根気! はい、得意分野!
私はその日から無数のデータとのとっくみあいを始めた。まずは現在の正確な位置を求めなければならない。宇宙船の中にいちおう持ってきておいた望遠鏡が役に立った。船外活動で太陽の位置、惑星の位置、星座の位置を観測し、そこから“ハート連星”の軌道を算出。
同時に私の惑星についてもデータを取り直した。なぜなら、“連星”の軌道が歪むほど私の質量が大きかったのなら、私の惑星のほうもかなり運動量を失っているに違いないからだ。思った通り、私の惑星はほぼ真円だった元の軌道から大きく外れ、楕円軌道に遷移していた。だがそうと分かっていれば問題はない。計算は可能。
私の計画はこうだ。“ハート連星”の軌道を私の星の軌道と交差させ、至近距離に接近する。このとき“ハート連星”は私の星の引力に引き寄せられて……早い話が私の星に“落ちて”行く。このとき私の星の重力によって“ハート連星”は加速され、移動方向も鋭角にターンさせることができる。
いわゆる“スリングショット効果”。これを利用して太陽からの脱出速度を得る。
もちろん“連星”のふたりとも協力した。彼女たちには推進剤として切り捨てる小惑星を選んでもらった。それほど多くは必要ないけれど、どれも彼女たちにとっては大切な思い出のかけら。どれひとつとっても棄てがたい自分自身の一部。
【しょうがない】
“左”がきっぱりそう言って、嘆く“右”を慰める。
【進むためには犠牲にしなきゃいけないものもある。思い出はまた、いっしょに作ろ】
【あんたってさ……ほんと、そういうとこ】
【なにが?】
【うるっさいばか】
仲良く寄り添って準備を進めていくふたりが、私にはちょっと眩しすぎて、私は窓から目をそらした。
私はその間、タブレットと取っ組み合って、猛烈な勢いで計算を進めていた。ブーストに使う小惑星の発射位置と、その数。軌道遷移のタイミング。必要な質量。太陽系の他の惑星の引力の影響……
ひたすら計画を進行させることに集中して、他には何も考えないようにした。未来など見ないようにした。未来を見れば、行く末を想像すれば、自分自身の堪えがたいエゴがまた吹き出してしまう気がした。
いいんだ。これでいい。彼女たちは旅の続きへ進んでいく。そして私は――
私は、ここに――
【ねえ】
“連星”から声をかけられ、私はびっくりして震え上がった。窓の下からそろそろと顔を出す。美しい紫外線の瞬きが、“連星”の左右の核から私に向けられていた。
【もう計算できた?】
【うん。あとはタイミングを待つだけ】
【そっか。じゃあ、たまにはこっちに来てみない?】
私はしばらく、バカみたいに口を開けっぱなしにしていた。
正気に返った私は大慌てで姿見を探した。なかった。そうだ、家に置いてきてしまった。仕方なく宇宙船の窓の外の宇宙を鏡代わりに睨む。おぼろげに反射する幽霊めいた自分の顔は、とても見れたものじゃない酷い有様で、ぜんぜんかわいくなかった。
私は大慌てで髪型を整え、宇宙服を着こんで外に出た。
宇宙船の外壁を蹴り、私と“連星”の間に広がる虚無の宇宙を、まっすぐに流れていく。不思議な気分。距離感がまるでない。手を伸ばせばすぐにも“連星”に届きそう。なのに実際にはまだ何千kmも離れている。近づけば近づくほど遠ざかっていく気さえする。自分がどこに居るのかも分からなくなる。
私はこんなところに存在したのか。
細く息を吸い、吐く。
17年――彼女らの基準では17億年。私はずっとこうしていた気がする。何もない虚空に漂い、遠い遠い星々をひたすら見上げ、空想ばかりに耽る日々。私のそばにあるものは、灰白色レゴリス、漆黒の空、そして科学の諸法則と、私自身。それだけ。
孤独なんて概念、私には縁遠いものであるはずだった。
でも、私は今や、知ってしまった。
宇宙に他人がいることを。
私はひとりではないということを。
知らなければよかった。出会わなければよかった。恐るべき存在感で空に浮かぶこの巨大な“連星”さえなければ、私の距離感が狂うこともなかった。自分と他人との遠さを痛感させられることも、こんな気持ちのまま手がかりのない宇宙空間で泳ごうと試みることもなかった。
そうすれば、私は私のままでいられたのに。
たまらず目を閉じた私の耳に、陽気な歓迎の声が届いた。
「いらっしゃーい!」
気が付くと、私は狭苦しい玄関口に立っていた。驚きのあまり私は言葉を失い立ち尽くす。
そこは鉄筋コンクリート製のワンルーム・マンションの一室らしかった。前に伸びる短い廊下の右手側にはキッチン・スペース。IHのクッキング・プレートと小さなシンク、小型冷蔵庫、綺麗に洗って逆さまに並べられた2人分の食器。左手側にはお風呂とトイレに通じるドア。弾かれたように背後を振り返れば、開け放たれたドアの向こうに、爽やかな青白い陽光を浴びて輝く住宅街の屋根が見える。
「ほら、遠慮しないで。入っておいでよ」
奥の部屋から呼ぶ声がする。私の吐いた息が宇宙服ヘルメットの内側にかかり、淡く結露した。私はゆっくりと踏み込んでいく。廊下の奥のドアを開ける。
その先の部屋に、ふたりはいた。
床に大股開きであぐらをかいて、だらしなく笑ってる女性。奥の少し乱れたベッドの上に腰かけ、無表情に頬杖ついてる女性。ふたりの眼に見つめられ、私は再び硬直する。あぐらの方の女性が立ち上がり、私の腕に触れた。
「まーまー。上着なんか脱いで。自分の家と思ってくつろいでよ」
「……私の家なんだけど」
「そして私はこの家の飼い猫でーす。にゃーん」
ベッドに座る女性の膝に転がり込んでいき、撫でてもらって満足げにゴロゴロ言っている。私は吹き出してしまった。もう分かった。ショートヘアのだらしない服装のほうが“左”で、ロングヘアの落ち着いた物腰のほうが“右”だ。
“右”が私の視線に気づき、優しく微笑んでくれる。
「ん。ほんと、遠慮しなくていいよ。そこ、ハンガーあるから」
私は宇宙服を脱いで、壁のフックにハンガーで吊るした。ヘルメットは床の隅にそっと置き、勧められた座布団に正座した。“左”がにゃあにゃあ言いながら(まだ猫の真似してる……)、奥の棚からゲーム機を持ってきてくれた。
「マリカーやろーぜ!」
私は“左”との勝負にのめり込んだ。なんて素晴らしいゲームだろう! 高度に洗練されていて、直感的で、しかも人を熱中させる熱気をふんだんに織り込まれている。“右”が淹れてくれた薫り高い紅茶を口にしながら、何度も“左”に挑み、そして敗れた。“左”は一度も手を抜いてくれなかった。
それが嬉しかった。
本棚には“右”のお気に入りの小説が並んでいた。許しをもらって一冊読んだ。涙が止まらない。なんという切なさ。なんという温かさ。裏切り、裏切られ、それでも可愛がらずにいられなかった恋人の死。別れてこそ高まる愛情。行き場のない慟哭。その全てを飲み込む都市という混沌……
ふたりが私の泣き顔を温かく見守っていることに気付き、私は悲鳴を上げて宇宙服のヘルメットを引きかぶった。頭だけ宇宙服になった私がまだ肩を震わせているので、ふたりが左右から背中を撫でてくれた。
「私、知らなかった」
涙を飲み込みながら、私は喘ぐ。
「宇宙にはこんなに面白いものがある。こんなに素敵な物語がある。こんなに高度な科学の体系がある。なのに私は、自分ごときが創った遊びや、物語や、法則を、宇宙でいちばん価値あるものみたいに思って。
私は知らなかったの。こんなに宇宙が広いだなんて!」
「こらこら。私たちの意見は無視か?」
“左”がコツンと拳で宇宙服のヘルメットを叩く。
「君の持ってきたゲーム、面白かったって言ったよ?」
「あの漫画も本当に素敵だった。嘘じゃない」
「それにひとりで全部考えて、私たちのとこまで来てくれたんでしょ」
「あんなに必死になって、私たちの言葉を勉強してくれた」
「はっきり言うけど、楽しかった」
「感謝してる。それだけは伝えておきたくて」
ちゃんと話をしておきたくて。
永遠の別れを迎える前に。
私だってそのつもりだった。
なのに――ヘルメットの中の私はただひたすらに泣くばっかりで、せっかく学んだ言葉なんか一単語だって喋れやしなかった。
でも、それでいいんだって気がした。
この広大な宇宙の中で、ひとは、常に、ひとり。
たったひとりのこの私が、全身あますところなく――言葉。
(つづく)