例の事件から遡ること約二ヶ月。
「困ったわ。どうしようかしら……」
「ただいまぁ~」
「歩美。お帰りなさい」
「お母さん、どうしたの?」
学校から帰ると、お母さんが何か困っているみたいだった。手には手紙みたいなのを持ってた。
「これがね、間違ってウチに届いたみたいなの」
その手紙にはアルファベットが並んでて、私には全然読めない。
「お母さん、これ読めるの?すごぉ~い!」
「これくらいは誰でも読めるのよ。この番地、上の新堂さんとこだと思うんだけど」
何でも、肝心の宛名が書いてないんだって。
覗き込んでみたら、確かに番地みたいな数字が書いてあるのが見えた。
「こんなエアメールが送られて来るのって、この辺じゃ、あそこしかないでしょ」
「そうなの?」
「何してる人か知らないけど。お金持だから!」
「私、届けて来ようか?」
「あら歩美、行ってくれる?助かるわぁ。こういうのは子供が行く方が当たり障りないから」
とても嬉しそうに言うお母さん。私もいい事をするみたいで嬉しくなる。
こうして、ランドセルを置いて再び家を出た。
「勢いで言っちゃったけど、怖いなぁ、やっぱり」
だって、元は幽霊屋敷だった所よ?絶対に一人でなんて行けない場所だった。
新しい人が越して来て、お家も新しく建て替えて綺麗になったけど。
「やっぱり、どこか不気味……っ。元太君達、連れてくれば良かったなぁ」
そうこうしてて、ついに玄関の前に到着。
インターホンを使いたかったけど、高い位置にあって届かない。仕方なくドアを叩いて声を張り上げた。
「こんにちはー!すいませんっ!……留守かな」
ドアの前から一歩下がって、建物を見上げる。
耳を澄ますと、どこからかピアノの音が聞こえてきた。私はピアノが大好きだったから、気分がちょっぴり明るくなった。
庭の方に回って、音がする方にそっと近づいてみる。
「お邪魔しまぁす……」
それはリビングからみたいだった。
庭に面した側は一面ガラス扉になってて、それが半分くらい開いてた。風でレースカーテンが揺れて、すぐ近くに大きな白のグランドピアノが見えた。
とても長い髪をした女の人が、片手だけで弾きながら楽しそうにハミングしている。
私は思わずそれに見惚れちゃった。だって、とっても素敵な光景だったから!
私に気づいて、その人が手を止めた。
「誰?」
緊張して心臓がドキドキした。だって、その人がどんな人かも知らないし。怖い人だったらどうしようって……
「あっ、あの……」
「何かここに用?あ、もしかして呼んでた?ごめんなさい、気づけなくて……」
立ち上がってこっちに来る。
首を傾げて私を見てる。すごく綺麗な人!まるで女優さんみたい……
「あっ、そう!この手紙が、ウチに間違って届いてて……。それで、それで!」
舞い上がってしまって、上手く説明できない。
「手紙?」
「うん、これ!どうぞ……っ」
震える手で、女の人に手紙を手渡した。
受け取ると、その人は少しの間その手紙を見つめ、裏返したり光に翳したりして見てた。
「宛名がないけど、間違いなく先生宛ね。わざわざ、届けてくれてありがとう。ええと……」
「私、下の所に住んでる、吉田です!吉田、歩美です!」
「ああ、麓の吉田さん……。そう、歩美ちゃんっていうの。ありがとう」
その人は穏やかに微笑んでそう言った。
「せっかく来てくれたんだし、もし良かったらお茶でも飲んで行かない?クッキーもあるのよ」
「え!いいのっ?」
「もちろん。私、ユイ。よろしくね」
そう言って私の手を取ると、テラス側から中に入れてくれた。靴を脱いで、ピアノの横から部屋に上がる。
「キレイなお家!すご~く、広いね!」
「ふふ、ありがと。私、車椅子だったから。バリアフリー仕様なのよ。今はこのとおり、良くなったんだけどね」
壁も天井も床も真っ白だ。家具は黒が多くて、とってもお洒落。
中でも私が一番気になったのは、もちろん白いピアノ。私の目はすぐにそれに釘付けになった。
「歩美ちゃんは、ピアノ好き?」お茶を入れながらユイさんが言う。
「うん!私ね、ピアノ教室に通ってるんだ。水曜日だよ!」
「そうなの」
「ユイ、さん。さっき、弾いてたよね」
「あれは……お恥かしながら弾いてたうちに入らないわ。実は私、習った事ないの。こんなご大層なの、彼にプレゼントされちゃったのにね……」
「旦那さんが、くれたの?」
「ええ。去年のお誕生日にね」
「すごぉーい、いいなあ!白いピアノなんて、私、初めて見た」
お茶とクッキーを一緒に食べながら、こんな話をした。
そしてユイさんは、私にピアノを弾かせてくれたの。
「きゃ~、上手じゃない、歩美ちゃん!」
「えへへ!でも、まだまだ練習中だよ」
「ううん、立派立派!こうなったら私も今から習おっかなぁ」
「そうだ、私、教えてあげるよ!」
「ホント?」
「うん!いいよ!」
こんなふうにして、私はこの新堂邸に出入りする事になったの。
ユイさんはとっても優しい人だった。私がピアノを教えに行ってるはずなのに、逆にいろいろ教えてくれて。海の向こうの国のお話とか、学校の宿題とか!
早くに旦那さんが帰宅して、顔を合わせた事があった。
「ただいま」
「あ!お帰りなさい、新堂先生」
「おや?何とも可愛らしいお客さんだな」
「こちら、下に住んでる吉田歩美ちゃんよ。ピアノ……、時々弾きに来てるの。あの白のピアノがいたくお気に召したみたいよ」
ピアノを練習してる事は、旦那さんには内緒だってユイさんに言われてたのを思い出す。
「初めまして、歩美です!お邪魔してます」
「ようこそ。ゆっくりして行ってね」
ここの旦那さんにはいろんなウワサがあって、周りの大人達は誰もが、凄く怖い人だって言ってる。だけど会ってみて全然違った。ユイさん同様、とっても優しい人みたい。
「思ったより早かったのね」
「ああ。仕事が早く片付いた。これから向こうで書類を仕上げて来る」
「分かったわ。ごゆっくり」
こんな会話の後、旦那さんはすぐにリビングから出て行った。
「ねえねえ、ユイさんの旦那さんて、すっごくカッコいいね!」
「え~?そう思う?ありがと!フフッ……旦那さん、か」
ユイさんがふと、こんな事を呟いた。
「どうしたの?」
「実はね、私達、結婚してないの。ここだけの話よ?」
「夫婦じゃ、ないの?」
「そ。まあ、ここまで来ると、夫婦みたいなもんだけどね」
「でも二人は愛し合ってるんでしょ?どうして結婚しないの?」
「イヤん!愛し合ってるなんて……。歩美ちゃんたらストレートね!」
その後、しばらくユイさんは何も話さなくなった。
私、余計な事を言っちゃったのかも……そう思った時、ユイさんが口を開いた。
「私達はね、そんな契約に縛られる必要がないのよ。そんなのなくても、歩美ちゃんが言ってくれたように、……愛し合ってるから」
自分に言い聞かせるようにそう言ったユイさんは、ちょっと寂しそうで……
この事はもう、二度と口にしないようにしようと、心に誓ったんだ。
それからしばらく、行っても留守の事が多くてユイさんに会えないでいた。
その矢先に、例の事件が起きたってワケ。
*
あの事件から、三週間が過ぎていた。
「ねえ哀ちゃん。ユイさん家、行きたいって言ってたよね?一緒に、行ってみる?」
どうしても一人じゃ怖かった。もうあの時の疑いは消えていたけど。
だってユイさん、記憶を失くしちゃったんだよ?あの日は勢いで、また友達になるから大丈夫、なんて言ったけど……。そんな自信、本当はない。
「吉田さん。あれはね、勝手に工藤君が……」
「ねえ。行ってもいいよね?別に。もしかして、これがきっかけで何か思い出してくれるかもしれないし!」
いい方へいい方へと考える。哀ちゃんが一緒に来てくれれば、百人力だもん!
「……ねえ。それって、本当は行かない方がいい、とも思ってるって事よね」
「ドキっ!なっ、何で?」哀ちゃんに隠し事はムリみたい。いつもの事だけど……
私は仕方なく正直に話した。旦那さんに、当分会わない方がいいって言われた事を。
「でもさ、それって、ユイさんの意見じゃないでしょ?だから……!」
「吉田さん、どうしてそんなに、あの人に会いたいの?」
「だって……せっかくお友達になれたのよ?それに、とっても楽しいの!きっと哀ちゃんだって楽しいと思うよ」
私の熱意に負けて、哀ちゃんが承諾してくれた。
*
早速その日の放課後、二人で新堂邸へと向かった。
「あれ……、誰か来てるのかな。車が二台ある」
「本当ね」
こんな話をした後、急に哀ちゃんが立ち止まった。見慣れない方の車を見つめて、震えてるみたいだった。
「哀ちゃん?どうしたの?」
「ま、まさか……!工藤君の読み、的中って事?」
「ねえってば!どうしたの?」
「やっぱりやめましょ。ほら、お客さん、来てるみたいだし。ちゃんと、新堂先生の許可を取ってからの方がいいわ」
「あっ、ちょっと待ってよ、哀ちゃん!」
急に回れ右をして小走りする哀ちゃんを追い駆ける。
確かにお客さん来てるんじゃ、しょうがないよね。
*
「何だって?!」
「あの車と同じのを、確か組織のボスが使ってた」
「確認しなかったのか!」
「出来る訳ないでしょ!すぐさま引き返したわよ。吉田さんだっていたし。何かあったらどうするのよ?」
「……だよな。ワリぃ、取り乱した。接点あり、か。益々濃厚になったな」
「彼らは周囲に溶け込むのが上手いから……。気づけなくても不思議はない。で、どうするの」
「まあ、そんなに不安な顔するな。とにかく、おめェは近づくな。後はオレが突き止めっからよ!」
*
「なあ歩美ちゃん、ユイさんとこに行ったって本当か!」
「うん。この間行ったよ」
私は結局その後、一人でユイさんに会いに行っていた。
「バーロー!当分会うなって言われてただろ?」
「そうだけど……。全然、変わってなかったもん。何の問題もなかったし!」
「バカ、どれだけ危険か分かってんのかよ」
新一君がブツブツ言っていた。何でそんなに怒るの?
「ユイさんが新堂先生に話してくれるって言ってたし。大丈夫だよ?」
「そういう問題じゃねー!」
一人興奮し続ける新一君に、私は呆れてた。心配性なんだから!
だって、ホントに普通だったのよ?
それはこんな具合に――
ピアノ教室の帰り、一人思い切って丘を登った。いつもみたいに庭の方に回って、リビングを覗いたの。
そこには最初に会った時と同じように、ユイさんがピアノに向かって座ってた。
ただあの時と違ったのは、ユイさんはピアノを弾いていなかった。右手にはまだ包帯が巻かれていた。
「誰?」
「こんにちはっ!」
何だかユイさんは、とてもぼんやりしていて声を掛けるのを躊躇ったけど、勇気を出した。
「何か、ご用?」
その後は、ほとんどあの日を再現してた。口実の手紙は持ってなかったけど。
私の持ってた手提げにピアノの鍵盤が印刷されてて、それを見たユイさんが私がピアノが好きな事を言い当てた。
「ゴメンね。私、何も覚えてないの……」
「ううん!いいの、知ってるよ。全部知ってるから!大丈夫だよ。私はちゃんと覚えてる、私達、お友達なんだよ?」
「そっか。ありがとう」
そう言ったユイさんは、前みたいな元気がなかった。でもあの事件の時の凍るような瞳はどこにもなくて、心から安心した。
それからしばらく、お茶を飲みながら話した。
「私は当分、ピアノはお預けね」下を向いて、包帯が巻かれた右手を擦りながら言う。
「まだ、痛いの?可哀想……」
「大した事はないのよ。何しろ、優秀な先生もついてるしね?」
そう言ってウインクするユイさんは、とても可愛かった。大人の人に可愛いなんてって?だって、ホントなんだもん!
そんな時、車のエンジンの音が聞こえて来て、ハッとして外を振り返った。
「え!もしかして、旦那さ……じゃなかった、新堂先生、帰って来ちゃった?」
「歩美ちゃん?」
「私、もう帰らなきゃっ!また、遊びに来ても、いい……?」
「ええ、もちろんよ。ねえ、どうしてそんなに急ぐの?彼が帰って来ても、いてくれて大丈夫よ」
「ダメなの!私、当分ユイさんに会うなって、言われてるんだもの」
「新堂先生に、そう言われたの?」
頷いた私を見て、ユイさんが立ち上がった。
「きっと、私が記憶を失くしたからね。ゴメンね、歩美ちゃん。余計な心配掛けて。先生にはちゃんと話しておく。いつでも、来てくれていいから」
「ありがとう……。でも、今日は帰るね!」
私は慌てて部屋を飛び出した。
ユイさんにそう言われたけど、勝手に来たのは事実だし……
私はあれ以来、どうしても新堂先生が怖かった。