警視庁公安部管理下の某施設にて。薄暗い個室に一人の女が収容されている。
本来ならば華々しい舞台で注目を浴びるはずの女。だがしかし、その裏の顔は血も凍る冷酷な暗殺者だ。
「シケた部屋ね。全く気分が悪いわ……」
女の顔色は非常に悪い。
体調の悪さを環境のせいにしておどけてみたものの、原因など明白だ。
「おはようございますベルモット、いえ、シャロン・ヴィンヤードさん。昨夜は眠れましたか?」
廊下側からしか開かない窓から降谷が問いかける。
「そちらは、バーボンよりゼロとでも呼ぶ?前から睡眠は浅い方なのでお構いなく」
「きちんと睡眠を取らないと、お肌に良くないですよ?」
「でも、紫外線に当たる心配はなさそうで有り難いわ」
こんな軽口を叩き合うも、お互いの目は笑っていない。
「早速いろいろとお伺いしたいんですが…顔色が良くないようですね。どこか体調が優れませんか」
「血色が悪いのもいつもの事よ。まあ、体調が良かったとして、そちらの思い通りに進むかは別だけど」
「どうやらご協力はいただけそうですね」
降谷が解錠してドアを開け、ベルモットに出るよう合図する。
「くれぐれもバカな真似はしないでください。我々はあなたに危害を加えたくはありませんので」
「善処するわ」
取り調べ用の部屋に移動する。待機していた部下二人を退室させて二人きりになる。
「あなたって結構上の立場なのね。まだ若いのに。俗にいうエリートってヤツ?」
「エリートコースの人間が、あんな組織に潜入していると思います?」
ベルモットは無言で肩を竦めただけだった。
「では本題です。あなたの組織が世界中にスパイを送り込んでしている事について。ご心配なく、この場で細かい犯罪行為を取り上げたりはしませんから」
「これまで自分がして来た行為を言ってるんでしょ。あなたもなかなかの活躍だったものね、バーボン?」
「否定はしません。僕が聞きたいのは一つだけです。アポトキシン4869について」
「私は研究チームには加わっていないので、お話できる事はないわ。それならシェリーに聞くべきね。今の名前は何て言ったかしら」
忘れたふりをして降谷の様子を窺う。
「今の名前?シェリーは組織から逃走を図った末に、命を落としたと聞きましたが。まだ生きているという事ですか」
「やっぱり知らなかったのね。まあ、あの小娘に聞いたところで、例の薬品についての情報全てを知るのは難しいでしょうけど!過去の資料は全て灰になってしまっているし」
現時点で灰原達が解毒剤を作り出せていない事も、ベルモットは把握済みだ。それどころか、解毒剤などというものが存在しない事も。
降谷が沈黙して思考を巡らせているのを傍目に、ベルモットが畳みかける。
「面倒事が増えたって顔してるけど、シェリーなら大丈夫よ。それより、今最も危険なのは……」
「ユイ・アサギリか」
「ご名答」
「また彼女が狙われていると?」
「いいえ。そういう意味じゃないわ。命が危険にさらされているのは違いないけれど」
「どういう意味だ!」
机をバンッと叩き声を荒げる降谷。
「まあ落ち着きなさい。意外と激高型なのね。知らなかったわ。今まで一体、どれだけネコを被っていたのかしら!」
首を左右に振りながらベルモットが嫌味に笑う。
「答えろ。それはどういう意味だ。お前が仕込んだその薬品に関係があるんだろう?」
「ねえ。私と取引しない?」
「は?立場が分かっていないようだが。主導権はこちらにある」
「別にいいのよ。そちらが彼女を見殺しにする気なら、それはそれで。そうなったとして、あなた達に落ち度はないもの」
「ふざけた事を……」
「あの薬の痕跡を検出するのは極めて困難。きっと彼女の死因は、原因不明の心臓発作とでも判断されるでしょうね」
「さっきは薬品の情報を知る術はないと言ったが、随分詳しいじゃないか?」
「専門じゃないから化学的な事はさっぱりよ。ただ助言くらいはできる。それを受け取る人間によっては、助けられる可能性もあるかも?…この続きは取引が成立しない事には言えない」
それは暗に自分に話しても無意味と言われているようで、降谷が舌打ちする。
いずれにせよ取引に応じない事には話は始まらないという事だ。
「クソっ……」
「拷問とか、してもムダよ。分かってるでしょうけど」
二人はこれでも、過酷な状況を幾度も潜り抜けて来た仲間だ。目の前の冷酷な笑みを浮かべる女の言わんとしている事は手に取るように分かる。
「……背に腹は代えられない。いいだろう。そちらの条件は」
「もちろん私の身柄を解放する事」
「無罪放免にしろと?」
「まさか。こんな私にも、良心の呵責ってものがある。やる事をやったら戻って来るわ」
「それを信じろと?」
「まあ……必ず戻ると約束はできない。でも、誰も殺さないと誓うわ」
不意にベルモットが苦し気に俯いた。
胸に手を当てている様子から、呼吸が苦しいのだと判断する降谷。
「おい、どうした?体勢を起こせ。ゆっくり呼吸しろ」
「くっ……、はっぁ、もう、限界が近いようね……」
「どういう意味だ?さっきよりも顔色が悪い。医者を呼ぶ」
「必要ないわ。さあどうする?迷っている暇はなさそうよ。早く決めて」
荒い呼吸を繰り返すベルモットの背を擦りながら黙考する降谷。
謎の症状を前に、これが演技である可能性を考えてさりげなく手首の脈を確認してみる。
「……これは?尋常じゃない心拍数じゃないか!」
「疑ってたの?まあ……無理もないわね。私、演技派女優だから」
苦しみながらもこんなセリフが飛び出す。
「一体何が起きてる?もしやお前もあの薬を……」
ここまで考えて、瞬時に全てが繋がった。
「戻る約束ができないと言ったのは、自分の命がそれまで持たないかもしれない、という事か」
「私的には、そっちの結末の方が……刺激的、だと思うんだけど。どうかしら?……だって、薄暗い牢屋に、何年も入れられるなんて、……ねぇ?」
「いつまでも軽口を叩くな。時間がないんだろ?今すべき事を教えてくれ。ユイ・アサギリを、そしてお前も救う!」
こんな言い分にベルモットが驚いたのは無理もない。
自分の身まで案じてもらえるとは思っていなかった。
それでもここはあえて触れずに確認を入れる。
「……取引成立って事で、いいのかしら?」
「ああ」
答えたものの、朦朧とし始めたベルモットから反応がない。
「酸欠か。これ以上放置できない。医者は呼ばせてもらうぞ?おい!警察医をここへ!」
廊下で待機していた部下に指示を飛ばす。
すぐさま現れた初老の医師がその場で酸素を与えると、ベルモットの意識はすぐに浮上した。
とはいえ医者としてはこんな緊急事態に直面すれば大いに慌てる。
「すぐに病院に搬送します!」
「ダメだ。詳細は話せないが、酸欠の症状が収まれば後はもういい」
「ですが!」
それ以上の説明はせず、降谷は医師を下がらせた。
「……いいって言ったのに」
「そうは行かない。ここで死なれては困る」
「この程度で死ぬほどヤワじゃないわよ。最近じゃ、こんなのしょっちゅうなんだから。でもお陰で楽になったわ。これで落ち着いて話の続きができる」
降谷はため息を付きながら、ベルモットの正面に座り直す。
「ユイ・アサギリとお前を助けられる手段とは?解毒剤がすでにあるのか?」
降谷の問いに、ベルモットが緩く首を横に振る。
「残念だけど、解毒剤は存在しない」
「ない?ならばどうするって言うんだ!」
「救えるのは、恐らくあの男だけよ」
「あの男?」
「彼女を心から慕っている男よ。つくづく不運な人!こうしてまたも矢面に立たされてしまって」
「新堂和矢か?なぜ彼が……」
「なぜですって?あの男の専門分野は何?それを考えれば分かる事よ」
降谷は朝霧ユイを調べた折、同時に新堂についても調べている。無免許の外科医。その腕は世界にも知れ渡るほどのレベルだとか。
「外科的治療で治せるとでも?」
「ドクター新堂があの方の治療にやって来た時に、直感したわ。彼こそが救世主だって。確かドクターの選定をしたのはあなたよね?バーボン。よく見つけてくれたわ」
「あれはたまたまだ。何度も警察に捕まった経歴が引っかかってね」
「ふふっ、そんなところもなかなかお茶目じゃない」
「そんなふうに取るとは、相変わらず変わってるな!あの経歴自体が優秀さを物語っていたという訳だ」
何度捕まってもそれこそ無罪放免になる。その理由は、必要悪と判断されるからに他ならない。
「そうと分かれば急ごう。直接新堂先生の所へ向かう。すぐにこの事を伝えなければ……」
「待って。私、彼女に酷く嫌われているの」
「知っている。何を今さら?」
「二度と現れるなと言われてるのよ?顔を見せた瞬間に殺されるとは思わない?」
「……」
降谷が沈黙する。あの激高ぶりからして一理あると。
「いいだろう。俺が彼女を外に誘い出す。その間に先生と話してくれ」
「いいの?その間はあなたの監視下から離れる事になるけれど」
これを受け、不意に降谷が不敵な笑みを見せた。
そして丁寧な口調に戻して言う。
「今のあなたに僕から逃れるほどの力が残っているとは思えない。その体調不良が演技でないのなら?」
「ふふ!その臨機応変さが優秀なネズミを生み出すって訳ね」
「どうとでも」
軽く肩を竦めて降谷が返した。
*
一方、新堂邸では新堂と灰原が顔を突き合わせ、今日も解毒剤の調合に頭を悩ませていた。
「どれもこれも意味がない。脳障害を生み出す薬ならいくらでもあるんだが」
「先生、それって単なる副作用ですよね」
「そもそも、解毒という言い方も正確じゃないだろう?」
「先生!屁理屈言ってないで真面目に取り組んでください!」
最初こそ真剣に取り組んでいた新堂だが、結果の出せない日々が続き、疑問が徐々に大きくなっている。
「大体、幼児化した細胞を戻すのに、必要なものは何だと思う?」
「それは……。元に戻すんだから、やっぱり解毒でしょ」
「その成分が存在すると?」
小学生の灰原に対し、新堂が容赦なく鋭く突っ込む。
彼も案外大人げない。彼女を子供と思っていないからこそなのだが。
そして灰原も怯む事もなく返す。
「ないとは言い切れない。まだ全部試した訳じゃないんだし」
「……。はは!参ったね、灰原さんはもっぱら研究職向きだな」
「そうですか?」
「私は無理だな!この通り、すでにサジを投げかけてる」
両手を広げてお手上げポーズの新堂。
「……なんてな、ユイには内緒で頼むよ」
おどけた新堂に、灰原が頷いて小さく笑った。
こんな会話も灰原にとっては貴重なひと時だ。特にユイがいない二人だけの時間となると。
そしてそんな時間はいつでも束の間で終了する。
「ねえ、二人ともお茶が入ったわよ。休憩して?」
ユイが書斎のドアを開けて入って来た。
「いいタイミングで来たな」
「そうですね」
感情をひた隠しにして、灰原が愛想良く答える。
「え、そう?キリが良かった?なら良かった!」
答えながら、トレイの上のティーカップをテーブルに並べて行くユイ。
「それでどう?進展具合は」
ユイの質問に、同時に同じ答えが返された。
「「全く」」
「ちょっと~、今二人ハモった~!スゴ~イ!」
純粋に喜ぶユイに、灰原は複雑な心境になる。
なぜここで喜べるのか。それはつまり自分が恋敵でも何でもない、同じ土俵にもいない事を意味するからだ。
「変なところで喜んでないで、暇してるならおまえも手伝えよ」
「しょうがないなぁ。それじゃ、このユイ様が助言を与えて進ぜよう」
手近にあった紙面に視線を投げて、そのまま沈黙する。
そこに記されているのは難解な化学式だ。
しばしブツブツと何やら唱えていたユイだが、顔を上げた拍子に灰原と目が合う。
「何か分かった?ユイさん」
「さ~っぱり!」
あっさり化学式の解読を諦めて、ユイはソファに背を預けた。
「その集中力のなさは何だ?もう少し粘れよ」
「失礼ね。ムダな努力はしない主義なの」
「そうね。ユイさんの射撃の時の集中力は半端ないもの」
「そうそう。分かってるじゃな~い?哀ちゃん大好きっ!って、哀ちゃんの前で撃った事あったっけ?」
唐突に抱きしめられた灰原が身を固くした。
こういう事をされるのに慣れていないのだ。
それに気づいてユイが体を離した。
「あ……ゴメン、もしかしてこういうの嫌だった?」
「いいえ……」
「全く。見境なくそういう事をするな。スキンシップが苦手な人だっているんだから」
こんな新堂の発言に、思わず灰原が割って入る。
「いいえ!別にスキンシップが苦手な訳じゃないんです!だから、だから……」
「なぁ~んだ、照れてただけなのね?増々可愛いわ。あ、い、ちゃん!」
再び灰原に抱きついたユイに、新堂は大きなため息を付いた。
その時、ユイの携帯が鳴り出す。
「ん、誰だろ。はいは~い、もしもし?」
『朝霧さん、僕です、降谷です。今話せますか?』
「……何の用?」
ユイの声のトーンが下がった事に気づいた二人は、相手が面倒事を起こす類の人物であると予測する。
「え~、今から?一体何の用なのよ。それを先に言ってくれる?」
『先日のお詫びと言っては何ですが。まだお怒りなんですよね?美味しいケーキでもご馳走しようかと』
「ご機嫌取りに物で釣ろうって?ふざけてる?」
『いいえ全く。僕は常に真剣です』
「そういうところが怪しいって言ってんの!」
その後飛び出した某有名スイーツ店の名に、ユイが反応する。
「ま、ちょうど暇してたし?しょうがないから付き合ってあげるわ。じゃ、後で」
電話を終えて肩を竦めるユイに、新堂が問いかける。
「どこか行くのか?」
「デートに誘われちゃった」
「オーケーしてたみたいだが。俺が許可するとでも?」
「ええ。ただの知り合いとお茶しに行くってだけで、私の恋人はとやかく言うほど狭い心してないって知ってるから」
ここまで言われればさすがに反論できず。
「体調の心配があるから、あまり長居するなよ?」
「は~い。今んとこ異変はないから大丈夫。それじゃ、哀ちゃんも暗くならないうちに帰ってね」
「うん。ユイさんも気を付けて」
「ありがと。行って来ま~す」
二人に手を振り、ユイは出掛けて行った。
「それじゃ私もそろそろ帰ります」
「いつもありがとう。たまには送って行くよ。あいつが高校生で助かってるのは、車を使われないで済む事だな!」
「あっ、いいえ!大丈夫です。まだ明るいし。その、寄り道もしたいので!」
どこか焦り気味に断りを入れる灰原に、新堂が首を傾げる。
「その……お気持ちだけいただきます」
「ふっ!」
不意に新堂が笑った。
「どうかしました?」
「いや失礼。その姿でそのセリフが……ね」
この時、どんなに元の姿に戻りたいと思った事か。
灰原は小学生の体を恨めしく思うのだった。
新堂邸を後にして丘を下っているところで、灰原は一台の車とすれ違った。
その瞬間、言い知れぬ悪寒が背に走る。振り返って悪寒の原因を探ろうとするも、車内の様子を窺い知る事はできなかった。
「あれは誰なの?新堂先生が危険かも……!」
灰原は焦る。自分が引き返しても何の助けにもならない事は明白。そんな力は自分にはない。
「ユイさんを連れ戻そう。まだそんなに遠くには行っていないはず……」
日の暮れかかる中、灰原は丘を駆け下りて行った。