西住家の使用人   作:青葉白

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 無心さ、純粋さ、素直さなどは人の心を打つ。
 その力は、こざかしい知恵をはるかに凌駕する。



6話

「あれ、この子…」

 

 戦車道の履修者の一覧をぱらぱらと捲って眺めていると、見覚えのある名前が見つかった。

 尤も、仲がいいというほどの相手ではなかったが。というか、まともに話したこともない。たまたまクラスメイトだから、という理由で覚えていただけである。

 

「どうかした?」

 

 桜が手を止めたことに気がついた柚子は、桜の近くまでやってきて、徐に椅子の後ろから桜の眺める履修者のリストを覗きこんだ。

 ふわぁ、っと甘い香りが広がる。ともすれば、ほんの少しで柚子の髪が桜の頬に触れるほどの距離だった。桜は、気持ち体をずらして、柚子にリストが見やすいようにしてやった。

 柚子は、桜が動いたことに気づいていない様子だった。

 

 桜は、一瞬だけどう言ったものかと悩んだが、気になった以上言わないのもなんだか収まりが悪い。結局は言うことにした。

 

「小山先輩、そういうの気を付けたほうがいいですよ」

「へ、なに?」

 

 柚子は、まったく無意識のようだった。

 桜は、差し出がましいとも思ったし、男の自分が言うのはいかにも気持ちが悪いとも思ったが、柚子は来年には高校を卒業し、順当にいけば大学生になる。勿論、柚子が女子大学に進学するということも考えられるが、いずれにしろ異性と交流する機会が今よりも増えることは確かだろう。知った仲でもないが、これから世話になる相手だ。忠告をするくらいはタダである。嫌われたら、そのときはそのときだ。

 

「先程も言いましたけど、こんなナリでも私は男ですから。男にあまり無防備に近づくの、よくないですよ。先輩は大変可愛らしい方ですし、気があると思って、勘違いをされても困るでしょう?」

 

 しばらく、何を言われたのか分からない。そんな顔で、柚子は桜のことを見つめる。

 やがて、顔中を真っ赤にして、勢いよく飛び退いた。

 

「か、か、か、かわ…っ!」

 

 なにか信じられないことを言われた、そんな様子だった。息の仕方を忘れたかのように、延々、口をぱくぱくと開けたり閉じたりを繰り返してる。顔の色も相まって、夜店の金魚を連想させた。

 

 桜も、いくらか気味悪がられるくらいのことは覚悟していたが、それにしたってあまりにもオーバーなリアクションである。桜にしてみれば、当たり前のことを言ったまでのことなのだが。

 

 柚子の容姿が優れていることは、誰の目にも明らかだ。桜でなくとも、男なら見惚れるのは当然のことだし、可愛いというのはお世辞でも何でもない。これだけ容姿が優れていれば、告白のひとつやふたつ、受けたこともあるだろうに。

 そこまで思い至って、そういえば大洗(ここ)は女子校だったということに気がついた。

 

 つまり、沙織と同様に、異性に対する免疫がないのである。

 ますます将来が心配になった。

 

「ぷっ、あっはっはっ!こ、小山っ!かおっ、顔がっ、茹で蛸みたいになってるよ!はっはっはっ!」

 

 ひぃひぃひぃ、と腹を抱えて杏が笑う。ともすれば、そのままよじきれてしまいそうだ。

 ますます柚子が体を小さくさせた。

 

 ばんばんばん、とソファの空いたところを叩く。一頻り笑ったあと、杏はすっかり冷めてしまったコーヒーに手を伸ばした。

 

「いやあ、笑った笑った。やるねぇ、井手上ちゃん。こんなに小山が取り乱すの、はじめて見たよ。意外に初心なんだねぇ、小山」

 

 杏は、笑いすぎで目元に浮かんだ涙を指で拭いながら、にやにやと意地の悪い笑みで柚子のことをからかう。柚子には何かを言い返す気力はないようだった。

 ずずず、とコーヒーを飲んで、その苦さに顔をしかめた。

 

「ま、青春は大いに結構。好き合うなり付き合うなりするのはふたりに任せるけど、その前に面倒事にも付き合ってもらわないとね」

「つ、つきあっ!?」

 

 すっ頓狂な声をあげたのは柚子である。

 いい加減うんざりとした桜は、杏のことを責めるようなじとーっとした目で見つめた。

 

「会長、話が進まないのですが」

「あー、うん。小山をからかうのはまた今度にするよ。あんましやると、後が怖いしねぇ」

 

 にはは、と苦笑いのようなものを浮かべた。

 

 温厚な人間ほど、というのはよく聞く話だ。

 幸い、杏は見極めることがうまいので、柚子を怒らせたことはない。しかし、桃がまずいことを言って柚子を怒らせた場面は何度か見たことがあった。確か、一言も口をきかなくなって、終いには河嶋が泣き出してしまったのだった。

 はじめの頃は、まさか柚子が桃に対してあんなに怒るとは思わなかったから、杏もどうすればいいか分からなくなって涙が滲んだことを覚えている。これでこの関係もおしまいか。そんな風に寂しくなったものである。

 

 柚子は、静かに怒るタイプだった。

 

「それで、話は戻るけど、リストを見てどうかしたの、井手上ちゃん。知り合いでもいた?」

「いえ、知り合いというか、同じクラスの人がいたので」

「ふぅん、お友だち?」

「いえ、話したこともないです」

 

 しれっとした調子で桜が言い放つ。すると、杏がまた声をあげて笑いだした。

 杏という少女は、意外と笑い上戸なのかもしれない。

 

「そういうとこ、結構冷たい人間だよね、井手上ちゃん。それで、ええと。同じクラスってことは、井手上ちゃん何組だっけ?」

「C組ですね。2年C組」

「C組、C組、っと。へぇ、この子か」

 

 杏もテーブルに広げられた紙束の中から一部を拾いあげて文字を追った。そこには、履修希望者の名前と所属のクラスが書いてある。

 2年C組。その文字列が、井手上桜の隣以外にもうひとつ見つかった。

 

「秋山ちゃん。秋山優花里ちゃん」

 

 声に出してみても、杏には聞き覚えのない名前だった。

 

 ◆

 

 秋山優花里という少女は、いわゆる人見知りというやつだった。

 というのも、彼女には友人らしい友人がおらず、同世代の相手とも何を話せばいいのかまるで分からなかった。昔はそんなこともなかったと思いたいのだが、今ではもうすっかりだ。

 

 彼女は、幼い頃から戦車に興味があった。それは、並々ならぬ、と形容してもいいほどで、彼女の部屋にはたくさんの戦車グッズが溢れかえっている。それらのほとんどが、少ない小遣いをやりくりして買い漁った戦利品のようなものだった。

 

 親が特別戦車に興味を持っていたというわけでもない。むしろ、せっかく集めた模型や雑誌類を、こんなに沢山あっても邪魔だから、と捨てられそうになったこともある。テストの点が悪かったら、と人質(?)に捕られるのもいつものことだ。

 あまり女の子らしい趣味でない、と理解を得るのも難しかった。

 

 世間では戦車道というスポーツがあったが、いかんせんマイナーだった。それよりも野球やサッカーという球技の方がよっぽどメジャーだったし、バレーボールや卓球など、女性が活躍するスポーツも他にいくらでもあった。ニュースで取り上げられることは少ないし、テレビでの中継もほとんどない。

 それでも、優花里が最も熱中したのは戦車だった。

 

 当然ながら、そんなに熱中する戦車のことは他人にも語りたくなるものだ。

 小学校に入ったばかりの頃、優花里は近くの席のクラスメイトに熱く戦車についてよく語ったものだった。

 低学年のうちは、まだよかった。耳を傾けてくれる人もいたし、戦車に興味を持って一緒に盛り上がってくれる人もいた。

 しかし、優花里は生まれも育ちも大洗の学園艦の上だ。戦車道なんてとっくに廃れていた、大洗の学園艦である。当然周りに戦車など動いていないし、戦車道をやっている人もいなかった。懐かしいと語るのは、優花里の親よりも上の世代になる。

 

 優花里以外のみんなは、そのうち戦車に興味を持たなくなった。子供の興味関心など、移り変わるのは早いものだ。どれほど優花里ひとりが熱烈に語ったところで、実際に目にすることもなければ自然と興味は薄れていく。

 もっぱら話題は、流行りのドラマだとか、歌やおしゃれの話にシフトしていった。その話に、悲しいかな、優花里はついていけなかった。

 

 すると、優花里はますます、ひとりの時間を戦車に費やすようになった。熱心に雑誌を読み漁り、戦車のスペックを頭に叩き込んだ。模型を組み立てては、それを一日眺めて過ごしたこともある。

 友人などできるはずもなかった。

 

 ならば、戦車道のある学校に行けばよかったのでは、と思われるかもしれない。しかし、前述のとおり、優花里は生まれも育ちも大洗の学園艦だ。内地からやってきた他の学生らと違い、実家がそもそも学園艦の上である。また、優花里の家はけして裕福というわけでもなかったし、そのことを優花里もよく知っていた。たまの遠出が精一杯の贅沢だ。家に余計な負担をかけるような選択は、優花里にはできなかったのである。

 

 これが、内地に家があったなら、どちらにせよ一人暮らしになるのだから、と割りきることもできただろうが、もしもの話をしても仕方がなかった。

 

 高校に進学して、ああ、これからもひとりで退屈な3年間を過ごすのか、そんな風に思った。今さら、クラスメイトの話題についていけるはずもないし、興味を持つこともできない。あからさまな苛めがあったわけではない。その点は幸いだった。ただ、相手にされないだけ。透明人間のように毎日を過ごした。

 

 空虚な一年間が過ぎて、優花里は二年生になった。

 高校の生活では、何も変わらない。せめて内地の大学に行って、戦車道関連のサークルに入ろう。そのために進学に困らない程度の学力をつけよう。それだけが学校に通い続ける理由だった。自分が変わることじゃなくて、環境が変わることに期待した。

 

 転校生がやってきた。

 転校生は、井手上桜という名前だった。

 

「学園艦での生活は初めてなので、色々と教えていただけると嬉しいです。どうぞ、よろしくお願いします」

 

 綺麗な人だった。

 

 背は、平均か、女子にしてはやや高い方だと思った。おそらく、160よりは大きいか。体つきは華奢だが、不思議と頼りないという印象は受けなかった。むしろ、姿勢がよく、仕草も一々気品があって、優雅とか、格好いいという印象を受けた。もしかすると、いいところのお嬢さんなのかもしれなかった。

 

 髪は夜空のような漆黒で、肩口に届かないくらいに短く切り揃えられている。しかし、輝くような艶があって、よく手入れをされていることが遠目にも分かった。

 

 そして、顔立ちは驚くほど整っている。

 大きくたれ目がちな目元は、淑やかさとか奥ゆかしさというものを感じさせたし、シミひとつない白い肌は絹のように滑らかで、きっと触れれば泡のように柔らかいのだろうなと思わせた。

 

 彼女は、あっという間にクラスの人気者になった。

 

 ともすれば、その整いすぎた容姿は、異質に映ったり、やっかみの対象になったりするものだが、彼女にその心配は無用だった。

 

 彼女は、容姿だけでなく、性格までも優れていた。

 誰に対しても笑顔で応対し、決して相手を否定するようなことを言わなかった。知識もあって、流行にも詳しかった。

 このうえ、趣味が料理や裁縫だと言うのだから、神様の贔屓もここに極まれり、だ。大和撫子は絶滅していなかったのである。

 

 優花里も、彼女と話してみたいと思った。

 あっという間にクラスに打ち解けた彼女を見て、彼女なら、こんな自分のことも受け入れてくれるんじゃないかと思ったのだ。

 戦車に詳しければ最高だが、知らないなら知らないで話を聞いてくれるだけでも構わなかった。

 

 けれど、長い孤独(ぼっち)という期間が、優花里から話しかける勇気とか、そういうものをすっかり奪ってしまっていた。

 

 結局、桜が転校してきてから一週間以上、優花里には桜と話すきっかけが見つけられず、横目で桜の姿を追いかけるだけの日々が続いた。

 

「あのぅ、秋山さん」

 

 いつも通り、今日も一日が終わる。放課後になって、あとは帰るだけだった。

 不意に声をかけられた。目を向けると桜がいた。

 

「い、井手上さん!?」

 

 まさか話しかけられるとは思っていなかった優花里は、まだ人の残る教室で派手に驚いてしまった。椅子から立ち上がる音が響き、注目が集まったのを感じる。ただ、()()()()()()()が出なかったことに心底安堵した。

 

 すると、ふわりと桜が笑った。

 

「ああ、よかった。名前、覚えててくれたんですね」

 

 それは、寧ろ優花里の台詞だった。

 片や、クラスの人気者。片や、クラスの日陰者。ともすれば、優花里の名字を知らないクラスメイトだっているかもしれない。桜にクラスメイトだと認識されていたことにも驚いているくらいだ。

 

 しかし、優花里が本当に驚くのは、ここからだった。

 

「もし、よろしければ、このあと一緒に帰りませんか」

 

 教室中のざわざわが、ぴたっ、と止まった。

 

 そして、え?という言葉がどこかから聞こえる。

 それは、優花里の口からだったかもしれないし、他のクラスメイトからだったかもしれない。ともかく、そんな小さな呟きが聞こえてしまうくらいには、教室の中は静まりかえっていた。

 嵐の前の静けさ、という言葉があるが、それはまさしくこんな状況をさすのだろう。

 

 やがて、たくさんの叫び声のようなものが響いた。

 

 ◆

 

「あの、よかったんですか?」

「はい?何がです?」

 

 桜たちは、混乱に陥った教室を見捨てて、さっさと帰路についていた。

 優花里は、誰かと一緒に帰るなんて小学校の集団下校以来である。何を話していいのか分からない。

 ただ、突然の桜の行動には疑問のようなものを感じていた。何より教室中があんなことになったのだ。質問をしても、おかしいことではないと判断した。

 

「だって、いつもはA組の西住、さんと一緒に帰ってるじゃないですか」

 

 噂話とか、そういうことに疎い優花里でも知っているくらいのことだった。

 すると、いかにも恥ずかしい、という表情を桜がつくった。

 

「ああ、知られていたんですね。…いいんですよ、たまには別に帰ることがあっても」

 

 嘘である。

 もしも心の底から言っているのだとしたら、それは井手上桜の偽物を疑うべきだ。もしくは、洗脳か催眠術の類いである。

 

「いくら幼馴染みと言ってもね。いつでも一緒なんて、気が休まらないでしょう?」

「…はぁ、そういうものですか」

 

 桜は、しれっとした口調で語った。

 どこかで聞いたような言葉だったが、優花里は疑わなかったようである。

 

 ちなみに、桜は嘘を考えるのは得意ではない。基本的には善良で、感情を素直に表現する桜には、どうしても嘘を考えるということが向いていなかった。

 しかし、嘘を演じるということに関しては、桜はプロフェッショナルである。何せ、一日の半分を自分の性別を偽って生活しているのだから、得意でなければ務まらない。

 

 つまり、基本的な設定とか、台本とか、そういうものを用意されれば、それを演じるくらいのことは造作もなかった。監修は、もちろん角谷杏である。

 

「今日は、その、どうして誘ってくれたんですか」

 

 優花里が尋ねる。

 これは、当然予想されて然るべき質問だった。

 

「秋山さんと、お話ししてみたいと思ったからですよ。折角クラスメイトになれたんですから、仲良くしたいと思うのは変ですか?」

「それは…」

 

 優花里には答えられない問題だった。

 だって、優花里はそうじゃないから。いや、仲良くなれるものなら、仲良くしたいと思う。何も、好きで透明人間をやっているわけではないのだ。ただ、優花里にはそのための努力ができないというだけである。

 けれど、それが普通の高校生として異端だということくらいは、流石の優花里でも分かっていることだった。

 

「そう、ですね。はい」

 

 だから、特別な何かを期待した優花里は、少しだけ落ち込んでしまった。いや、言葉は徐々に小さくなって、顔は俯きがちになった。傍目には、すっかり落ち込んだ素振りの完成だ。どうにも、家族以外と会話をしなかった影響で、表情を繕うという機能がうまく働かないらしかった。つまり、それだけがっくしきていた。

 

 しかし、そんなことには気がつかないフリをして、桜は会話を続けようとした。一々触れてやるよりも、時には無視してやった方が円滑にコミュニケーションができることもある。

 コミュニケーションの基本は、とにかく話をさせてやることだ。トークに余程の自信がない限りは、自ら話をして盛り上げるよりも、話しやすい話題を振って盛り上がったように振る舞う方が何倍も楽である。

 

「それで、秋山さんは普段どんなことをされてるんですか?ご趣味とか。日課のようなものはありますか?」

「趣味、ですか」

 

 話のとっかかりとして、趣味という話題は実に優秀だ。

 共通の趣味なら自然と盛り上がることも多いし、詳しくない趣味なら、聞き役ということで相手に好きなだけ語らせることができる。

 尤も、読書や映画など、無難な回答をする相手は要注意だ。大抵、人には言いづらい趣味を隠していて、気を許すまで時間がかかることも少なくない。

 

 すると、優花里は一瞬何かを考えるような素振りを見せたあと、おずおずと、恥ずかしいことを暴露するみたいに話し出した。

 

「…そうですね。強いて言えば、トレーニング、でしょうか」

「トレーニング?」

 

 それは、まるっきり予想外の回答だった。

 ただ、でまかせとか、にわかとか、そういう感じはしなかった。

 

「何か目標があるわけじゃないんですが、とにかく体を鍛えたくて。ランニングとか、筋トレとか、本を参考にやってるんです。部活もしていないのに、と思われるかもしれませんが」

 

 優花里は、ほんのり頬を赤くして、そんなことを言った。

 しかし、桜は、そんな優花里の顔には目もくれず、じろじろと、スカートから覗く脚とか、長袖に隠れた腕とかに目を向けていた。そこに、そういういやらしい気持ちは微塵もない。

 

 ただ、触ってみたい。

 純粋に、それだけだった。

 

 これを、男性の格好で言葉にしたなら、警察を呼ばれたって文句は言えない。言えないが、桜は今、まったく都合のいいことに女子の格好をしている。傍目には桜が男子と分かる人もいない以上、合意が成立していれば、大きな問題はないように思えた。

 

 天下の往来とはいえ、二の腕を触るくらいのこと、女子同士のちょっとしたじゃれあいである。

 

 そんな言い訳で、桜は倫理観よりも興味の方を優先させた。

 脚を触るならアウトだが、二の腕はぎりぎりセーフである。素肌じゃなく、制服の上から触れるというのもポイントが高い。いや、高いから何だ、という話だが。

 

「あの。二の腕とか、触らせてもらっても?」

「え?あ、はい」

 

 優花里は、言われるままに右の二の腕を触りやすいように差し出した。

 それに吸い込まれるように、桜の掌がゆっくりと優花里の腕に迫る。

 

 むに。

 むにむにむに。

 むにむにむにむにむにむにむにむにむに。

 

 桜は立ち止まり、荷物までおろして、一心に優花里の二の腕を揉んだ。真面目な顔で揉んだ。

 優花里はされるがまま、恥ずかしいやらむず痒いやら、よく分からない気分だった。

 

 たっぷり1分以上は揉んだだろうか。

 やがて、満足したのか優花里の二の腕から手を離した桜は、ふらふらと歩いていって、近くの塀に両手をついた。表情は暗く、今にもため息を吐きそうだった。

 

「い、井手上殿!どうかしましたか!?」

「…いえ、何でもありません。世の不条理を嘆いていただけです」

 

 なんということはない。ただ落ち込んでいただけである。

 

 優花里の二の腕は、桜のそれよりも太かった。しかし、不要な脂肪で膨らんでいるのではなく、しっかりと筋肉がついたことによって大きくなった二の腕だ。引き締まったいい筋肉をしている。見せるためではない、動かすための筋肉だった。

 

 桜がどれだけトレーニングを重ねても、手に入れられないものがそこにはあった。

 きっと、優花里と腕相撲でもすれば、桜は手も足も出ずに負けるだろう。

 

「率直に言って、羨ましいです。私もトレーニングを日課にした時期がありましたが、秋山さんのようにはなれなかった。どうにも筋肉がつかなくって、そのうち面倒になって止めてしまいました。心が弱かったんですね」

「そんな」

 

 そこに、誇らしいという表情はなかった。

 むしろ、苦笑いのようなものが浮かんでいた。

 

「私だって、何度も止めようと思いました。こんなことをしたって何にもならないし、意味ないし、いつも辛い、止めたいって、そんな風に思ってーー」

「だけど、続けた」

 

 話せば話すほどに項垂れていった優花里が、桜の言葉に顔をあげた。

 

「本当に綺麗な筋肉です。今も、毎日のトレーニングを欠かしていないんだなって、分かります。本当にすごいです。尊敬します」

 

 これは、桜の素直な気持ちだった。

 女性は、どうしても筋肉を発達させるホルモンが少ないために、男性に比べて筋肉がつきにくい。それこそ、見た目に分かるほどの筋肉をつけるには、年単位の努力と運動以外に食生活にも気をつけなければ無理だろう。頭が下がる思いだった。

 

 優花里は、泣きそうになった。

 

「秋山さん…?」

「い、いえ。すみませんっ。そんなこと、っ言われたことなくて…」

 

 いつか戦車道をすることを夢見て、ずっとトレーニングを続けてきた。

 装填手とか、操縦手とか、筋力がなければ務まらない役割もある。経験では、どうしたって劣るのだ。せめて、体くらいは負けないものを作りたかった。

 

 けれど、女の子らしくないから、親には止められた。本当に戦車道ができるかも分からないのに、太くなっていく腕を見て、脚を見て、お気に入りの服が着られなくなって、自己嫌悪に陥ったこともあった。他のクラスメイトたちと比べて、自分は醜いんじゃないかという強迫観念にもとらわれた。着替えの時間が大嫌いになって、部屋でも衝動的に姿見を叩き割りたくなったこともあった。

 

 そんな全部が、桜の言葉で報われた。

 

「私、今日秋山さんを誘ってみて、本当によかったって思います。秋山さんが、こんなにがんばり屋な人だったなんて、全然知らなかったから」

「井手上、さん」

 

 桜の頭から、杏の用意した台本は、綺麗さっぱりなくなっていた。

 

 生徒会に集められる限りの優花里の情報から、考えられる質問、その回答。そこから展開されるだろう会話のパターンを杏が文字に起こし、桜はまさしく寝る間も惜しんでそれらを頭に叩き込んだ。桜からアドリブが実は苦手と聞いた杏の精一杯のサポートだった。そんな、周到に用意された全部を桜は鮮やかに無視をした。

 

 その方がいいと思えたのである。

 

「ねぇ、秋山さん。呼びづらかったら、好きなように呼んでくださって構いませんよ?私は、それを気にしませんし、それが秋山さんらしさだと思うから」

 

 ね?と桜が笑いかけた。

 

 これは結果論であるが、もしも桜が、機械的に台本の中から台詞を選んでいたなら、優花里は桜の言葉に感激することはなかったかもしれない。美辞麗句を並べられて、ほどほどに気分をよくしたかもしれないが、きっとそれで終わっていた。

 

 吹っ切れることはできなかったに違いない。

 

「井手上殿ぉー!!!」

「うわぁ!?」

 

 気が付けば、優花里は桜に抱きついていた。

 それは、まったくの不意打ちで、桜には優花里を避ける余裕もなかった。

 尤も、仮に避けられたとしても、桜の男の子の部分が避けることを拒否したかもしれないが。

 

 甘くていい匂いが鼻腔から頭の中に入り込み、桜の思考をぐずぐずにさせた。

 

 よく鍛えられた腕でがっちりとホールドされて、桜はまったく動くことができなかった。けれど、胸のあたりに感じられる、ふにょん、とした柔らかい膨らみは、間違いなく女性のそれである。あまり密着をされると男ということがバレるのではないか、という心配もわいてくるが、そんな心配よりも、一秒でも長くこの素敵な感触を味わっていたいという思いも否定できなかった。

 

 いくら見た目が華奢で女らしいといっても、桜は思春期真っ只中の男子高校生である。

 正直、適度に鍛えられてはいても、ところどころ柔らかくていろいろとたまらない女子の体を抱きしめたいとか、あのふわふわの髪の毛に頭を突っ込んでくんかくんか頭の匂いを嗅ぎたいだとか、そういう衝動に駆られたのは確かである。

 

 けれど、それでも、僅かに井手上桜の理性が勝った。

 

「あ、秋山さんっ!?ちょ、ちょっと!!」

 

 桜は、空いた手のひらでなんとか優花里の背中を叩いて、優花里を正気に戻そうと試みた。それは、まるでプロレスのタップアウトを彷彿とさせたが、興奮しきった優花里は気づいていないようである。桜の声も耳には届かないらしかった。

 

「私、嬉しすぎて死にそうですーっ!」

()()()()()()()()()()()()()!」

 

 ますます強く抱きしめられる。

 ある意味では、どんな拷問よりも辛い仕打ちだった。

 




おまけ

みほ「くんかくんか。くんかくんか」
さくら「お、お嬢様…?突然なにを…」
みほ「…桜ちゃんから知らない人の匂いがする」
さくら「あ、いえ、それは…」

 ハイライトさんは逃亡しました。
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