グリフィンドールの女の子
図書館で本の山に埋もれている小さな女の子──ハーマイオニー・グレンジャーは、その表情からして、見るからに憔悴しているようだった。
僅か一カ月前、彼女の顔が輝いていた頃が、酷く遠く思える。
勿論、彼女が魔法界に対して飽いたとか、或いは失望したとかいうのではないだろう。寧ろ、スリザリンとグリフィンドールの合同授業の風景を見る限り、彼女はそちらの方面については充実しきっているようだった。
だからこそ、彼女が酷く参っているのはそれ以外──非魔法族社会においても逃げられない、人間関係についてであった。
ホグワーツの一学年など、所詮は百五十人程度。加えて、全寮制の下に共同生活を強いられているともなれば、たった一か月の期間の経過、そして四寮に分断されている事を差し引いても、同級生の顔や名前を覚えるにはそれなりに長い時間だと言えた。特に、その人間が目立つ場合であれば猶更である。
そう、彼女はホグワーツ一年生の中で最も──無論、全ホグワーツ生が顔と名前を一致させられるであろう一人の例外的な生徒を除けばだが──目立っていた。既に一年生の中で彼女の名前を知らない者は居ないであろう。僕はそう確信すらしていたし、それは間違いなく広く同意を得られるに違いなかった。
何であれ、彼女は歯止めを利かせるのを忘れてしまった。
玩具を与えられた幼児のようだったと、そのように言い換える事も出来るだろう。彼女は元々好奇心旺盛で知識欲に満ち溢れていたが、実際に魔法界に飛び込んで余計にそれが酷くなってしまったに違いない。
そして何より悪かったのは、彼女の能力が余りに卓越し過ぎていた事である。
入学前に教科書を丸々暗記してしまう狂気を実現してしまうのは言わずもがな。そして更に質が悪い事に、彼女は純粋な意味での頭でっかちでは無かった。つまり、彼女は実技も出来た。正直な所、僕は彼女が理論だけのタイプで有ると思っていたのだが、彼女の類まれなる記憶力と聡明さは、僕の陳腐な予想を蹴っ飛ばす程に図抜けたものだったらしい。
結果として彼女は入学からたった一か月で、生徒どころか教師陣すらも疑わない学年一の秀才の地位を確立し──当然のように孤立した。
無論、彼女とてそれを座視していた訳では無いだろう。
どの時点で自身の立場の危うさに気付いたのかは別として、彼女も周りと
僕が見るに、彼女は余りにもレイブンクロー的だった。
知識や成績と言った面だけでは無く、その在り方がだ。つまりは、己の確たる世界観を内に持っていて、それを現実に展開するに際して他者の眼を余り気にしないという点だ。
グリフィンドールは目立ちたがり屋で自惚れ屋であるが、しかし同時に他者の眼を──すなわち、恰好付けたり、もしくは仲間の共感を求めたりと──気にする傾向を有するようであった。
しかし、ハーマイオニー・グレンジャーは違った。少なくとも彼女は、自身の知的好奇心と個人的達成感を充足する事が第一で、それは彼女自身が楽しいからやっているのであって、それが他者から承認されるか否かは二の次であった。そして、そうであれば、周りから浮いてしまうのも至極当然の話だった。
もっとも、僕はそれを彼女に指摘しなかったし、その気も無かった。
他人の事だから好き勝手言えるだけであり、僕とてスリザリンで上手くやっている訳では無かったのだ。寧ろ僕は、自身が、彼女に対して最もそのような事を言う資格が無いホグワーツ一年生の一人であると自負していた。
何より彼女とて、そんな解りきった事を指摘されたくはないだろう。解りきっていて尚、どうしようも無いというのが人間関係であり、対人能力なのだ。理解で解決出来るのであれば、既に世界から苛めや夫婦喧嘩、そして戦争という言葉は淘汰されているに違いない。
そもそもの話、僕には彼女に伝える機会など無かった。
何故なら僕は、ホグワーツに入って以来、彼女とただの一度も会話をしていないからだ。
スリザリンとグリフィンドール。
その両者の関係性は、僕の想像していた以上に──すなわち創始者の争いを引き摺っている以上に──悪い事を、スリザリンに入ってからたった一日で思い知った。
別に僕自身、純血主義自体に左程思う所は無い。無論、自分が〝そう〟では無いから良い気はしないが、サラザール・スリザリンの生きた当時にはそれが当然に必要とされた時代だっただろうという事くらいは理解出来るからだ。魔法族と非魔法族は分断されておらず、今よりももっと緊張的で、憎悪と流血に満ちたものだった。潜在的な敵に対して武器を与える愚かさを主張する理念は、その必要性どころか、有用性もまた肯定しえるものですらある。
だが、現在の二寮──厳密にはスリザリン以外の三寮とであるが──の対立の根は違う。
魔法族と非魔法族云々では無い。究極的に言えば、純血と非純血ですらも問題とならない。つまるところ、それら自体が問題であるという訳では無く、スリザリンを構成する根幹の思想群が死喰い人を生み出す土壌となり、尚且つ現在も
かつての戦争後、多くの
無論の事、親と子の罪は別である。だが、その死喰い人達に自分の親兄弟を殺された──それも死体がマトモな状態でない場合が多く、死体が無い事すら珍しくなかった──人間がそう理性的に割り切れるだろうか? そして、そんな中で、死喰い人であったが故に戦争当時安穏と暮らし、更には戦後何の罰も受けずにのうのうと暮らしている者達に対して、彼等が好意的に対応出来る筈が有るだろうか?
寧ろ、スリザリン以外の人間が、スリザリンに対して嫌悪と憎悪を剥き出しにするのは、人間として真っ当な感情の発露だとすら言えるだろう。魔法戦争において最も血を流したであろうグリフィンドールが殺意を抱いている事など、最早当然という他無い。
被害者
極論してしまえば、スリザリンとそれ以外はその関係性に尽き、であるからして、御互いが仲良しこよしになれないのは当然である。それどころか、今のように〝小競り合い〟で済んでいるのは非常に平和で可愛らしい状況だとすら評価出来る。
そう考えれば、ホグワーツという学び舎は善良に機能しており、またホグワーツ教授陣は上手く学生達を管理しきっているのかもしれない。何せ、学生間の抗争において死亡者が出る——非魔法族においても、大学において学生決闘(及びそれに伴う負傷者と死亡者)は珍しくなかったと聞く。何処の世界でも人間は同じであるという証左であろう——ような事は、少なくとも最近は無いらしいようであるから。
だからこそ、僕は入学以来、ハーマイオニー・グレンジャーと会話しようとするような愚行は犯そうとしなかった。
蛇蝎のように嫌われているスリザリン生と仲が良いグリフィンドール生というレッテル貼りを許し、更に彼女を取り巻く状況を悪化させるような真似はしたくなかったからだ。
……嗚呼、言い訳めいている事は否定しない。
彼女が一人で寂しそうにしている姿を見る度に、また何とか周りに話掛けながらも適当にあしらわれる姿を見る度に、自分の惨めさを感じない訳では無かった。
だが、僕は残念ながら、スリザリン生──いや、それも言い訳なのだ。
単純に、僕に勇気が無いだけに過ぎない。スリザリン寮における僕の生活は、決して良いものとは言えなかったが、さりとて想像した程に悪いものでは無かった。寧ろ、ある一人の人間が、洋服店で多少会話したからなどという余りに奇妙な理由に基づく好意を示してくれた事によって、非純血の割には良い位置に居るとも言えた。そして、僕はそれを手放したくは無かったのだ。ただの独善的な自己防衛で、自己保身に過ぎない。
だから、僕に出来る事は、彼女を遠巻きに見る事だけだった。
彼女を取り巻く状況が少しでも良くなりますようにと、そう祈る事ぐらいしか出来なかった。
合同授業の最中や、或いは今のように図書室の棚の隙間から、彼女に悟られないように覗き見るような真似が、どう考えても情けない事は理解している。けれども、彼女の姿を見る事は、色鮮やかであるとは言えない僕の学生生活の中で、ささやかな幸せを感じさせるものである事は、決して否定出来なかったのだった。無論、今この瞬間さえも。
ただ、そのような不埒な行いが何時までも続く筈も無く、そしてこの瞬間に終わる事は偶然であると共に必然では有ったと言えよう。
先程まで熱心に本へと目を落としていたハーマイオニー・グレンジャーは、何の気紛れか顔を上げた。そして、彼女から遥か離れた所に居た僕と、視線が合った。合って、しまった。
「──あ」
彼女は僅かに口を開き、僕は思わず視線を逸らした。
その反応を考えるに、今まで彼女は、しばしば僕から覗き見られていた事に気付いていなかったのかも知れない。それは救いでも有ったが、しかし意味の無いものでもあった。何故なら、彼女は今それに気付いてしまったのだから。
暫くの間、僕は本棚の中から本を探す振りをし続けた。
それが余りにわざとらしいものであると理解していても、建前を繕う事を止められはしなかった。
数十秒か、もしくは数分か。それだけの時間が経って、中身をロクに確認出来てもいない
彼女の表情は、何とも表現しがたいものであった。
色々な感情が入り混じっていて、結果として無色になっているような表情。当然そこから彼女の考えを読み取る事など出来はしない。そのような表情は、僕が知るハーマイオニー・グレンジャーのいずれのものとも違い、しかし、彼女の素の表情であるようにも思えた。
そして、僕には彼女がどうして欲しいか、解った気がした。
それと共に、自分が今、一体何をすべきかという事も。
僕は周りを見渡した。都合の悪い事に、そう、余りに都合の悪い事に、付近の席は大半が埋まっており、彼女が座っている机には、本の山以外に誰も居なかった。もしかしたら、入学一か月で既に図書室に入り浸っている小さな〝本の虫〟には、上級生であっても近寄りがたいのかも知れない。
だから僕は、努めて平静を装って彼女に近づき、彼女の斜め前の席に座った。
彼女は既に視線を本へと戻していたが、それが拒絶を示すものでは無い事は何となく解った。
言葉を切り出したのは、彼女が先だった。
「……ええと、元気?」
「……ああ」
ちらりと彼女の方を見れば、彼女は本に視線を落としたままだった。
それが周りから会話している事が悟られない為である事は明らかであり、また彼女もグリフィンドールとスリザリンの確執を良く承知している事も歴然としていた。そして、彼女が僕に対して今まで声を掛けようとしなかったのが、僕と全く同じ理由であるという事さえも。
二寮の生徒が、一緒の席に座っている事自体目立つのでは無いか。そんな正論は、意識的に頭の隅へと追いやった。
「ねえ、ステファン」
「……何だ、ハーマイオニー」
「──私達、同じ寮だったら良かったのにね」
しみじみと、彼女は呟くように言った。
嬉しい言葉だった。だが、それ以上に言葉に含まれた悲しい響きが、僕の心を喜びに満たす事を止めた。
「あの一か月が遠い事のように思えるわ。グリフィンドール、スリザリン、レイブンクロー、ハッフルパフ。その四寮に組分けされる方法、寮の場所、部屋や談話室の装飾、そしてそこで送るホグワーツでの生活。あの時は、これから素晴らしい毎日が待っていると信じてた」
確かに、あの日々は疑う余地も無く輝いていた。
だが、現実は得てしてこんなものなのかもしれない。
手に入れていない物は美しく、しかし一度手に入れてしまったものは色褪せて見える。
「……君は、今ではもう、素晴らしい毎日が待っていると思えないのか?」
「……いいえ。魔法界での生活は、刺激的で、退屈しないもので有る事は間違いないもの。今だって、その気持ちに嘘は無いわ」
そんな気丈とも取れる言葉の内容自体に、確かに嘘は無いのだろう。
しかし、その弱々しさこそが、彼女の本音を物語っていた。
無論、それを指摘出来る程に僕は無神経な強さを持ってはおらず、だから聞かなかった振りをして、一つ前の彼女の言葉に答えた。
「……同じ寮か。それはどう足掻いても叶いそうには無かったな」
「あら、貴方はグリフィンドールへの組分けは勧められなかったの? 確かに、貴方がグリフィンドール的であるという気はしないけど、その要素は持ち合わせて居ると思うけど」
「いいや。これっぽっちも勧められなかった」
事実上拒絶された、とまでは言わなかった。
そしてそれに気付かない彼女は、当然のように言った。
「それは多少意外だわ。でも、レイブンクローは勧められたんじゃない?」
「……まあ、そうだな」
「やっぱり。私は、てっきり貴方がレイブンクローに行くものだと思っていたもの」
「その可能性も有ったのかも知れない。だが、組分け帽子にとってはスリザリンが大本命だったみたいだ。あくまで僕が強く希望しているのならば、レイブンクローに組分けする事も吝かではない感じでも有ったが」
「あら、希望しなかったの? どうして? 入学前、貴方はあんなにもレイブンクローに行きたがってたのに」
「……気が変わっただけだ」
君が居ないからだ、とは言える筈も無い。
だから、軽く咳払いと共に誤魔化した。もっとも、彼女自身そこまで強い疑問を抱いたのでも無く、多少気になったから聞いた程度に過ぎなかったのだろう。過去——組分け時を思い返すように、少しばかりぼんやりした口調で言った。
「私は、グリフィンドールかレイブンクローだったわ」
「だろうね」
「失礼ね、と言いたい所だけど……まあ自分でも解ってるわ。私がレイブンクロー向きだって。多少憧れていたけど、私にグリフィンドール的精神が有るなんて自信が無かったもの」
「無意味な虚栄心に満ちていて、独善的で、自分勝手な精神を持ってるって事か?」
「今度は怒るわよ」
口調は尖っていたが、その内には隠し切れない笑みがあった。
けれども、それは一瞬。彼女の元気は、萎むように消えてしまった。
「……でも、本当なのよ。私だって、皆と仲良くしたいわ。けど、私は思わず無神経な事を言ってしまうし、少しばかり空気が読めないのも事実だもの。ホグワーツに来る前もそうだった。ずっとそう言われてきた。だから、自分を変えたかったんだけど——」
——失敗した。そういう事なのだろう。
同時に、組分け帽子が彼女をグリフィンドールに入れた理由も解った気がした。
彼女は選択肢を与えられ、そして選択した。
彼女が今言葉にしなくても、それ以上の事——あの長過ぎる組分け帽子の悩みの中で紡がれた、彼女の万感の想いと言葉が存在したに違いなかった。ただ単に好きな女の子と一緒に居たいというだけで寮を選択しようとした何処の馬鹿野郎と違い、自身の未来と展望を見据え、確固たる意志と理念と希望を胸に抱いて、彼女は組分け帽子との対話を行ったのは間違いなかった。
無論、彼女に他の資質が存在しなければ組分けされる事もなかっただろうが、しかしそれでも最後の決定打は間違いなくそこに有った。そして、それこそが正しく〝グリフィンドール〟——僕が決して持ち得ず、当然に組分け帽子が見透かしていたモノは明らかだった。
……そして彼女は今、それを、自身を疑おうとしている。
「やっぱり、私はレイブンクローに——」
「——君は、やっぱりグリフィンドールで上手くやっていけると思う」
落ち込む彼女を励ます気持ちは有った。
だが、揺ぎ無い本心と共に、確信を持って言った。
何時の間にか、御互いに本から視線を上げていた。彼女の瞳が僕を真っ直ぐと見て、僕の瞳もまた彼女を真っ直ぐと見ていた。既に、周りの事など頭から飛んでいた。ただ、この不器用な彼女に、想いを伝えたかった。
「君は確かに無神経な所が有る」
彼女は否定しなかった。
「君は思った事を感情のままに、口にしてしまう所が有る。自分の知識や考えを絶対視し、他人に押し付けてしまいがちな所が有る。一度思い込んでしまったら最後、視野狭窄に陥り、他人に言われても直す事が出来ない頑迷な所が有る」
彼女は否定しなかった。
「でも」
でも。
「君は何にでも一生懸命で、間違いを見過ごせない人である事を知っている。君は、誰かの救いになる事が出来る、強い人だという事を知っている。君は聡明で、気高く、優しく思い遣りが有って、素晴らしく魅力的な女性である事を――僕は間違いなく知っている」
僕にとって、ハーマイオニー・グレンジャーは、そんな女の子だった。
第一印象は最悪だった。
だが、そうであっても、少なくとも僕は彼女に好意を抱いている。恋愛的な意味を有してはいても、友情的な意味も併存しているのは確かだった。深く付き合うにつれ、僕はハーマイオニー・グレンジャーという女性の良さを当然に理解する事が出来た。
ならば、どうしてグリフィンドールの人間が——騎士道精神に溢れ、高潔たらんと欲する者達が、それを理解されないままに居る事が出来ようか。
「確かに今は上手く行っていないかもしれない。でも、今はたかが七年の百分の一程度が終わったに過ぎないだろう? 君が素敵な人間である事に変わりはない。だから、グリフィンドールの人間だって、君の良さを理解してくれる日が——」
「…………良くもまあ、面と向かって言えるわね」
途中で途切れた僕の言葉から身を護るように、彼女は分厚い本を持ち上げて顔を隠した。
それは、僕にとっても助かった。言葉を費やしている内に、自分が一体何を口走っているかを自覚する程度には冷静になれたからだ。無論、鼓動は冷静とは言い難かったが。
けれども、恐らくそれは御互い様であり、それを保証するかのように彼女は言った。
「でも、貴方もスリザリンで上手くやっていけると思うわ」
本の向こう側からポツリと零すように、しかし迷いなく言葉を紡ぐ。
「貴方は強い人だわ。そして、確固たる知識の下に、断固とした決意を出来る人。確かに私は貴方の生まれを知っているけれど、それでも貴方がスリザリン的偉大さを持っている事は何ら否定出来ない。寧ろ、サラザール・スリザリンは貴方のような人を求めたので有って欲しいと思ってる」
そして、と彼女は続けた。
「何より、私と違って貴方の学生生活は確約されているとも言えないかしら。ほら、組分け帽子も言ってたでしょ。スリザリンでは君は真の友を──」
その言葉尻が段々と小さくすぼんでいったのは、彼女的には模範的スリザリン生を決して友としたくないと感じたからだろう。
もっとも、僕も面と向かって否定はしまい。グリフィンドールが悪し様に言う程スリザリンが邪悪だと思わなかったが、さりとて心を開いて友となれるとも思えなかった。
ただ、彼女の言わんとした事は十分に伝わった。
「……まあ、貴方にもスリザリンに入って良かったと思える時が来るわ」
多少早口に何とかそう言っ切って、彼女は言葉を結ぶ。
相変わらず本に隠されて、彼女の表情は見えない。けれども、それでも彼女の表情は、目に浮かぶようだった。あの一か月の間に散々見た、不器用な優しさに満ちた——僕が彼女に惹かれた表情の筈だった。
そして、それを思うと限界だった。
「有難う。少しだけど、話せて良かった」
囁くようにそう言って、僕は立ち上がった。
名残惜しくは有った。だが、これ以上は留まる事など出来なかった。
図書室全ての人間が、こちらを意識しているようにも思えた。もっとも、それは思い上がりなのかも知れない。けれども、それが真実だと思えるくらいには、僕の顔は熱かった。
ただ、一番熱いように感じたのは、自身の背中だった。けれども、その発生源を振り返って確認する事はしなかった。
「……私もそうよ。また、話しましょう」
そう聞こえたのは、僕の幻聴では無かった筈だ。
何にせよ、僕は踵を返したまま彼女の下を立ち去った。
二寮の断絶。一か月の空白。
それが無かったかのように、僕達は再度言葉を交わす事が出来た。
それは負け犬同士の傷の舐め合いめいたもので有ったにしろ、僕は彼女との繋がりを確かめる事が出来た。彼女も僕に対して好意を——僕が抱くのと同種でない事を理解する程度の理性は有ったが——抱いている事を確認する事が出来たのだ。僕にとって、ホグワーツに入学して以来の最良の日だったと言えよう。
……もっとも、次の機会というのは、中々訪れなかった。
御互いに暗黙の了解というのは有った。
つまり、周りに気付かれてはならないという事だ。
依然として、御互いが御互いの立場を壊すつもりは無かった。正確に言えば、彼女の方はどうか知らない。けれども、少なくとも僕の方は、やはり彼女に対して〝スリザリン生と仲が良い〟などという汚名を着せるつもりは抱けなかった。それが僕にとって、酷くじれったく思える事柄で有ったとしても、だ。
しかし、先の時のように御誂え向きに図書室の他の机が埋まっている場合などそうそう無かったし、仮にその場合でも彼女の机に他の人間が座っている場合というのも少なくなかった。つまり、自然と二人で会話出来る機会は無かったのだ。
付け加えれば、それ以外の場所で彼女を捕まえるというのも現実的では無かった。
スリザリン生がグリフィンドール生を連れ出す? 如何にそれが浮いている生徒で有っても、そんな〝決闘〟の誘いを騎士道精神に満ちた彼等が見逃す筈も無い。……まあ、後から考えれば、それは彼女を溶け込ませる為の良い手段かも知れなかったのだが。
そして何より。
彼女にとって大きな転機となる事件が起こる方が、圧倒的に早かった。
「トロールが……地下室に……!」
ハロウィンの夜。
闇の魔術に対する防衛術教授が、そう言って倒れた。
もっとも、その時点において、僕は他の生徒と同じ程度の恐慌にしか陥らなかった。
トロールという種族を見た事は無かったし、M.O.M分類においてXXXXなどという細かい知識など記憶の片隅にすら無かったが、対処を誤れば大人でも返り討ちに会う程度には強力であるという常識は有った。だからこそ、当然の帰結としてそれに挑むような野心など抱きはしなかったし、監督生の引率に従ってスリザリン寮へと戻るという有り触れた選択をした。
……嗚呼、迂遠な言い方はすまい。
僕はハーマイオニー・グレンジャーがハロウィンのパーティーに居ない事に気付きはしても、既に授業から泣いて逃げ出していたなど考えもしなかった。
まして彼女がトロールに関わる事になるとは夢にも思わなかった。
事の顛末を知ったのは、全てが終わってからだった。
その不用意さに眉を顰めた者が皆無であった訳では無い。死人が出たとしても可笑しくは無かった。寧ろ、それに遭遇した者達の年齢を考えれば、そうならなかった事こそが奇跡とすら言える。スリザリン生の内では、半ば嘲笑すら——加点された事を知っていて尚——沸き上がったものだ。死にたがりな英雄願望のグリフィンドールらしいと。
しかし何にせよ、生き残った男の子は、まさしく英雄らしい特別性を見せた。
無論、僕にとってそれ自体はどうでも良い事だ。
僕にとって一番の関心事であったのは、その〝冒険〟を契機として、ハーマイオニー・グレンジャーは彼の最も親しい友人となったという事だ。そして、頭でっかちだと信じ込まれていた彼女が、
彼女は、孤独では無くなった。
僕は、彼女の唯一の理解者などでは無くなった。
事件の後、それまではあれ程機会が無かったにも拘わらず、ハーマイオニー・グレンジャーと会話する〝偶然〟は直ぐに訪れた。その時には、既に彼女は憔悴した女の子では無かった。輝く学生生活を謳歌する、一人の快活な女の子だった。
彼女は様々な事を話してくれた。英雄ハリー・ポッターの事、もう一人の友人ロナルド・ウィーズリーの事。その他の、多少仲良くなれた女生徒達の事。マダム・ピンスに見咎められないよう囁くような、しかし弾みを隠し切れない声で、彼女は自身の輝かしき日々の事について明かしてくれた。
それは喜ばしい事だった。その気持ちに嘘偽りは無い。
だが、それと同時に、僕はまざまざと実感したのだ。
嗚呼、そうだ。僕は、組分けの結果を真の意味で受け容れていなかったのかも知れない。けれども、二か月経って漸く受け容れた。受け容れざるを得なかった。
彼女はグリフィンドールで、僕はスリザリンだと。
・リリー・エバンズの勇気ある交流
第一次魔法戦争(1971~1981.10.31)。
ホグワーツ在学(1971~1978)。
セブルス・スネイプとの友好(1969年頃~1976年のO.W.Lまで)。
・Protection from Harassment
施行は1997年。
その立役者となったNational Association for Victims of Stalking and Harassmentが立ち上げられたのが1993年らしい。
それまでは郵便・電話等のみアウトだったようである。