ただし、他人を扱う際には、心を用いなさい。
「桜くん」
ある日のことだ。
いつも通り家の掃除をしていると、桜は母に呼び止められた。
桜は働く手を止めて、母と向かい合うようにして立ち上がった。
悲しいかな、身長は同じくらいだった。
桜の母は、井手上菊代といった。
彼女は、桜の雇い主である西住しほとは学生時代からの友人であり、同時に西住家の家政婦という立場だ。
桜にとっては、母であると同時に、同僚であり、仕事の上司のような存在である。仕事の指示を受けることもあったし、指導を受けることもあった。
西住家も大概だが、桜と菊代の関係も普通の親子とは一線を画していた。それを選んだのも桜自身なので文句はないのだが。
「なんでしょうか、母上」
「奥さまがお呼びです」
「奥さまが?」
西住本家において、奥さまと言えば、それは西住しほのことを指した。
西住しほは、西住流戦車道の師範代にして次期家元であり、実質的には家元同然の仕事をこなしていることもあって対外的にもそのように扱われている。女系の西住家において、一番偉いのはしほであると言って過言ではなかった。
しほは、先述の通り、桜にとっては雇い主だ。
しかし、意外なことにしほは公人としてでなく、私人として桜に接することも多かった。もしかすると、彼女の子供たちよりその機会は多かったかもしれない。その場合、愚痴を聞かされることもあったし、母の友人として話を聞いてくれたり、大人としての意見をくれたこともあった。たぶん、友人の息子という、丁度いいくらいに肩の力を抜ける相手だったのだろう。普通の人の親としての顔を見せた。いつも気を張っていては疲れるというものだ。
「失礼します」
呼び出されたのはいつもの執務室ではなかった。
そう言えば、今日は来客があったはずである。
しほに来客があるのは珍しいことではないが、相手が高校生とあっては少し気になった。
それも、黒森峰の生徒でもないというし何事だろうか。
果たして、がらりと襖を開けて中に入ると、見慣れない制服(セーラー服によく似ているが、胸当ての部分が緑色である)を着た少女が机を挟んでしほと向かい合いに座っていた。しほは、相変わらずの黒スーツである。
少女は、赤っぽい髪を黒のリボンで結んでツインテールにしている。背丈は、かなり小さい。ともすれば、小学生にも見えるくらいだ。桜は、今日のお客様は高校生と聞いていたので少しばかり面食らっていた。
だが、何も面食らったのは、桜だけではなかった。
その少女、角谷杏もまた、桜の容姿に驚いていた。
こんな話があった。
角谷杏は、大洗女子学園の生徒会長である。
彼女は、とある依頼をするために、わざわざ学校を休んでまで熊本の西住本家にやってきていた。というのも、どこかから西住みほが黒森峰を転校するという話を聞き付けたのだという。そして、もしもその話が本当であるとしたら、是非大洗に転校してきてほしいということだった。
しほは、彼女の情報網に驚いたし、どんな手を使ったかしれないが、こうして西住流の次期家元との面会にまでこぎ着けた手腕に並々ならぬ執念のようなものを感じていた。
しほも最初は、大洗に戦車道がないということは知っていたし、みほが戦車道をしたくないと言うのなら、転校先としてすすめるのもありじゃないかと思った(少しばかり熊本からは遠すぎるが)。しかし、わざわざしほにお願いをしにくるという時点で、何らかの思惑があることは察せられた。ひとりやふたり、生徒数を集めるためだけに生徒会長が直接動いたりはしないだろう。
「大洗に戦車道を復活させようと思っています」
真面目ったらしい顔でそう宣言した杏には、ある種の覚悟が感じられた。
小さな体に何か重たいものを背負っているような、そんな不退転の覚悟である。
責任感の強い娘だ。しほは微笑ましいと思うと同時に、深く同情した。
しかし、それと自分の娘が利用されることとは別の話である。
「戦車道を復活させるだけなら、言葉は悪いですが、勝手にやればよろしいでしょう。戦車を集め、人を集め、お金はかかりますが、外部から講師でも呼べばよろしい。そういうお話なら、うちの門下生を貸すというのも吝かではありません。しかし、あなたはみほが欲しいとおっしゃる。それは、何故ですか?」
杏は、重々しい空気の中、汗を垂らしながらしほのプレッシャーに耐えていた。
心臓の音がうるさい。ともすれば、口から心臓が飛び出してしまいそうなくらいに暴れている。
本音を言えば、今すぐにでも逃げ出したいという気持ちでいっぱいだった。
杏は、学生にしては肝の座った方であるが、対面するのは西住流の次期家元である。大人でもしほを苦手とする人間は少なくない。子供と侮ってくれるような相手ではなかったし、視線が合えば、首に刀を当てられているような錯覚に襲われた。
この相手に、嘘や誤魔化しは通用しないだろう。むしろ、学生相手に誠実に向き合ってくれている。大人を相手にするのと同じように、礼には礼を、不義理には不義理を返してくると思われた。
一秒、二秒と、少しだけ目をつぶって、角谷杏はすべてを話す決心をした。
「…学園艦の統廃合。そんな話があるのはご存じでしょうか」
「噂程度であれば。なんでも、学園艦の維持にも運営にもお金がかかるから、ということですが、まさか?」
「ええ、そのまさかです。大洗の学園艦は、来年の3月を以て解体となります」
しほは、話のスケールに驚かざるを得なかった。
学園艦には、数千人、規模によっては数万人という生徒が住んでいて、さらにその家族などの居住者も決して少なくない人数が暮らしているのである。それが解体されるとなれば、人々への影響は計り知れない。転校すればいい、引っ越しをすればいいという問題ではないのである。場合によっては、生活すら危ぶまれる人だって出てくるだろう。
「大洗には、目立った実績がありません。生徒数も年々減少の一途です。学園艦を解体する。廃校にすると言われてしまっても、反論の材料がありませんでした。ですから」
「戦車道、ですか」
「はい。近々戦車道の世界大会が予定されていて、文科省も力を入れようとしていることは知っていましたから」
しほは、深く息を吐いて、そして、天井を見上げた。
みほが欲しい、と言った角谷杏の置かれた状況が理解できたからだ。
「啖呵を切りましたか」
「それ以外に道がありませんでした」
大した娘だとは思っていたが、角谷杏という少女は、しほの想像以上だった。
こうして戦車道の選手を探していることからすると、何某かの廃校を撤回する条件を受け入れさせたのだろう。
それは、決して簡単な条件ではないのだろうが。
しほは、西住流の師範とは別に、高校戦車道連盟の理事長も務めている。文科省とはそれなり以上に関係があるし、最近ではプロリーグ設置委員会の委員長の打診もされていた。だから、どれほど文科省が戦車道に拘らざるを得ないかを知っている。おそらく、それ以外のカードでは、交渉のテーブルにつくこともできなかっただろう。そういう意味では、まさに起死回生の一手だったことに違いはない。
果たして、自分が高校生だった頃に、同じ状況で同じような結果を掴みとることができただろうか。
もはや感心を通り越して、驚きの境地である。
「幸い、大洗には過去に戦車道をやっていたという記録がありましたし、訓練に使えそうな場所にも心当たりがありました。尤も、それは20年も前のことでしたし、当時の戦車はほとんどが売られたようで、書類を確認しても残っているのは僅かに数輌といったところでしたが」
「それでよくも…」
しほが呆れたような声を出すと、杏は困ったように笑った。
「他にありませんでしたから」
しほは、杏の笑顔を痛々しいとすら思ってしまった。
はぁ、とため息が漏れる。
しほの脳内では、様々なものが浮かんでは消え、消えては浮かんでを繰り返した。
それは、西住流の次期家元としての立場であるとか、娘の進退であるとか、世間の声とか、まぁ色々である。何分、抱えているものが多かった。
勘違いされることも多いが、しほは決して情に疎い人間ではない。堅い物言いを好むところはあるし、姿勢の良さや顔つきの鋭さも相まって、鉄の女とまで言われることもあった。しかし、それは単に公私の区別がはっきりしているというだけであって、実際には、休みの日には家族サービスをするような、どこにでもいる普通の母親である。それこそ、娘と近い年齢の子供が困っている姿を見て、無体な真似はしたくないと思ってしまうくらいには至極全うな倫理観を持っていた。
「…黒森峰には、まほがいます」
「存じています。それを知った上で、私にはお願いをすることしかできません」
そう言って、角谷杏は静かに頭を下げた。
しほはだんだんと、自分が
しほにとって、戦車道と娘のことはどちらも重要なことで、しほ自身複雑なのだ。そこに他人の事情まで絡まれてしまっては混乱するのも仕方がなかった。
「知っていることかもしれませんが、特に高校の戦車道では、学校間の力の差が明確です。ここ10年程は、上位に入賞した学校の名前もほとんど代わり映えがしません。日本戦車道の一流派の師範として、こう言うのはよくないかもしれませんが、戦車を動かすということは、一朝一夕でどうにかなるものではありませんから、敷居が低いとは言えないでしょう」
角谷杏が、そんなことは分かっている、という顔をした。
分かったうえで、なお一縷の望みにすがり付くほかないのだ。
けれど、しほが言いたいのはそういうことではなかった。
「つまり、まぐれが期待できるような世界ではありませんし、たとえみほが転校したところで、結果を出せるとは限りません。いえ、寧ろ新設チームをいきなり勝たせるなど、あの子でもほとんど不可能でしょう。その時、力が及ばなかった。廃校にしてしまったという負い目を、あの子に負わせたくはありません」
母としては、みほが大洗に行くことで、戦車道をすることで、心にさらに深い傷を負うのではないかという心配がどうしても消えてくれなかった。しかし、人の親として、全うな大人としては、角谷杏に力を貸してやりたいとも思う。そして、西住流の師範代としては、みほの才覚も知っているし、敵に塩を送るような行為だ。つっぱねるべきだという考えと、みほの戦車道の才能がこのまま埋もれてしまうのを惜しいと思う気持ちがまぜこぜになっていた。
そんな、絶妙のバランスでしほの心の天秤は左に右に揺れに揺れた。
おかげで、しほはどうにも踏ん切りをつけることができないでいる。けして、しほに意地悪をするつもりはないのだが。
すると、思い詰めた表情の杏が、何事かを話し出した。
「これは、娘さんに話すつもりはありません。いいえ、既に知っている生徒会のメンバーのほかには、誰にも話すつもりはありません。たとえ、戦車道に参加してくれた生徒にも、戦車道は、生徒会長たる私の我儘で、廃校ははじめから決まっていたものと、そのように伝えるつもりです」
折角なら楽しんで欲しいですから。
角谷杏は、健気だった。
子供ひとり。数万人という人生は、その肩には重すぎる荷だ。それを、逃げることなく、諦めることなく、誰かに押しつけることもなく、抱え込もうとしている。優しい娘だ。優しすぎて、今にも潰れてしまいそうなほどに。その結末が、全てを失うことなのだとしたら、そんな報われないことはない。
しほの中で、ようやく心の天秤がどちらか片方に傾いた。
「…いくつか条件があります」
しほが言うと、杏が大きく目を見開いた。
やがて、ぎゅ、っと目を瞑ると、何かを堪えるようにして、ゆっくりと目を開ける。しっかりと姿勢を正して、震えるように声を絞り出した。拳が、強く握られている。
「聞かせてください」
しほは、みほが大洗に転校した場合でも、戦車道を拒絶するようなことがあれば、それを尊重して欲しいと言った。勧誘をすることは構わないけれど、選択の自由は与えてあげて欲しいと。
杏は、少し躊躇ったあと、分かりました。と頷いた。
そして、ふたつめに、今日の話について、みほには黙っていて欲しいと言った。
しほがみほに戦車道を続けて欲しいと願っていることが知れれば、遠慮をしてやりたくもない戦車道を続けようとするかもしれない。純粋な、みほの気持ちで選んで欲しいから、というのが理由である。他にも、廃校のことが伝わるかもしれないという危惧もあった(大洗の生徒会長がわざわざ熊本を訪れるというのは、かなり奇異なことである)。
杏は、それが条件なら、と半分納得していないような顔で頷いた。
「それと、もうひとつ」
「なんでしょう」
これがみっつめであり、しほにはもしかすると一番重要な条件かもしれなかった。
「みほの他に、もう一人、受け入れて欲しい生徒がいます」
「生徒、ですか?」
大洗は、生徒数の減少も問題のひとつであった。だから、一時的とはいえ、生徒数が増える分には大歓迎である。一人と言わず、二人でも三人でも受け入れる土壌はあるつもりだった。
尤も、その生徒に何の問題もなければ、の話であるが。
「私の友人に、井手上菊代という女性がいます。この家の家政婦なのですが、彼女の息子をみほと一緒に転入させて欲しいのです」
「なるほど、わかりま……、え?」
淀みのないしほの口調に、杏は勢いで頷いてしまいそうになったが、どうにか堪えた。そして、自分の聞き違いかと疑ったが、よくよく考えて、聞き違えるような単語ではなかったと思い直した。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
らしくもなく、角谷杏は大いに狼狽したが(普段の彼女は飄々として、何事もうまく受け流すような性格である)、然もありなん。
角谷杏は、大洗女子学園の生徒会長である。
要するに大洗は、所謂女子校であり、誰ぞの息子ということならば、転入させたい生徒とは男子ということになる。
「ど、どうしてその、井手上さんの息子さんが転入という話に?うちは女子校なのですが…」
「存じています」
きっぱりと言い放った。勘違いとか、言い間違い、聞き間違いという線はたち消えた。
「桜は、…ああ、菊代の息子のことなのですが、彼は、うちの使用人のようなものです。幼い頃からみほやまほの遊び相手をして、そのうち身の回りの世話をするようになりました」
「失礼ながら、息子ということは、その、さくらさん?は、男性ですよね?」
「ええ、男の子です。ですが、兄弟のように育ったせいでしょう。みほもまほも、性別というものを然程気にせずに接していました。それで、ええと、一人暮らしというのは、その、親としては心配になるものでしょう?」
西住しほは、戦車道においては鬼だとか、そうでなくても竜だとか虎だとか、とかく厳しい訓練で知られているし、門下生ですら恐れる女傑であることは間違いないのだが、一旦戦車道を離れてしまうと、ぶっちゃけモンスターとは言わないまでも過保護な親だった。
娘たちが黒森峰の寮で生活することになったときも、心配のし過ぎで暴走し、遂には菊代に怒られたくらいである。公私の区別がはっきりしてるのは良いのだが、バランスの取り方がなんとも極端だった。それでいて、娘たちにはそういう姿を隠そうとするのだから、誤解が生まれるのも仕方がない。
「言わんとすることは分かります。ですが、男性を学内に入れるというのは少し。いえ、そういうことを危惧しているのではなく、生徒として、というのが…。もう少し、上の年齢の方では難しいのですか?それでしたら、教師ということで受け入れることもできると思うのですが…」
杏は言葉を選びながら、まぁ平たく言えば、嫌だということを伝えようとした。
しほの推薦(?)する人物だから、人格的に問題はないのだろうが、学校の規律と安全を任されるものとしては、心配をし過ぎて悪いということはない。何より、女子の中にひとり男子が混ざったとして生徒たちがどう思うか。
「その、質問を返すようで申し訳ないのですが、角谷さんが心配されているのは、具体的にはどういうことでしょうか」
「単に、女子校に男子が入学するということが前例のないことですので。世間的にも、風聞はかなりマズイでしょう」
来年にはなくなるのだから、今さら評判がどうこうと気にするのも変な話だが、だからといって、厄介ごとが起こると分かっているものを受け入れたくはない。だったら、多少年齢を誤魔化すとかして、女性の使用人を紛れ込ませたほうがリスクは低いように思われた。その手の工作なら、小山が得意である。
そんなことを提案しようとしたところで、先にしほが口を開いた。
「でしたら、女子として入学させるのはどうでしょうか」
「はい?」
「桜は、本人に言うと怒るかもしれませんが、あまり男の子らしい容姿ではなくて。この辺りでは、美人三姉妹と昔から有名だったんですよ」
そう言って昔を懐かしむようにして微笑むしほの姿は、なるほど親馬鹿だな、と杏が思ってしまうのも仕方がないほどだった。
「変に説明をするより、見せたほうが早そうですね。少し、待っていてください。桜を呼びます」
そう言ってしほが、近くの女中を呼びつけて、件の桜少年を呼んできて欲しいと指示を出した。違和感なく着物を着こなし、黒の髪が目を惹くような美人であった。杏には、いったいいくつだろうかと、いまいち年の頃がつかめなかった。
その人物こそ、井手上桜の母親、井手上菊代であったということは、杏には分からないことだった。このときよくよく観察をしていれば、このあと来る桜少年と似た顔立ちをしていることに気がついたかもしれない。二人の関係性を考えれば、桜が菊代に似ているのであるが。
杏は、内心で先々のことを思って、どうしたものだろうと煩悶した。
もちろん、はりついたような笑みを崩すことはなかったが、意外な親馬鹿っぷりを見せられては、少年の容姿に期待はできなかった。親馬鹿というか、友人馬鹿とでも言えばいいのだろうか。ある程度の贔屓目が入ったものだろう、と杏は予想した。
なにも、杏は美醜に対して拘りが強いというわけではない。一応、人並みの美醜の感覚は持っていたし、劣っているよりは優れているほうがいいとも思っている。だが、それで他人を評価するつもりはなかった。ただ、今回ばかりは重要なことだった。
「失礼します」
襖の向こうから声が聞こえた。
杏は、さっきの女中さんかな、と思った。
がらりと襖が開いて、顔を見せたのは着物を着た少女だった。
年の頃は自分と同じくらいじゃないかと思った(杏自身の見た目は同い年の少年少女に比べるとかなり幼く見えるが)。背は自分よりも高いが、際立って高いというほどではない。おそらく160の前半くらいだろう。姿勢がいいから、もしかするともう少し低いのかもしれない。割合短く切り揃えられているが、混じりけのない綺麗な黒髪で、大きくたれ目がちな瞳は、穏やかな気性を感じさせた。化粧っ気はないが、鼻先もすっと通っており、下手なアイドルなんかよりよっぽど美人である。
「よく来てくれました。角谷さん、桜です」
「え?」
杏は、しほの言葉に一度しほの方を振り向いて、すぐに少女のほうへ視線を戻した。
いや、彼女が件の桜という少年なのだとしたら、少女と呼ぶのはおかしい。
おかしいが、杏にはそれが少年であるとはどうしても思えなかった。
着物(それも女性用である)を違和感なく着こなしているというのもそうだが、顔立ちは明らかに少女のそれである。先程の声だって女中さんと間違うほどであったし、部屋に入ってきてからの所作は、自分が自信を無くすくらい一々女性らしかった。それはもう、しほの勘違いとか、冗談を疑いたくなるほどである。しかし、今日は4月1日ではない。
「桜、こちら大洗女子学園の生徒会長を務めてらっしゃる角谷杏さんです」
「井手上桜と申します」
「え、ああ、角谷です」
よろしくお願いします、と頭を下げる仕草ですら、見入ってしまうほど綺麗だった。おかげで杏は、少し反応するのが遅れた。
もしも本当に目の前の人物が男なのだとしたら、神様は残酷である。杏は、そう思わずにはいられなかった。
しほが、これまでの話を桜にする。
みほが転校することや、その転校先に大洗を選ぶよう杏がお願いに来たこと、大洗が戦車道を復活させようとしており、そのためにみほに来て欲しいこと、しほとしてもみほには戦車道を続けて欲しいと思っていることなど、廃校のこと以外はおおまかにそのほとんどを伝えていた。
すると桜が、ひとつよろしいでしょうか、と口の端をひくひくとさせながら質問をした。
「なんでしょう」
「私は男なのですが、どうして女子校に通うことになったのでしょうか」
そうですよね!という共感と、そうなんですか!?という驚愕とがいっぺんにやってきて、杏の脳内は盛大に混乱状態に陥った。
「大丈夫です、桜。あなたなら絶対にバレません」
「バレるバレないの問題ではないのです、奥さま。世間一般の常識に照らした『倫理観』のお話と、私の『精神衛生的な負担』の話をしているのです」
「倫理観など、何を今さら。みほの着替えだって手伝っているでしょうに」
ぶんっ、と杏はツインなテールが暴れるくらいの勢いで桜の方へ振り向いた。
何やら聞き捨てならないことを聞いた気がしたのだが。具体的には、そこな男(仮)が変態かそうでないかの瀬戸際のようなことをである。
「…人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。あくまでお洋服の準備をするだけで、一から十までお手伝いしているわけではありません」
桜は、極力下着姿などを目に入れないよう配慮はしているし、みほが着替えはじめれば部屋を出るように気をつけていた。まるで変態を見るような目を向けられるのは心外である。
ただ、
「それに、お嬢様のお着替えを手伝うことと、男が女子校に入り込むこととは関係ないでしょう。言ってしまえば、騙すようなものですし。下手をすれば犯罪です」
「ですが、女の裸には慣れているでしょう?」
「奥さま。人聞きが悪すぎます」
人聞きが悪いし、言葉の選び方が最悪だった。
杏が何やら性犯罪者を見るような目を向けている。
重ねて言うが、桜はみほが着替え出す時には目を逸らすか部屋を出るかを必ずする。だから、もしも万が一仮にも見えてしまうことがパーハップスあるとしたら、それはもう事故なのだ。事故だから、ひゃっほうとかラッキーとか眼福とか、そういう下世話な感情を抱いたりはしない。ただただ、ごめんなさいと心の中で謝って、静かに記憶という名前の
桜としては、二度とかかわり合うつもりのない相手だから、杏に何を思われても平気といえば平気だが、少なくとも同じ年頃の異性から向けられたい視線ではなかった。それに、何かの間違いでみほ相手におかしなことを喋られるのは困る。
しかし、そんなことはつゆ知らず、というか意に介さず、しほはマイペースに話を続けた。たぶん、気心の知れた桜がいることで公人としての仮面が剥がれてきている。杏にもそろそろ、西住しほという人物が分かり始めてくる頃だった。
「桜は、みほが遠い場所で暮らすのも心配ではないのですか?」
「奥さま。お言葉ですが、
「桜は、菊代のようなことを言いますね」
「母の背中を見て育ちましたから」
毅然とした態度で答える桜の姿に、杏はそれなりに好感を抱いた。
ともかく誠実そうな男(仮)である、と評価を2段階くらい心の中で上方修正する。杏に読心能力でもあったら違っただろうが。
それはそうと、そろそろ援護射撃をしなくては話が流れてしまうのでは、と俄に焦りだしているのだが。杏には、なんともしほの旗色が悪そうに見えた。
だが、しほとて伊達に西住流の看板を背負っているわけではない。公人としての仮面が崩れようとも、海千山千の口達者共とやりとりをしてきた経験は本物である。
「しかし、黒森峰でのことがあります」
「それは…」
そう言われてしまうと弱い桜だった。
実際、黒森峰で起こったあれこれを後から聞いて桜はずいぶんと心を痛めたし、みほのことを励ましてあげたいとも思った。それこそ、自分が離れた場所にいるということで、もどかしい気持ちになったのは確かだ。落ち着かない様子でうろうろとする桜の姿もしほには見られている。
「過保護だということは、重々承知しています。しかし、二度目はあの子も耐えられないかもしれません。もしものことがあったとき、支えてくれる誰かが必要なのです。桜、あの子のこと、お願いできませんか」
「うぅ…」
しほが、じぃっと桜のことを見つめた。
これが、大洗が共学で、女装という障碍がなければ桜としても二つ返事である。確かに、みほのことは心配だったし、みほのお世話をすることは最早生き甲斐と言っても過言ではない。黒森峰が女子校でさえなかったら、きっと付いていっただろうと自分でも思う。
しほのことを過保護と言ったが、桜とて大概である。
しかし、女装をして高校に通うというのは絶対に嫌だし、男として譲れないものがあった。
何せ、ただでさえ女に間違われることが多いうえに、最近では男子のクラスメイトから熱い視線を向けられ、背筋の凍る思いをしたばかりである。
一度でも受け入れてしまえば、何となく、戻れなくなるような気がして怖かった。
「角谷さんからも何か言ってください!男が女子校に通うのは、無理ですよね!?」
桜が、懇願するような視線を杏に向けた。相変わらず、男には見えない。ともすれば、ちょっと泣きそうな顔は、うまい具合に庇護欲を誘う。女子の武器としては立派なものだ。
杏の中で、世間体とか、学校の将来とか、生徒たちの安全とか、風紀とか、西住流とのコネクションとか、少年の自尊心とか、書類の偽造とか、露見したときのリスクとか、そういういろんなものが天秤のそれぞれに乗っかっていく。
杏は、うーん、うーん、と悩んで(脳内の話で、実際には数秒もかかっていない)、先にしほの言葉が割り込んだ。
「桜、あまり角谷さんを困らせるものではありませんよ。ね?」
「…問題ありません」
杏は、目を瞑ることに決めた。
「え?ねぇ。ちょっと?角谷さん!?」
だから、無情にも生け贄になることを見捨てた瞬間、桜少年がどんな顔をしていたのか杏には分からない。ぐあんぐあんと肩を強く揺すられているが、きっと気のせいである。
「ちょっと、無視しないでください!聞こえてるでしょ!?目を合わせてください!!」
ただ、できる限りの便宜は図ってあげようと心に誓った。
おまけ
あんず「そういうわけで、4月から2人転入してくるから」
ゆず「え、えええ!?」
あんず「ついでにそのうち1人は男だから」
ゆず「え、えええ!?」
あんず「男だけど女装させるから」
ゆず「え、えええ!?」
あんず「んじゃ、書類の偽造とかちゃちゃっとよろしくー」
ゆず「え、えええ!?」
あんず「あ、それと、このこと河島には内緒な。あいつ隠すの下手そうだから」
ゆず「あ、うん。そうだね。それがいいよ」