情熱と敵意と崇拝と愛はあるが、友情はない。
月曜日の朝のことである。
その少年は、隣室の扉の前でチャイムを鳴らした。
たっぷり30秒は待ってみたが、一向に中からの反応はない。
尤も、それは少年としても分かりきっていたことではあった。
仕方ないと思いつつ、少年は予め渡されていた合鍵を使って中に入る。
それは、毎日のように繰り返されている行為であるし、大洗に来る前から、それこそ熊本にいた頃からの日課のようなものだった。
しかし、少年は未だに慣れるということができていなかった。
部屋に入る度、なにか悪いことをしているような気分になってしまう。
だから、扉の前で心を落ち着けて深呼吸をするのは一種の儀式というか、彼のルーティーンのようなものだった。息をするようにもっと簡単にできればいいのだが、おそらく、一生できないだろうという確信があった。
靴を脱いで、部屋に上がる。
足音をたてないよう部屋の中へ進むと(少年にとっては癖のようなもので、ほとんど無意識だった)、すぅすぅ、と規則正しく寝息をたてている少女の姿があった。
むにゃむにゃと、なにやら寝言のようなものも聞こえるが、はっきりとは聞き取れないし、わざわざ耳をすますつもりもなかった。
少年は、地元を離れてなお安心しきったような顔で眠る少女を見て、微笑ましい気持ちになりながらも、一方的に寝顔を見つめているということでなにか罪悪感のようなものがふつふつと沸き上がってくる。
なにせ、少年は少年で、少女は少女である。これが互いに、どころか親同士ですら合意の上のことであるというのにいけないことをしているような気分になるのは、もう仕方のないことだった。
叶うのならば、チャイムを鳴らした時点で起きてくれるとか、その時点で返事を返してくれたら言うことはなかった。しかし、その期待はもう5年以上も抱き続けてきたものだから、ほとんど無理だろうな、と半ば諦めていた。
決して朝に弱いというわけではないのに、この少女ときたら、絶対に1人では起きないのだ(しかも、目覚まし時計の類いは大嫌いときた)。たぶん、きっと、長年の習慣から、少年に起こされるというルーティーンが体内時計のひとつに組み込まれているのだった。
「
少年は、折り目正しくベッドの隣に正座をすると、うやうやしく少女の名前を呼んだ。
体を揺らしたり、音を鳴らしたりといったことは不要だった。
大抵の場合、少年が声をかけるだけで少女は目を覚ますのだ。
「ぅん?…朝ぁ?」
「はい。朝でございます」
「そっかぁ…」
もぞりと体を動かし、顔を半分だけ布団に潜らせる。まだ寝ていたいという意思表示だろうが、少年としてはそれを許すわけにはいかなかった。
なにせ、彼女は、日本戦車道の双璧を為す西住流戦車道の後継者候補のひとりだ。
世間一般では、彼女の姉である西住まほが師範代、ひいては家元を継ぐだろうと見られているが、正式にそうなると決まったわけでもない(どころか、彼女らの母である西住しほですら、実態はどうあれ未だ師範代であり、正式には家元を継いでいない)。
事実、戦車道の才能で言えば、妹である西住みほとて負けたものではなかった。尤も、少年に戦車道のことはよく分からないので、人に聞いた話でしかないが。ただ、それを少年に話したのは、何を隠そう彼女たちの親である西住しほだったので疑う気持ちは起こらなかった。
詰まるところ、世間の予想に反して、西住流の師範代ですらどちらが後継者に相応しいか決めかねているというのが実状である。
だからこそ、彼がここ大洗まで着いてくることになったのだ。
これは、井手上菊代(西住家の家政婦である)の進言でもあったが、結局、彼に大洗に行くよう命じたのは誰でもない西住しほである。
尤も、菊代の進言は、あくまでみほが転校することになったとき、お付きに桜をやってはどうか、と言ったまでなのだが。
母として、娘が知らない土地で一人暮らしをすることを心配する気持ちが7割。
戦車道の師範代として、怠けた生活は許さないという気持ちが3割。
おそらくはそんなところだろう、というのが少年の予想だった。いや、心配の気持ちの方がもう少し高いかもしれない。
ただし、彼に命じた表向きの理由は、師範代という立場もあってか、後者の意味合いが幾分強いように感じられたが。
そんなわけで少年は、心を鬼にして少女に、西住みほに起きてもらわなければいけないのだった。
わざわざ仲のいい姉妹で後継者争いなどして欲しくないというのが、少年の偽らざる本音であったが、所詮は雇われの身。折角戦車道から離れた生活ができるのだから少しくらい朝はゆっくり寝かしてやってもよいのでは、とも思う。しかし、雇い主の意向に逆らうことはできなかった。
少年の母は、井手上菊代であった。
彼女は、西住しほの学生時代からの友人であるが、先述の通り、同時に西住家の家政婦でもある。その関係で少年は幼い頃から頻繁に西住本家に出入りしていた。
最初のうちは、母の真似だった。
少年は、年の近い西住家の令嬢に対しても、実にうまく使用人のように振る舞った。拙いながらも敬語を使い、彼女らの話し相手や遊び相手を見事に務めあげたのだ。
そのうち、姉妹の遊び相手以外にも母や他の使用人の仕事を手伝うようになった。
すると、しほも、流石に仕事をしているのに給金を渡さないのは心苦しいと小遣いを与えるようになり、高校生になると正式に雇用契約を交わしたのだった。
「起きてください、みほお嬢様。ジョギングの時間が無くなってしまいますよ」
「や」
短く一言で拒絶の意思を示す西住みほ。寝起きのせいか、いつも以上に子どもっぽい態度だった。
ともすれば、年頃の少女なら、特に異性には見せたがらない姿な気もするが、それだけ受け入れられているのだろう、と少年は納得することにした(寝起きの部屋に入っている時点で何を今さら、という気もするが)。
みほは、器用に布団にくるまりながら、ぐるんと寝返りをうつようにすると、少年のいる方とは逆、つまり壁のある方へ体をそっくり向けてしまった。
「もう戦車道しなくていいんだもん」
「お嬢様…」
みほは、拗ねたような声を出した。
それもそのはずだった。
みほは、前の学校を追い出されたと感じていた。
実際、それは限りなく正解に近かった。
戦車道全国高校生大会、史上初の10連覇がかかった大事な試合で、みほのとった行動が原因となって、チームは決勝戦で負けてしまったのだ。
少年は、みほと違って、本土にある高校に通っていた(本土の高校は、学園艦にある高校よりもずっと規模は小さい)。
だから、話でしか聞いたことはなかったが、負けたことについて、随分と酷いことを言われたらしかった。結果、みほはすっかり戦車道が嫌になってしまい、前の学校には居場所がなくなってしまったそうだ。
そして、それを見かねた西住しほから、大洗という戦車道のない高校に転校するように言われてしまった、ということである。
みほのとったという行動についても少年はだいたいの事情は聞いたが、個人的にはみほの行動は責められるようなものではないし、一般的な道徳からすれば正しい行動をしたと思っている。さらに、当時のみほは一年生だ。仮に敗退の原因のひとつがみほにあったとしても、その責任を一人に押し付けるというのは、少年にはどうにも承服しかねるものがあった。
しかし、それを表立って庇うことができない立場というものがある。
みほは、母は自分を嫌っているのだ。だから自分を叱ったし、熊本から出ていくように言ったのだ。と思っているが、決してそんなことはないのだと、少年はよく知っていた。
もしも、しほが本当にみほのことを嫌っているのなら、自分はきっとここにはいないだろう。
ただ、とある事情から、そんなことを言うわけにもいかなかった。
「お嬢様、いつか奥さまも分かってくださる時がきます。お嬢様も、戦車道がすべて嫌いになってしまったわけではないのでしょう?」
「…うん」
小さく、ともすれば消えてしまいそうなくらいの声ではあったが、確かにみほは、戦車道について肯定的な返事をした。
これで、戦車道を嫌いになってしまった、と言われないでよかった。と少年は心の底から安堵した。
戦車道は、女子の嗜む武芸である。全くの男子禁制というわけではないが、ほとんどは事務方か整備士くらいで、あとは観戦が専門だ。それは少年にも同じことで、しかも西住師範から戦車に乗ることは禁止されていた。たとえ遊びでも、だ。だから、少年に詳しいことは分からない。けれど、みほが楽しそうに戦車に乗っていた姿を覚えているし、彼女たち、家族の絆を繋げていたのは間違いなく戦車だった。それが、すべて嫌な思い出に塗りつぶされてしまうのは、とても悲しいことのように思えたのだ。
「西住の家に戻ったとき、すっかり戦車に乗れなくなっていては恥ずかしいでしょう。さぁ、顔を洗って、運動着にお着替えなさってください。お嬢様が戻られるまでに朝御飯の支度をしておきますから」
「…うん、分かった」
もぞもぞと布団が動いたかと思うと、ばさぁ、と布団がめくりあげられて、みほのパジャマ姿の上半分が顕になった。半分だけとはいえ、頭を布団にもぐりこませたせいだろうか、後ろの髪があっちこっちに跳ねあがっている。まぁ、一時的には手櫛でも戻るだろうし、どうせジョギングから戻ればシャワーを浴びる。見るのは自分だけだろう、と少年は思ったので、余計なことを言うのはやめた。
「何か食べたいものはありますか」
「あったかいお味噌汁が飲みたい」
「畏まりました」
それならば、今日の朝食は和食だな。と頭の中でぐるぐると冷蔵庫の中身を思いだしながら、献立をいくつか考えていく。
なにはともあれ、みほがやる気になってくれてよかった。腕によりをかけて作らなければ、という気持ちになる。
自分が見ている前では着替えもしづらいだろうと思って、少年は静かに立ち上がり、台所へ向かった。鍋を取り出し、水を入れる。
着替え、洗顔、ジョギング。戻ってからのシャワーと考えれば、多少手の込んだものを作っても十分に間に合うだろう。
ばたばたと慌ただしく準備をするみほに対し、運動靴は靴箱の中ですよ。と声を送った。
「うん、ありがとう。
いってきます。と言って、ジャージ姿でかけていくみほを見送って、少年はゆっくりと朝御飯の支度の続きに戻る。
少年の名前は、井手上桜と言った。
桜は、その女の子らしい名前を、しかし、嫌ってはいなかった。
同級生からその名前をからかわれることも少なくなかったが、敬愛する両親がつけてくれた大切な名前だ。なぜそんな名前をつけたのか、と疑問に思うこともなかったし、同級生たちのからかう様子は、早熟だった桜にはよっぽど滑稽に映っていた。我慢していればそのうち飽きるだろう。彼らも精神が成熟すれば、からかう気も収まるだろう。そんな風に思っていたのだ。
果たして、小学校の4年生になる頃には、桜の名前をからかう生徒はほとんどいなくなっていた。しかし、それは桜の意図したところとは、違うところに要因があったのだが。
同級生たちの精神が成熟したというのは確かだった。
そして彼らは、桜の容姿が非常に優れているということに気がついたのだ。
井手上桜は、正真正銘男子である。遺伝子学的には間違いなくそうであるし、本人の性自認も男性のそれである。男性としてのシンボルもしっかりと備わっていた。しかし、冗談や揶揄を抜きにして、10人が10人、彼の性別を女子と答えてしまう程度には、可憐な外見をしているのだった。それも、大変魅力的な、という形容動詞がつけられるくらいの容姿である。
ともすれば、それは年々洗練されていくようで、小学生の頃は男子用の服を着ていれば、まだなんとか、男の子?と答えてもらえるくらいだった。しかし、それも中学生になる頃には、男子用の制服を着ていてもなお、なんで彼女は男子用の制服を着ているの?と不思議な顔をされるほどになった。僕は男だ、と答えた際に、ああ、そういう…。という反応をされたことは、温厚な桜にとっても、特に腹立たしい出来事のひとつである。
要するに、
桜は、しばらくそのことに気づいていなかったが、たとえ気づいたところで、違うのだと叫べば叫ぶほど、分かってるから、と生温かい反応を返されてしまい余計にやるせない気持ちになるのだった。
せめて華奢な体でなくなれば、と思って筋トレをはじめたこともあったが、半年ほど続けても一向に筋肉がつかないのでそのうち諦めてしまい、それも個性であると受け入れるようになったのが中学2年生のことである。
また、髪を短くすれば女子に見えないのでは、と思い立って、いっそ坊主にしようとしたこともあった。しかし、家族だけでなく、西住姉妹からも大反対にあい、終いにはしほから戦車関係以外では唯一となる「バリカン禁止令」なるものを出されるに至ったので断念したということもある。結局は、常識的な範囲で、というしほからのお達しを守りながら(桜は坊主にすることを非常識とは思っていなかったが)、行きつけの床屋で短くしてもらったのだが、完成した自分の姿を鏡で見て、ボーイッシュな女の子にしか見えないという感想を自分で抱いてしまったというオチがついた。
そんな、およそ他人には共感してもらえないだろう悩みをもつ桜少年であったが、それを知ってか知らずか西住みほは、桜のことを幼い頃から一貫して「桜ちゃん」と呼んでいる。男女の違いがよく分かっていない頃には一緒にお風呂に入ったこともあるし、みほは桜がいる前でも気にせず着替えをすることがあった。
まさかとは思うが、みほにまで女と思われているのではないか。そんな風に心配になって、意を決して尋ねたことがある。
「みほお嬢様は、その、お着替えの際に私が同じ部屋にいるのは、気になったりはしないのでしょうか」
ただし、流石に言葉は選んだ。
突然、井手上桜の性別が男か女か分かるか、といった質問をするのは、あまりに失礼だと思えたのだ。
桜は、いったいどんな言葉が返ってくるだろう、と不安になった。これで女と勘違いされていれば、膝から崩折れる自信があった。恥も外聞もなく泣いたかもしれない。
おそるおそるといった様子で桜が尋ねたが、みほは一瞬、何を言われているか分からないという顔になった。
「ほえ?桜ちゃんは家族だから、恥ずかしくないよ」
それは、雷に撃たれたような衝撃だった。
みほと桜は、雇用主の子供と使用人という関係であったが、幼い頃からそれこそ兄弟のように育ってきた。口では似たようなことを桜も言ったことがあった。みほお嬢様もまほお嬢様も家族同然の方である、と。慕っているのも嘘ではなかった。
しかし、
自分というものがあまりにも浅ましく感じられて、とかく恥ずかしくなった。
みほは、自分のことを本心から家族として信頼してくれていたのだ。
それを自分は、男だから女だからと。低俗で、ともすれば下劣の輩であるように思えて仕方なかった。自分の心というものが、酷く汚れたもののように感じられた。
そんな自分のこともみほは家族と呼んでくれたのだ。
だから、桜は、もっと誠心誠意、西住の家のために働こうと心に決めた。
自分は素晴らしい家で働いているのだと、一層強く誇りに思うようになって、桜はますます熱心にみほやまほのことをお世話するようになったのだ。
いや、しかし、それでも。
いかに桜の外見が少女のようであっても、その中身は年頃の少年なのである。
笑顔で話しかけられれば、あの娘はきっと自分のことが好きに違いないと勘違いするくらい、純心で安直で単純な思春期の少年の心を持っているのである。
異性の部屋に入れば、なんとも言えない甘い匂いが鼻孔を刺激し、脳がくらくらにやられるのだ。
ましてや、みほもまほも、それぞれタイプは違うが美少女と言っても過言ではない容姿をしているし、体つきも少女から女性へと成長している真っ最中。些か、年頃の青少年には刺激が強すぎた。
例えるなら、桜少年の理性はチャーチルの正面装甲並みである。これが通常の男子高校生なら、八九式の装甲がいいところだろうか。それくらい、桜少年は女性に免疫があったし(女系の西住家で育ったおかげだろう)、理性も強い方だった。対して、みほやまほの魅力というものは、ヤークトティーガーの主砲クラスである。要するに、相手が悪すぎた。
想像してほしい。
可愛らしい少女が、信頼しきった様子で自分にだけ無防備な寝顔を晒しているのである。それも、憎からず思っている相手だとしたらどうだろう。
そんなもの、手を出さなければ嘘だ。男として
しかし、みほは桜のことを家族として無邪気な信頼を寄せている。それを裏切るくらいなら、桜は腹を切って死ぬだろう。死ぬべきだ。
だから、みほに悟られてはいけない。そんな葛藤を抱いてることすら、気づかれてはいけない。男だとか女だとか言う以前に、井手上桜は、西住みほの使用人であり、兄弟であり、家族である。
「いや、男なんだけどね」
耐えきれず、ぼそりと独り言が漏れた。
桜は最近になって、自分は何かを間違えたんじゃないか、と思うようになったのだ。
何かって?
それはたぶん、生まれてくる性別だ。
桜は、エプロンをしていた。
料理をしているのだから、当然である。その下に着ている制服を汚すわけにはいかないだろう。
その下に着ている、
だって、何着も替えの制服なんて持っていないのだ。
染みとりなんて、忙しい朝の時間にやりたいことではなかった。
ちなみに、桜は女顔であるし、体つきも華奢だ。しかし、意外と自分の顔は嫌いではなかった。嫌いではなかったが、じゃあ、似合うからといって女物の服を着たいかと言うと、それは別だった。たまに着物を着させられたり、まほやみほの服を着させられたこともあったが、それはあくまで冗談の範疇で、家の敷地の中に限られていた。
桜は、そういう事情を抱えた人ではなかったし、女になりたいと思ったこともなかった。たまたま、女らしい顔に生まれついてしまっただけなのだ。
さて、話は変わるが、みほが転校した学校は、学園艦の上にある。
学園「艦」というのだから、それは船であるし、当然ながら普段は海の上を航行しているわけだ。そういうわけだから、学園艦に住んでいる以上は学園艦にある学校に通うしかないし、大洗の学園艦には一つしか学校がなかった(おかげで生徒数は高等部だけで9000人というマンモスっぷりである)。
また、本土に行く方法は、学園艦が寄港するか、ヘリでも使わない限りは無理である。そして、通学のためだけにヘリを使うような馬鹿はいないし、仮にいたとしても、桜にヘリの操縦は無理だった。
つまり、桜が高校を卒業するためには、みほと同じ学校に通って、単位を取得するしかないのである。
そう。みほと同じ、
…もしも、井手上桜が女として生まれていれば、こんなに複雑な思いをすることはなかっただろう。
色んな意味で。
おまけ
まほ「みほはよく、桜の前で着替えられるな」
みほ「だって桜ちゃんは家族だもん。お姉ちゃんと一緒に着替えるのと同じようなものでしょ?」
まほ「え、いや。桜が家族というのを否定するつもりはないが…。…それじゃあ、みほ。お父さんと一緒に着替えるのはどう思う?」
みほ「うーん、それはちょっと…」