この身はただ一人の穢れた血の為に   作:大きな庭

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闇の魔術に対する防衛術教授

 クィリナス・クィレル講師。

 闇の魔術に対する防衛術講義担当。

 

 彼の授業の評判というのは、決して芳しいものでは無い。

 

 噂によれば、彼は旅行だか研究だかの後遺症によりマトモさを喪ったらしい。

 大蒜臭に塗れた教室の中で、視線は生徒どころか中空を行ったりきたりして、ずっとそわそわと歩き周りながらも生徒には全く近寄ろうとせず、朗読はどもり混じりな上、何かに怯えて頻繁に悲鳴を上げる為に聴きづらくて――それらを無視したとしても精々普通程度の内容の授業であった。

 彼の授業は魔法省の指針に()()()則った至極標準的な物であり、独創性も活動体験も無く、生徒にとって刺激的なものでなかった。

 

 それでも彼の授業がボイコットされないのは、その悲劇に対する多少の同情と、それらが問題とならないレポート課題の存在により辛うじて授業の秩序が保たれているからだろう。ただ、実技が増えるであろう上級生においては一体どうやって授業を成立させているのか気になる所である。あくまで単なる興味であり、調べようとする気にはならなかったが。

 

 もっとも、ホグワーツの教育について期待しない方が心の平安が保たれるというのは、とうの昔に身に染みていた。

 この闇の魔術に対する防衛術は勿論、睡眠学習の時間と化している魔法史学に加え、魔法薬学もまあ、スリザリン以外にとってはそうだろう。

 一年の必須科目の内半分近くがどうかしているというのは異常にも思えるのだが──それは僕が非魔法族の教育の方に幻想を抱き過ぎているのかも知れない。隣の芝は青く見えるというものだ。

 

 そして少なくともこの闇の魔術に対する防衛術に関しては、僕は授業が散々だろうが台無しだろうが構わなかった。

 クィリナス・クィレル講師は十一、二歳の子供達に対して酷く過保護なのか杖を一切振ろうとしなかったし、ただ理論の授業に終始していた。そして、それらの座学は、僕が得意とする方だった。つまるところ、僕が不得手とするのは記憶でどうこうならない実技であり、僕は寧ろそちらの対応を常に迫られた。まあ()()()()に対する防衛術については元々知識に溢れていたというのも、理由の一つでは有ったのだが。

 

 ともあれ僕がハーマイオニー・グレンジャーで無い以上、変身術や呪文学といった授業については熱を入れる必要があり、何とか着いていく必要が有ったのだが、その点では、自身がスリザリン寮に所属したのは幸運だった。

 

 純血と伝統は、それだけのノウハウを蓄積している。

 言葉を飾らなければ、入学前の貯金によるスタートダッシュで自惚れたお坊っちゃま達を、最低限落第生にしない為の鉄のシステムというべきか。流石に千年の間連綿と続いているとは言えなかったが、数十年分程度ならば自学自習の方法論や呪文を使用する要領、改善法など容易に集まった。

 

 これは間違いなくレイブンクローに所属していては叶いようも無かった筈である。彼等は個人主義であり、それ以上に自分の興味の方向のみに特化し過ぎだった。彼等の叡智が高みに有る事は少なくなかったが、万人に共有出来る性質でない場合もまた多かった。

 

 まして、大半のスリザリン監督生も、その分野においては半純血にすら協力的だった。

 

 彼等にとって、寮杯を獲得出来るか否かというのは、最大のとまでは言えなくとも、関心として少なくないウェイトを占めていた。自身が何年度の監督生であるかに加えて、ささやかな栄光を社交の世界に添えられるのなら、それは当然に歓迎すべきだった。優等生に自分の時間を十分程度割いてやる位は、何ら面倒な事でも無い。まして、六年連続で寮杯獲得中となれば余計にだ。

 

 そういう訳で、僕はスリザリンの叡智の集積を甘受する事に熱心だった。

 そしてそれは外部的には真面目に見えるのは事実だった。たとえ闇の魔術に対する授業を一切聞いていなかったとしても、クィリナス・クィレル講師が生徒に全く注意を払っていないように見えても、客観的に見れば、僕は他の生徒達と違って完璧な〝生徒〟だった。

 

 

 ──嗚呼、それなのに、どうしてその事が興味を惹くと予測出来ようか。

 

 

 期末試験を数日後に控えた頃、授業後にクィリナス・クィレル講師は言った。

 

「す、少し残って、い、頂けますか。た、多少貴方と、お、お話がしたいのです」

 

 彼の言葉を聞ける範囲に居たスリザリン生が驚愕の眼で僕を見るも、それに対して応える事は出来なかった。講師が自ら生徒に声を掛けるなどという珍事を引き起こす心当たりなど無かったからだ。

 真面目な生徒だと取り繕っているつもりはあったし、仮に実体が不真面目な生徒で有る事がバレていたとしても、そのような生徒などドラコ・マルフォイを筆頭に掃いて捨てる程居た。しかし、彼は僕を指名した。

 

 そして結論だけ言えば、僕は断れなかった。

 それが〝教授〟に対する生徒の行動としては、明らかに不審だったからだ。

 

 

 

 生徒の大半が出て行っても、立ち込める大蒜臭は出て行ってくれなかった。

 そしてそれ以上に、この教室は魔法薬学とは別種の意味で陰気だった。息苦しいとでも言うのだろうか。魔法薬学においてその陰気さを増幅しているのは我等が寮監だったが、この教室はそれとは全く異なるように思えていた。大勢の意見は大蒜臭が原因だろうと言っていたが、僕は、この凍えるような生温さは、この世の物では無いように思われたのだ。

 勿論、ドラコ・マルフォイは僕を馬鹿にしていた。

 

「ええと、何の御用でしょうか」

 

 僕の問いに、クィリナス・クィレル講師はすぐに答えなかった。

 うろつきはしないまでも、そわそわと身体を揺らす。そして視線を僕と入口との間で数度往復し、間違いなく誰も入ってくる様子が無い事を確信したような後、漸く口を開いた。

 

「え、ええと。せ、先日のレポート、見事でしたよ」

 

 それは明らかに社交辞令的な話の切り出し方だった。

 

 そして、生憎僕はそのレポートの内容を覚えていない。

 試験が近いにも関わらず、終わった事について一々拘ってはいられなかった。まして、一番興味が薄くどうにでもなりそうな科目であるなら猶更だ。

 もっとも、確かな事が有った。

 

「それは嬉しい事ですが、しかし僕が特別優秀という訳では無いでしょう? このクラスには、恐らく僕よりも出来ている人間が居た筈だ」

 

 確か、その筈だった。

 常にでは無いが、ドラコ・マルフォイの方の完成度を上げる事が殆どだった。

 流石の彼も試験前には勉強をせざるを得ないらしく、間接的にしか試験に関係しないレポート作業をぶん投げた上で、出題されそうな部分はピックアップしろという無茶苦茶を言っていたが、まあその恨みをささやかに晴らしたのは確かこの科目では無かった筈だ。

 

 そして、講師は嬉しそうに頷いた。

 

「え、ええ。ドラコ・マルフォイ君のも、よ、良く出来ていました。常に、出来ています。い、いつも、き、君のと同一人物が書いたような事を除けばですが」

「…………」

「が、合衆国――新大陸の方では、研究の公平性の意識が、昨今、た、高まっていましてね。も、勿論、この国でもそうです。た、確かに教授というのは学生がそれらの行為をしがちだと理解していますし、た、大抵の場合、経験をもって、み、見極められます。し、しかしそれは、個人のノウハウ以上の物では有りません。多くの魔法族は、じ、自分の経験を絶対視し、そ、〝外〟から体系化された理論を学ばない」

 

 僕は何も答えなかったが、クィリナス・クィレル()()もまた答えを求めて居なかった。

 

 闇の魔術に対する防衛術教授。

 そう、教授(Professor)だ。どんな意図があれ、彼は教える資質が有るのだと認められた。

 ホグワーツにおいてはO.W.LとN.E.W.T、その二つの大試験が有る。如何に校長に選任権が有ると言っても、果たしてそれらの落第生を任命出来る程に軽い地位だろうか。

 

 いや、その可能性は否定出来ない。あの校長ならば、どんな事でもやりかねない。非魔法界のように教授という地位に就くプロセスが確立していないのを悪用して、それらの落第生、或いはそもそもそれらを受講していない者すら教授にするかもしれない。

 

 しかし今明らかなのは、彼は少なくとも、闇の魔術に対する防衛術教授である前はマグル学()()であったという事だった。

 

 そして、彼は恐らく本題を問うた。

 

「――き、君の学生生活は、の、望ましいものなのかな?」

 

 寮監のみが、授業外において学生を指導する権限を有する訳では無い。

 彼が〝教授〟である以上、当然に加点と減点の権限を持ち、必然的に生徒を従わせる権威を有していた。だが、授業に直接関係ない分野についてまで、科目を担当する教授が関心を持つというのは、余程親しい関係で無い限り稀であるといえた。

 

 故に、それは余りにも唐突で、領分を逸脱した質問だった。

 けれども、唖然とする僕を後目に、彼は熱意を宿して捲し立てた。

 

「あ、貴方は熱心だ。ち、知識に貪欲だ。そして、じ、十分な能力も有る。し、しかし、君は学友に認められていない。その価値を、不当に貶められている。そ、それは酷く寂しい物では無いのかと、そ、そう思ったのです」

 

 クィリナス・クィレル教授は、立ったままだった。

 彼は大人であり、僕よりも視線が高かった。だがそれでも、彼は僕を見上げているように思えた。

 

「わ、私には理解出来ない。あ、貴方は何故そこまで強く在れるのです? あ、貴方は嘲笑されている。ち、中傷されている。ひ、冷ややかに見られている。なのに、それで良いと思っている。

 あ、貴方は、自身を他の人間に認めさせてやりたいと──そう思わないんですか?」

 

 ……どういう意図を持っているのか解らない。

 ただそれでも明らかな事が有った。

 

 彼にとって、僕は異常だった。異質だった。異端だった。

 スリザリンの中に異分子として在りながら、しかし決定的に排除される事は無く、ある種の安定的な地位を有している僕が。彼の()()からは全く理解出来なかった。

 

 だからこそ、彼は答えを求めた。

 既にホグワーツに居られなくなった者から、今そこに居る者に対して。

 

 間違いなく、救いを求めていたのだ。

 

「貴方は──」

 

 僕は逡巡した。

 だが、言い切った。

 

「──他から認められたかったのですか?」

 

 教授は、その殻を捨て去ったクィリナス・クィレル個人は答えた。

 

「私は認められたかった」

 

 その言葉からは、どもりが消えていた。

 彼の瞳は、今や濁っていなかった。その瞳には傲岸と、自尊と、理性の光が有った。

 

「ヴォルデモート卿」

 

 ……その瞬間、僕に驚きが無かったとは言えない。

 その名前を呼べるのは、この学校でただ二人だけの筈だった。

 恐らく、あのミネルバ・マクゴナガル教授、或いはフィリウス・フィットウィック教授すらも、それを平然と口にする事は出来ない筈だった。だから、僕はこの瞬間まで、ただ二人の前以外でそれを聞く事は無いであろうと、半ば確信していたのだった。

 

 しかし、それは間違いだった。

 

「彼を討ち滅ぼそうとした者は多くいた。家族愛、隣人愛、名誉や金銭欲。一般に純粋で美しいとされるものから、不純で穢らしい動機まで様々だ。だが、ヴォルデモート卿を討ち破った者は一人として居ない。あのアルバス・ダンブルドアですら、それは例外で無かった」

「……アルバス・ダンブルドアは、負けても居ないと思いますが」

「ならば、彼に聞いてみる事だ。()()()の魔法戦争で、貴方は勝ったのかと。頼りにならない魔法省に代わり、彼は不死鳥の騎士団──ヴォルデモート卿への抵抗組織を率いていたのだから」

「…………」

 

 何となく、あの老人は敗北したのだと答える気がした。

 

「お前が意識してかどうか知らないが、ハリー・ポッターの名前を出さなかったな」

 

 教授は酷薄な感心と共に僕を見ながら、口を不格好に歪ませて邪悪に笑う。

 

「その事は正しい。ヴォルデモート卿が消えたハロウィンの夜。何が起こったのか誰も知らなかった。死喰い人ですら混乱していた。最初、〝生き残った男の子〟──つい一年ばかり前に生まれた赤子がヴォルデモート卿を退けたのだと聞いて、一体誰が信じたと思う? それが大嘘では無い証拠は? 紆余曲折有って、結果的に今はそれが常識になっているが」

「……ハリー・ポッターは、闇の帝王を退けていないと?」

「そうは言っていない。それは厳然たる事実だろう。闇の帝王は、どんなに挑発や侮蔑をされようとも、その後決して姿を現す事は無かったのだから。しかし、疑問に思うのが当然の筈だ。ヴォルデモート卿は本当に死んだのかと。ハリー・ポッターは本当に勝ったのかと。

 ──闇は、本当に晴れたのかと」

 

 部屋に立ち込める大蒜臭。

 その中で微かに、しかし腐敗臭を感じ取れたような気がした。

 

「私はハリー・ポッターが勝ってはいないと判断した」

「……それが貴方にとって、何か意味が?」

「無かったのだろうな。結局、闇に抵抗しようとした愚行の代償を支払ったのだから」

 

 教授は頭の後ろに手をやり、ターバンに触れた。

 

「──私の授業の評判はどうかね?」

 

 話が飛んだ。

 そう感じたが、しかしその強い眼差しは、本筋から何ら外れていないのだと言っていた。

 

「……まあ、良くないですよ。教えようとするだけマシというレベルですかね」

「だろうな」

 

 正直に答えた僕に、教授は微かに歯を剥き出しながら笑った。

 

「だが、闇の魔術に対する防衛術の教師として私程に相応しい者は居ないと、この教職に就いて以来、私は常々自負しているのだよ」

「何故」

「闇に抵抗しようとした末路を、この身が示しているから」

「────」

 

 ルーマニアだったかアルバニアだったかの吸血鬼によって酷い目に遭わされた。

 クィリナス・クィレル教授がそのような悲劇に遭った事は周知の事実だった。けれども生徒はそれを知りながら──彼をどもりの取るに足りない教師だと笑っている。

 

「言っただろう、ヴォルデモート卿を討ち破ろうとした者は多く、しかし誰も為し得なかったのだと。そして残ったのは死体の山だ。アルバス・ダンブルドアの配下であろうと多くが死んだ。つまるところ──」

「闇を受け容れるべきであったと?」

「自分が闇を討ち破れると、そう驕るべきでは無いという事だ。力を有していない者──資格無き愚か者は立ち向かうべきではない。それを理解する事こそが、闇の魔術に対する防衛術である」

 

 ……言わんとする事は解る。

 アルバス・ダンブルドアの側に立とうと、ヴォルデモート卿の側に立とうと、死ぬ者は死に、壊れる者は壊れるという事なのだろう。それが闇に対抗するという事だ。

 逆に言えば──対抗しなければ、死ぬ事も壊れる事も無い。

 

「……逃げろという事ですか?」

「私のようになりたくないのであれば」

「しかし、戦わねばならない時も有る筈だ」

「そうだな。望まずとも杖を取らなければならない時は有る」

 

 教授は、僕の心にも無い優等生的な反論を、全く否定する気は無いようだった。

 

「特に、英雄気取りで自惚れ屋なグリフィンドールと異なり、狡猾卑劣で内向きなスリザリンはそれを強く意識するだろう。だが……どうにもならぬ事というのは有るのだ」

 

 その瞳に映っているのは、暗い絶望か。

 

「マグルの自動車は知っているかね? ……嗚呼、知っているなら話が早い。マグルの世界では、アレによって五千が死んだ。この島だけで、一年間のみでだぞ? 正気の沙汰では無い。しかし、彼等はそれに対抗する為に身体を鍛えようとしない。何故なら無駄だからだ」

「……彼等は魔法を使えないから。そのような魔法族的な回答は的外れなんでしょうね」

「我等とて魔法無しでは同じ事だろう。鉄の塊が高速で突っ込んで来て、耐えられる者など居ない。そして魔法有りだとしても、不意を突かれれば同じ事だ」

 

 この教授は、マグル学を教えていたという。

 正直な所、僕は彼がマトモにマグル学を教えられていたとは思っていなかった。

 何故なら、マトモに教えられていたのならば──つまり、グレートブリテン唯一の魔法学校の教育が功を奏していたのならば、この魔法界の非魔法族対策はもっと真っ当な物になっている筈だ。ウィーズリーに対して左程含む所は無いが、あの父親の程度の知識で──会った事は無いがマグル保護法を見ればその知識の程度は解る。それは彼等の父親の人格や善良さとは全く無関係だ──非魔法族との関係規制をやっているというのは論外だ。

 

 まあ一番論外なのは、その役職の重要性を一切理解していない魔法省自体だが。魔法戦争で非魔法族生まれが大殺戮されたと言っても、優秀な魔法使いが残ってない訳ではないだろう。しかし、それらの者を有効利用しようと考えもしないのは、省内においても余程純血主義が蔓延っているらしい。

 

 ともあれ、元マグル学教授としては眼前の存在を何ら信用していなかったが──しかし、今の言葉を聞く限り、それは明白な勘違いであるようであった。

 

「つまるところ、彼等は諦めている。その自動車の有用性を重視し、故意や過失によって轢殺され、顔も解らなくなる程に肉体を粉々にされる事を受け容れている」

「……闇によって殺される人間も、また魔法の有用性によるコストであると?」

「近しい物が有るとは思わないかね?」

「詭弁でしかないでしょう」

「かもしれないな。だが、私にとっては同じ事だ。どんなに備え、そして幾ら学び鍛えようとも、唐突に全てを奪われ、何ら無価値に擦り潰されてしまうという点においては」

 

 彼は闇への向き合い方について、こう言いたいのだろう。

 逃げろ。そして諦めろ、と。

 

「……ホグワーツに戻ってきて、羨ましく思える事も有る」

 

 元マグル学教授であり、現闇の魔術に対する防衛術教授。

 異質にして異色の経歴を持つ人間は、言葉通りの色を瞳に映しながら言う。

 

「君達は、魔法を信じている。闇を討ち破る側にしろ、光を呑み込もうとする側にしろ、そこに希望を見出している。自分達が家族と、恋人と、親友と、或いは己一人で笑い続ける為の力だと何ら疑っていない。しかし──」

「──貴方は信じられない」

「もはや魔法は私を救ってはくれない。言うまでもなく、ホグワーツも」

 

 悲劇に酔っている。そう切り捨てるのは容易いだろう。

 

 彼は既に、明白に闇の側だ。ハリー・ポッターに、或いはアルバス・ダンブルドアによって討ち滅ぼされるべき人間だ。それは疑う余地も無い。

 あの校長閣下が獅子身中の虫を放置する理由などどうだって良いが、しかしそれは放置されているだけであって、欺かれている訳では無いのだ。この教授の言葉を借りれば、彼は力無く資格無き愚か者で有り──闇の帝王では無いが故に──当然に、善にして偉大な魔法使いに敗北する事だろう。

 

 だが、彼は、そうされなければならない程の悪を為したのだろうか。

 したのかもしれない。僕は表面上の事を聞いたに過ぎない。巨悪に挑む過程、或いはその為の力を得る過程において、禁忌に触れた事が有るのかもしれない。

 

 けれども、彼の本来の人格が貪欲で、小狡く、意地悪く、そして醜悪極まりないという程度に過ぎないのであれば、それは滅ぶまでの業であると言えない筈だった。ただ認められたいが為に闇の魔術に手を出しただけならば、それが悪の魔術で無い以上、彼は未だに戻れる位置に居る筈だった。

 

 クィリナス・クィレルは、黙ったままで、それ以上何も言おうとしなかった。

 けれども、彼は依然として答えを待っていた。あのどもりながら告げられた言葉は間違いなく本心で、教授としてではなく生徒として、僕の答えを辛抱強く待ち続けていた。

 

 だが──彼に対して、僕は一体何と答えられようか。

 

 僕がホグワーツに通っているのは、それ以外の目的が無いからに過ぎない。僕は、他の子供と違って、栄光と栄達の為にこの学校に来た訳では無い。入学前にそれを喪った以上、ハーマイオニー・グレンジャーと少しでも近い場所に居ようと望み、結局それが叶わずに、単なる惰性として、今ここにいる。だから、彼と何ら共有できるものではない。

 

 それでも、彼の心からの求めに答える為には、何かを言わなければならなかった。それは解っていた。

 その適切な答えをどうにか探せないかと考える内に──ふと、視線を教授の机の上に向けた。

 

 乱雑に積みあげられた防衛術の本の合間。

 そこには、一本の杖が無造作に放り投げられていた。

 

 魔法族にとって、杖とは己の分身であり、何にも代えがたい友である。杖を買って以来、余程の事が無い限り、その身から離す事は無い。僕とてそうだ。不死鳥の羽を芯とする杉の杖を、今も持っている。しかし、教授はそうでは無かった。

 まさか、授業の間にわざわざ机に置く必要は無いし、その素振りを見た記憶も無かった。そもそも、僕はクィリナス・クィレル教授が杖を振る光景など、ただの一度も無かっ──

 

 

「────」

 

 

 そうして、己の愚かさを直視させられた。

 クィリナス・クィレル教授は確かに忠告した。

 力無き者、資格を持たぬ者は、闇に立ち向かうべきではないと。

 ならば、その闇とは何か。決まっている。アルバス・ダンブルドアは、意図せぬ者を城には招き入れないと言った。あの老人は、間違いなく僕に警告したのだ。そして、僕も理解していた筈だった。その筈で、真に理解してなどいなかった。

 

 僕は逃げるべきだったのだ。何を捨ててでも。

 教授に呼び止められた体面が有った? それが生存を勝ち取る為に一体何の意味が有る?

 

 力。資格。

 それを有する者は、この城に二人しか居ない。

 アルバス・ダンブルドア。ハリー・ポッター。

 

 そして──僕はそのいずれでも無い。

 

 クィリナス・クィレル教授の瞳は今や濁りきっていた。その中に、赤い蛇の焔がのたうち回っていた。

 今や立ちこめるのは大蒜臭では無く、腐り落ちた血と肉と死の臭いであった。ここは既に教室では無く狩場で有り、かつて誰よりも闇を邪悪の極みへと昇華した、煮える大釜の中だった。

 

 知らない。見たこともない。

 そもそも、彼は死んだという歴史的知識が有った。

 でも、そこに居るのが誰であるかを、今まさに死につつある僕は悟っていた。

 

 そうして、クィリナス・クィレル教授では無い誰かが、その身体を無理矢理に回して、僕の方に蛇の視線を向けようと──

 

 

「──ここに居たのか、レッドフィールド」

 

 

 声が、世界を打ち破った。

 

 スネイプ寮監だった。

 正直言って、寮監がどのように入って来たのか解らない。いや、彼は普通に入ってきた筈だ。中を外に晒すかのように、教室は開け放たれていた。先程まで酷く立ち込めていた大蒜臭が、外に流されるように薄れて行った。

 

 そして、どもりの教授は、スネイプ寮監に対して、歪んだ笑みを浮かべてみせていた。

 

「……あ、ああ、セブルス。()()()()()()()()()

 

 先程見た、蛇のような色は無い。怯えきった、卑屈な瞳だけがあった。

 もっとも、スネイプ寮監は一切気にした素振りを見せなかった。自分がこの部屋の主であるように完全に無視しきって、僕に対して冷淡な視線を寄越した。

 

「我輩は、授業が終わったらすぐ私の所に来るように、と伝えた筈だが? 物分かりの悪い愚か者で有っても理解出来るように、正確にだ。しかし、何時まで経っても君は我輩の下に来ない。我輩が時間を無駄にされる事を嫌っている事を君は知っている筈だが?」

「……すみませんでした」

 

 僕は素直に頭を下げる。

 その様子を暫しの間ねっとりと見つめた後、スネイプ寮監は、闇の魔術に対する防衛術教授へと向き直った。

 

「という訳で、レッドフィールドを連れて行きたいのだが、構わんかね?」

 

 言葉の内容は許可を求めて居るようで、しかし既に決定事項を伝えるような口調だった。

 もっとも、クィリナス・クィレル教授は逆らうつもりも無いらしい。先の言葉を繰り返すように、彼は微笑みながら言った。

 

「え、ええ。私が彼にすべき話というのは、も、もう終わりました。ち、ちょっとした授業の話を、し、してましてね。か、彼と話す事は、す、既に、あ、有りません。その生徒を、今すぐに私の前から連れ出して下さい」

 

 

 

 

 

 教室を出て、僕はスネイプ寮監の後を着いていく。

 彼は黒のローブを靡かせながら早足で歩いていて、こちらの方をまるで見ようとしない。十一歳の歩幅では半ば走るようになっている事を、全く気にしようとすらしない。

 

 そして、クィリナス・クィレル教授の教室から数階分離れた後、予備動作も無く突然クルリと振り返った。その右手には、杖が握られていた。

 

 言うまでもなく、僕に向けられていた。

 

「我輩が君に、何の用事で授業後に来いと言ったか覚えているかね?」

 

 立ち止まって尚息を切らしている僕が答えるべきは解っていた。

 

「いいえ。貴方が今日の闇の魔術に対する防衛術の後に自身の下を訪れるように言った事など有りませんし、付け加えれば今まで一度もそのような事は有りませんでした」

「成程、つまり君には先日の罰則の成果が出ていなかったようだ」

「ええ、()()()()()()はまだ受けて居ませんから。無論、貴方がこれから初めての罰則を課したいというのであれば、僕は何ら逆らう事は出来ませんが」

 

 スネイプ寮監の瞳が、僕の瞳をしっかりと覗き込む。

 その真偽を探るように──何か悪い物に取り憑かれていないかを見極めるように。

 二十秒程彼はそうしていたが、寮監なりに満足する結果が得られたのだろう。軽く鼻を鳴らした後、握っていた杖を僕から外し、ローブの中に仕舞った。

 

「我輩が、君に言う事は、何も無い」

 

 言葉を明確に区切りながら、力強くスネイプ寮監は断言した。

 

「だが、スリザリン生である君は理解している。そう期待して良いかね?」

「はい。大人二人を弄した事で良い気になった馬鹿な学生が、身の程知らずにも余計な首を突っ込もうとした事は理解しています」

「結構」

 

 彼はそう言い、ローブを翻した。

 

「では、我輩は行く」

 

 スネイプ寮監が何をしに来たのか。

 それは、彼の行動から余りにも明らかだった。

 クィリナス・クィレル教授は監視対象で──それと同時に、ステファン・レッドフィールドという、余計な事を知り過ぎている十一歳の子供は、大人にとっての庇護対象だった。

 

 しかし、僕は不興を買う事を承知で、寮監の背中に向かって言った。

 

「彼は紛れもなくホグワーツ()()でした」

 

 遠ざかっていく背中は何も答えなかった。

 

 

 

 その後、僕はクィリナス・クィレル教授から当然に距離を取った。

 いや、距離を取ったというのは正確ではないのかも知れない。

 

 彼は全てに怯えきっていて全く生徒に近付こうとしなかったし、生徒が近付こうとすれば逆に逃げていく有様だった。あの時の会話が嘘であるかのように、周りからあらゆる物を遠ざけ続け、何に対しても親密さを示す事は無かった。

 

 彼の授業は相変わらず酷いモノで、聞くに堪えなくて、真剣に聞いている学生など皆無で──最後の授業まで、そのどもりを笑われていた。

 

 

 

 

 

 そして、賢者の石は護られた。

 〝生き残った男の子〟が、それを成し遂げた。




・クィリナス・クィレルに関する言及
「クィレルのように、憎しみ、欲望、野望に満ちた者、ヴォルデモートと魂を分け合うような者は、そのために君に触れることが出来んのじゃ」
    ――アルバス・ダンブルドア(一巻・第十七章)
「若造で、愚かで、騙されやすいやつ」
    ――ヴォルデモート卿(四巻・第三十三章)
「凡庸な魔法使いの身体に入り込んでおられた」
「強欲で、『賢者の石』に値しない」
    ――セブルス・スネイプ(六巻・第二章)


・クィリナス・クィレルの杖
 その芯材は、闇の魔法に染まりづらいとされるユニコーンの毛。
 そして、一巻を読む限り、クィレルがハリーに対して杖を行使したと読めるような描写は無い。彼が死の呪いを唱えはじめたと、そうハリーが認識した瞬間ですらも「手を上げ」たのみである。

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