一人の知者を友とするべきである。
「むぅ…、秋山離れて」
「なんでですか!西住殿ばかりずるいですぅ!」
「あの、いい加減離れていただけないと歩きにくいのですが…」
時間は朝である。
学校に向かおうとマンションを出た桜とみほだったが、当然のように待ち構えていた優花里と出入り口でばったり遭遇した。
いったい、出入り口の外でどんなやりとりがあったのかは、いい加減割愛するとして、気がつくと右腕はみほに抱かれており、左腕は優花里に抱かれていた。傍から見れば、女子同士の可愛らしい戯れ合いに見えているだろうが、その中心にいる人物は実のところ多感な思春期の少年である。これで少年の恰好が男子のものであったなら、ようよう見せつけてくれてんじゃねーぞ、とでもヤンチャをしている方々に絡まれるところであった。
当然、桜の恰好は大洗の指定の制服だ。つまり、スカート姿である。それも、太ももが半分は見えているようなミニスカートだ。すぅすぅとして、未だに慣れなかった。
みほと優花里は桜を間に挟んでの言い合いを続けながら、のそりのそりと学校への道を進む。互いに譲らないものだから、桜はふたりに潰されそうになりながら歩くはめになった。腕はふにふにと幸せな感触を楽しんでいるが、生憎と桜の本意ではない。頭は茹るように沸騰して、正気を保つのがやっとの有様だ。ふたりの会話に耳を傾けつつも、思考力のほとんどは素数を数えるのに費やした。
先日の一件以来、みほと優花里は和解を成立させ、ふたりで会話する場面も増えていた。
入り口が入り口だっただけに和解した後も互いに遠慮はないものの、とげとげしい物言いは減って、その距離は一気に縮まったようだった。とはいえ、こうして桜を取り合うことは変わらないようで、暇があれば桜にちょっかいを出し、もう一方がそれに突っかかるというのは日常のワンシーンになっていた。しかし、それも彼女たちにとっては、良好な関係を築くためのコミュニケーションのひとつなのだ。巻き込まれる桜としては、たまったものではないだろうが。
朝は充分に余裕を持ってマンションを出たはずである。しかし、桜の体感時間が正しければ、そろそろじゃれるのは終わりにしないと学校に遅刻するような時間だった。
と、そのとき、桜は見た。
陸に揚げられた蛸みたいにだらりと体中の力が抜けきって、今にも車道に飛び出してしまいそうなほどふらふらと歩く少女の姿である。恰好からして、同じ学校に通う生徒のようだ。白と緑のセーラーを着ている。歩く度、少女の体は左右に不規則に揺れて、腰まで届きそうな黒髪が合わせて踊る。まるで酩酊して駅のホームに転落する酔っ払いのようだ。
今にも倒れそうに思えて、桜は慌てて駆け出そうとした。
「だ、大丈――?!」
しかし、桜は忘れていた。ふたりが桜の両腕を抱え込んでいるのだ。非力な桜では、その拘束を抜け出すことは難しかった。
「んぁ?」
桜の声に気がついたのか、黒い髪の少女が桜たちの方へと振り返る。
その目は今にも閉じてしまいそうなほど細くなっていて、遠目にも眠いのだということが分かった。
果たして、彼女の目に桜たちの姿は映っているのだろうか。映っているのだとしたら、さぞ珍妙な光景と思ったことだろう。
みほと優花里も少女に気がついて、ようやく桜の両腕は解放された。
「あの、どうかしましたか?」
「つらい…」
「え?」
桜が駆け寄ると、少女は地の底から響くような低い声で呟いた。これが夢の中ならいいのに、などと続けて、地面にへたり込みそうになる。向かい合っていたために、桜が倒れそうになる少女の体を抱きとめた。
「んなっ!?ズルいです!!」
ぴょんこぴょんこと背後で優花里の飛び跳ねる音が聞こえる。何を馬鹿なことを、と思ったが、口にすることは憚られた。
一方、みほはゆっくりと近づいて、桜越しに少女の様子を覗き込む。こちらは、心配半分、興味半分という様子である。
「その子、どうしたの?」
「分かりません。ぐったりとしているみたいですが。…あの、具合が悪いのですか?」
これで病人だったらと思うと、下手に体を揺することは躊躇われた。かといって、抱きかかえたままでは動くこともできない。このままでは遅刻は確定だ。いっそ、救急車を呼んだ方が早いかもしれない。
すると、少女がもぞもぞ動く。見知らぬ少女が腕の中にいるという違和感に、桜はどうにもくすぐったいものを感じてしまった。
「でも、行かね、ば……。ああ、でも、眠……すぅ……」
「ちょ、ちょっと!?」
「すぅ……ぅ、すぅ……」
あろうことか、少女は桜の腕の中で寝息をたて始めた。みほは、あらま、と驚いている。
「起きてください、起きてください!?」
どうやら具合が悪いということではなさそうだ、と判断した桜は、一切の遠慮を度外視して少女の体を強く揺すった。がくん、がくん、とむち打ちになりそうな勢いで少女の頭が前後に揺れるが、肝心の少女は一向に起きる気配がない。想像の10倍は強敵だった。
「任せてっ」
ぐるんぐるん、とみほが右腕を大袈裟に振り回す。自信に満ちた顔で笑っている。何をするつもりですかっ、と桜が訊ねると、叩けば直る!という答えが返ってきた。昭和のテレビか。
「だめですよっ、おじょ…みほさんの力で叩いたら、本当に眠ってしまいます!」
「えーっ」
不満そうに口を尖らせるみほ。しかし、桜の心配も尤もだった。
みほとて、装填手を問題なくこなせる程度には体を鍛えているのだ。優花里程ではなくとも、平均的な女子よりはずっと力が強い。ましてや、力加減が苦手というきらいもある。優花里はそのあたりうまくやれそうだが、この状況、嫉妬に狂って何をしでかすか分かったものではない。
結局、桜がどうにかするしかなかった。
「起きてください!じゃないと大変なことになりますよっ!」
これは脅しではない。心からの心配である。或いは、焦燥である。
ぺちぺちと少女の頬を叩く。意外にも、もちもちと柔らかい感触が返ってきた。赤ん坊のような肌だ。桜は引っ張ってみたい、という衝動に襲われたが、今はそれどころではなかった。誘惑を跳ね除け、桜はぺちぺちと少女の頬を叩き続けた。
「う、うん…?」
さほど強い力では叩いていないが、あまり続けると赤く腫れるのでは、と心配になった頃、ようやく少女が反応を示した。ぼんやりと目を開いたが、焦点が合っているとは思えない。
「ほら、立てますかっ?」
桜は少女を起こそうとするが、持ち上がらない。いや、少女は小柄だったから行けるかと思ったのだが、自分もしゃがんでいる状態ではうまく力が入らないようだった。
「じゃあ、私と西住殿で肩を貸しますから。西住殿、そっち持ってください」
「はいはーい」
みほと優花里がそれぞれ少女の脇の下に手を突っ込み、起き上がらせようとした。寄りかかられていた分の体温が剥がされていく。
「ちょ、ちょっと待ってください。それなら私が」
「でも、桜ちゃんよりわたしたちのほうが力持ちだよ」
「うぐっ…」
みほのストレートな物言いは、時にぐさりと刺さることもある。実際、持ち上げることができなかったばかりなのだ。負け惜しみ以外に、言い返せる言葉はなかった。
しかし、男として、女子ふたりに力仕事を任せるのはどうなのだ。という気持ちもあった。男のプライドというか、つまらない意地のようなものである。
しかし、優花里がいる前で、男だから、という理由を持ち出すことはできない。桜は女装をしていて、女子校に紛れ込んでいる立場なのだ。寝惚け半分の少女に知られるのもマズイ。
「では、せめておふたりの鞄は私が持ちます…。…持たせてください」
精一杯の妥協点がそれだった。
◆
「またあなたなの?冷泉さん」
校門の前でおかっぱ頭の少女がタブレットらしきものを手に持っている。腕には風紀委員と書かれた腕章を巻いていた。みほと優花里に担がれた少女の姿を見つけると、タブレットを操作しながら呆れたような声を出した。
みほと優花里がふたりがかりで少女に肩を貸し、えっちらおっちらやってきたところだった。
「これで連続245日の遅刻よ」
にひゃ…っ!?と驚いたのは、桜だけではなかっただろう。みほも優花里も自分たちが担いでいるそれに目を向けた。1年間の授業日数から考えると、去年の入学式から毎日遅刻している計算だ。
尤も、今日の通学路での様子を見る限り、それも納得のいく数字だった。この、みほと優花里に現在進行形で担がれている少女ときたら、足の骨がこんにゃくに変わってしまったのではないかと思うくらい、うまく歩くことができないのだった。みほと優花里のふたりがかりでなかったら、校門が閉まる前には到着できなかったかもしれない。
「朝は何故来るのだろう…」
「朝は必ず来るものなの!」
至極全うな意見だが、地味に名言のような発言をする風紀委員の少女である。それらしく言い回しを整えて、文末にニーチェ、とでもつければ完璧だ。
彼女の名前は園みどり子と言った。
桜は学校では品行方正を是としているので、風紀委員のお世話になったことはない。というか、なったらヤバい。身体検査でも受けようものなら、即座に男であることが判明して大事件になるだろう。全国ニュースになってもおかしくない。
そのため、(女装の件は別として、)悪いことをしているつもりはないのだが、見かけると背筋に汗をかいてしまうような相手だった。
「ええと、西住さんと秋山さんと井手上さん。あなたたちも不運だったわね」
「いえ、そんなことは…」
「今回は、冷泉さんが原因みたいだから、見逃してあげるけど、今度からは冷泉さんのことは無視して先に登校するように。分かった?」
「あ、はい。分かりました」
桜としては、彼女の心象を悪くさせたくはなかった。仲良くしておけば、あるいは抜き打ちの検査などで手心を加えてもらえるかもしれないからだ。見られて困るようなものは持ち込んでいないが、難癖をつけられては堪らない。
しかし、みほにはそういう計算ができない。というより、するつもりがなかった。
「嫌です」
「はぁ!?」
余計なことを、という顔で優花里がみほのことを見る。
冷泉と呼ばれた少女もみほの発言の真意が掴めず、ぼんやり半開きの視線を向けた。
「困ってる人がいたら助けます」
桜は頭を抱えた。
いや、みほの言わんとすることは分かる。立派な心意気だ。平時であれば、流石はお嬢様。と感動しているところだろう。拍手をしたかもしれない。
みほは我儘ではあるが、基本的に善良なのだ。素直と言ってもいい。それこそ、小学生の頃の道徳がそのまま判断基準になっているくらいには純粋だった。
「…はぁ、もういいわ。ともかく、遅刻はしないこと。次は見逃さないからね」
いじわる。と呟いて、すれ違いざまにべーっ、と舌を出す。そんなところまでみほは子供だった。
「ありがとう、助かった。この礼は必ずする」
「いえいえ、気になさらないでください」
「困ってる人を見かけたら、助けるのは当然のことだもんね!」
みほは声を少し大きくして、わざとみどり子に届くように言った。桜は、みどり子の視線がこちらに向いたのでは、と思って、背筋をぞくりと震わせる。振り返る勇気はなかった。
「まぁ、融通が利かないだけで、そど子も悪い奴じゃないんだ」
「そど子?」
「そのみどり子だから、そど子」
「へぇ、変な名前―」
「あの、聞こえますから…」
珍しいことだが、優花里がみほを窘めた。
みほは意地悪な人間が嫌いだ。しかも、やられたならやり返す、という子供っぽい性格だ。ねちねちと嫌味を言われるのなら、こちらも嫌味を言ってやる、というのがみほである。
みほとしては、良いことをしたのだから褒められるべき、と思っているだけなのだ。それなのに、遅刻だから、規則だから、というつまらない理由で嫌味を言われるのは我慢ならない。
尤も、みほの悪口の語彙は小学生なので、傍目には微笑ましく映るだけなのだった。
もう大丈夫だ。と言って、冷泉と呼ばれた少女はみほと優花里から離れた。相変わらず足元はふらふらと波に揺れるクラゲのようであるが、通学路での様子よりはマシなように見える。
「あなたも。…ありがとう」
「私は、その。何もできませんでしたから」
恥ずかし気に桜は頬をかく。この少女も知らないことだが、桜は内心で密かに凹んでいた。小柄な女の子ひとり担ぐこともできなかった、己の非力さについてである。
しかし、少女は、そんなことはない。と言った。
「最初に声をかけてくれたのはあなただ。私は冷泉麻子、2年F組」
「2年C組の井手上桜です」
「A組の西住みほだよ!」
「井手上殿と『同じ』クラスの秋山優花里です」
心なしか「同じ」という単語を強調するように言った優花里に対し、みほは剣呑な視線を向ける。
しかし、麻子はふたりの小競り合いには目も向けず、何か別のことに気づいたようだった。
「ああ、あなたたちが沙織の言っていた」
「沙織さんを知ってるの!?」
仲の良いお友達の名前が聞こえて、みほの興味は一瞬で麻子に移った。
麻子はほんの少し表情を柔らかくして、穏やかな口調で答えた。
「友人だ」
大切な宝物を誇るようなその様子に、隠しきれない特別な感情があることを桜は察した。
◆
キンコーン、と予鈴が鳴る。昇降口にも辿り着いていない桜たちは大慌てだった。
HRに間に合わなくなる、ということで、慌てて教室まで走った桜たちであったが、努力の甲斐もむなしく、階段を上りきったころにはそれぞれの教室から担任の話す声が聞こえはじめた。
尤も、普段は品行方正、成績優秀で通っている桜は、大したお咎めを受けることもなく席につくことができた。普段の行いというものは大事である。優花里も桜と一緒だったために怒られることはなかった。
ちなみにみほは、というと、教室に駆け込んですぐに、またお前か西住ぃ!と担任から怒られるところだった。みほとしては、HRに遅刻したのははじめてである。しかし、しょっちゅう別のことに夢中になってしまうみほは、授業の開始時間に遅れてしまうことは少なくなかった。だが、今回ばかりはみほにも言い分がある。HRに遅れた理由を素直に話すと担任は途端に笑顔になって、よくやったな西住、と頭を撫でられたということである。
果たして、それは本当に高校のHRの風景なのだろうか。小学生と言う方が違和感がない。尤も、みほは誇らしげに語っていたので、まぁいいか、と桜は思っている。
「ところで、誰か冷泉さんについて詳しい方はいませんか?」
授業の合間の休み時間、桜は周囲のクラスメイトに尋ねていた。
朝のこともあり、最初は優花里に尋ねたのだが、当然、戦車に関係ない事柄では優花里はまったくの戦力外なのであった。まぁ、クラスメイトのことも碌に知らない優花里に、他のクラスの生徒について尋ねたこと自体がそもそも間違いである。人には向き不向きがあるのだ。
聞けば、流石は女子校。どこにでも詳しい人はいるものであった。
そもそも、冷泉麻子は学年ではそれなりに有名人ということである。
曰く、頭脳明晰、テストの点数では常に学年主席であるが、低血圧で朝に弱く、遅刻・サボりの常習犯。風紀委員にも目を付けられていて、進級も危ぶまれているということだった。
ちなみに、身長は145cm。誕生日は9月1日のおとめ座。血液型は、当然AB型、ということである。桜としては、特に必要のない情報だった。何が当然なのかも分からない。
「王さんは、…ええと、普段から冷泉さんとは親しくされているんですか?」
「いや、全然?」
放送部員だという彼女は、校内の噂や事件についてはアンテナを張っているのだ、と答えた。その情報をどうやって集めているのか、ということについては機密事項ということである。からからと笑った。
桜は、彼女の動向には注意を払い、カメラや盗聴器には気を付けようと固く決心した。とりあえず、今日は部屋に帰ったら、押し入れからラジオを引っ張り出さなければ。確か、母から貰った古いラジオがあったはずである。
「ちなみに、冷泉さんの交友関係は狭いようで、私が知っている限り、仲がいいのはA組の武部さんくらいですね。その分、お互いの家を行き来するような仲だとか。むふふふ、興味深いです」
そう言って、今度はにやにやとやらしい笑みを浮かべる。眼鏡が光を反射させたので、余計に怪しく映った。
桜は、彼女のことを心の中で「歩くスピーカー」と呼ぶことに決定した。
おまけ
まこ「くしゅん!…なんだ、何か悪寒が。…いや、外で寝ているから涼しかっただけか?」
木の根っこを枕にしていた麻子は、何か言いしれないものに背筋を震わせた。
春とはいえ、海の上だから寒かったのかもしれない。
次からはブランケットでも持って来よう、と思う麻子なのであった。
そして、まったく同じ時間に、武部沙織もくしゃみをした。