「ん?今誰か、勢い良く飛び出して行ったが……」
「新堂先生」
「どうした」
テラスから外を眺める新堂。小さな女の子の後ろ姿が彼の目に映った。
「近所の子。遊びに来てたの。先生、あの子に言ったの?当分私に会うなって」
「ああ……確かそんなこと、言ったかな」だってあれは……と新堂は思う。
あの時のユイの気性の激しさに、子供の身を安じたのだと。
「撤回、してくれるわよね?」
「……」彼はユイの顔を眺めて、口元に手を当てて思案している。
「ねえってば!」
「まあ……、あの子が来たいなら来ればいい。それを止める権利は、俺にはない」
「なら良かった」
あれだけ怖い目に遭ってもまだ入り浸るとは!と感心しつつ、ふとある事を思い出す。
拳銃を目撃したのは、あの少年探偵一人ではないはずだと。
「新堂先生?どうかした?」
「いや。何でもない」口止めを、する必要があるかもしれないと。
「小学生相手に、札束ってのも変だしなぁ……」新堂は一人呟いた。
*
一日の授業を終えて校門前に差し掛かった時、黒塗りの車がひっそりと路地に停車しているのを見つけた。
「なあ。あの車!スゲー怪しくね~?」
元太の示した先には当然その黒塗りの車がある。
「……ああ」
「工藤君……」灰原がオレの影に隠れて身を竦めた。
「心配すんな。灰原達は先に帰っててくれ」
歩美と光彦はこの日、風邪を引いて学校を休んでいた。
「何だか怪しいって!なあ一人で大丈夫かよ、おい新一!」
「ああ大丈夫だ。あれは、新堂先生の車だよ」
フルスモークの外車。確かに怪しさ満天だけどな……
元太と灰原を先に帰らせて、オレは一人車に近づいた。
すぐに左側の運転席の窓が静かに開く。
「やあ。待っていたよ、新一君」
「新堂先生、こんな車でその出で立ち。傍から見たら、誘拐犯に間違われるぜ?」
サングラスを少しだけずらしながら、全開した運転席の窓に腕を掛けてオレを見下ろす。
「相変わらず、手厳しいな、君は!」
学校関係者に見られると厄介なので、少し先まで移動してから話を続ける。
「オレもちょうど、先生に会いに行こうと思ってたんだ」
「それは奇遇だな。じゃ、ドライブに付き合ってもらおうか」
「いいよ」
オレはそのまま車に乗った。
「すっげ~……!これって、二千万くらいするヤツだろ?やっぱり乗り心地いいんだなぁ~!」
「良く知ってるね。車、好きなのか?」
「ああ!で、これ何て車?ドイツ車だよね?」
「アウディ・クワトロだ」
「そうそう!そうだった」
ようやく思い出した。トランスポーターって映画で主人公が乗り回してた、あれだ!思わず興奮しちまった。
車はすでに動き出している。
「で、私に会いに来ようとしてたって?」
「まあ、ね……。ちょっと、聞きたい事があってさ」
「何だ。先に聞こうじゃないか」
「あの……。それは、先生の事じゃないんだ」
「私の事でないなら、ユイの事か?」
当然、そう来るよなぁ。幸い密室だし。この際、単刀直入に切り出した方が良さそうだ。
「うん。その前に、一つ言っとくけど」
「ああ」
「あの日の殺害容疑は晴れても、オレはまだ先生達の事、完全に信用した訳じゃないからね」
「……ああ、そうか」
意外にも彼は何も反論して来なかった。思い当たる節があるって事か?
「それで?」
「ユイさんて、どこかの組織の人だったりする?」
「組織?」
「警察、じゃあ……ないと思うけど」
ふいに先生が笑った。
「そうだな。警察ではないな。それは彼女の願望だったようだが」
「願望?」
「彼女はああ見えて、正義感の強い人間なんだ」
「正義感……」
意外な展開だった。
思わず潜入捜査をしていた、通称ゼロという男の事を思い出した。そいつも当初敵だとばかり思っていたが、実は公安、つまり政府の人間だったんだから!
「俺の知る限り、朝霧ユイはどこの組織にも属してはいない。あいつにそんな協調性はないよ」
「アサギリ、ユイ?」
「彼女の姓を知らなかったのか」
アサギリ。どこかで聞いたような……
黙り込む俺に、今度は先生が切り出した。
「君を、ただの小学生とは思わない方がいいんだろうな」
「まあね」
「探偵、だったか?」
「ああ。これでも、少しは名の通った……」
「ん?」
「い、いや、何でも!」
ついうっかり、高校生探偵、工藤新一の事を話してしまうとこだった。まだそんな事を打ち明けられる程の仲じゃない。
「君はあの日、ユイの射撃現場を見たな」
オレは無言で頷いた。
「彼女も見たのか?」
「歩美か?あいつは見てない!見てたら、またユイさんに会おうなんて、思うはずないだろ?」
「念のため聞いただけさ」
車は運河沿いの港に辿り着いて、ゆっくりと停車する。
「では、口止めするのは君だけだな」
体ごとオレの方に向き直って言う先生に、ドキリとした。
何をする気だ……?「どうする気?医者なら、記憶でも消すとか!」
「……そんな操作ができるなら、あいつの記憶をとっくに戻してるさ」
体の向きを戻し、前を向いてため息をついた。
「ご、ごめんなさい……」
「いいんだ。と言っても子供の君をどうやって口止めするべきか、まだ結論は出ていない」
先生は後部席をチラリと見た。
そこにはアタッシュケースが無造作に置かれている。
「それ、何が入ってるの?」
「こんな時に何が登場するか、君なら分かるだろ」
「ま、まさかお金……?」
先生は、ご名答、と言って軽く笑った。
さすが金持ちの医者がやる事は、気持ちいいくらい潔いや!
「君がそれで手を打ってくれると言うなら、喜んで差し上げよう。二千万入ってる。ただの小学生じゃないなら、欲しいだろ?」
「二千万?!オレは……。いらないよ、そういうの」
「そう、か……」
「新堂先生って、いい人だね」
「何だって?」驚いた様子でオレを見る。
だって今、本当にそう思ったんだ。この人は、悪い人じゃないって。
オレはそれ以上何も言わずに笑った。
「なら、一つお願いしようかな」
「何だ」
「医者なら、医学の知識、豊富だよね?」
「恐らくね。得意科目はオペ、だけどな」先生が悪戯っぽく笑う。
「残念だけど、オレが欲しい知識は、得意分野ではなさそうだよ」
「試しに聞いてみろ」
「うん……。例えば、の話だよ?」
そしてオレは、体が若返る薬の事、そして元に戻す薬の事を尋ねた。
「フィクション小説の読み過ぎだな」
「あり得ないって事?」
「確かに、そんな病はない事もない。先天的な遺伝子異常だったりな。例えば、若返りの症例としては、ロイコ・ジストロフィーというのがある」
瞬時に難病・奇病の症例が説明できるなんて、この人、実は凄い医者なんじゃないか……?
新堂先生の講義は続いた。
「逆に普通よりも早い速度で年を取る早老症としては、プロジェリアや、コケイン症候群。これなら君も聞いた事があるんじゃないかな?」
「あ、ああ。ドキュメンタリーでたまに放映されてるよね」
「原因として考えられているのは、脳細胞の欠陥だ。酵素の生成に異常があり、細胞に有害な物質が蓄積されて組織を破壊する、とかね」
「なら、薬でそうなったとして、同じような原因で若返ったり、年を取ったりするのかな」
「あるいは。しかしそれでは、病を誘発する事になるぞ」
確かに……。あの薬が、脳障害をもたらす……?
「それで、その病気に罹ったら、もちろん早くに……死ぬんでしょ?」
「ああ。若返りはともかく、早老症は脳障害だ。それに心臓にも相当な負担が強いられる。せいぜい生きられて二十までだろうね」
心臓への負担は間違いじゃなさそうだ。何しろ、体の変化の際に感じたあの心臓の動きは今も忘れない。二十歳か……。だとすればもう時間がない。
ああ、この人に本当の事を打ち明けてしまいたい。もしかしたら、治してくれるかも知れない!
そんな衝動に駆られたが、どうにか踏み止まった。
「新堂先生、ありがとう。とても参考になったよ」
「こんな事でいいのか?」
「十分だ」
不審な目を向けられている事に気づき、慌てて言い訳を考える。
「ヤダな~、こんなの題材に、ミステリー小説書こうと思ってるんだよ!面白そうだろ?」
「何だ、そうか」
「そ!それに、探偵はあらゆる知識に貪欲なのさ」
「それはそれは……。こんな話でお役に立てたか、少々疑問だが」
「全然!大助かりさ。新堂先生って、とても優秀な先生なんだね。オレ、思いっきり見くびってたみたいだよ」
「ふっ!全く、君には本当に参るよ……」先生が軽く首を横に振って笑った。
本当に見くびってた。
だが、あの謎の女と関係してるからには、ただの医者でないのは明らかだ。ただの医者ならこの町でも堂々と名乗ってるはずだろ?
「しかし。こんなので本当に口止めになったのか?」
独り言みたいに言いつつ、わざとらしくオレに聞こえるように話す。
「言わないよ。言ったって誰も信じないさ。それに、どうせ何が何でも、隠蔽するんだろ?」
大金でも使って……って意味で、後部席をチラッと見てやる。
「物分りのいい人間が目撃者で、助かったよ」
「あ、それからさ……」
「何だ?」
「あの……ユイさん、その後どう?」
「記憶は相変わらずだが、元気にしてるよ。なぜだ?」
「あのさっ」
「彼女の事、まだ納得できてないみたいだな。本人に直接聞けばいい」
「でも……っ!」
「何を躊躇う?心配しなくても、忘れているのは私との事だけだ。自分の事はちゃんと覚えてる。……彼女に会うのが、怖いか」
オレは黙った。彼女は恐らく九割方シロだ。
だが、あの殺気についてはどう説明する?正義の味方には、どうしても思えない。
「散々、厄介者扱いしてた私にも責任があるな。安心しろ、あの日のおかしな人格は、今のところ現れていない」
「今のところって……!」またいつか現れるのかよ!?
例の組織並みに厄介そうだぜ?ここでオレは灰原の話を思い出す。
「ああそうだ!この間、黒い車のお客さん、来てたよね。新堂先生もいたんでしょ?このクワトロ、停まってたから」
「……全く。良く知ってるな」
「あっ!でもね、見たのはオレじゃないんだ。友達が……っ」
「歩美ちゃんか」
「そっ、そう!」
あえて灰原の事は話題に出さなかった。念のためだ。
先生の視線がオレの目から離れない。な、何だよ……?
「あのぉ……」
「ああ、済まん。少々考え事をしていた。あれは友人のドクターだ。彼の診療所で、ユイの精密検査をさせてもらってね。あの日わざわざ様子を見に寄ってくれたんだ」
「もしかして、その人ってどこかの組織の人間だったりしない?」
「あいつが?一体、何の組織に入れるって言うんだ!あり得ん」
「そっ、そうなの」
「どう見たってあいつは、ローン・ウルフだな」先生はそう言って一人で納得している。
「それがどうした?」
「別に!遊びに行きそびれて、歩美ちゃん、ガッカリしてたからさ~!誰かなって思っただけ!」
先生が肩を竦めた。何とか怪しまれずに聞き出せた事にほっとする。
「まあ、いつでも来てくれ。不在の事もあるが」
「あ~あ。オレも先生みたいに、こんなフルスモークで待ち伏せして連れ出せればいいんだけど」
「ユイをか?それはよした方がいい。君の身が危険だ」
だよな~。何しろ拳銃持ってるんだし。柔道家だし?オレは苦笑いした。
「あの屋敷は、幽霊屋敷と呼ばれていたそうだな」
「知ってたの!」
「知ってるさ。下調べは念入りに、な」
「そっか~。あの辺て、妙にコウモリ多いでしょ。だから尚更なんだよ」
「だが、今はもう幽霊屋敷なんかじゃない。すでに証明済みだと思うが?」
あの日の、不法侵入的なオレ達の訪問の事だとすぐに分かる。
またもや苦笑いのオレ……
「そんなに怖がらないでくれよ」
「は、はあ……」
せめてオレが元の姿だったら……。少しは太刀打ちできたのに。
でも逆に、子供だから手は出されないって事も……?
「理不尽な言動さえしなければ、問題ない」
「何それ」
「彼女を怒らせると、子供だろうが容赦はないだろうから」
「怒らせる……って?」
「それが、理不尽な言動ってヤツさ。まあ、君なら問題ないだろう」
「新堂先生も立ち会ってよ!」
「断る」
「何で!」
「私は彼女の仕事には、介入したくないんだ」
「何、で……?」
「これでも私は医者だ。……後は、自慢の推理でもしてくれ」
こうして、オレと新堂先生との密会は終わった。
それからオレが、彼女に会いに行ったかっていうと、〝unready〟まだだ。気が進まないというのが本音だろうか。
なぜならオレは思い出したのだ。あの朝霧ユイという名前をどこで耳にしたのか。
その時点ですでに、例の組織との関わりはないと百パーセント言えたので、もうそれ以上の介入は避けるべきと判断したって訳だ。
先生が彼女の仕事に介入したくない理由は簡単だ。
だって朝霧ユイは、これまで何人も手に掛けて来た暗殺者。医者である彼が、そんな人間と付き合うのは簡単じゃないだろう。
あの人もツライ人生だよなぁ。きっと相手は、運命の人なのに?
そして歩美だが、この二ヶ月後に父親の転勤で急に引っ越す事になり、泣く泣く去って行った。
あの泣き虫で、引っ込み思案な歩美が仲良くなったんだから、朝霧ユイは本当に優しい人間なんだろう。殺し屋ではあっても。正義感が強くて、警察に憧れていた暗殺者?
そんな掴みどころのない女の事を、可能な限り調べ尽くした。あの人が過去に、どんな事をして来たか。どんな目に遭って来たか……
もちろん全てを知る事は不可能だが、確認できただけでも信じがたいものばかりだった。
そんなオレの気持ちを新堂先生に伝えるために、ついに屋敷へと足を向けた。
幸いにも先生は在宅だった。
「彼女を、そっとしておいてやってほしい」
「え?」
「今の彼女はもう、昔の朝霧ユイではない。事故で受けた脊髄損傷の影響で、身体だけでなく精神的にも多大なるダメージを受けた」
そうそう。その事は前から疑問だったんだ。
「越して来てしばらく、車椅子だったよね。脊髄損傷って、その……治せないんじゃなかった?」
「ああ。普通はな。だが私なら別だ。残念ながら、完璧にではないがね」
この人はやはりとてつもない腕を持っていたようだと、この時に確信した。
「ユイは、困っている人を放っておけない性分でね。恐らく君の助けにもなろうとするだろう」
「うん……」
「彼女の体は完全ではない。しかし、それに対して本人はあまり自覚していないようだ。無理をさせたくないんだ……。極力厄介事に巻き込まれないように、こうして目を光らせてるって訳さ」
「当然だ。分かってる。新堂先生、本当にユイさんの事が好きなんだね!」
先生はぎこちない笑みを浮かべた。
誰しも、自分に与えられた運命を全うすべきだ。他の人間を巻き込んではいけない。
オレは決めた。皆、自分の世界で必死に生きてる。甘えてちゃいけない。オレはこの世界で戦う。
「新堂先生、ユイさんと、お幸せにね!」
この時の新堂先生の何とも言えない笑顔が、いつまでもオレの心に残っていた。