理論は何年か前に構築済みだ。まだデータ不足ながらも万有引力仮説と運動方程式から必要な初速度は計算できるし、運動量保存の法則を使えば推進剤の質量と噴射時間も求められる。私の体重と衛星本体の自重を考え、燃料切れ後のロケット部はもったいないから切り離して推進に活用するとして、設計は……だいたいこんな感じ。
理論があるのに今まで一度も挑戦しなかったのは、これといって行きたい星がなかったためだ。この星から観測する限りでは太陽系内の惑星はどこも大して面白そうでもないし、恒星間航行はいくらなんでも無理。二度とこの星に帰ってこられないリスクばかりが大きくて、得る物が小さすぎたのだ。
でも、手の届きうるところに、どうしても話し合いたい相手がいるのなら。
リスクを冒す価値は、ある。
急がなければいけない。私が初めて“ハート連星”を観測してから、もう1100日余りが過ぎている。最接近まであと152日。このタイミングを逃せば次のチャンスはない。彼女たちは私の太陽系を通り過ぎ、銀河の果ての、別の恒星系へと旅立ってしまう。
やりとげてみせましょう。17歳女子をなめるなよ。
その日から私はおなじみの集中力を発揮して、ロケットの開発にかかりっきりになった。タブレットで図面を引いているとき、軌道計算をしているとき、液体燃料の種類と混合比を検討しているとき、奇妙に心地よい意識の空白にひたれた。私を縛り付けるあらゆる面倒ごとが、どこかよその世界に消え失せてしまった気がして。
そんな私を現実に引き戻したのは、紫外線センサーの反応だった。
「あっ」
私は声を挙げてしまった。完全に“ハート連星”との会話のことを忘れてしまっていた。彼女たちと会話するためにロケットを作っていたはずなのに、肝心かなめの彼女たちが意識から消え失せてしまうなんて。
大慌てで送られてきたメッセージを翻訳する。ロケットに熱中している間に、メッセージは3件も溜まっていた。
【こんちは。今日は太陽が明るいね】
【昨日よりという意味】
そして今届いたのがこれ。
【どうかした?】
どうかしてる。ものすごく。
私は返事の明滅パターンをタブレットに入力しようとして、ひたりと指を止めた。
ここまで考えてもみなかった。自分が彼女らに近づいていこうとするのに精いっぱいで。私は宇宙へ飛びたい。彼女らの星へ遊びに行きたい。でも、向こうはどう思っているだろう? 私が押しかけたりしたら、煩わしく思わないだろうか。もし私なら。私の星に正体不明の誰かがやってきたら。
私は……ちょっと……嫌だ。
私は考えた。彼女たちが私の訪問を嫌がらないかどうかを、だ。丸1日かけて考えて、この問題を解くのは不可能であることに気付く。手がかりがない。筋道もない。どれほど可能性に想いを巡らせたところで、それは全て、“私ならどう思うか”。
彼女たちは私じゃない。
悩み、悩み、呻き、何も得ず。
結局、おそるおそる、こんなメッセージを送ってみることにした。
【遊びに行ってもいい?】
飛び降り自殺するくらいの覚悟で送った問いだ。彼女らはこれを見てどう思うだろう。どんな返事が来るだろう。そもそも返事があるだろうか。気になりすぎて作業が何も手につかなくなり、私は返信を待つ間、ただひたすら“ことり岩”の上をぐるぐると歩き回り続けた。
センサーが“連星”の言葉を受け取り、アラームを鳴らす。
私はタブレットに飛びついた。
返信は、3回連続。
【いーーーーーーーーーーーーーーーーー】
【よーーーーーーーーーーーーーーーーー】
【!!!!!!!!!!!!!!!!!!】
軽いよ!!!!!!!!!!!!!!!
なんだか気が抜けた。私はその場にぶっ倒れた。倒れた拍子にスカートの裾が望遠鏡にひっかかり、パンチラ隠そうと咄嗟に押さえた手が紫外線センサーに激突し、ドンガラガッシャン崩壊した機材の山に、私はすっかり埋まってしまった。
58日後、私はお手製のロケットに乗り込み、17年住み慣れた惑星から飛び立った。
地表が離れていく様子をぜひとも窓から見てみたかったけれど、私の身体は恐るべき慣性力によってシートに押し付けられ、窓を覗くどころか指一本動かすことさえできないありさまだった。液体燃料を燃やし尽くし、ロケットを切り離し、三角錐型の宇宙船を予定通りの軌道に乗せる。あとはここから84日。最接近するタイミングほぼぴったりで“ハート連星”の衛星軌道に乗れるはず……
加速を終えた船の中は、燃焼中の大騒ぎが嘘のように静まり返っていた。私は窓にへばりつき、つい数時間前まで私が立っていた惑星を見下ろした。灰白色レゴリス以外には何もない、私ひとりだけが生きる星。広い世界のように思えていたけど、こうしてみると、ちっぽけな岩の塊だ。
他の世界は、他の惑星は、みんなこんな姿なんだろうか。
この宇宙には一体いくつの世界があるのだろう。世界にはいくつの形があるのだろう。小さな世界。大きな世界。不定形の世界。光すらも飲み込みただ漆黒の奥底へ沈み込むばかりの世界。無限個とさえ思える世界が乱立する中で、私のあの星は、お世辞にも見栄えのするものじゃない。
じゃあ、彼女たちの世界は?
“ハート連星”はどんなところ?
暗闇の中でたったひとり、私は想像し続けた。望遠鏡で見た概観から、空想はいくらでも膨らんだ。どういう原理で光ってるんだろう。どうして小惑星がおしゃべりできるんだろう。それとも誰か住んでるのかな。私が喋ってる相手は星そのものじゃなくて、星に棲んでいる人だって可能性もある。そうだとしたら、その人はどんな姿をしているのかな……
想像の中で、不思議と私は、孤独じゃなかった。
空想だからこそ、繋がりあえている気がした。
徐々に“ハート連星”が近づいてくる。私は窓から彼女らの雄姿を眺め見た。大きい。なんて大きいんだろう。それに……きれい。宝石のように煌めく小惑星群が、規則正しく描き出し続ける幾何学模様。その渦巻きのふたつの核が、じっとこの宇宙船を見ている。私のことを見つめている。まるでそれは、闇しかない宇宙の中に、たったふたつだけ見開かれた瞳みたいだ。
「あのね。かわいい服、いっぱい持ってきたの」
窓に両手を貼り付けて、私はいつしか、訴えかけていた。
「これはすごく面白いマンガ。自分で描いたの。それにね、私が考えたパーティーゲーム。誰でもすぐ理解できて、みんなで遊べて、そのうえ奥深い戦略性もあるやつ。もちろんミントも、チョコも、ポテトチップスも、山ほど鞄に詰まってる。
だから、私も、仲間に入れて。
あなたたちの輪の中に、私の座るすきまを――ほんの少しだけ!!」
声が届いたはずもないのに。
“ハート連星”の円盤が、ほんの1万kmだけ、半径を広げて見せた。
それが歓迎のあいさつなんだと気付いて、私はちょっとだけ、泣いた。
私は宇宙船を制御して“ハート連星”の衛星軌道に入り、無数の小惑星群と一緒に回りだした。それはまるで私が“連星”の一部として溶け込み、融合してしまったかのようだ。私は自分の星から持ち込んだ玩具をひとつひとつ窓から示し、“連星”はその物を表す彼女らの言葉を教えてくれた。私の語彙力は飛躍的に向上していき、ほんの20日余りで5000語を超えた。もう簡単な日常会話なら、さほど詰まることなくこなせる。
だからもちろん、いっぱいおしゃべりをした。
私の想像通り“連星”はもともとふたりの別人だったということ。今はふたりで別の恒星系へ旅行している途中なんだということ。それに、“連星”のふたりが生まれた惑星のこと。液体の水が大量に溜まった海があり、濃密な大気による散乱で空は青や赤に色づいて見え、その中に何百億もの生物が暮らしている。私にとっては唖然とするしかない世界。脳裏に想像したその星の美しさに圧倒されながら、私はむきになって自分の星のことをまくしたてた。灰白色レゴリスの大地がどれほど清潔で純粋か。大気がないためにいつも真っ黒に見える空がどれほど心落ち着くものか。そしてそこから観測される銀河の星々が、どれほど目映く、どれほど胸を打つものか――
【わかる】
“連星”の片方が囁く。
【すてきだと思う】
もう一方が小惑星帯の腕で私を優しく包んでくれる。
わかる? そうだろうか。すてき。そうかもしれない。自分でも分かってなかった。自分の星で暮らす17年の孤独の中で、私は自分の生まれた星を“すてき”なんて思ったことは一度もなかった。自分の周りにある黒と灰の空間、それだけが私にとってあたりまえのもので、そこに価値があるなんて想像したこともなかった。わかる。そうだ。今ならわかる。
話しこむうちに、話題はどんどんくだらないことに移っていった。私が毎朝鏡に向かって笑顔の練習してること。【見せて見せてー】【きゃーかわいー!】“連星”のふたりが昔ネパール人のインド料理屋で歌ったアホみたいな即興歌のこと。さらには恥ずかしい思い出のこと。“連星”の右側が私に耳打ちする。
【聞いてくれる? あいつホント、いいかげんで】
【んなことないってー。大人よ、年相応の落ち着き】
【デート当日に私の部屋でクソ寝坊してすっぴんで彼氏の車に駆け込んだのは誰だ?】
【あァー、んンー、そォーれェーわァァー! でもでも、ちゃんとやることやったし、最低限の義務は果たしたっつーかァー】
【前の日、デートあるって完璧忘れてたからねこいつ】
【なんだ秘密の暴露合戦か!? よし聞いて。議題は“こいつがセックスのときどこ触ると喜ぶか”】
【こらァ!!】
【まぁーずゥー! おっぱいの下のォォォー! 肋骨の隙間のォォー!!】
【やめろばかァー!!】
“連星”の右と左が取っ組み合いを始めてしまい、私は猛烈な小惑星群の渦巻きにまともに巻き込まれ、錐もみ回転しながら悲鳴を上げた。話の途中から私は顔を真っ赤にして聞いていたし、今のこの乱闘だって、むしろ仲良しな恋人同士の愛撫みたいに見える。見ているこっちが興奮して、茹で上がってしまいそう。大人だ。大人の世界だ。
暴れ疲れたふたりのためにコーヒーを淹れた。どうやって渡したのかって? もちろん、カプセルに入れて射出して、落下軌道に乗せたんだよ。大気の邪魔が入らない星では、正確な位置を狙って落とすのはそんなに難しいことじゃない。
“連星”の右は、私が描いた漫画を貪るように読んでくれた。私も、彼女が書いた小説を読み漁った。文化背景が違いすぎて理解できないところもあるけれど、それは素晴らしい物語で、私は泣きそうになってしまった。そうしたら彼女も同じことを思っていたらしく、ふたりしてお互いの作品をひたすら褒め合うという、なんだかよく分からない、でもとてつもなく幸せな時間を過ごせた。
“連星”の左は、私が作ったゲームに興味を示した。ひとりでダイスを振ったり何度もシャドー戦をやったりして、気が付いたら製作者の私よりも強くなっていた。私だっていろんな戦略を想定してゲームを作ったんだ。でも彼女は私が想像もしなかった攻め手を次々に創り出していった。
嬉しかったけど、少し恐ろしくもあった。なんだか、私の生み出した私の一部が、私の手の届かないところで私ではないものに変質してしまった気がして。
その夜。“連星”の腕のベッドに横たわり、私は宇宙船の窓から星空を見た。私の惑星は、もう肉眼では捉えることもできない。かわりに、この太陽系の黒ずんだ太陽が、さして明るくもない光をぼんやりと周囲に放っているのが見える。私は溜息を吐いた。
なんて楽しいんだろう。
これが、他人。これが、外の世界。
でも、彼女たちはいつかここを去る。
恋人同士での楽しい旅行、その途中なのだから。私の太陽系を通りかかったのはただの偶然。少しくらいの寄り道はいいだろう、それも旅の醍醐味だ。でも、ずっとここに居られるわけじゃない。
やがて旅の目的地へと飛び立っていく。この広い広い銀河の彼方、どこか別の恒星系へ。そうすれば、もう永久に会えなくなる。そもそも出会えたこと自体が奇跡のようなことなのだ。一度別れた天体と再び巡り会うなんてことは、それこそ宇宙の終わりまで待ち続けたって起きることじゃない。
宇宙は、それほどまでに、広い。
だから、私はまた――ひとり。
分かっていた。出会った瞬間、すでに別れの運命は定められているのだということは。理性と論理と知識とで、私は完全に理解していたはずだったのだ。
なのに私は
あのいけ好かない店主に、口酸っぱく警告されていたにも関わらず。
(つづく)