西住家の使用人   作:青葉白

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 日常生活で、人々がおおむね正直なことを言うのはなぜか。神様が嘘をつくことを禁じたからではない。それは第一に、嘘をつかないほうが気楽だからである。



11話

 井手上桜にとって、人生とは女装の歴史だったと言っても過言ではない。

 

 はじめて女物の服を着させられたのはいつだったか。

 本人に記憶はないが、それは生まれてすぐの頃である。

 

 井手上の家は、両親とも働いている。桜の母親である井手上菊代は、戦車道の日本最大の流派、西住流本家の使用人であり、日本戦車道連盟の仕事も手伝っている。収入は、普通の家庭よりは多かったはずだ。しかし、菊代の学生時代からの友人にして、今は雇用主である西住しほには、桜よりもひとつ年上になる娘がいた。しほは、昔から菊代には世話になっていたし、子を持つ母親としては先輩だ。つまり、ここは日ごろの恩返しをしなくては、と要らぬ気遣いを発揮したのである(この時、しほ自身も第2子を妊娠中である)。

 

 結果、まほのお下がりが大量に送られてきた。それも、大抵は一度も使っていないんじゃないか、と思うような新品同然の綺麗な服ばかりだった。しほは、赤ん坊の成長する速度を勘違いしていたのである。あれもそれもと買い揃えるうち、まほはすくすくと大きくなっていった。

 尤も、赤ん坊のころは男とか女とか、そういう性差を一番無視できる時期だ。菊代にも、しほは善意でやっていることが分かっていたので、ありがたく頂戴することにした。彼女の善意を汲んで、桜にまほのお下がりを着せたのだ。

 

 と、ここまでならよかったのだが。

 

 しほは、その次の年も、その次の次の年も、次の次の次の年も、同じようにまほのお下がりを渡してきた。

 どうやらしほには、菊代の役に立てたことが嬉しかったようである。しかも面倒なことに、桜に着せてみた感想を一々聞いてきたりした。これには、流石の菊代も苦笑いであるが、まさか着せていないとは言えない。しほは全くの善意なのである。だから、桜の写真を撮って見せたり、実際に西住の家に連れて行って、しほに抱かせたこともあった。その度に、しほの鉄面皮は少しだけ緩むのだ。

 

 そんなやりとりが、桜が5歳になるまで続けられた。

 

 5歳にもなると、流石に自我が芽生えてきて、桜も女の子の服は嫌だと言うようになった。ひらひらのスカートやピンクやオレンジのかわいい服ではなく、もっと男の子っぽいズボンなんかをはきたいと言ったのだ。その頃には、菊代も我が子のあまりの可愛さに感覚がマヒしていたところだったが、桜の言葉に正気を取り戻した。そう、我が子(さくら)は男の子なのである。

 

 しかし、その頃のみほとまほの服装はどうだったか、というと、スカートも全く履かないわけではなかったが、どちらかと言えば、ズボンをはくことが多かった。毎日外で泥んこになるまで遊ぶようなわんぱくな子供だったのである。つまり、ズボンもまほのお下がりだった。

 

 これは、菊代も桜に話していない事実なのだが、実は、桜が小学生の頃の私服のほとんどがまほのお下がりである。まほがかわいい服を好まなかったことが幸いしていた。そして、聡い子供だったまほは、当然、桜の着ている服が自分のお下がりだということに気づいていた。気づいていたが、敢えて口にするようなことはなかった。まほとしても桜のことは気に入っていたから、桜が自分の服を着ているのは悪い気分ではなかったのだ。

 

 さて、普通ならば、男児が女児の服を着ても違和感がないのは、精々が小学生の低学年くらいまでの話である。それは当然、精神的な側面もあるが、外見的な問題も無視できない。男と女では、顔つきは違うし、体つきも違うのだ。成長するにつれて如実に違いが表れてくる。図形で例えるなら、女性は丸で、男性は三角や四角だ。

 

 しかし、中には例外もいる。

 

 ホルモンバランスの問題なのか、遺伝的な事情なのかは分からないが、ともかく、桜は一向に男性らしい見た目には成長しなかった。それどころか、桜は中学、高校と進学するにつれて、ますます女らしい体つきに変化していった。線は依然として細いままだが、体つきは心なしか丸みを帯び、肌は柔らかくなった。ウエストも少しくびれている。それは、神様が桜の設計図を間違えてしまったのでは、と疑わずにはいられないほどである。

 

 要するに、桜の容姿を見て、男だと言い当てるのは非常に難しいことだった。挙げ句には、男子の制服を着ていても、男装を疑われる始末である。ましてや、容姿以外にも声だって中性的だし、女系の家で使用人を務めていることもあってか、所作も洗練されていてどこか女性的な色気を感じさせる。そんな桜を見て、まほはからかい半分、嫉妬半分の調子で、「桜に女らしさで勝てる気がしない」と言ったこともあった。

 

 家にいる時の、自然体でさえそれなのだ。幼い頃から家族のように接しているまほでさえ、たまに桜の性別を忘れる瞬間があるほどなのだ。女装をしていて、さらに女子生徒としての振る舞いを意識している井手上桜など、股間にあるアレを確認したところで、何か幻覚を見たで済まされそうなものである。

 

 だからこそ、角谷杏は、露見する危険(リスク)を承知でしほの提案を受け入れた。

 それこそ、桜の股間にあるアレを写真に撮られて、学校新聞に掲載でもされない限りは大丈夫だろうと思ったのだ。

 

 角谷杏は、人を見る目には自信があった。およそ一年、生徒会長として大洗学園艦の運営にも携わってきたのだ。その経験値は、もはや学生の枠には収まらない。

 その杏をして、桜の性別を見破れるとは思えなかった。落ち着いた色合いの着物を見事に着こなした桜の姿は、事前にしほから男であると聞かされていたにも拘らず、やはり女性にしか見えなかったのだ。知らされていなければ、二つ返事で桜の転入を許可しただろう。

 だから、桜の性別が露見するとすれば、それは余程の事態だと思っている。

 

 尤も、人は何かしら()()を出すものだ。どれだけ完璧と思われた計画であっても、大抵1つか2つは、必ず粗が見つかるものだと杏は承知していた。ましてや、杏は桜のことをよく知っているわけではない。どれほど理知的で注意深い性格であるかなど、一度の会話だけで把握することはほとんど不可能だ。角谷杏は、臆病な(ちゅういぶかい)のである。

 

 最悪の場合、とかげのしっぽにされる準備があるだなんてことは、桜は当然知るはずもなかった。

 

 ◆

 

「…井手上さん、男だろ」

 

 保健室の真っ白なカーテンが風に揺れた。

 窓の外には、だらだらに汗を垂らしながら、それでも健気に走り続けている級友たちの姿が映る。

 

 静寂。

 

 保健室の中には、音はなかった。

 それでも、どくんどくん、と激しく脈打つ音が、自分の中から聞こえる。むしろ、うるさいくらいだった。

 桜は何かを言おうとして、口を開く。しかし、桜の口は、ぱくぱくと開閉するばかりで、意味のある言葉は漏れてはくれなかった。

 

 桜は、予想外の事態には滅法弱い。

 何をするにも必ず事前の準備を欠かさず、頭の中で何度も何度も何度もシミュレーションを重ねるタイプだ。あるいは、何かを真似る。大洗での生活においては、桜は記憶にある母の姿を模倣(トレース)しているのだった。母ならば、こうするだろう。こう答えるだろう。使用人として、母を手本に、その背中をずうっと目で追ってきたおかげだった。

 

 そんな桜に対し、突如(ほう)られた爆弾は、あっという間に桜の思考力を奪ってしまった。

 当然だ。(きくよ)は生来の女性なのだから、そんな質問が放られることはあり得ない。そんな事態のマニュアルは、整備されていないのだ。

 

 幸い、取り乱すということはなかったが、何も反応ができないという姿を見せては、麻子の言葉が核心をついていると認めるようなものだった。

 けれど、桜には悪足掻きをする以外の選択肢はない。

 

 たとえ、冷静に考えたところで、今更何を言おうと無駄だろうという結論に至ることは間違いない。

 それでも、桜は認めるわけにはいかなかった。

 もしも、ここで誤魔化すことができなければ、桜はこの学校にはいられなくなる。それどころか、最悪の場合、牢屋の中だ。二度とみほに会うことはできないかもしれない。

 

 ぐるぐる、ぐるぐると最悪の想像ばかりが頭の中を埋め尽くす。

 想像の中の留置所にしほが面会にやってきたあたりで、ようやく桜の意識は現実に戻ってきた。

 

「い、嫌ですねぇ、冷泉さん」

 

 桜は、どうにかこうにか、口を動かす。ふるふると唇が震えていることは、ベッドに横になった麻子からも分かっただろう。

 背中にはじんわりと嫌な汗をかいていて、頭の中身は未だに大部分がマヒを起こしている。それでも言葉を紡ぐことができたのは、桜の意地のようなものだった。

 

「私のどこを見たら、その……お、おと、…男に……うぅ」

 

 しかし、()()()()()()()()、自分が男に見えないなどとという暴言を、他でもない桜自身の口から言うというのは、ひどく精神にダメージを受ける自傷行為のようなものだった。

 

 桜は、一度として女らしくなりたいなどと望んだことはない。むしろ、男らしくなりたいと、涙ぐましい努力を重ねた過去があるほどだ。自分の容姿を必要以上に卑下することはないが、私服を着ていても女性と間違えられるのは、なかなかに思春期の少年にとっては辛いものがある。

 

 むしろ、女装をして大洗に通っているという事情さえなかったら、麻子の言葉に感動を覚えたかもしれない。恋愛感情を抱くということも、もしかしたらあり得たかもしれない。少なくとも、普段のすましたキャラクター性などは投げ捨てて、大声とともにガッツポーズをしただろう。

 

 それくらい、桜にとっては衝撃的な言葉なのである。

 

「そもそも大洗は女子校ですよっ。お、男が通えるわけないじゃないですかぁ!…あ、あははっ、あははははっ!」

 

 小学校の学芸会だって、もう少しまともに演技ができるだろう。

 桜の目は明らかに泳いでおり、声は震えてしまっていた。棒読みとか、それ以前の話である。

 

 やがて、麻子の目がかわいそうなものを見るような目に変化していると、桜は気がついた。

 これは、演技にそれなりの自信があった桜にはショックである。

 

 しかし、桜は負けを認めるわけにはいかなかった。

 とにかく、思いつくままに言葉を投げる。どれだけ自分が女らしいのか、ということを並べたてた。

 その度、桜は自分の心を金づちで殴りつけているような気分を覚えたのだが。

 

 そうしているうちに、桜の精神に限界が訪れた。

 

「――――」

 

 ほろり、と温かいものが桜の頬を伝う。

 混乱が桜の臨界点を超えたのだ。

 

「井手上さんっ!?」

 

 これには、流石の麻子も目を大きく見開いて跳ね起きた。

 靴下ということも忘れて、ベッドから床に足を下ろし、桜に駆け寄る。だからと言って、麻子にはどうすることもできなかった。

 ただ、呆然とした表情で固まって、ひたすらに涙を流し続ける桜のまわりで、おたおたと慌てることしかできない。

 その姿は、果たして桜の目に映っているのだろうか。麻子には、桜の様子が機能を停止したロボットのように思えて恐ろしくなった。

 

「井手上さんっ!井手上さん!?」

 

 がくがく、と肩をゆすり、桜の反応を確かめる。

 しばらくの間、桜はされるがままで、一切の反応を示さなかった。首ががくんがくんと前後に揺れる。

 そのうち、麻子まで泣きそうになる始末だ。

 

 そうして、1分以上は揺すり続けていただろうか。

 桜の頭がもう少しで取れそうになった頃、ぼそりと力のない声が漏れ聞こえた。

 

「れい、ぜいさん…」

 

 麻子は、何かに救われたような気持ちになって、それを待った。

 果たして、弱り切った桜の口から聞こえたのは、何かを悟りきった上での、ささやかな要求だった。

 

「介錯をお願いしてもよろしいでしょうか」

「いいわけあるかっ!」

 

 麻子は、自分がこんなにも大声を出せるのだ、ということをはじめて知った。

 

 ◆

 

 ようやく桜が平静を取り戻した頃には、授業の時間はあと半分もなくなっていた。窓の外では、級友たちが砂の上ということも気にせず寝転がって休んでいる。

 桜と麻子は、隣あったベッドにそれぞれ座り、互いに向かい合っていた。

 

「お見苦しいところを……、すみません」

「いや、こっちもなんというか、すまん」

 

 桜は、生まれたての赤ん坊のように顔を真っ赤にしている。

 人前で泣いたことなんて、果たしていつ以来のことだったろうか。

 

 ともすれば、桜のメンタルが弱いように思われてしまうかもしれないが、それは誤解である。ただ、桜の状況があまりにも特殊であり、日々のストレスや蓄積されたプレッシャーが吹き出してしまったに過ぎない。

 

 桜とて、普通の思春期の少年なのである。

 周りは同年代の異性だらけで、しかも、桜は異性であるとバレてはいけないのである。

 およそバレないだろうとは、桜自身も思っていた。しかし、意識をしないわけにもいかなかった。自分は異物であるという自覚、皆を騙しているという罪悪感。それこそ、スパイか何かの訓練を受けたわけでもなければ、自ら志願をしたわけでもない。桜の感じていた精神的な不安は、想像を絶するものであっただろう。

 

 そんななかで、大洗の空気は心地よかった。女子校というのは、簡単に慣れるような環境ではなかったが、生徒はみな優しく、何より自然体だった。そんな空気に感化されたのか、そのうち、桜も演技を忘れることが多くなり、肩の力を抜いて生活できるようになった。

 当然、それは油断にも繋がったことだろう。振り返れば、桜にも自覚がある。しかし、桜が精神に抱える負担は、ずっと軽いものになっていた。段々と、大洗に通うことが苦痛とは感じなくなっていたのである。

 

 そんなところに、()()だ。

 

 桜は自分の迂闊さを責め、後悔した。そして、自身のアイデンティティを崩すような発言を繰り返したことで、思考は負のスパイラルに陥った。

 やがて、桜の豊かすぎる想像力は、自分を排除しようと痛罵するクラスメイトや沙織たちの幻影を作り出すに至る。彼女たちは、犯罪者を見るような目を向けて、執拗に桜のことを責め立てた。

 意外だったのは、桜自身は友達とも思っていなかったはずの沙織や華の幻影からの言葉に、胸が痛み、鼻の奥がつんとしたことだった。

 

「その、そういうつもりではなかったんだ…」

 

 麻子が困ったように言う。

 

「どうしても気になってしまって、確かめたくなった。誰にも言うつもりはないし、井手上さんを脅すつもりもない。安心してくれ」

 

 その言葉に嘘はないのだろう。

 現に麻子は、不器用ながらも桜を慰めようとしてくれたし、今もこうして話を聞こうとしてくれている。

 そのつもりがあったなら、今ごろとっくに麻子は保健室から逃げ出して、警察に電話をかけている頃である。

 

『もしもしポリスメン。私の学校に女装をした変質者が入り込んでいます』

 

 情状酌量の余地はない。

 

「だから、本当のことを教えてほしい。井手上さんは、本当に男なのか?」

「…はい」

 

 もはや、桜に嘘をつき続けることはできなかった。それは、心に余力がなかったということもあるが、ここまでの醜態を晒した以上、言い訳ができるとも思わなかったのである。

 

「はぁ…。…本当に」

 

 しかし、半ば確信していたであろう麻子は、意外にも驚いたような反応を見せた。じろじろと桜の顔を眺める。

 

「私が言うのも何だが、男には見えないな」

「え?」

 

 これには、桜もびっくりである。

 

「え、男だと気づいたから、今日、話をしたんですよね?」

「そりゃあ、そうだが。…外見じゃあ、分からん」

「ええっ!?」

 

 桜が素っ頓狂な声をあげる。てっきり、麻子には何もかもを見抜かれているのだと思っていた。それこそ、あれがいけない、これがいけないと、桜の思い上がりを指摘されるものだと覚悟していた。

 

「じゃ、じゃあ、どうして私が男と分かったのですか…?」

 

 桜が訊ねる。すると、ああー、と何かを思い出すように目線を少しだけ空中に向けて、言った。

 

「はじめて疑いを持ったのは、一緒に遅刻をさせてしまった時だな」

「初めて会った時じゃないですか」

 

 そんなはじめからぼろを出していたとは、桜にも予想外である。

 桜は、あらゆることに自信がなくなってしまいそうだった。

 

「あのとき、井手上さんは倒れそうになった私を抱き止めてくれただろう?」

「え、ええ、まぁ」

 

 思い返せば、そんな出会いだった。ふらふらと酔っぱらいのようになっていて、駆け寄ったところで倒れこんできたのだ。

 

「そのとき、意図せず胸に触ってしまってな。…あまりに胸がなかったのと、下着を着けている感触もなかったから」

「!?」

 

 桜は、咄嗟に自分の胸を両手で隠すようにして、気持ち麻子から体を逸らすようにした。…まるで、普通の女子のようである。これは、全くの無意識だった。

 

「悪かった。ただ、井手上さんは背も高…くはないのか。ともかく、女子としては高いから、胸が全くないというのも変だ、と思ったのがきっかけだ」

「けれど、それだけなら…」

 

 女性に対して失礼かもしれないが、背が高かろうと、胸のない人は一定数いるものである。それこそ、ブラを必要としない人もいる。「小さい」、とかではなく、「ない」のだ。

 そして、そんなことは麻子だって知っていることである。

 

「だから、それはきっかけ。それからしばらく、学校での様子を観察させてもらった。おかげで昼間も眠くて仕方なかったがな」

「…ああ、あの視線は、冷泉さんだったのですか」

 

 桜は、ここしばらくの謎の視線の正体が麻子だと分かって、得心がいった。言われてみれば、あまりにも麻子と遭遇することが多かったのだ。これまで意識をしていなかったとしても、ああも具合を悪そうにした麻子を見かけていれば気になったはずだ。それこそ、初対面の通学路のように。

 

「すると、やっぱり私は、何かぼろを出してしまっていたのですね」

「いいや」

 

 麻子は首を振る。

 

「結局、確信が得られるようなことはなかった。所作は完璧。外見も女にしか見えない。ただ、着替えのときは、そそくさと教室を出ていくから、少し怪しいとは思ったが、証拠と呼ぶには弱すぎる」

「それじゃあ…」

「ここまで来るのに、手を繋いだだろう。少し、脈が早くなった」

 

 折角落ち着いたのに、かぁっ、とまた桜の頬が赤くなる。

 つまり、そういうことだ。

 冷泉さんの手、ちっちゃいなぁ、とか。

 冷泉さん、体温が低いなぁ、とか。

 そういうことを考えたのがいけなかったのだ。

 

「正直、半分くらいかな、と思っていた。だから、心配することはない。井手上さんの女装は、滅多なことじゃバレない」

 

 確かに、桜の所作や外見から違和感を得たわけでないのなら、不用意な接触にさえ気を付けていればよさそうである。寧ろ、麻子とて半分はかまかけだったのだ。備えるべきは、かまかけにも動じない心構えかもしれない。

 

 しかし、そうは言っても、麻子には男ということがバレたのだ。

 

「れ、冷泉さんは、いいんですか?」

 

 まるで、麻子は桜のことを許すと言っているようだった。

 特に断罪しようというつもりも見られず、気持ち悪いと思っている様子もない。もっとも、あまり気持ちが表に出るタイプではないのか、付き合いの浅い桜には分からないだけかもしれないが。

 

「いい、というのは?」

「だって、冷泉さんは私が男だと知ったわけじゃないですか。ここは女子校ですし。…気持ち悪いとか思いませんか?」

「なぜ?」

「なぜ、って。だって、冷泉さんは、私が男かもしれないと思って、観察までしていたんですよね。それって、男だったら、私のことを追い出そうとか、最初はそういうつもりだったんじゃあないんですか?」

 

 桜がおそるおそる訊ねると、麻子は、まぁそうだな。と言った。

 

「沙織、…友人の近くにおかしなのがいたら、警戒するのは当然だろうが。まぁ、井手上さんがいい人だということは、この数日でよく分かったからな。井手上さんだって、おかしなことをするつもりはないんだろ?」

「それは勿論!」

 

 桜は、迷うことなく言い切った。

 ゆかりやみほとのあれやこれやは、不可抗力である。桜の意思とは無関係である。

 

「それなら、これ以上聞くことはない。男でも女でもどっちでもいい。…これからも、沙織とは仲良くしてやってくれ」

「そんな…。むしろ、こちらからお願いしたいことです」

 

 桜が頭を下げる。すると、それきり、麻子は話は終わったと言わんばかりに、ベッドに横になって寝転がってしまう。

 あまりに拍子抜けな展開に、桜はぽかんと置いていかれたような気分を味わった。

 

 麻子は、本当にそれきり、桜に訊ねることはしなかった。

 桜がどうしてそんな格好をしているのか。することになったのか。誰がそれを知っているのか。みほは桜とどんな関係なのか。そんなことは、一切気にしていない様子である。

 本当に、沙織に害が及ぶか及ばないか。それだけが分かれば、麻子には十分だったのだ。 

 

 こうして、桜は解放されたはずである。

 桜は、最大の危機を乗りこえたのだ。

 それなのに、桜の心臓のどきどきは、まだ治まらなかった。

 

「あ、あの、そろそろ次の授業がはじまっちゃいますよ」

 

 時計の針を見れば、もうすぐ授業の終わりを知らせるチャイムが鳴る寸前だった。そのあと10分間の休み時間が挟まって、すぐにも次の授業が始まってしまう。あまり悠長にしていたら、次の授業にも遅刻してしまうかもしれない。

 

 すると、顔を桜に向けることもなく、麻子は言い放つ。

 

「……いいんだ。寝た気がしないからな。次も自主休講だ」

 

 桜は、そんなことをしているから、進級が危なくなるんだ。と言いかけた。沙織がいつも麻子のことを心配していたから、たぶん、本当にまずいのだろう。

 けれど、麻子が眠いことも本当だ。そして、その原因のいくらかは、桜なのだ。もしかすると、桜の知らないところで、相当麻子は気を揉んでいたのかもしれない。そう思うと、野暮を言うことは躊躇われた。

 

「おい、次の授業がはじまるぞ」

 

 チャイムが鳴っても、一向に保健室を出ていこうとしない桜に、しびれを切らして麻子が言う。ぐるん、と半分だけ体を転がして桜の方を向いた。視線がぶつかった。

 

「あ、いえ。少し、疲れてしまいまして」

 

 桜の頬は、赤いままである。

 もしかすると、本当に具合を悪くしたんじゃないか、と麻子が心配になるほどだ。

 桜は、頬を赤くしたまま、言う。

 

「わ、私もっ!次の授業が終わるまで、ご一緒してもよろしいでしょうかっ!」

 

 まるで、一世一代の告白をするみたいである。

 麻子は、何がなんだか分からなくなって、思考を全部放り投げた。

 

「……好きにしろ」

 

 それきり、麻子はもう一回体を転がして、桜がいるのとは反対の方を向いた。背中に、何か視線を浴びているような気がしたが、それはきっと気のせいである。

 




 それすなはち、吊り橋効果といふ。
 或いは、ストックホルム症候群かもしれない。
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