西住家の使用人   作:青葉白

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 A lie cannot live.


10話

 冷泉麻子にとって、武部沙織とは特別な人間だ。かけがえのない人間だ。

 その関係性を言葉にするならば、月並みな言葉だが「親友」になるのだろうか。あるいは、「恩人」かもしれない。少なくとも、「他人」でないことは確かだった。

 

 物心がついた頃から、麻子の優秀さは図抜けていた。所謂天才というやつで、文字を読めば一瞬で記憶し、どんなに長い文章であっても簡単に諳んじることができた。全く役に立たない大道芸だが、やろうと思えば広辞苑の見開き1ページだって暗唱することができるだろう。

 特に、麻子が優秀であったのは、その能力に自覚的であったことだった。あるいは、不幸なことだったのかもしれない。

 

 当然のように麻子は浮いた。アヒルの群れに白鳥を混ぜれば然もありなん。同じ年頃の子供が麻子の話題についてこられるはずもない。周囲のクラスメイトが数の数え方を必死になって覚えている頃、冷泉麻子は、とっくに数学という世界に足を踏み入れていた。

 

 ある種の万能感。浮かれていた、と言っても過言ではない。その頃の麻子は性格が悪くて、他のクラスメイトたちが全部馬鹿に見えていた。いや、本当のところ、馬鹿に見えていたのは生徒だけではない。そんな馬鹿に物を教えている教師たちすら、内心では小馬鹿にして、心底見下していた。

 

 分からないことなんて、何一つない。本気で麻子はそう思っていた。

 できないことだって、自分にはないんじゃないかと思った。100mを10秒で走ることだって、空を飛ぶことだってできるかもしれない。

 だから、自分を叱る両親も馬鹿だ。口うるさい祖母も馬鹿だ。

 本気で麻子はそう思っていた。

 

 そして、両親が死んだ。事故だった。

 

 悲しかった。

 いつものように朝は喧嘩をして、いってきますも言わないで家を飛び出した。

 それが麻子の日常だった。

 放課後に家に帰れば、どうせ朝のことなんか忘れて、母親は麻子の好物を食卓に並べるのだ。

 笑った顔で、学校はどうだった?なんて訊ねるのだ。

 すると、麻子は憮然とした顔で、いつも通りだった、と答えて、箸を動かす。テストがあれば、見せてやる。当然100点だ。すると、何がそんなに嬉しいのか、父親は麻子の頭を撫でるのだ。流石俺たちの子供だ、なんて誇らしそうな顔で撫でるのだ。子供の麻子からすれば、その手は大きくて、ゴツゴツしていて、撫でられたって全然気持ち良くはない。だけど、気分は良かった。

 

 そんな日々は、二度と戻って来ない。

 

 不器用で温かい父の手は、二度と自分の頭を撫でることはないのだ。

 家に帰って、ただいまを言って、そして、何も返ってこなかった。

 その瞬間、麻子は世界の壊れる音を聞いた。

 

 麻子は倒れて、過呼吸を起こして、そして、自分の部屋から出て来られなくなった。

 どんなに頭が良くたって、麻子にできることは何もなかった。何一つできなかったのだ。

 

 事故が起こると予見することも、時計の針を巻き戻すことも、死んだ両親を生き返らせることも、何も。

 

 当然だ。冷泉麻子は神じゃない。所詮、人より少し賢しいだけの子供に過ぎない。

 そうして、麻子の万能感は打ち砕かれて、外の世界が怖くなった。恐ろしくなってしまった。何もかもが未知のように思えて、足元の地面が全部崩れてしまったように感じられて、体の震えが止まらなくなった。

 

 いっそ、もう死んでしまおうか、と思う。

 こんな思いをするくらいなら、何も考えられなくなってしまおうか、と思った。布団の中で、祖母のうるさい怒声にどやされながら、麻子は1週間くらい本気で悩んだ。死んだら、もう一度、あの人たちに会えるかもしれない。都合のいい逃げ道が見つかった気がした。

 

「麻子の馬鹿っ!」

 

 突然、部屋の戸が開けられて、誰かがずかずかと入ってくる。

 被っていた布団は引っぺがされて、思いっきり頬を叩かれた。

 じんじんと痛い。熱を感じた。ひりひりと痺れる。

 殴ったのは沙織だった。

 沙織は、麻子のただ一人の友人だった。

 

「馬鹿っ、馬鹿っ、馬鹿ぁ…っ!!」

 

 子供の力だ。どれほど殴られようと、大して痛いはずもなかった。だから、麻子の両目からは涙が零れない。その代わり、と言わんばかりに、沙織の目からは大粒の涙が零れて盛大に麻子の布団を濡らした。

 

 訳が分からなかった。

 どんなに考えたところで、麻子には沙織の泣いている理由が見当もつかなかった。

 

 沙織は、確かに麻子にとってただ一人の友人かもしれない。しかし、それだけだ。麻子は友人が欲しいと思ったこともなかったし、面倒だからと沙織を無視したこともあった。友人としての交流は、あまり深いものではなかったはずである。一方で、沙織はクラスでも人気者だった。明るいし、人がいいから友達はたくさんいた。男女問わず、たくさんいたのだ。彼女にとって、麻子はたくさんいる友達のうちの一人に過ぎない。

 そんな沙織が、まさか麻子のために泣いているとは思えなかったのである。

 

 沙織は、一頻り麻子を叩いたあと、べしゃべしゃの顔のまま麻子を抱きしめた。麻子にはどうすればいいか分からない。麻子は、自分は人付き合いが苦手なんだとはじめて気がついた。ともかく、麻子はされるがままである。沙織は一向に泣き止まないし、おかげで麻子の服は沙織の涙でぐしゃぐしゃになっている。ただ、久しぶりに触れた人のぬくもりに、安心感みたいなものを覚えたのは確かだった。

 

 沙織が泣き止むまで、たっぷり30分はかかったと思う。その間、麻子は沙織の頭を撫で続けていた。訳も分からないまま殴ってきた相手である。理屈には合わないが、そうすべきだと麻子は思ったのだ。

 やがて、沙織が泣き止むと、麻子は沙織に手を引かれて、しばらくぶりに部屋の外へ連れ出された。

 電球の切れかかった薄暗い廊下をふたりで歩いて、別の部屋に向かう。そこは、リビングだ。ことん、ことん、と麻子のおばあがテーブルの上に皿を並べていく。

 

 おばあと目が合った。

 おばあは、麻子のことを見つけると、一瞬目を大きく見開いた。しかし、すぐにいつもの仏頂面に戻ると、早く座んな、とぶっきらぼうな声をかける。

 沙織に手を引かれて、麻子はテーブルに向かった。

 

 テーブルには、あきらかに一人分には多すぎるほどの食事が並んでいた。

 

「…いただきます」

 

 麻子は、久しぶりに声を出した気がする。声はかすれていて、自分の声とは思えなかった。

 ここしばらく、まともにご飯なんて食べていなかった。部屋にためこんだお菓子と、おばあが毎日運んでくれた食事の中から、水だけを貰って生き延びていた。

 

 箸を使って、魚のフライに手を伸ばす。麻子は、大口を開けて魚のフライに噛みついた。しゃくり、と音が鳴って、魚のフライは千切れて麻子の口の中に入る。しゃくり、しゃくりと噛み潰して、麻子は気づくと泣いていた。

 

 お母さんの作ったフライとよく似た味がした。

 

 ◆

 

 ここ最近、何やら視線のようなものを感じている。

 大抵、視線を感じるのは背後だ。しかし、いくら振り返ろうと見つかるのは、間の抜けた顔でこちらを見つめる優花里の姿だけだった。

 

「あ、どうかしましたか、井手上殿?」

「いえ、…何でもありません」

 

 桜には、優花里の視線はもう慣れたものだった。

 最初の頃はむず痒いと感じていたし、男ということがバレるんじゃないかと不安にもなっていたが、最近では気にするのも馬鹿らしいと思うようになっていた。

 何せ、優花里の顔を見れば全部書いてあるのだ。かくしごとには致命的に向いていない性格である。

 

 では、一体誰だろう。

 みほたちや生徒会の面々でないことは確かである。彼女たちであれば、たとえクラスメイトとの雑談中であってもおかまいなしに声をかけてくることだろう。

 或いは、放送部の王大河。桜が内心で密かに「歩くスピーカー」と呼んでいる彼女はどうか。いや、彼女の挙動には注意を払っている。今だって、彼女は桜とは別のグループでおしゃべりの真っ最中だ。

 

 気のせい、ということはない。

 大抵、こういう視線を感じる時は、実際に観察をされているのだ。桜は、過去の経験から良く知っていることだった。

 なにせ、ストーカー被害に遭ったのは一度や二度ではない。最初の頃は恐ろしくて泣いてしまったこともあったが、最近ではすっかり慣れたものである。対処の仕方も手慣れたものだ。

 少なくとも、マンションに盗聴器の類いがなかったことは確認済みである。隠しカメラも見つからなかった。

 

 そもそも、連日学園の中で視線を感じているのだから、学園の生徒か教師が犯人だと推定できる。しかし、隠れて観察をされるような心当たりはなかった。

 

(そろそろ、お嬢様にも話しておいた方がいいかな…?)

 

 しかし、話した後のことを想像してみて、余計に話が大きくなりそうだと気がついた。みほのことだ。授業を抜け出してでも、そのストーカーを捕まえようと動くだろう。大事に思ってくれることは嬉しいが、迷惑をかけたいとは思わない。

 

(まぁ、観察が校内に限られるなら、僕がボロを出さなければいいだけの話か)

 

 生憎と桜は、この数週間の間にすっかり女装での生活に慣れてしまっていた。最初は申し訳ない気持ちでいっぱいだった女子トイレも、もはや何の遠慮も、気恥ずかしさもない。今では、ほとんど無感情だ。それこそ、一緒の個室に入って桜の「アレ」を見られるか、密着した状態で体を熱心に触られでもしない限り、もはや男とバレることはないだろうと思われた。もしかすると、裸の上半身を見られたってバレないかもしれない。だったら、あとは根競べだ。なぁに、これでもし、ストーカーがあまりにしつこいようであれば、生徒会(さいしゅうしゅだん)を頼ればいい。

 

 そんな、如何にもなフラグを立てていることに、井手上桜は気づかない。

 本来、井手上桜という人物はもっと慎重な性格である。しかし、大洗のお気楽な空気に感化されたのか。或いは、年相応の子供らしさが顔を出したのか。ここ最近の桜は、自らのネジが緩んでいることに気がついていなかった。

 

 慣れというものは、必ずしも良い結果ばかりをもたらすとは限らないのである。

 

 ◆

 

 さて、冷泉麻子と出会ってから数日が経過した。

 その間、大きな動きは桜の周りでは起きていなかった。強いてあげれば、麻子が戦車道に参加するようになったくらいだが、桜は戦車道の練習には参加できないので、あまり関係ないといえば関係ない。お昼の時間に、食堂で一緒に食べる面子が一人増えただけのことである。

 

 彼女の低血圧は筋金入りのようで、朝はおろか、昼食の時間になっても眠たげにしていることも多かった。廊下で麻子を見かけると、まるで夢遊病者のようにふらふらと歩いている。おそらくは、知り合ったからこそよく目に付くようになっただけなのだろうが、よく今まで、自分はこんな有様の生徒が気にならなかったものだ、と桜は不思議に思う。ここ数日では毎日のように見かけているのだが。

 

 そして、今日も桜は、廊下をふらふらと歩く麻子の後ろ姿を見つけていた。

 すれ違う生徒たちは、麻子の形相にびっくりして道を開けている。しかし、彼女がどこに向かうのかは知らないが、そんな様子で階段を降りようものなら、足を滑らせてしまうと桜は恐ろしくなった。

 

 桜は今、実に珍しいことだが一人である。クラスが一緒なため、どこに行こうにも優花里は一緒についてくるし、放課後は必ずみほと一緒だ。学校の中で桜が一人でいる時間は、意外なことに短い。それは例えば、体育の時間くらいなものである。桜は、体が弱いと嘘をついて、体育の授業は免除してもらっている(着替えを覗いたり、過度に接触しないための緊急措置だ)。たまに見学をすることもあるが、最近はもっぱら点数稼ぎのために先生のお手伝いだ。

 

「あの、冷泉さん…?」

「その声、井手上さんか。…どうした、そろそろ次の授業がはじまるぞ?」

「その言葉、そっくりそのまま冷泉さんにお返ししたいのですが…」

 

 桜は正当な理由があって、今は職員室にプリントを運んでいるところである。教師に見つかったところで、後ろ暗いところはない。もうすっかり、教師陣には共有されていることである。

 一方、麻子には教室に急ごうとしている様子はなかった。

 

「自主休講だ。眠いので、保健室に行く」

「およそ堂々として言うべき台詞ではないと思うのですが…。ええと、大丈夫ですか?保健室、1階ですよね。その状態で階段を降りられます?」

 

 ふるふると今にも閉じてしまいそうなまぶたが、あらん限りの眠気を訴えている。

 桜は想像する。足を滑らせた麻子が、階段の下で潰れたザクロみたいになっている未来だ。それは、いつか実現してしまいそうな恐ろしさがあった。

 

 桜は、麻子とは友人でもなんでもない。しかし、既に麻子は、みほにとっての友人にカウントされていることだろう。麻子が死んだり、そうでなくても大ケガをすれば、みほはきっと悲しむはずである。

 

「あのぅ、少しだけここで待っててもらっていいですか?すぐに戻ってくるので」

「…?ああ、構わないが」

 

 桜は、傍目に注意をされない程度の早歩きに移行し、さっさとプリントを職員室に届けようとする。幸い、職員室まではすぐだった。あとは、追加の仕事を頼まれないように具合の悪そうなフリをして、麻子を待たせた場所まで戻るだけである。嘘をつくことは苦手でも、演技をさせればフーディーニだって見破ることはできないだろう。

 事実、3分とかからずに桜は戻ってきた。

 

「はい、お待たせしました。それじゃあ、行きましょうか」

「行くってどこに?」

「保健室です」

 

 麻子は、ぱちぱちと瞬きをした。明らかに驚いた様子である。

 

「井手上さん、具合でも悪いのか?」

「そんなわけないじゃないですか。風邪もひいたことがありませんよ、私は」

 

 西住の使用人を務める以上、体調の管理は初歩の初歩である。生まれてこの方、桜は一度も体調を崩したことがなかった。みほやまほの看病をしたことがあるが、一度として感染ったこともない。

 ちなみに、桜は最初聞いたとき、目を丸くして驚いたのだが、西住家では風邪をひいた場合、無理やり10kmほどをマラソンさせ、汗をかかせるという慣習があった。しかも、戻ってきたら水風呂で無理矢理熱を下げさせる。当然だが、そんなことをさせれば病状は悪化するから、良い子は真似をしてはいけない。西住流の人間は、きっと体のつくりが常人とは違うのだ。そんな、現代医学に喧嘩を売るようなしきたりを、みほもまほも桜に叱られるまで疑問も抱かずに続けていたのだから、無知とは恐ろしいものである。

 

 閑話休題。

 

「そんな様子の冷泉さんをお一人で保健室に向かわせるなんて、危なっかしくてできませんよ」

「…そうか。それはありがたいが、その、実際問題どうするつもりだ?」

「へ?」

「こう言ってはなんだが、井手上さんは私を背負うことも難しいだろう。背も私よりずっと高いし、肩を貸してもらっても歩きにくい」

「あー…」

 

 麻子の言わんとすることは、桜にもすぐに分かった。

 つまり、余計なお世話なのである。寧ろ、手を貸してもらったほうが歩きにくい、とまで言われてしまえば、桜にできることはなかった。実際には、桜の筋力でも廊下で麻子を背負うくらいのことはできる。できるが、階段を麻子を背負って降りるのは怖い。麻子だって怖いだろう。平らな道を歩くのが精一杯だ。

 また、麻子の言うように背の問題もある。桜の身長は、男子にしては低いが、それでも160cmはある。一方で、麻子は145cmしかない。同年代の女子の中でも特に小柄な体格をしているのだ。15cmも違っていれば、肩を借りて歩くのも一苦労である。

 

 だからといって、放置はあり得ない。

 

「この学校、エレベーターとかありませんか?」

「あると思うか?」

 

 少なくとも、桜は見たことがなかった。

 

 ◆

 

「や、…やっとつきました」

 

 桜たちはようやく、という思いで保健室に辿り着いた。扉を開けると、消毒液の独特の匂いがつんと鼻にくる。ゾンビのように両手を前にだらんと伸ばしながら、麻子は保健室のベッドを求めて部屋のなかに入っていった。

 桜は、と言うと、おっかなびっくり保健室の中を覗き込む。保健室の中は無人だった。鍵もかけず、養護教諭はどこへ行ったのだろう。

 

「この時間は、先生も留守にしていることが多いんだ」

 

 だからこそ、この時間は気兼ねなく保健室を仮眠室の代わりにできる。麻子は言った。

 そこまで把握している麻子のことを、果たして感心すればいいのか、それとも呆れればいいのか。桜は、たぶん後者だろうな、と思いながらも口には出さなかった。

 

 結局桜には、麻子の手を掴んで転ばないようにする、というのが精いっぱいだった。麻子の右手は手すり、左手は桜に繋がれ、ゆっくりゆっくり、引っ越しの業者が洗濯機でも運んでいるみたいな足取りであった。たった1階分の階段を降りるだけのことで、あんなにも神経を使ったのは生まれて初めての経験である。下手な運動よりも、ずっと疲れたような気分だ。足なんか、がくがくに振るえているような気がする。

 

「どうだ、井手上さんも休んでいったら」

 

 麻子は、気づくとすでにベッドのうちのひとつを占領していた。それでいて、保健室にはもうふたつ、空のベッドが用意されている。真っ白で、ふかふかのベッドである。

 

「では、少しだけ」

 

 横になるつもりはなかったが、教室に戻ったところでクラスメイトはみなグラウンドで運動の真っ最中だ。確か、今日の種目は持久走である。優花里あたりは喜んで走っていそうだが、桜にも麻子にも、どうしてカンカン照りのグラウンドで延々と走り続けるだけの競技が存在できるのか、一生理解できる瞬間はやってこないだろう。

 

 桜は、麻子の寝ているすぐ隣のベッドまで歩いて行って、スカートを押さえながらベッドの上に腰を下ろす。気持ち、ベッドのスプリングで体が跳ねた。横になったら、さぞ気持ちがいいことだろう。

 この時間、教室に戻ったところで、一人寂しく自習をするくらいしかやることがない。それならば、可愛い少女の寝顔でも眺めているほうが、よっぽど有意義な時間の過ごし方であるように感じられた。あるいは、こっそりみほの教室を覗いて、みほが学業に勤しむ様子を観察するのもいい。バレた時が怖いので、実行に移すような真似はしないが。

 

 静かな時間が流れていく。

 麻子は瞼を閉じ、静かな呼吸の音だけが聞こえる。わずかに外から授業の音、先生が教科書を読む声、黒板を叩く音、それらが環境音として耳に届いた。

 

「なあ、井手上さん」

「はい、なんですか?」

 

 少し、桜も眠りそうになっていた。横になっていたら危なかった。

 あと数分、麻子が声をかけなかったら、桜は無防備にクラスメイトの前で眠っていたかもしれない。

 

「その、な。私が間違っていたら、申し訳ないんだが」

 

 瞼を閉じながら、麻子が言う。

 言いよどむような気配。桜は麻子と接した時間は短いが、らしくないと思った。麻子は優しい性格だが、言うことは言うタイプだ。けして口数が多いわけではないが、寡黙というわけでもない。そのストレートな物言いは、桜は好ましいと感じていた。

 

 それでも、それでもだ。

 当然、それも発せられる言葉に依る。

 

 時には心の準備が必要だし、オブラートも欲しくなる。結果は一緒かもしれないが、過程も大事だと井手上桜は思うのだ。何より桜は、予想外の事態(アドリブ)が大の苦手である。

 

 何かを決心して、麻子が言った。

 

「…井手上さん、男だろ」

 

 桜は一瞬、耳が遠くなったのかと錯覚した。

 青春の音たちはどこかへと消え去り、まったく無音の空間に放り込まれたような感覚。現実感はあまりに薄く、脳が理解するのを拒んでいた。

 




 桜、バレる。
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