皆で小説を書こう配信 まとめ 作:二 貂理
おいしいとは、なんだろうか。
そう問われた際、あなたはどう答える?
好きなものを食べた時の感情?
毎日食べるものに不満を感じない事実?
思わぬ驚きに満ちた味わい?
自分が輝ける、思いがけず得をすることになった……みたいなのは、ベクトルが変わりすぎだろうか?
なんにせよ。
「おいしい」とは、感情に由来する概念であると言えよう。
では、次に。おいしさとは、なんだろうか。
「おいしい」ではなく、「おいしさ」。
大きいに対する大きさ、重いに対する重さと同じように、「さ」で彩られた単語。
であるのならば。「おいしい」を数値評価したものこそが「おいしさ」なのだろう。
好きなものを食べた時、どれだけ感度うしたか?
毎日食べるものに、どの程度不満を感じないか?
思わぬ驚きが10段階で何なのか?
その展開に、自分自身が何ルクスで輝けるか、何円得をするのか……は、ちょっと違うか。
いずれにせよ。
そうして、数値的に。あるいは相対的に評価できるようにしたものこそ。感情ではなく客観的な事実によって評価したものこそ、おいし「さ」なのだろう。
うんうん、しっかり使い分けられた。素晴らしい、これでこそ日本語である!
……いや、うん。俺の文章力が無いのは自覚してるから、見逃して欲しい。いい例えが一切思い付かなかったんだもの、仕方ないじゃないか。
閑話休題、話を戻して。
ここまでの話が、成立しているのかを考えてみよう。
「おいしい」が感情/感覚に由来するものであり。
「おいしさ」とはそれを数値/比較によって揺らぎなく評価したものである。
何度だって読み返して、違和感を感じて欲しい。え、違和感はない?いやいやそんなまさか。ちゃんと読んでくださいよ。
お前の日本語がおかしい?その違和感は捨てろ、いいな。
そうではなく。
そも、何かを「おいしい」と感じることそのものが、感情であり。
それを如何に数値化したところで、それが感情であることに変わりはないのではないか、という。
そういう、お話しである。
例えば、俺は野菜がそう嫌いではない。
なんなら、ものによっては好きですらある。キュウリとか。キャベツとか。
なんなら京野菜で日本酒を飲むのとか、大変楽しませて頂いた身でもある。
が、しかし。世の中には、野菜を苦手とする、なんなら嫌いな人すらいるわけである。
実際俺もトマトは苦手だ。生だと食えん。なので、その気持ちは正直よく分かる。
さて、おかしなことになった。
おいしいとは、感情であり。
おいしさとは、それを数値化したものである。
にも拘らず、人によってその評価が変わってしまっている。
では、改めて。おいしさとは何なのか。
うまみの度合い?それであれば、成分分析などによって測ることが可能だ。
だが、それが豊富である=おいしい、になるのだろうか?
ならないだろう。ただ昆布からとった「だけ」の出汁は、決して単体ではおいしい、とはならないのだから。
……ならないよね?ならなかったはず。ならないものとしよう。
では、そのほかの手段で数値化を?おいしいと感じる感情の方を数値化してみるのはどうだろうか。
そも、感情などというモノは外的刺激に対する化学物質の反応なのだから……え、腹立つから禁止?そんなー。
話を戻して。
そんな個人の感情によってぶれっぶれになる「おいしさ」などという概念。
「さ」と着いているくせに絶対の数値評価なんてできやしないそれに、果たして価値があるのだろうか。
あろうはずもない。
しからば、その上に成り立つはずの「おいしい」という感情にも、存在価値は無いのではないか。
否、存在価値は無いのである!
「という必然を唱えてみるわけだが、如何だろうか?」
「ホワイトデーのお返しの手料理が、ろくに味のしない虚無なことへの言い訳はそれでいいんだな?」
「はっはっは、嫌だなぁ冗談に決まってるじゃないですかそんな神をも恐れぬ恥知らずな発言を俺がましてや貴女にするわけがないじゃないですか一先ず土下座でゆるしてはいただけませんか?」
「次のデート代全持ち、それまでにまともな料理が出来るようになるなら許してやる」
「イエス・マム」
ふむ、なるほど。
俺にとって、この言い訳の機会はおいしくないものだったらしい。