学校の校門を抜けると、夕焼けが街を橙色に染めていた。
少し前までなら、ここもただの高校だった。
今は違う。
世界そのものが変わりつつある中で、それでも涼宮ハルヒたちが急激な変化に放り込まれないよう、学校とその周辺だけは意図的に以前の姿を残している。
クデュック――後にピースギアへと繋がる組織の中では、少し異質な場所だった。
制服。
部活動。
チャイム。
放課後。
そういう「普通」を、あえて残した場所。
イズモ「さーて、部活も終わったし……あとは帰るだけか」
肩を回しながら、イズモは空を仰ぐ。
今日は珍しく何も起きなかった。
その事実に気が緩んだ、ほんの一瞬だった。
足裏から、地面の感触が消えた。
イズモ「――っ」
視界が引き伸ばされる。
夕焼けも、校舎も、道路も。
一瞬だけ細い光の線になり、そのまま消えた。
次に靴底へ返ってきたのは、平らなアスファルトではない。
硬く、ざらついた石。
聞こえてくるのは自動車の走行音ではなく、車輪が石畳を叩く音だった。
イズモ「……来たな」
ゆっくり顔を上げる。
木造と石造りの建物。
露店。
荷物を積んだ馬車――いや、引いている生物は馬とは少し違う。
腰に剣を帯びた男が、当たり前のように通り過ぎていった。
スマートフォンを見ている人間は、一人もいない。
イズモ「いつものか」
小さく息を吐く。
イズモ「……でも、日本じゃないな。これは」
慌ててはいない。
異世界へ飛ばされるという異常事態そのものには、もう多少の経験があった。
問題は、どこの世界なのか。
敵対環境なのか。
そして――帰還手段が存在するのか。
イズモ「まず情報収集――」
声が止まった。
人混みの向こう。
小柄な少年の腕を、大柄な男が強引に掴んでいた。
少年が抵抗する。
男の手が振り上がる。
考えるより先に、イズモの身体が動いた。
イズモ「ATフィールド、展開」
空気が震えた。
男の身体が横へ弾かれ、石畳の上を転がる。
少年は解放された腕を抱え、その場に尻餅をついた。
静寂。
ほんの一秒。
周囲の視線が、一斉にイズモへ集まる。
イズモ「……あ」
しまった。
イズモ「目立ちすぎた」
少年が逃げ出したのを確認すると、その場から早足で離れた。
◆
市場は、人と物で溢れていた。
見たことのない果物。
香辛料。
革製品。
金属器。
だが生活様式そのものは理解できる。
少なくとも、完全に未知の文明ではない。
店主「兄ちゃん、変わった格好だな」
果物屋の男がイズモの制服を見て笑った。
店主「旅の途中か?」
イズモ「ええ。まあ、そんなところです」
嘘ではない。
イズモ「ちょっと道に迷いまして。ここって、どこですか?」
男が一瞬、不思議そうな顔をする。
店主「王国ルグニカだが?」
イズモ「ルグニカ……」
知らない。
少なくとも、自分が知る地球上の国家ではない。
イズモ「ありがとうございます」
店主「おう」
市場を離れ、人気の少ない路地へ入る。
イズモは腕につけた端末を操作した。
掌ほどの小型機が形成され、静かに浮かび上がる。
イズモ「上空百メートル。都市構造だけ取って戻ってこい」
ドローンが建物の隙間から空へ消える。
間もなく簡易地図が視界へ展開された。
城壁。
中心部。
貧民街らしき区画。
巨大な建築物。
イズモ「都市構造まで中世ヨーロッパっぽいな」
便利な能力はある。
だが、文明差が大きい場所ほど扱いには注意が必要だった。
いきなり空へ巨大兵器でも出せば、それだけで歴史を変えかねない。
イズモ「なるべく静かに――」
不良「おい」
背後。
三人。
イズモ「……」
不良「さっきから何ぶつぶつ言ってやがる」
別の男が路地を塞ぐ。
不良「痛い目見たくなきゃ、出すもん出しな」
イズモ「今日はよく絡まれる日だな……」
その瞬間。
通りの奥から、小さな影が飛び込んできた。
少女「どけどけー! じゃまー!」
金髪の少女が三人の間をすり抜ける。
不良「うおっ!?」
少女は一瞬だけイズモを見る。
少女「よくわからんが、強く生きろよ!」
そのまま走り去った。
イズモ「……なんだったんだ」
不良「待ちやがれ!」
男が追おうとする。
イズモはため息をついた。
イズモ「しゃーない」
見えない壁が展開される。
二人がまとめて押し返され、壁へ叩きつけられた。
残った男がナイフを抜く。
不良「てめぇ!」
刃が振り下ろされる。
だが。
金属音すらしない。
ナイフはイズモの数センチ手前で停止していた。
不良「な……」
イズモ「それ、届かないよ」
背後から、冷たい声がした。
少女「そこまでよ」
銀色の髪。
紫水晶を思わせる瞳。
白を基調とした服。
少女の周囲に、小さな光が浮かんでいた。
少女「今なら返すだけで済ませてあげる」
不良「俺たちじゃねえ!」
不良「盗んだのは、さっき走ってったガキだ!」
少女「……」
視線がイズモへ向く。
イズモ「金髪の子なら、今ここ抜けてったけど」
少女「本当みたいね」
わずかに表情が曇る。
それでも彼女は不良たちへ向き直った。
少女「でも、この状況を見過ごすつもりはないわ」
冷気が走った。
男たちの足元が一瞬で凍りつく。
不良「ひっ――」
三人が身動きを取れなくなる。
イズモ「サンキュー」
イズモは小型の麻酔銃を構える。
乾いた音が三回。
男たちは、その場へ崩れ落ちた。
少女「動かないで」
イズモ「はいはい」
銃を下ろす。
その肩越し。
白い何かが、ふわりと宙へ浮かび上がった。
猫。
ただし、飛んでいる。
パック「まあまあ、リア。少なくとも悪意は感じないよ」
イズモ「……」
視線が釘付けになる。
イズモ「かわいい」
パック「そこ?」
銀髪の少女が少しだけ困った顔をした。
少女「あなた、さっきの子を見たのよね?」
イズモ「ああ」
少女「私の徽章を盗んだの。追える?」
イズモは上空のドローンへ接続する。
小さな金髪の人物。
人混みの中を高速で移動している。
イズモ「追える」
少女「どうやって?」
イズモ「科学」
少女「科学?」
イズモ「こっちでいう……魔法みたいなものだと思ってくれればいい」
説明すると長くなる。
今はそれで十分だった。
パック「そういえば、名前を聞いてなかったね」
イズモ「最上イズモ」
イズモは腕の端末へ触れる。
光が集まり、人の輪郭を作った。
カエデ「接続完了。周辺環境データを取得します」
少女「人が……出てきた?」
イズモ「カエデ。俺のサポート役」
カエデ「よろしくお願いします」
パック「僕はパック」
銀髪の少女は一拍だけ迷った。
少女「私は――サテラ」
イズモ「サテラか」
何の反応もなく、その名前を受け入れる。
イズモ「いい名前だな」
サテラ「……え?」
パックが目を丸くした。
その意味をイズモが知るはずもなかった。
◆
途中で迷子の少女を見つけた。
泣いている子供を放置できるはずもなく、徽章探しはいったん中断。
イズモは掌から小さな光る玩具を作って見せた。
少女の涙が止まる。
サテラはそんなイズモを、少し不思議そうに見ていた。
やがて親を見つけ、再び追跡へ戻る。
ドローンの記録が示した先は、街の中心部から離れた貧民街だった。
古びた建物の前で、イズモは足を止める。
イズモ「ここだな」
サテラへ小さな装置を渡す。
サテラ「これは?」
イズモ「姿を見えにくくする装置。合図するまで外で待ってて」
サテラ「でも――」
イズモ「まず中を確認するだけ」
扉を開く。
薄暗い室内。
酒の匂い。
そして正面に、巨大な老人が立っていた。
イズモ「こんばんは」
巨漢が眉をひそめる。
イズモ「十五歳くらいの金髪の女の子、ここに来なかった?」
奥から声がした。
フェルト「なんだよ。もう追いついたのか?」
イズモ「いた」
交渉は、意外なほど普通に始まった。
盗まれた徽章。
提示される条件。
フェルトという少女。
だが。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
女「――いい匂い」
細身の女。
黒い服。
手には、異様に湾曲した刃。
本能が警報を鳴らす。
女「血の匂いがするわ」
イズモ「……まずい」
女が踏み込む。
速い。
イズモ「フェルト! 衛兵を呼べ!」
刃と銃声が交錯する。
ATフィールドが火花のように揺れる。
完全には防げない。
イズモ「こいつ――」
次の一撃。
その直前だった。
赤い閃光が室内を走った。
ラインハルト「そこまでだ」
赤髪の青年が、二人の間へ割って入る。
ラインハルト「僕はラインハルト。後は任せてほしい」
イズモ「……助かる」
だが青年の剣は抜かれていない。
理由までは分からない。
それでも、必要なものなら作れる。
光がイズモの掌へ集まる。
一本の刃が形成された。
イズモ「これ使ってくれ!」
高周波ブレードを投げる。
ラインハルトが受け取る。
一瞬だけ、その目が驚きに開かれた。
ラインハルト「これは――」
女「面白いものを持っているのね」
激突。
次の瞬間、凄まじい光が室内を満たした。
衝撃。
女の身体が吹き飛び、壁の向こうへ消える。
静寂。
ラインハルトは手の中の剣を見る。
ラインハルト「……素晴らしい剣だ」
イズモ「気に入った?」
ラインハルト「ああ」
イズモ「じゃあ、あげるよ」
ラインハルト「……え?」
背後で、サテラが深く息を吐いた。
そして。
サテラ「イズモ」
イズモ「ん?」
サテラ「私……嘘をついてたの」
少し迷ったあと、彼女は真っ直ぐこちらを見る。
サテラ「本当の名前は、エミリア」
イズモ「そっか」
それだけだった。
イズモ「じゃあ改めてよろしく、エミリア」
エミリア「……うん」
その直後。
背中に。
冷たい感触が触れた。
イズモ「――」
遅れて、鋭い痛み。
視線を下げる。
腹部から、赤い刃先が覗いている。
エミリア「イズモ!」
吹き飛ばしたはずの女。
血に濡れながら、それでも笑っていた。
腸狩り「いずれ――ここにいる全員を殺してあげる」
膝から力が抜ける。
音が遠ざかる。
ラインハルトが動く。
エミリアが何かを叫んでいる。
だが、もう聞き取れない。
イズモ「……マジかよ」
視界が黒く閉じていく。
この世界へ来て、まだ一日も経っていない。
それなのに。
最後に浮かんだ感想は、驚くほど単純だった。
――また面倒な世界に来たらしい。
そして、イズモの意識は闇へ沈んだ。