自宅へ戻った新堂とユイの生活が始まる。
庭先を見やり舌打ちする新堂。
「やれやれ!執行猶予付きの判決でも下りたみたいだよ」
「せんせい?しっこうゆうよって何?」
相変わらずクマを抱いたユイが、新堂を見上げる。
「何でもないよ。ところでそのクマ、持って来てしまったのか。いい加減返してやれ、別の買ってやるか……」
「いやっ!これがいいの!まなみちゃんくれるって言ったもん」
ユイが泣き出す。
「あああ~ん!せんせいがイジワルする~!」
「ああ、ああ!……分かったから泣くな!」
ユイの涙に弱い新堂であった。
「いつも以上に罪悪感が募るのはなぜだ?」
ユイの頭を撫でてやりながら呟く。
泣かせる事など日常であったはず。それはつまり医療行為の際にという意味だが。
「全くもってやりずらい!頼むから早く思い出してくれ?」
「クマ太郎くん、カワイイね~っ、大~好きっ」
いつの間にか涙はすっかり乾いて、クマに夢中だ。
親の心子知らず、とでもいうような光景はしばらく続く。
数週間が何事もなく過ぎた頃、新堂の携帯が鳴った。
『どうですか、その後ユイさんの記憶の方は』
降谷はストーカー被害についての質問はせず、ユイの事だけを尋ねる。
部下から逐一報告が来ているから、尋ねる必要がないのだ。
「バーボンさん、やはり警備の人達を帰らせてほしいんですが。何も起きませんよ」
煩わしさも限界に達していた新堂は、真っ先にこう訴えた。
『ユイさんの記憶、戻ってないんですよね?でしたら油断は禁物です』
「はあ……!」
肯定なのかため息なのか不明なものが返された。
しかしこのすぐ後に、ついに全てが動き出す。
午後三時を過ぎた頃、ユイはいつものようにリビングでクマと戯れていた。
その場に新堂はおらず、ユイがテーブルに乗っても叱る者はない。
「クマ太郎、この舞台から飛び降りてみて!いい?ユイがお手本見せてあげるね」
裸足のユイがテーブルからフローリングの床へとジャンプする。
派手に飛んだ割りに、思ったよりも静かな着地だ。
「よし、成功!音を立てちゃダメよ?せんせいに叱られるんだから。じゃあ次はクマ太郎の番ね」
きゃははっ!という楽し気なユイの声が、開け放たれた窓から漏れ聞こえている。
それはこの者達の耳にも届いていた。
敷地内の警備を任された黒スーツ姿の男達だ。表情一つ崩さず、周囲に鋭い視線を送っている。
「異状なし」
そしてユイのこんな姿を観察する人物がもう一人。
警備の者達よりも距離を置いた先の樹木の影に潜む、銀髪のロングを背に垂らした男。
顔にある痛々しい火傷の痕は、まだそれほど癒えていない。他にも全身の数か所に傷を負っていた。
「なぜ警備が付いてる?あれは……警察の人間か。一体誰が?俺が狙う事を想定しているというのか」
バカな、とジンは思う。
自分の動向は組織にさえ知らせていない。動向どころか生死さえも。
「まあいい。あんなのは何人いようが敵じゃない!」
警備の男達からユイへと視線を移す。
「あの女、頭でも打っておかしくなったか?これなら夜を待つ必要もないな」
ヘリに激突された部屋にいた人間が、無傷でいられるはずがない。敵も同様に手負いであるという事。そう判断したジン。
そうは言っても邪魔をされては敵わない。事前に警備を全滅させて心置きなく正面で仕留める。瞬時にこんな計画を立ててほくそ笑む。
「これまでの屈辱を晴らす時が、ようやく来たな」
ユイの姿を目で追いながら、勝利を確信した。
ジンが順調に警備の狙撃を開始した頃。
室内にいたユイが急にソワソワし始めた。
ちょうど様子を見にリビングに顔を出した新堂は、そんなユイの様子に首を傾げる。
「ユイ?どうした。トイレなら我慢せずに行け?」
問いかけても何も答えず表情は固い。
「なあ、具合でも悪いか?」
さらに近づいて顔を覗き込んでみれば、目が泳いでいる。仕舞いには新堂を無視してクマを床に置いたまま立ち上がった。
「やっぱりトイレか」
新堂が軽く息を吐いてそう呟いた時、ユイの頬に一筋の線が入り血が流れた。
その衝撃にユイは体勢を崩し、頬に手を当ててよろめく。
「っ!」
「おい、どうしたんだ?」
窓の外に鋭い目を向けてユイが叫ぶ。
「先生、伏せて!」
「何なんだ?」
「早く!」
ユイの声はこれまでの緩慢なものではなく、緊張感を伴った以前のユイのものだ。
「おまえ、もしかして記憶が……」
「先生はここにいて。絶対に外に出ないで!」
「あ……おい!」
ユイは自室にコルトを取りに走る。無造作に垂らした長い髪が薄いワンピースの背で揺れる。
新堂はただ呆然とそれを見守るしかない。
そして拳銃片手に裸足のまま外に飛び出して行った。
「ユイ……?と、呆けている場合じゃない、待て!」
外へ出ようとして先程のユイの言葉が過ぎる。
「絶対に外に出るな、か。警備もいるし、おまえが正気に戻ったなら俺の出番はないか」
新堂は気づいていない。警備はすでに全滅した事を。
一方のユイは、記憶は混乱中ながらも新堂を守る事だけに徹する。
「あれは誰なの?狙われてるのは私みたい……。とにかく別の場所に誘導しなきゃ、先生が巻き込まれる!」
外に出てみればスーツ姿の男達が倒れている。
「家に警備?全員やられてる……敵はなかなかのやり手みたいね」
コルトの残弾数を確認する。二発入っている。
「いつも一発しか入れてないんだけど……なんで?」
やはり状況は見えてこない。頭を整理したいが今は時間がない。
「とにかくあの敵を仕留めるのが先ね」
真昼間で視界は悪くない。敵はすぐに探し出せた。
裸足で丘をさらに上へと駆け上がる。その先は山になっているが、ここ一帯が私有地のため人の出入りはない。
「コソコソ隠れてないで出て来なさいよ!誰か知らないけど、どうせなら正々堂々と勝負しようじゃない?」
ユイの高らかな声に男の声が答えた。
「お前、頭変になったんじゃなかったのか。まさかさっきまでのは演技だったとか?」
姿を現した男の顔を見て、ユイはこれまでの事をハッキリと思い出した。
「あなたのお陰で元に戻ったわ。皮肉なものね」
「それは厄介だな。やはり確実に夜仕留めるべきだった」
「そうよ、この朝霧ユイを侮らないでくれる?」
「……相変わらず癪に障る女だ。今度こそ殺す!」
「それはこっちのセリフ!」
先手必勝とユイはジンの眉間に照準を合わせ、迷わず撃ち放つ。
「お互い本調子じゃないようだな」
あっさり弾を交わしたジンは口角を上げながら言う。
「くっ……避けられた」
実際いつものユイのキレある動きではなかった。
その時、二人の耳にパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
「チっ。あの医者が呼んだか。やはり先に殺しておくべきだった」
「先生は無関係よ!手を出したら許さないから!」
至近距離で銃口を向け合う。そして今度は同時に引き金が引かれた。
双方の弾は見事に中央で衝突。そして爆発した。
「っ……何て事っ、最後の弾なのに?」
「フっ!さすがやるじゃないか。今日のところは出直しだ。命拾いしたな。精々残り僅かな時間を楽しむ事だ」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
パトカーのサイレンはどんどん近づいている。もう数分もかからず到着するだろう。
気を取られている隙にジンの姿は見えなくなっていた。
「ああん、もう!こうしちゃいられない、早くコルト隠さないと」
ジンの追跡を諦め、慌てて家に引き返す。
玄関先で新堂が待ち構えていた。
「ユイ!無事か!」
「先生、警察呼んだのあなた?」
「いや。今度はちゃんと言いつけ守ったからな?」
「はいはい。偉いわ」
「それよりおまえ、記憶戻ったんだろう?」
「ええ。でもいろいろ混乱中」
「で、ストーカーは退治できたのか」
「ストーカー?」
「ユイに付き纏ってるヤツ、ストーカーだろ?」
「ああ……そうね。ええ、取りあえずは。また狙って来るでしょうけど」
「とにかくしばらくは安全なんだろ?中に入れ」
新堂に背を押されて部屋に戻る。
裸足だったためユイの足跡が床に着いた。
「まるで犬だな!」
「ごめんなさい、忘れてた……」
こんな一騒動の後だというのに、新堂の心はとても穏やかだ。ユイが記憶を取り戻したのだから。
上機嫌の新堂を前にユイは不思議がる。
「ねえ先生、さっきも今も、いつもなら怒るシーンだと思うんだけど……」
「ん?」
嫌な顔一つせずにユイの足と床を拭き上げている新堂。
「いえ、何でも……」
ユイが続きを言えなくなったのは、新堂のあまりに幸せそうな笑みのせいだ。
思わず見惚れていると、新堂は意表をついてユイの唇を奪った。
「んっ……?!」
「ユイ、お帰り。おまえの帰りを待ち侘びていたよ」
「せんせっ……、あっん」
「もう二度とご免だからな?」
「うん……」
どうも記憶の中の男と違う気がすると思ってしまうユイであった。
その後すぐに降谷から連絡があり、通報したのが彼だと知る。
ユイは降谷を近所の喫茶店に呼び出した。
「ジンと直接対決とは!で、引き分けだったとか」
「パトカーのサイレン聞いて焦るとか、あり得ないんですけど?」
「それ自分に言ってるんですよね?」
楽し気な降谷にユイは憤りを隠す事なく続ける。
「全く、余計な事してくれたわ!」
「でも、弾切れ、だったんですよね。逆に感謝すべきでは?」
状況は全て説明済みだ。
「弾がなきゃ素手よ素手!あっちは手負いだったんだから」
「あのヘリの事故から生還するとは、ホント、あなた達は不死身ですか?」
苦笑しながら、独り言のように降谷は呟いた。
「それで。彼にどう説明する気?」
新堂は降谷が警察の人間である事を知らない。
家の警備をしていたのは警察だ。そしてあの日事情聴取もなく撤収して行ったパトカー。
全ては公安警察のなせる技だが、知らぬ者にとっては謎だ。
「あと、バーボンって名前もどうにかならない?不自然すぎるわ。貴島さんにもそう名乗ったって?」
「成り行きで」
「成り行きって……変でしょ!ハナシ聞いてる?」
「どうせニックネームか何かだと思ってますよ。別に問題ないかと。それより、ヘリに向かって四発撃ったんですよね?ジンへの弾は避けられたんですね」
唐突に話を変えられて、一瞬ユイは目を瞬く。
「ユイさん?」
「……ああ。急に話、変えないでもらえる?」
「まだ混乱中ですか……」
「そうじゃないわ。強烈なあの男のお陰であっさり思い出せた。逆に感謝しないとね」
「はは……っ」
笑えない冗談だ、と降谷は思った。
「あいつに向けては撃ってないわ。何せライトが眩しくてね」
「ああ……なるほど」
ジンの受けた傷はヘリの事故によるものと判明。
「ガッカリさせて悪かったわね」
「いえ。お二人が無事だっただけで十分です」
「私達にいろいろ気を回してくれたみたいでありがとう」
「それが僕の仕事ですから」
ユイは小さく息を吐き出した。
「ねえ。でも、あまり私達に関わらない方がいいんじゃない?そのうち誰かにバレるわよ」
「そうですね。ご自宅には近づいていません」
「そう」
軽く答えたユイが足を組み替えて降谷を見据える。
「先生への説明、してくれるわよね?」
「僕がですか?ダメですよ、だって僕ただの警備関係の仕事をしてる人なんですよ?」
「警察ともコネがあるとか言えばいいでしょ」
「そこは朝霧さんのお得意の話術でお願いしますよ。くれぐれも話は合わせておいてくださいね」
丸投げされて、ユイがテーブルを叩いて抗議する。
「はあ?ふざけないでよ。こっちこそ警察と関われない身なんだからね。大体、こうなるの分かってて何でパトカー呼ぶかなぁ?それでなくても噂好きのご近所が大騒ぎよ!」
「ジンを追い払うには一番手っ取り早かったでしょう?」
「そうだけどさぁ。あ~あ……。ま、いいわ」
口論に疲れたユイもまた、投げた。
「ふふっ」
不意に降谷が笑う。
「何よ」
「いえ別に」
やはり朝霧ユイとは気が合いそうだ、と降谷は密かに思った。