緒にしていたとは、ことに上出来じゃ」(同・第二十二章)との事だが、正直言って彼は信頼できない語り手なので真偽不明である。

・ピーター・ペティグリュー
 軽んじられがちな存在だが、
 スパイである事をダンブルドア含めて一年間隠し通す、動物もどきを知っているシリウスにすら眼前で死を偽装、五、六メートルの範囲内に居た十二人のマグルを一度に殺す、バーサ・ジョーンズを言い包める事に成功、賢者の石の際に痛撃を受けて隠れ住んでいたヴォルデモートを発見、ヴォルデモートの助力有りきとは言え復活の魔法薬を調合、クラウチJrと協力してムーディを殺さずに制圧、忠誠を得ていないヴォルデモートの杖(その後の呪文巻き戻し現象から解る)で死の呪文を使用しセドリックを殺害
 等々、意外ととんでもない事ばかりやっている。

・Wizardkind and Muggle
 Wizardはwise(賢い)(wys 。wīsからの派生)+接尾辞ard()
 同種の語源の単語としてwisdomが有る事や、魔法使いを時にwise manと表現する所からも解るように、その言葉自体が一種の優位性を示す言葉である。但し、現代的な意味合いでwizardが用いられるのは、1550年辺りからとの事らしい。
 Muggleはmug(愚かで騙されやすい人)という単語を、和らげた造語(both foolishness and lovabilityを連想させる表現を探した)であるとJ・K・ローリング氏は述べている。尚、その時点でドラッグのスラングとしても使われていたのは知らなかった模様。
 但し、公式設定ではMuggle-bornはかつて (サラザール・スリザリン時代から)Mugbobと呼ばれ、しばしば魔法族よりも才能が有るとも考えられていたようである。
 つまり、作中世界においてもmugが現実と同じ語源を有するとは限らず(事実、Potter家も『陶工』に由来しない)サラザール・スリザリンの考えは明らかに当時から異端で、実際に四創始者の内三人が反対派。そして、マグルへの不信と純血の優位性が広まるのは1692年の機密保持法以降。

・To err is human
 同種の表現は古来より数多有るが、この形では英国の詩人アレキサンダー・ポープが『to forgive divine』と後半に付け加えた『過つは人の常、許すは神の御業』という表現が有名か。

・読書亡羊
 出典は『荘子』。
 読書に勤しんでいた下男も、博打に励んでいた下女も、本来行うべきであった羊の監視を怠って逃がしてしまった点で同罪だよねという話。
 その後には、生命と本性を喪ったという点で同じ二人の話に移り、一方は称賛され、一方は中傷されるが、同じ筈の人間に自分達がそのような差異を設ける点は何処に有るのか。また仁義を目的とする者は君子と呼ばれ,財貨を目的とする者は小人と呼ばれるが、その区別をする点は何処に有るのかと言った感じで続いていく。
 鼠に置き換えるか迷ったが、発音的に微妙だった為に元のまま。チュウだったら相応しかった。

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