パスカルの賭け
要するに、僕は何を模倣したのかという話だ。
子供は、周りの人間を見て──特に親を見て成長する。
己の取り巻く社会とは、世界とは、子供にとって不断の学び舎である。
けれども、僕の世界というのは狭かった。母に優しく〝収容〟され、
まして、一番近い対象である母は狂っていた。
特に僕がそれなりに成長して以降は、衰弱し、より狂気に蝕まれ、正常に会話が成立する期間というのは段々と少なくなっていった。その事自体が僕の精神の成熟化に寄与したのは否定し得えずとも、母が己の〝真っ当〟な成長を促す為の手本として不適切であったという点においては何ら疑いは無いのである。
要するに、僕は子供としての適切な環境を与えられなかった。
必然的な帰結として、本来であれば、僕は成長する筈が無かった。
自発性を育み目的意識を獲得する事も、劣等感を抱き自身の能力を自覚する事も──或いは、自己同一性の危機に直面して価値観への忠誠を意識したり、社会集団との関係性を構築して愛情という神聖なる不毀の力に憧憬を抱いたりする事も、決して有り得ない筈だった。
けれども、僕は一応の成長を遂げる事は出来た。
何という事は無い。
つまるところ、僕が見て、学び、真似た対象は母では無かっただけだ。
全ての始まりは、五、六歳くらいに出会った一冊の本だった。
最初にそれと遭遇した時、僕はそれに対して何ら特別性を見出さなかった。寧ろ、その訳の解らなさによって理解を放棄し、本の山の奥底に封印すらした。
それは子供として真っ当な反応だったという事は確信を持って言える。その年齢では全く理解出来ないような高度で難解な事をごちゃごちゃと
ただ、僕の心の何処かにおいて、その存在が残り続けたというのは確かなのだろう。
僕の母は学べという指針を寄越しはしたが、何処まで学べという基準を設定はしなかった。
それは母が正気では無かったという理由も有るのだが、さりとてそれを設定しようと思って出来る物でも無かっただろう。遊戯のように、数値で強弱を付けられるのであれば、この世界はもっと生きやすい筈なのだから。
そしてそうであるが故に、僕は自ら身勝手な目標を設定してしまったのだ。
意識的では無かった。けれども、日々の学習の延長線上、自分の成長と進歩の先に、その本をいずれ理解出来るようになるだろうという予感は抱いていたのであり、実際それは或る意味で正しかった。だからこそ、代わり映えのしない閉鎖的な日常における進捗確認手段として、それを使うようになってしまったのだ。……その意味を知らず、そうしてしまった。
ただ、全ては不運だったというだけなのだろう。
母がその本まで一緒くたに奪ってこなければ、という仮定は意味が無い。僕の父は確かに書物の人であり、自身を託す象徴としてはこれ以上の物は無かった。
そして、母がその本を僕の手の届く所に置いた事も同様だ。如何に僕が成長する事こそが母にとっての至上命題だったとはいえ、仮にそれがどんな代物であるかを知っていれば母は僕の為にそれを抜き取っただろうし、仮に途中で僕が母に報告していれば、やはり取り上げただろう。それらは、あの結末こそが保証している。
しかし現実はそうはならず、宿業の結晶は僕の手元に留まり続けた。
最初は、詰まらな過ぎて盛大に放り投げた。
二度目、最初の時から半年は経っていたと思うが、それは変わらなかった。
しかし三度目、四度目と、僕がその本を開く事は続いた。そして、回数を重ねるにつれて段々とその間隔は短くなっていった。不定期で有りながらも継続的に、その本を開き、問い、読む事によって、自分自身を試し続けたのだった。
その本は、子供に対して一貫して不親切だった。不理解の極みだったと言って良い。
分野、領域問わず、様々な事について語った。訳の分からない内容を教え、ややこしい独演や持論を長々と述べ続けた。僕が聞いていたのかを確認していたかすら定かではない。究極的には、僕に対して自身の話を聞いている事を期待しておらず、単にやる事が無かったが故の暇潰し程度にしか感じて居なかったのかも知れない。
けれども皮肉な事に、だからこそ、僕はその本に段々と魅力を感じて行ったのだろう。
閉じた世界において、その本もまた僕を構成する社会へと変わって行った。最初の予感は正しかった。僕が学び、成長と進歩を続けるにしたがって、その本が語る内容を断片的であるとしても、やはり理解出来るようになって行ったのだから。
最後の二年。母の衰弱が酷くなり、時間により母の存在が蝕まれていくにしたがい、僕は段々とその本こそが唯一の愉しみとなって行った。暇さえ有ればそれを開くようになり、対話し、自分の心を打ち明け、自身という物の大半を注ぎ込み、その本こそが自分自身の価値を唯一証明してくれる物だと考えるようになって行った。
そしてとうとう、最後には半透明をした壮年の男が現れた時、僕は己の、そして母の死を招く終末へと踏み出したのだ。
本から現れ出でた壮年の男は、僕を見て僅かに目を見張り、その後で言った。
「──人生は題名の無い本とも評される。
そして、奇遇にもこの本にも題名が無い。私は私自身を表す適切な表現というのを、最期まで見つけられなかったからね。だからこそ、スティーブン・レッドフィールド君。他ならぬ君にこそ問いたい。君は、この本に対して、一体何という題名を付けるかね?」
書物というのは、僕にとって喜びで、力でも有ると同時、殆ど全ての筈だった。
けれども、昨年度のホグワーツから帰って来てから、決定的に間違えたのだと自覚して以降、その慣習に明らかに没頭しきれていない事を自覚するようになっていた。
自分は何をすべきなのか。それが、解らなくなっている。
僕はこの三年間、ハーマイオニー・グレンジャーこそを大きな指針として存在して来た。
母を喪い、成長する意味も喪った中で、彼女こそが僕の存在する意味だった。そして、存在して来たつもりだった。
しかし、真にやるべき事を見失い己の事にかまけた結果、僕は間違った。
リーマス・ルーピン教授の事にしても、闇の帝王の召使いにしても、より上手くやる事は出来た筈なのだ。けれども、手の届く範囲に有った物を、取り零してしまった。そして、当然のようにああいう結末を招いてしまった。それは僕自身にとって許しがたいものだった。どう考えてもあの失敗は、終末の到来を致命的なまでに進めてしまったのだから。
無論、子供がこのような小難しい事を考える必要など無いのかもしれない。
セブルス・スネイプ
自分達のような大人にこそ、あの失敗に責任が有るのだと言った。
……嗚呼、されど、その責任はどうやって取るのだろう。
そもそも、それは大人がどうこうやって取り切れるような代物なのだろうか。
金銭で保障出来る範囲ならば問題無い。しかし、事は闇の帝王、史上最悪の闇の魔法使いの事なのだ。彼が復活した時、多くの生が損なわれ、また多くの命が摘み取られる事になる。その中にハーマイオニー・グレンジャーが含まれない保障など無い。そして、それは僕にとって、神ならぬ人では到底償えない重さだとしか感じられないのだ。
だからこそ、僕は今まさに迷っており、そして出来る事が何も無い。
力を求めても駄目だろう。
セブルス・スネイプ教授は、闇の帝王の復活を最早既定路線、それも遠くない未来に訪れる物として考えているようだった。
故に、猶予はたった数年であり、しかしその程度の期間で手っ取り早く強くなれるならば苦労しない。そもそも闇の帝王がそんな簡単に打倒しうる存在であるのならば、かの教授が──僕より遥かに力量と才能において優れた闇の魔法使いが、リリー・エバンズの復讐の為に立ち上がっていたに違いなかった。
加えて、叡智の面においても、やはり求めた所で意味は無い。
あの老人が何も言って来ない事から解っては居たが、父の蔵書の中に、塵のようになった闇の帝王が復活を試みる事が出来るような手段を記す書物──名前のみならず、明確に方法論を示す物──というのは存在しなかった。
実の所、それが存在する可能性は決して低くなかった筈なのだが、母は全ての蔵書を盗み取ってきた訳では無い。要は持ってこなかった本、つまり喋ったり動いたりする類の書物に記載されていた類なのかもしれなかった。
……結局の所、僕はその三年前から停滞し続けているのだろう。
何も成長も進歩もしていない。ただ知識と、魔法が少しばかり出来るようになっただけで、依然としてその本質は変わっていない。固執する対象がハーマイオニー・グレンジャーへとすり替わっただけで、目的も宛てもなく、無意味に学びだけを続けている。
惰性的に、日常を送り続けている。
だからと言って立ち止まっていたとしても何ら意味が無いのは薄々感じて居るが──理性においてそれを自覚していても、やる気が起きなかった。
本に眼を通していても、眼はその紙面の上を虚しくなぞるだけで頭に入って来ず、思考は何時の間にか諦念に囚われ空転し続けている。こんな事は〝収容〟の際ですら無かったのであり、比喩でなく人生で初めてだった。
「……全く、自分の事ながら度し難い」
普通の家庭ならば、子供として両親に相談でもするのだろう。
或いは、人生の先達たる教師に対して、答えを求めたりするかもしれない。
けれども、僕の母、そして両親は既に死んで居る以上、相談する事は当然出来ない。
また教師の方にしても、一般的な形では無いとは言え、寮監であるセブルス・スネイプ教授には事実上相談を既にしたような物であり、他に思い浮かぶのはミネルバ・マクゴナガル教授だろうが、選択に迷っているとは違うのであるから、やはり対象として不適切な気がする。
だからこそ、僕はどうにかして個人的にこの問題を解決しなければならないのであり。
そんな時、尋ねを求める音が──ドアノッカーの音がした。
こんな家にわざわざ来る人間というのは、そうそう居ない。
都会的な無関心により余計な詮索までされる事は無かったが、さりとて母というのは近所付き合いがまともに出来る人間では無かったし、そもそも幼い子供が頻繁に買い物に出ていたりすれば、悪目立ちするのも当然だった。
そして母の死後は一人残った僕は夏以外ホグワーツで家を空けている訳だから、一体どんな生活をしているんだと思うのが当然だろう。最低限会釈や挨拶をするようにしては居るが、反応が悪いのは止むを得なかった。
さりとて、出ないという選択肢も無かった。
万が一の場合に困るというのも有るし、真っ当な訪問客──後見人だったり、非魔法族の役所の人間である可能性が無いとは限らない。逆にそれ以外でも、どうにかならない事も無い。
「……とは言え、土曜日の朝の十時から御苦労な事だ」
こういう場合に杖持ちというのは便利なものだ。
少なくとも、子供で有っても身を護る為の手段が得られる。無論、自分で撃退するのではなく、『未成年の』ないしは、国際機密保持法を盾にして魔法省の役人を無理矢理呼ぶのだが。警察と違って、
そんな事を思いながら僕がドアを開ければ返ってきたのは輝かんばかりの笑顔。
「……何故君がここに居るんだ」
流石に衝撃的過ぎて、そう言うのが精一杯だった。
玄関先に居たのは、この三年間で見慣れた野暮ったいローブ姿ではなく、簡素なシャツに動きやすいジーンズ姿という、普段の身嗜みには余り頓着しない彼女らしい私服姿のハーマイオニー・グレンジャーだった。
一度だけ、彼女が僕の家に来たいと言った事が有った。
しかしその時は当然のように、僕は断った。必然的に彼女は僕の住所など知り得ない筈なのだが、けれども幻覚でも何でも無く、彼女は僕の眼の前に居る。
「貴方が居てくれて良かったわ! ええ、本当に……! 休みだから出掛けているかも知れないと不安だったのよ。ただ、余り早過ぎるのも悪いかなと思ったから、今の時間に訪れる事にしたの。居なければ何度か来るつもりでは有ったけど──」
「……別にそれは良いとして、君は僕の家を知らなかった筈だが」
一方的に捲し立てる彼女の言葉を遮って言えば、彼女は更に早口になって言った。
「と、取り敢えず中に入れてくれるかしら? 玄関先で話し込むのも何だし」
「……まあ良いが」
明らかに誤魔化した彼女に、僕は一つ溜息を入れて屋内へと招き入れる。
僕の後ろで露骨に安堵したような声が漏れた事は、聞かなかった事にした。約束もしておらず押しかけて来た以上、断られる事も予測していたのだろう。ただ、ハーマイオニー・グレンジャーを追い返す事が出来る程に、僕は性格が悪い人間でも無かった。
「
「? ええと、私は別に何処でも構わないわよ。勝手に押し掛けちゃった訳だから」
「そうは行かないだろう。しかし生憎、客をもてなした事など無くてな。まともな来客というのは君が初めてで、作法というのが僕には解らない」
玄関先のホールを通り抜けながら、キョロキョロと見渡したい衝動をこらえているらしい彼女に言えば、軽く声を上げて嬉しそうに笑った。
「私だって何時もママがしているんだから良く解らないわよ。そして残念ながら、ホグワーツに行くまでわざわざ家に呼ぶ程に親しい友人なんて殆ど居なかったしね。実際は一、二回くらいは有ったけど、ママが何をしてたかなんて覚えてないわ」
「しかし、ハリー・ポッターやロナルド・ウィーズリーが居るだろう」
「ハリーは夏休みの大半をプリベット通り四番地で幽閉されてるし、ロンはお父さんと違って、マグル界の生活に対して興味は無いのよ。そして何より、彼等は女の子の家に積極的に来たがる性格でも無いから、今の所、どちらも来てくれそうにないわ」
ロナルド・ウィーズリーの方は兎も角として、ハリー・ポッターの方は地下鉄でもバスでも使用すれば彼女に会いに行けるだろうにも拘わらず、彼女の口振りから考えるに、そのような自由すらない状況らしい。何ともまあ、英雄様は大変のようだ。
「だから私達が集まるとなれば、自然とロンの家になるのよ。今年の夏の終わりも……その、行く事になってるわ。魔法省で働いているロンのお父さんが、クィディッチ・ワールドカップのチケットを取れたからって、招待されたの」
「……嗚呼、そう言えば今年はそのイベントが有ったか」
一応購読し続けている塵紙こと『日刊予言者新聞』も、最近は半ばロクに読んでいないので忘れかけていた。しかしそれでも薄っすらとは記憶が有るという事は、紙面は殆どそれ一色だったのかも知れない。
彼女はクィディッチに余り興味が無かったと思ったが、さりとて去年の寮杯獲得を喜ばない程に野暮では無いし、親友二人とのイベント事を逃すつもりも無いのだろう。去年の友情の亀裂は、完全に修復されたらしい。いや、そもそもそんな物は無かったのかもしれないが。
「君は紅茶で良いか? 淹れてくるから待って貰う事になるが」
振り返って問えば、彼女は少し考えた後、首を横に振った。
「……えっと、キッチンまで付いて行って良いかしら? ただ待っておくのは、その、何と言うか手持ち無沙汰だから。余り色々と見るのも何だし」
「別に物珍しい物でも無いがな。……嗚呼、その類のメモは普通の家には存在しないか」
家中に張ってあるメモの一つに眼を留めた彼女に言う。
キッチンは左。
そう書いてあるだけの、この家にしては分量が少なく役に立たないメモである。
「母が解らなくならないように、との配慮だ。とは言え、母が読めていたかどうかは怪しい。家の中で迷う事も珍しくなかったからな。ただ、比較的に迷わない方が多かった事を考えると、読めていた可能性も無くはないが」
この家が愛に満ちているのは否定しないが、それでもここを母に遺した人間は、内装を新しく改修する暇が有ったらまずこの家をこそ処分すべきだった。
一応子供連れの家族が住むような家という定義には外れていないが、さりとて親子二人で住むには広過ぎ、そして豪華過ぎた。一人になった今など言うまでも無い。
「……女性の字ね」
彼女は軽く腰を屈めて、幼子の手でも届く程の低い位置に張って有ったメモ──電気は消すように、と書いてある──に顔を近付けつつも、触れないように注意しながら言う。
「そうだな。それを遺した方は、酷くまめな人間だったのだろう。心配性過ぎると言っても良い。……微妙に空回りした感じが無くもないがな」
彼女に応えながら、僕はやかんに火を掛け、棚に仕舞っていたティーポットを取り出す。ティーバッグ以外は久々だが、このような事も良いだろう。
少し沈黙が降りるが、それは彼女がキッチンを興味深そうに見回していたからだった。
「随分きちんと整頓されているのね」
「それは単純に料理をしないからだ。ホグワーツの生活に慣れた弊害だな。自分で鍋を動かして料理する気がしない。と言っても、昔の母が出来ていただけで、僕は全く出来ないが」
「……ええと、そう言えば、貴方のお母様は? 出掛けられているのかしら?」
その質問に一瞬動きを止め、そして思い当たる。
そう言えば、彼女は知らなかったのか。彼女と出会った時は印象が最悪であり、その後もホグワーツに居た以上、特に伝える機会というのが無かった。もしかしたら、あの一か月の間に、僕が彼女を家に招くのを拒絶した事も尾を引いているのかも知れない。
思い返せばあれ以降、僕の家庭内の事について彼女が聞いた事は無かった。
「母は既に死んで居る。付け加えるならば、父もだ」
「……御免なさい」
「いや、既に受け入れた事だ。寧ろ、君には早く言っておくべきだった」
一気に沈み込んだ声に、火を見ながらも淡々と答える。
「玄関先のホールに、写真が有っただろう? あれが母だ」
「……そう。綺麗な人だったわ」
「世辞でも嬉しい。色々問題は有ったが、それでも良い母だった。そして僕が知る中で最も強い人でも有った。少なくとも僕は、あそこまで強く在れる気はしない」
そう言って彼女の方へ意識して笑いかけるが、それでも彼女はバツが悪そうだった。
まあ、仕方がないのかもしれない。彼女は〝マグル〟の、一般的に見て平和な家庭に育った女性だ。死という物が日常的に存在し、尚且つ十三年前まで戦争をしていた魔法界とは違う。ハーマイオニー・グレンジャーにとって、肉親の死とは遠い物で、忌避すべき物だった。
そんな善良な少女は視線を彷徨わせた後、机の上に堂々と鎮座していた珈琲メーカーに眼を向けた。
「貴方は珈琲の方が飲むの?」
「ああ、そうだな」
話の取っ掛かりを見つけたというような彼女の表情に、僕は笑みを苦笑に変えて答える。
「最初は意地のような物だった。反抗したかったというかな。要するに、大人になりたかった訳だ。母は全くと言って良い程、珈琲を飲めなかったから」
感想を直接聞いた事は無いが、泥水と同じだと思っていた節が有った。
「そして逆に父は、恐らく偏執的なまでの珈琲派だった。今思えば、嫌そうな顔をしていたのはそれも有ったのかも知れないな」
そこまで言葉を紡ぎ、ふと彼女の方を見た。
「──すまないな。このような話は詰まらないだろう」
そう言えば彼女は驚いたような顔をして、しかし顔を優しく綻ばせた。
「いいえ、興味深いわ。貴方が自分の事を語る事は稀だから」
「……そういう物か?」
「そういう物よ」
彼女はクスクス笑った。
「でも、地図はしっかり見た筈だけど、貴方がドアを開けてくれるまで本当に不安だったわ。貴方は殆ど語らなかったから、何となく、貴方はもっと複雑な家庭だと想像していたのだけれど。でも、来てみればこんなに立派な煉瓦造りのお家に住んでるし」
「君は自分の住所を再度良く確認した上で、自分の家のベッドルームの数を改めて数えてからそれを言った方が良い」
「それがどれ程恵まれているか解ってるから言ってるのよ。……というか、もっと歩いていける程の近所だとも思って居たわ。あの一か月、殆ど毎日会っていた訳だから」
「もう帰らなきゃと一方的に言い捨てた上に、また明日教えて頂戴と颯爽と帰って行ったのは誰だったかを思い出してからそれを言うべきだな、君は」
その言葉に従う義理は全くもって無かったのだが、それに従った事こそ僕の人生の中でも最良の選択の内の一つだったかも知れない。
けれども、三年前を懐かしみながら言った僕に、彼女は頬を真紅に染めた。
「……そこまで、子供っぽい言い方はしなかった筈だわ」
それは僕の言葉の内容自体を否定しないものだが、まあ良いだろう。
……正直言って、意外だった。
あんな終わり方をしたというのに、彼女とこうして自然と話している事が。
けれども、それが喜ばしい事であるのは確かだった。
二人してティーカップを持ち、キッチン内の机に着いた。
僕としては応接間に行くものだと思っていたが、気付けばそうなっていた。何時の間にか会話が途切れていた僕達は、無言のままに、淹れたての紅茶で喉を潤した。
そして、言葉を切り出したのは彼女の方からだった。
「貴方の家の事は、マクゴナガル教授に聞いたの」
「……まあ、そうだろうな」
ホグワーツの教授で有り、尚且つ実際に訪れた事も有るのだ。そして教授はグリフィンドール寮監でも有る。僕の住所など当然知っているし、彼女に対して教える事もまた容易い事であると言えた。
「しかし、良く教えてくれたな。あの人は、そういう所は厳格だと思ったが」
クィディッチを除き、厳格にして公平な魔女。
それが僕の見方であり、また校内の殆どの見方の筈だった。
「その、私も、多少そんな事を思わなくも無かったわ。ふくろう便を送るのを決めるまでも、送った後も、聞いたら駄目な事を聞いちゃったんじゃと怖かったし。ただ、教授は一緒に地図をお送り下さったわ。……気を悪くした?」
「いや、そんな事は無い」
恐々と僕を見上げる彼女に、僕は首を振る。
「教授が教えたという事は、それだけの意味が有るのだろう。そう思う位には僕はミネルバ・マクゴナガル教授に敬意を払っているし、恩義を感じている」
……僕にとっても有り難かった事は、一応否定しない。
新学期が始まってから、彼女に対してどういう言葉を掛ければ良いのか解らなかった。
だというのに、彼女の方から、こうして話をしに来てくれた。そして、何時の間にか、元通り自然に話を出来ている。それで十分過ぎた。
……ただ、彼女はそれだけの手間とリスクを支払ってここに来たのだ。
単に遊びに来たかったという訳では無いし、そのような内容であればミネルバ・マクゴナガル教授も当然僕の住所を教える事など無かっただろう。
だから、ハーマイオニー・グレンジャーの用事など、初めから解り切っていた。
「それで、今日来たのは、貴方に話が有って来たの。その、学期末の事について」
「……ああ」
予想通りの言葉が出て来た事について僕は何と反応して良いのか解らず、けれども彼女はカップを両手で持ったまま、優しく微笑んだ。
「別に、貴方がああいう事を言った理由は詳しく聞かないわ。ただちょっと、びっくりしただけよ。私が貴方やハリー、ロンに学年中の事を言わなかった事も事実だもの。そして、本来誰にも言うべきではないという事も」
ただ、と紅茶で唇を湿らせた後、彼女は続けた。
「やっぱり良く考えたけど、貴方には学期中の事も含めて、学期末の出来事について伝えるべきだと思ったのよ。ええ、特に学期中の事については、どうやって複数の授業を受けていたかについては、私は約束したわ。誰にも言わないって。けど、本当に必要だと思った時には、その規則を破るべきだというのもまた、私は去年に学んだの」
その点においては、グリフィンドールとスリザリンは近似性を有する。
だから、それ自体を否定はしない。故に、僕が譲れないのは別の点だった。
「……秘密は容易に明かされてはならない。僕はそう言った筈だ」
彼女は肯定するように頷き、けれども真っ直ぐと視線を逸らさない。
「でもそれは原理原則で、私は共有すべき場合は有るのだと思ってる。確かに、口を噤む必要が無いとは言わないし、これは本来隠し通す事実なのかも知れない。けれども、私は本当に、本当に考えた。マクゴナガル教授にも相談したわ。私は貴方に話すべきなのかって」
「……教授は、君の秘密について僕に明かす事を良しとは──」
そこまで言って、しかし思い当たる。
あの教授は、先学期、僕にその秘密についてヒントを出してきたという事に。
「そう。教授は再度釘を刺してきたわ。言ってはならないって。でも、同時に仰っていたわ。相手に秘密を持ち続けるという事は恐ろしい事だとも。たとえそれが善意に拠る物だとしても、真意を伝えない事は時により手酷い結果を齎す場合も有るって」
「…………」
「……? どうしたの、そんな苦い顔をして」
「いや、そこで痛烈な皮肉が返ってくるとは思ってなくてな」
まさか一年前が帰ってくるとは考えも寄らなかった。
あの教授はやはり、意外とユーモアが解る人なのかも知れない。
「皮肉というのは解らないし、善意で伝えないのと今回は違うのかも知れないけど……私は貴方に話すべきだと結論付けた。ハリーの許可も貰ってきたわ」
「……それは許可し得る類なのか?」
「解らない。でも、良いのよ。あれだけバックビークの為に力を貸してくれた人が余計な密告はしないと私は信じている」
「信じる事が裏目に出る場合もまた有る筈だ」
「なら、貴方はその信頼を裏切る人なの?」
彼女は一瞬の逡巡すら無く、そう言ってのける。
そして、そのような透き通った瞳の前では、僕は何も反論出来なかった。
「まあ、全員が全員諸手を上げて賛成してくれた訳では無いわ。事が事だもの。ただ──」
「ただ?」
僕の促しに、彼女は苦笑を深めながら言った。
「──あの夜、貴方がスネイプに夜中に叩き起こされて詰め寄られたっていうのは、色々噂に聞いてるわよ。ロンと、当然反対派になる人も思う所が有ったみたい」
「……僕も人の事は言えないが、あの教授も大概だな」
自業自得の面も有るにしろ、それ以外に巡り合わせが悪過ぎるのも事実だろう。
本質的に邪悪な人では無いのは既に僕に
「後は、ハリーの説得と……驚いた事にルーピン教授もその
「……いや、細々とした助言を受けていただけだ。君が授業に関する質問をする代わりに、授業外の事について幾何かの質問をして答えて貰っていたに過ぎない」
「……そう。まあ確かに、ハリーも似たような事を言っていたわね」
そして結局は見当違いの努力だった。
得た力自体を否定する訳では無いが、やはり忸怩たる思いを抱くのは確かである。
けれども、それを知っているのか知っていないのか。ハーマイオニー・グレンジャーは、僕に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「要するに、貴方が信頼出来るというのは、私だけの勝手な考えじゃないのよ。貴方が今までやって来た行動が、それを支持してる。そして、私は貴方に聞いて欲しいと思ってる。だから、最後は貴方が聞きたいのか、そうで無いかだけ」
何時の間にか、彼女はティーカップから手を放し、机の上へと身を乗り出していた。
僕がカップを握る手にその手が触れようとしている事を、しかしながら触れ切れないでいる事を、そして軽く震えている事を、否応無しに意識せざるを得なかった。
やはり迷いは有った。それを僕に告げるという事が、しかも学期末と違い気軽な気持ちでは無く、それも物語の核心部分まで口を開く事が、彼女の立場を悪くするのでは無いかと。
けれども、彼女は既に逃げ道を塞いでいた。
彼女は考え、準備して、そして僕へと向かい合おうとしてくれていた。
「どうするの? 貴方は聞くの、聞かないの?」
「……そうだな。聞こう」
ハーマイオニー・グレンジャーは、あの老人とは違う。
彼女が本気で僕へと話したいと思っている以上、僕はそれを聞き届ける事こそが利益が有る。それは考えなくとも、解り切った話だった。
話の構図としては、単純だった。
逆転時計。学生には大それた魔法具を用いて、彼女は複数の授業を受けていた事。
一匹の狼人間と三人の〝動物もどき〟。シリウス・ブラックの冤罪が明らかになり、しかしリーマス・ルーピン教授が変身した為に、ピーター・ペティグリューが逃げ出した事。
彼女達の時間旅行。過去へと戻り、バックビークを処刑から救い出し、同時にシリウス・ブラックを救い出し、彼の逃走を幇助した事。
何故、その日に叫びの屋敷とやらにリーマス・ルーピン教授に加えてスネイプ教授まで集まる事が出来たのかというような細かい点は、残念ながら教えられないと彼女が断わったが、取り立てて関心を惹く物では無く、そもそも全体像を把握する事に支障は無かった。
逆転時計という根幹を除けば、僕が想定していた物とそう外れるものでは無い。
シリウス・ブラックの無実も、〝動物もどき〟の事も、既に既知の情報で有った。
だからこそ、特に気になったのは二点。
逆転時計という時間旅行を制御しうる魔法具が、僕の想像よりも遥かに強力な代物である事、つまり、やりようによっては
そしてシビル・トレローニーの予言。セブルス・スネイプ教授の予測の正しさを保証する、昏き将来の到来が確定されたという点である。
しかしいずれの事柄についても彼女にわざわざ伝えるような内容などでは無く、故に僕が聞いたのは、優先度が低くとも、彼等だけが知り得るであろう物の見方だった。
「……アルバス・ダンブルドアは、何と言っていた?」
構図としては単純でも、話し切るには相応の時間を費やした。
再度沸かした二杯目の紅茶で口の中を潤した彼女は少し考えた後、口を開く。
「えっと、シリウスを救う際に?」
「君達がやるべき事を終えた後でだ。ハリー・ポッターに対してかも知れない。時間の因果に関して、あの老人であれば何かを言っていた筈だ」
「ちょっと待って頂戴。確か、ペティグリューを逃がしてしまった事について、校長先生は平静を保っていたって。後は、『我々の行動の因果というものは、常に複雑で、多様なもの』だとか。後は、ペティグリューの命を救った事で繋がりが出来たという事かしら」
後者の方は直接僕に関わる物では無い為に優先度が低いが、しかしそれもひっくるめて、あの老人はその言葉を紡いだのだろう。
ただ、やはり正面から認めたくないというのが一番先に来るが。
言ってみれば、シリウス・ブラックが救済される事は因果によって初めから決定されていた。しかし、逆に、死が因果によって決定されている場合も存在しうるのだ。
今回は偶々そうならなかったが、けれども仮にその時が訪れた時、複雑で多様だから良いモノなのだと言って受け容れろというのは──僕には出来そうにもない。そもそも、僕はそのような決定論的立場には頷きがたい物が有る。
まあ、僕が我儘過ぎるのだと言えば、それまでなのだが。
「……貴方はまず校長先生を気にするのね」
その言葉に、思考を巡らせるのを止めて僕は顔を上げる。
彼女は、その瞳に不思議な色を湛えて、僕の方を見つめていた。
「いいえ、薄々気付いていたわ。貴方がダンブルドア先生の事を語る時は、まるで近しい間柄のように感じられていた。でも、普通はそんな事は有り得ないと思ってた。当然私は校長先生と一対一で話した事は無いし、あのハリーにすら、滅多に御会いにならないのだから」
アルバス・ダンブルドアがハリー・ポッターと顔を合わせたがらない一番の理由は全く違う次元の所に有るのだが、さりとて、僕がハリー・ポッターよりも──この学校の誰よりもあの老人と顔を突き合わせた回数が多いというのは事実だった。
そして、それが彼女の疑念を増幅し、不安を駆り立てた物であるのかもしれない。
「この三年間──いえ、去年は違ったみたいだから、二年間かしら。貴方は事件の背後に居るようだった。私達より遥かに多くの事を知って、動いているように見えた」
それは正確では無い。
単純な情報量で言えば、ハリー・ポッターの方が余程物を知っている。
けれども、彼女達の立場から見れば、そう思えるのだろう。僕の配役というのは何処にも無くて、しかしながら確かに事件の合間に姿を見せていたが故に。
「私は聞かなかったわ。貴方が何かを言いたげで、けれども聞かれたくも無さそうだったから、この三年間口を噤み続けた。見ない振りをし続けた。それが間違った選択だったとまでは思わない。けど、もう我慢できないの」
「…………」
「だから──聞かせて頂戴。二年前、バジリスクが私を襲った時の事について」
僅かの間、僕は眼を瞑った。
今まで彼女は聞く事を避け、しかし今こうして聞いている。
学期末の件を伝えられなかった事は、彼女にとっての一応の心残りでは有っただろう。実際僕は、あの時、彼女の言葉を聞く事を拒絶したのだから。
けれども同時に、その事を考えた際に、彼女は──僕たちは未だに秘密の部屋の事件を終わらせていない事に直面せざるを得なかったのだろう。別にそれは彼女だけの責任では無く、どちらと言えば、僕の方が責任が大きいと言えるだろう。
ただ、それでも僕達はやはり共犯で。
しかし、このように明示的に問われた以上、僕に口を噤むという選択肢は無かった。
「……君は当然答えが解っていると思う」
その回答は、別に誤魔化す事を意図したものではない。
彼女であれば、あれから丸一年経った今であれば、正しい答えに辿り着いていない筈が無い。そのような確信の下に紡いだ言葉であり、彼女はやはり頷いた。
「……ええ、大体は。わざわざ貴方が
「ああ、彼の事は考えなくて良い。物のついでで、大きく関わる物では無い」
「それにしてはやっぱり貴方は熱心に──」
途中まで言葉を紡ぎ、彼女は軽く首を振った。
「……いえ、良いわ。ただ、私は少しばかり文句を言いたい気分よ。貴方があんなに露骨に鏡を渡すから、最初は秘密の部屋の怪物がゴルゴーンやコカトリスなんかじゃないかと思っちゃったわ。何せ生じた結果は石化だった訳だし」
「……成程、そのつもりは無かった」
苦笑する彼女に対して、僕もまた苦笑を返す。
意図せずして、彼女に対するミスリードになっていたらしい。
ただそれもほんの一瞬の事。彼女は表情を引き締め、微妙に震える声で続けた。
「ハリーは言ってたわ。二番目の事件、コリンが襲われた後、ダンブルドア校長先生が、問題は誰がではなく、どうやってだというのを聞いたって」
揺れる栗色の瞳が、僕を真っ直ぐと射抜く。
「つまり、貴方も、ダンブルドアも、早くから──少なくとも、貴方の方は私が襲われる前から、秘密の部屋の怪物の正体について見越していた。それで居ながら、貴方達は、被害を見過ごし続けた。そういう事でしょう?」
「正解だ、ハーマイオニー」
彼女は否定して欲しそうだったが、しかしそれが真実だった。
聞いては居ないが、セブルス・スネイプ教授も気付いていたように思う。
スリザリン寮生、元死喰い人、そしてあれ程の頭脳を持った人間だ。バジリスクの存在が頭に思い浮かばない方が可笑しい。もしかすれば、元御主人様から直々に何かを聞いていた可能性すら有る。明言はされずとも存在を仄めかされる程度なら有り得そうだし、その場合で有れば〝秘密の部屋〟の怪物の正体は解らずとも、少なくとも黒幕は判明する。
そしてそうであれば、あの騒ぎの間、教授はあの老人と接触を避けただろう。教授の立場は非常に不安定で、そして細心の注意を払う必要が有る。無知を装う方が都合が良い。
一方で、老人の方もまた教授を遠ざけたのかもしれない。実際、あの事件は分霊箱という最大級の闇の秘奥に関わる物であり、闇の帝王にとっての急所だった。あの事件の顛末についてすら、あの老人が教授に何も語って居なかったとしても驚きはしない。
「……秘密の部屋の怪物は、バジリスクだったのよ」
彼女は全くの正論を、やはり震える声で紡ぐ。
「M.O.M分類でドラゴンと同じXXXXX。その指標が単純な強弱、或いは同分類内での同等さを表す訳では無いにしろ、非常に危険な生物で有るのには変わりない。皆が運良く直視しなければ、間違いなく死んで居たわ」
「一つ訂正するとすれば、石化したのは偶然では無いという点だ。最後にハリー・ポッターに敗北したとは言え、スリザリンの継承者というのは、そこまで愚かでは無い。彼も多分、その類の事を言っていたのではないかと思う」
物言いたげな彼女に、僕は言葉を続けた。
「ただ、君に鏡を渡したように、最後に死人が出るかもしれないという事は考えていた。当然、アルバス・ダンブルドアも。スリザリンの継承者は、目的を達成すれば殺人を自制するつもりは無く、真にそれらしく行動する事を躊躇わない筈だった」
「……実際、秘密の部屋に攫われたのは純血であるジニーで、白骨が永遠に横たわるだろうって書いたんだものね。そしてそれは単なる誘い文句では無く、ハリーもまた、ジニーは辛うじて生きていただけで、あのままだと衰弱して死んでいたかもって言ってたわ」
「つまり、そういう事だ」
落胆か、或いは憔悴か。
少しばかり潤んだ瞳を向ける彼女に、けれども追い討ちの言葉を掛ける。
「僕は、君が石化するかもしれないと知りながら、それを見捨てた。僕にとっては、バジリスクという
「でも──」
彼女は口を開きかけ、そして閉じた。
それは彼女自身、自分が何を言うべきかを自覚していなかったからかも知れない。
「二年前、賢者の石の件も同様だ」
経緯は違えども、根底に有る物は変わらない。
「試練が終わった後で、君達はアルバス・ダンブルドアに対し、何か思わなかったか?」
「……やっぱりハリーが言っていたわ。校長先生は全てを知っていて、自分達に必要な事だけを教えてくれていて、ハリーにそのつもりが有るのなら、ええとその、『例のあの人』と対決する権利が有るって考えていた筈だって」
その表現に、僅かばかり瞠目する。
ハリー・ポッターはアルバス・ダンブルドアの思惑を正しく見抜き、しかもそれからは──決して恨みつらみの感情は伝わって来ない。寧ろ、清々しさや爽快さすら感じさせる、〝英雄〟としての在り方だった。正しく選ばれた者だった。
「そこまで解っているなら話は早い。杖の誓いを違えるつもりは無いが、君が勝手に推測するのは自由だ。つまり、僕が最後に加点された理由について。アルバス・ダンブルドアは君達の予測する行為を為し、僕もまた二年前も同様の事を行った。ただそれだけだ」
あの老人と、僕は似ている所が有る。
根底に有る物が違えども、真に守りたいと思っている者が違えども、方法論として同種の事を取りたがるのだという事を、僕は認めざるを得ない。
「……貴方達はどうして、どうして、そのような事が出来るの?」
「大事の前の小事を知るからだよ、ハーマイオニー。より大いなる善の為に、というやつだ。つまり、小さな至上命題の為に、多くを切り捨てる事が出来る類の人間だ」
僕達は致命的に失敗し、最も守りたかった物を喪った。
だからこそその反動として、今度はそれ以外で有れば許容出来る損失として受け取ってしまう傾向が有る。セブルス・スネイプ教授の言葉は正しい。僕達は冷淡で、しかし決定的に優先順位を付けなければ、今度は間違ってしまう事を確信しているからだ。
「ねえ。貴方にとって
彼女は何処か躊躇を見せながらも、覚悟を決めて問う。
意外な気がしないでも無かった。彼女があの老人にそこまで強い関心を抱いているとは思わなかったからだ。
ただ、さして回答に困る物でも無かった。
「冷たい人間だ。己の価値観の下で肯定出来る物だけを庇護し、それ以外は遍く切り捨てられる存在。惑い、間違え、しかし過ちを糺す必要性を感じていない、この世界の負け犬。しかし、それを認められない者にとっては最も忌むべき敵」
「…………」
「グリフィンドールの先輩を酷く言い過ぎだろうか?」
「……いえ、違うわ」
彼女は弱々しく微笑み、けれども僕は言葉を続けた。
「しかし、君はアルバス・ダンブルドアを正しく認識しなければならない。あの老人は多くを見通し、加えて誰にも解らない所で悪辣な手練手管を用いている。だから──」
「──信じるな、って事?」
「いいや。魔法界に居たいのならば、君は何が有ってもその指示と行為を信じ切らねばならない。たとえ、その者の人格が信頼に値しないと感じたとしても」
小さく紡がれた言葉を、僕は僅かばかり微笑みながら否定する。
「魔法戦争はいずれ再開される。両陣営の旗頭になるのは、前回と同じく闇の帝王とアルバス・ダンブルドア以外に有り得ない。そして、魔法界に居続ける事を望むのであれば、どちらかに賭けなければならない。要するに、勝ちそうなのは何れかという話だ」
その時が訪れた際、中立は許されないだろう。
アルバス・ダンブルドアの側は兎も角、闇の帝王がそれを許すまい。
そして、忠誠を誓わせる手段として、手を汚させるという事が古来より使われてきた事は言うまでも無い。生憎、〝マグル〟はグレートブリテンのみでも数千万居るのだから、血を流すには事欠かない。服従の呪文で、磔の呪文で、或いは人質に対する愛をもって、人々は手を汚す事を強いられるだろう。
だからこそ多くの魔法族は、一つの分岐点で、手遅れになる前の選択を迫られる。
「しかし、君の場合は、そしてハリー・ポッターは、どちらに賭けるかの選択肢は無い。君は〝マグル生まれ〟として浄化対象。一方、彼は〝生き残った男の子〟で、己を一度打倒した上に叛乱の旗頭として相応しい存在を、闇の帝王が生かしておくとも思えない。故に、君達はアルバス・ダンブルドアが信頼出来なかろうと、全額を賭ける以外に無いのだ」
彼女達は、勝たなければ生き続ける事が出来ない。
無論、僕が想定しているように、逃げるのであれば問題は無い。けれども、ハリー・ポッターの方は執拗に追い続けるだろうし、彼女は親友を見捨てる程に薄情では無い。リーマス・ルーピン教授がそうしたように、彼女は戦争に身を投じる事を選択する事だろう。
故に、聡明なるハーマイオニー・グレンジャーは、僕を上目遣いで見た。
「──じゃあ、貴方は?」
「…………」
「貴方は、どちらに賭けるの? 『例のあの人』と、ダンブルドア校長先生。将来の英国の魔法界の覇権を握っているのは、何れになるだろうと考えているの?」
そして、それが問題だった。
「……正直言って、僕は断言出来ない」
「……何で?」
ハーマイオニー・グレンジャーは、多くの疑問と少しの不満を湛えた瞳を僕へと向ける。
「貴方は半純血なんでしょ? 純血主義を掲げる『例のあの人』の支配下では、良く扱われはしないんじゃないの?」
「……だろうな。だから、真っ当に考えれば、どちらに付くべきかは解っているのだろう」
しかし、文献の中から微かに伺える闇の帝王の行動を見る限り、彼にとって純血主義というのは一定の重要性を持ち得ていても、至上命題では無いような気がするのであり。
「ただ、君も囚人のジレンマは知っている筈だ。二人が黙秘という最善の手段を選択出来ずに自白するように、手を取り合って悪に立ち向かうというのは幻想だ。必ずや誰かが、或いは両者が裏切り、自分だけが助かろうとする。結果として、全員が等しく酷い目に遭う」
全体の利益を考えれば、黙秘する以外の道は無い。それが〝合理的〟だ。
けれども、虚構的な利益獲得を追求する人間の浅ましさは、その行動を取り得ない。
「そんな事は──」
「君は学期末、一種の実例を見た筈だ。ピーター・ペティグリューという実例を」
「…………!」
僕は、彼を軽蔑し切れない。それは、非常に人間的な行動だからだ。
裏切った方が悪い。そう切り捨てるのは簡単だが、人の感情と行動はそれまでの積み重ねによって成立する。
彼の親友達に、アルバス・ダンブルドアに、落ち度というのは全く無かったのだろうか。
つまるところ、彼の友人達は、彼のみに対して、自分の命と換えて良いと確信させる程の友情を培って来なかったのであり、あの老人は、自分の陣営が勝利すると信頼させるだけの行いを為さなかったと評する事は出来ないのだろうか。
勿論、眼前の彼女を含めたグリフィンドールは認めないだろうが。
「アルバス・ダンブルドアは、偉大だ。そして強大でも有る。けれども、彼は近付けば近付く程に、その本質は聖人とは程遠く、同時に凡人とも距離が有り過ぎ、己にとっての何らの助けにならないのだと感じてしまう」
遠くからであれば見惚れざるを得ない優美な山々が、近付いてしまえば荒々しい死の大地が広がっているように。あの老人は、理解すれば理解する程に、決して信用や信頼という言葉から程遠い存在であると感じてしまう。
勝手な想像になるが、ジェームズ・ポッター、或いはリーマス・ルーピン教授があの老人を決定的に信頼しきれなかったのも、それと同種の理由に基づくように感じるのだ。
「……それは、身勝手よ。校長先生だって普通の人間だし、全てを守り切れる訳じゃない。そして、他は良くても自分だけは助けてくれって、虫の良過ぎる話だわ」
「その非難は正しい。しかしながら、囚人は適切な行動を出来はしない」
「……貴方のまね妖怪が、校長先生になったのもそういう事?」
ハリー・ポッターから聞いたのか。
まあ、驚く事では無いだろう。あの双子に話をしたかどうかは別として、親友二人に対してハリー・ポッターが打ち明けない理屈も無かった。
「まね妖怪がああなったのは僕にとってそう簡単な話でも無いが、それが理由の一部である事はその通りだろう。僕にとってアルバス・ダンブルドアは、一つの世界だ。だからこそ、あれは僕に対して敵対する態度を取ったのであり、しかしながら退治出来ない物でも無かった。象徴であり、けれども現実では無い」
そこまで言って、一つ溜息を吐く。
「そして何より──」
「何より?」
「アルバス・ダンブルドアは既に齢百を超えている。そして、前回の魔法戦争は、少なくとも表向きでの殺し合いは十年間続いた。ならば、今世紀で最も偉大な魔法使いが寿命、或いは老衰により不覚を取って死んだ後、誰がその後を継いで戦うのだろうか」
僕の言葉に、彼女は怯んだ顔をした。
「……っ。それは、そうね。多分貴方は、実力云々の事を言いたい訳では無いんでしょ?」
「そういう事だ。一体どれだけの人間が、彼の死後に、その陣営が勝利すると希望を持てる? アルバス・ダンブルドアが駄目だったとなった時点で、他の誰も勝ち得ないと多くが考えたとしても、何ら不自然では無いだろう」
そしてもう一つ、思う事が僕には有る。
正直言って、今世紀で最も偉大な魔法使いと史上最悪の闇の魔法使いを比較すれば、甲乙付け難くとも、最終的に前者を選ぶだろう。それは勝算や利益という解りやすい理屈で無く、単純にどちらに対してより好意的に在れるかという曖昧模糊とした理屈で有った。
しかしながら、今の段階において最も僕にとって問題だったのは、寿命云々という話では無く、他ならぬアルバス・ダンブルドアこそが、魔法戦争の銀の弾丸と成り得るのが自分などでは無いと考えている事だった。
逆転時計。それを用いてシリウス・ブラックの運命を変えたのは、アルバス・ダンブルドアでは無く、ハリー・ポッターだった。
賢者の石の時からも薄々感じて居たが、あの老人は第二次魔法戦争へ臨むに際し、彼に対して〝生き残った男の子〟以上の意義を、見出しているように思える。それが、十三年前に闇の帝王から生き残らせた〝聖なる力〟に起因するのか、それ以外の理由が存在するのか、僕には解らないが。
ただ、アルバス・ダンブルドアはハリー・ポッターで無ければならないと考えている。
ミネルバ・マクゴナガル教授でも無く、セブルス・スネイプ教授でも無く、闇の帝王と雌雄を決するのは彼で無ければならないという確信をもって。
ハリー・ポッターに資格が有るのは事実である。
彼は〝生き残った男の子〟であり、紛れも無く〝英雄〟である。
しかしながら、その場合であれば、アルバス・ダンブルドアの代役を彼が務めるというのであれば、僕は迷いながらも闇の帝王の側に就く方を選ぶだろう。
何せ積み上げた年数が足りない。闇の帝王は、約十三年の休戦期間を除いても、十年以上も戦争を続けて来たのだ。準備段階も合わせれば、それ以上の期間を殺戮と君臨の為だけに捧げて来たのである。そんな妄執の怪物を、ホグワーツ生が打倒しうると考える方が稀だろう。後十年、二十年後になれば別だが、今の彼に対して賭ける事は流石に躊躇する。
「君はホグワーツの学生であれば、これからも一つの集団で居られると思っているのかも知れない。寮対抗杯やクィディッチ優勝杯を巡る対立、ないしは性格の不適合によって互いに好意を抱けなくとも、同じ場所に帰属し、忠誠を抱き続けられると思っているかもしれない」
十三年もの間、平和が続いてしまった。
それは或る意味で良い事なのだろうが、しかし闇の蠢動が続いていたとなれば、やはり悪い事で無いとは言い切れないだろう。要するに、不可避の未来の脅威に対して、何ら覚悟や準備をして来なかったという事なのだから。
「しかし、魔法戦争が再開された時、少なくない人間達が、御互いに殺し合う羽目になる。名誉の為に、忠誠の為に、正義の為に、そして護るべき者の為に」
「……別の方に賭けたら、そうなるって事?」
「ああ。賭けて勝った所で利益が出るかは疑わしいが。しかし、昨日まで手を取り合っていても、今日には手を振り払わざるを得ない。戦争というのは、そういうモノだろう」
セブルス・スネイプ教授の事を想う。
彼等の陣営は別だった。最終的にどちらに所属していたのかは僕には伝わってしまったが、さりとて同時に、少なくとも最初は違ったのだと知った。
その理由は、思考は、僕に計り知れるものでは無いが、あの教授は相応の覚悟の下に、闇の帝王の臣下となっていた事はまず間違いない。そして、そのような事は──グリフィンドールとスリザリンでは稀だっただろうが──恐らく、有り触れた事だったのだろう。
ハーマイオニー・グレンジャーは、僕の言葉を受けて、深く考えていた。深く、酷く深く。そして、それは僕にとって必要な事だった。
シビル・トレローニーの教授として相応しくない行状は良く聞いている。毎年毎年一人の生徒に対して死の予言をするというのはどう考えたって不適切であるし、ハーマイオニー・グレンジャーが嘘吐き呼ばわりする気も解らないでも無い。
だが、あの伝説的なカッサンドラ・トレローニ―の玄孫である事は事実であり、世界の未来を確定するような予言が世の中に存在する事も理解している。そして、アルバス・ダンブルドアも否定しなかったという事は、その未来は間違いなく訪れるのだ。
……復活の時か、或いはそれより少しばかりの猶予が有るのか。いずれにせよ、僕は選択を迫られる時が来る。そして、それは多分、御互いにとって良い結末になるとは思えない。万一そのような奇跡が起きるとしても──最悪の覚悟はすべきなのだ。
これから始まるのは戦争で、命の潰し合いなのだから。
そして途中少しばかり話が逸れたにしろ、語るべき事は語った。
後は彼女の審判を待つのみだった。彼女がどのような結論を導こうとも、僕は受け容れるつもりだった。拒絶されようが、何も変わらない。見下げ果てられた所で想う価値は減じ得ないのだと、僕は良く知っている。
寧ろ穏やかさすら感じつつ彼女を見つめながら、僕は彼女の言葉を待ち──そして何時も正しいハーマイオニー・グレンジャーは、僕に向かっておもむろに手を出した。
「ん」
「……何だ、その手は」
差し出された手を疑問の眼で見れば、彼女は優しく微笑んだ。
「貴方の話に私が頷きがたい点は幾つも有る。そして、貴方が秘密の部屋に際して、私を見捨てたというのも、まあ一応理解したわ」
ハーマイオニー・グレンジャーはそう言い、けれども臆しなかった。
「でも、少なくとも今は、私の手を振り払わないで済むんでしょ?」
……嗚呼、全くもって、彼女は正しい。
三年前から、彼女は真に重要な事を間違えたりなどしない。
「……ああ、そうだな」
差し出された手を握れば、軽く上下に振られた。
「もっと、早くこうして話をしておくべきだったわ」
「……そうだろうか」
「そうよ。下手に怖がって、色々と想像して、自分の中で余計に問題を大きくしてしまうよりも、ずっと良い事だったわ」
彼女は少し吹っ切れた様子で、口元を緩ませていた。
依然として、僕の手は彼女に握られており、そこから熱が伝わってくる。
彼女の表情の中には、やはり絶望や陰鬱は見えない。彼女は多くを知っているのに、昏い未来が確実に訪れる事を知っているのに、それを持とうとしない。それは単なる楽観的な思考に基づく物では無く、それは僕の知らない強さに由来しているのは明らかだった。
「……ハーマイオニー・グレンジャー」
だからこそ、僕は彼女に更なる答えを求めた。
「ん、何?」
「君は書籍でも、自身の経験でも答えを導けない問いが有った時、答えを何処に求める?」
「そりゃあ……もっと本を読むわ」
「君らしい答えだ。しかしそれでも見つかりそうに無い時は?」
「その時は教授に聞くわよ。どうしようもないくらいにクズな一部を除いて、ホグワーツの教授陣は優秀だもの。私が質問に行くと何時も真摯に答えて下さるし」
……嗚呼、そうだろうな。それが正しい筈だった。
確かに僕は失敗した。失敗したが、方法論の全てが間違ったという訳でも無い。
そして一度失敗したが故に、己のそれまでを全否定する意味も無いだろう。あの時は失敗したというだけで、今度もまたそうであるとは限らない。何より、自身が考える最善を尽くさないで良いという訳でも無いのだ。
立ち止まるのは、最後の結末が訪れてからで良い。
僕と母の物語は既に終わり、セブルス・スネイプ教授とリリー・エバンズの物語もまた終わり、しかしハーマイオニー・グレンジャーの物語は未だ結末が見えたという訳では無い。だからこそ、僕は最後まで進む事を辞めるべきでは無いのだ。
「……今聞いたのって、貴方にとって何か──学期末の事に関係有る?」
「ああ」
「それは、やっぱり私が聞いちゃ駄目な事なの?」
「残念ながら、やはり君には言えない。これは個人的で、スリザリン的問題でもある。君に話して楽になりたい気持ちも有るが、今は出来そうにない」
アルバス・ダンブルドア。セブルス・スネイプ教授。
その何れにしても、彼女に対して語れる物では無いだろう。その内容は余りにも個人的な領域に踏み込み過ぎており、そしてまた秘密のままで在るべきである。魔法戦争の再開が近付いているともなれば、猶更の事だ。
けれども彼女は、一年前とも学期末とも違い、その言葉を口にしてくれた。
「でも、ステファンなら、何時か私にそれを話してくれる?」
「──そうだな。今日みたいに、いずれ話せる時が来れば良いと思う」
そしてまた、僕も今度は頷く事が出来た。
そんな夢のような日が来る事は、今の僕には想像出来ないが。
ホグワーツを何事も無く卒業する事が出来たのであれば、この魔法界を覆う闇が晴れたのであれば、僕はそれを容易く笑い話に出来るのだろう。
そして、僕の保証に彼女は満足気に大きく頷いて、ふと顔を上の方へと向けた。そこにはキッチンに備え付けられた時計が有る。時刻は十一時半を指していた。
「……そろそろ私は帰らなくちゃ」
彼女はそう言い、しかし何かに思い当たったのか慌てて付け加えた。
「貴方が今日自宅に居るか解らなかったから、ママに昼は帰って来ないと言ってないのよ。突然貴方の家の電話や
「ああ、君がそう言うのであれば、それが良いだろう」
僕は頷き、しかし彼女は迷うように僅かに俯いた。
そしてその後、意を決したように顔を上げて、少しばかり勢い良く言った。
「ねえ、ステファン。今度は私の家に来ない?」
「……君の家に?」
聞き返した僕に、彼女は頷く。
「貴方が来たのは、三年前の一度だけでしょ。貴方が本を読み漁っていた事を、今でも良く覚えているわ。というか、それしか印象が無いというのが正しいけれど」
「……嗚呼、そう言えばそうだったな」
まだハーマイオニー・グレンジャーが、僕にとっていけ好かない女の子で有った頃。
あの頃は、まだ非魔法族の知識の多くを知らないままに興味だけが先行し、しかし積極的に知識を習得する必要性も感じていなかった。故に、僕が彼女の父親の蔵書を読み漁っていたのは、要するに嫌がらせの類だった。
ただ、彼女は本の虫の気質を有しており、本を前に我慢するという事が苦痛であるのを理解していたが為に、その行動に微妙に不満そうな顔をしながらも、最初は共に寄り添って本を読むだけだった。
……そう、最初は。
「最終的に君が我慢出来なくなって、僕を再度外に叩き出したんだったか」
「……貴方が悪いのよ。私は確かに家にはマグルの本が一杯有るって言って誘ったけれども、まさかそれ以外に何も興味を持とうとしないとは思わなかったわ」
「……そうだな。僕もまあ、大概無礼なガキだった」
発端が嫌がらせだとしても、何だかんだ言って没頭してしまったのは、僕もまた本の虫だったという事だ。知識を得る事については、本能的に貪欲だった。
しかしながら、今ならば解る。
ハーマイオニー・グレンジャーは、友人らしい事をしたかったのだと。
ただ、御互いに早過ぎたのだ。彼女は幻想が先行し、僕はまだ過去を見ていた。どう考えたとしても、上手く行きようも無い。……少なくとも、あの時は。
「私はグリフィンドールの三年間で、友人という物がどういう事なのかは理解したわ。スリザリンの貴方はどう?」
「……まあ、三年前よりは上手くやれる自信はある」
牽制するような瞳に、僕は苦笑しながら答える。
そして、それは一応正解だったらしく、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ決まりね」
それは別に構わないのだが。
「また明日、とでも言うつもりか?」
その言葉に揶揄の響きを含ませなかった訳では無い。
そしてそれは確かに伝わったらしく、彼女は頬を少し赤く染めて俯いた。そして反論する声も、やはり先程よりも小さかった。
「……そんな事は言わないわ。昔とは違うわよ」
だから来週と、彼女は告げた。
「ママとパパも突然だとビックリする筈だから、日を改めた方が良いわ。そしてハリーやロンが女の子の家へと積極的に来たがる人間じゃないってのは、少し残念そうだったからね。歓迎してくれるわよ」
「……それは解ってるさ。三年前も、君の両親は、君と同じく親切だった」
とは言え、どの道同性の友人が来る訳でも無いというのは良いのだろうかと思わないでもないのだが。ただ、それもまたハーマイオニー・グレンジャーらしいのだろう。
「来週という事は、丁度七日後で良いんだな?」
「いえ、日曜日にしましょう。それで良い?」
僕は頷く。別に、用事など端から無いのだから。
「時間はお昼、一時半からにしましょう。朝からは用事が有るし、昼一杯を使える方が都合が良いわ。私の家は覚えてる?」
「……ああ、問題は無い」
彼女に連れられて行ったのは一度だけだ。
けれども、もう一度だけ、僕は彼女の家を訪れた事が有る。その時は彼女と共にでは無かった以上、外から見るだけで有ったのだが。
ただ、その事を知り得ない彼女は少し不安そうにしており、そして僕は苦笑した。
「そんなに心配ならば、住所を置いて行けば良いだろう。生憎、地図くらいは読める」
「そう言われてみればそうね。……魔法界に染まり過ぎなのかしら」
「寧ろ、非魔法族が番地やストリート名、ポストコードと言った煩雑な記号に支配され過ぎていると言えるだろう」
煙突飛行だと言葉を紡ぐだけで、
それを考えれば、非魔法族が面倒な事は否めない。ただ単純に、非魔法族がそのような管理方法を取らなければならない程に増えすぎているのだと言えば、そこまでなのだが。
僕がメモと
「……三年間使って居れば羽根ペンにも慣れたけど、やっぱりこっちの方が楽よね」
「どちらの世界にも、良い所と悪い所が有るというだけだろう。そしてそれは、単純な優劣を意味するものでは無い」
「そうね、その通りだわ」
僕にそれらを返しながら、彼女は笑う。
「じゃあ、来週日曜日。──待ってるわ、ステファン」
その後、僕と彼女は都合往復二度に渡り、それぞれの家を行き来した。
グレンジャー夫妻は、三年前の男の子を覚えていてくれたらしく、僕を温かく迎え入れてくれた。彼女の両親らしく、彼等は親切で、善良で、幸福そうだった。そして、それは確かな一つの愛の在り方で──そして母や僕の知らない物でも有るのだろう。
依然として、懸念は有った。
去年の事は、未だ完全に受け止め切れた訳では無い。
けれども、彼女と一緒に居れば、僕の悩みなど酷く些細な事のように思えて来た。彼女と会話するだけでは無い。ただ会話無く傍に居るだけで、僕はこれまで犯した失敗も、これから直面する選択の事も、忘れる事が出来た。あの期末試験以降、あれ程内容が頭に入らなかった読書も、今まで通りに行う事が出来た。
──段々と決意も固まっていくように思えた。
そうして八月末が近付いた頃、今週末からロナルド・ウィーズリーの家に行くのだという事で、その行き来は終わった。彼女はまた学期が明けてからね、と微笑みながら手を振って、僕もまた頷いて、彼女の家を後にした。
……そしてそれから約一週間が経った頃、僕は『日刊予言者新聞』のその記事を読んだ。
クィディッチワールドカップの決勝戦後、死喰い人の集団が〝マグル〟虐めを行い、しかし〝闇の印〟が打ち上げられた事により散り散りとなった事。そして、それは闇の帝王が失墜して以降の十三年間、一度も上がらなかった物である事を。
暗き時代の象徴が、再開の狼煙が上がった。
闇の帝王の召使いが逃げ出し、その復活の予言がなされてから、ほんの二カ月程しか経っていない中で、今までの膠着状態はいとも容易く破られてしまった。
──『選択の時が迫っている』。