試練が終わった直後。
聖域を覆っていた結界は、音もなく消えた。
光の壁が崩れたわけでもない。
何かが砕ける音がしたわけでもない。
ただ。
今まで確かにそこにあった「越えられない境界」が、なくなった。
村人の一人が、恐る恐る外へ足を踏み出す。
何も起こらない。
もう一歩。
それでも、何も起こらない。
やがて。
誰かが息を吐いた。
長く。
深く。
それを合図にしたように、村人たちが次々と聖域の外へ出ていく。
イズモ「……これで自由か」
エミリア「うん」
風。
森。
空。
何一つ昨日までと変わっていないはずなのに。
村人たちにとっては。
世界そのものが広がった瞬間だった。
◆
その日の午後。
イズモは村の代表者たちと向かい合っていた。
長机。
地図。
簡単な物資一覧。
イズモ「難しい話にはしない」
指で地図を示す。
イズモ「こちらは防衛」
次。
イズモ「医療」
次。
イズモ「必要な物資」
村人「見返りは?」
イズモ「交易」
即答。
イズモ「木材」
イズモ「食料」
イズモ「こっちで作りにくい薬草とか、特産品」
イズモ「それを適正価格で交換する」
村人「税ではなく?」
イズモ「取らない」
村人たちが顔を見合わせる。
イズモ「保護の代わりに従え、とかもなし」
イズモ「必要なら契約解除もできる」
代表「……随分、変わった条件ですな」
イズモ「こっちも一方的に面倒見るほど余裕ないから」
少し笑う。
イズモ「お互い必要なもの交換した方が長続きする」
沈黙。
やがて。
代表が頷いた。
代表「分かりました」
別の村人も。
そして。
また一人。
恐怖より。
現実。
村人たちは。
自分たちの生活を選んだ。
イズモ「じゃあ」
手を差し出す。
イズモ「よろしく」
◆
その頃。
ロズワール邸周辺。
雪原のように。
白い影が増殖していた。
一匹。
十匹。
百匹。
大兎。
ただの小動物にしか見えない。
だが。
その一匹一匹が。
人間を食らう。
群れではない。
群体。
際限なく増える災害。
カエデ『敵性群体、接近』
地下。
シェルター。
地上。
警備網。
そして。
上空。
すでにイズモが仕込んでいたシステムが、一斉に目を覚ます。
カエデ『住民避難確認』
自動照準。
カエデ『射界クリア』
無人兵器。
起動。
最初の射撃。
地上を覆っていた白い群れの一部が、まとめて吹き飛ぶ。
だが。
止まらない。
次。
上空。
衛星兵器。
照準。
光。
大地を薙ぐように走る。
さらに。
火炎。
爆風。
地表制圧。
逃げる個体は無人機が追跡。
残った群れを。
一つずつ。
確実に消していく。
数分。
数十分。
やがて。
熱源反応。
ゼロ。
カエデ『大兎群体』
一拍。
カエデ『殲滅確認』
◆
イズモ「……終わったか」
聖域。
衛星映像を閉じる。
ラム「随分あっさりね」
イズモ「事前準備してたから」
ラム「昨日まで苦戦を想定していたでしょう?」
イズモ「対人と住民混在を考えてた」
地図を見る。
イズモ「今回は全員避難済み」
イズモ「なら、火力を出せる」
ラム「なるほど」
イズモ「でも」
警告。
新規反応。
一人。
イズモ「……まだいる」
映像。
人影。
小柄。
単独。
警戒区域を。
まるで散歩でもするように歩いている。
イズモ「魔女教?」
カエデ『反応照合』
数秒。
カエデ『大罪司教級』
イズモ「……」
立ち上がる。
イズモ「今度は誰だよ」
◆
森。
男は。
笑っていた。
ライ「やあ」
気軽に。
まるで。
知り合いへ挨拶するように。
ライ「君がイズモ君だね」
イズモ「……」
短い髪。
細い身体。
戦場を歩いている人間には見えない。
だが。
嫌な感覚だけは。
ペテルギウスと同じ。
イズモ「名乗れ」
男は。
嬉しそうに両腕を広げた。
ライ「魔女教」
一歩。
ライ「大罪司教」
もう一歩。
ライ「悪食担当」
笑う。
ライ「ライ・バテンカイトスさ」
イズモ「……あんたか」
ライ「ん?」
イズモ「レムの記憶」
声が低くなる。
イズモ「奪ったの」
ライ「レム?」
少し考える。
ライ「ああ」
嬉しそうに。
ライ「美味しかったよ」
空気が。
冷えた。
イズモ「……」
拳は握らない。
怒鳴らない。
ただ。
視線だけが変わる。
イズモ「本当は」
一歩。
イズモ「クデュック側へ送って処理するつもりだった」
ライ「処理?」
イズモ「でも」
距離を詰める。
イズモ「向こうから来てくれた」
イズモ「手間省けた」
ライ「はは」
楽しそうに笑う。
ライ「怖いねぇ」
全く怖がっていない。
ライ「でもさ」
指を口元へ。
ライ「僕も君には興味がある」
イズモ「?」
ライ「お腹が空いてるんだ」
目。
イズモを見る。
ライ「君の記憶」
イズモ「……」
ライ「食べてみたい」
一拍。
イズモ「一つ聞いていい?」
ライ「いいよ」
イズモ「飯を食いすぎて」
ライ「うん?」
イズモ「腹が破裂するまで食い続けて死ぬ」
ライ「……」
イズモ「それと」
指を一本。
イズモ「生きたまま」
もう一本。
イズモ「自分の記憶を少しずつ失う」
イズモ「名前」
イズモ「顔」
イズモ「好きだったもの」
イズモ「自分が誰か」
手を下ろす。
イズモ「全部なくなって」
イズモ「最後は何も分からなくなる」
ライ「……」
イズモ「どっちがいい?」
ライ「変な質問だなぁ」
少しだけ考える。
ライ「僕なら」
笑う。
ライ「食べすぎて死ぬ方かな」
イズモ「了解」
その返答だけで。
十分だった。
イズモ「叶えてやるよ」
ライ「え?」
空間が歪む。
◆
黒。
光のない領域。
だが。
完全な虚無ではない。
無数の情報が。
見えない場所で流れている。
記憶。
人格。
音声。
映像。
感情。
膨大なデータ。
ライ「これは……?」
イズモ「記憶領域」
ライ「へぇ」
イズモ「人間の記憶を保存」
イズモ「解析」
イズモ「必要なら再構築する」
ライ「そんなものまであるんだ」
イズモ「君を探してた理由でもある」
ライの笑顔が。
ほんの少しだけ止まった。
イズモ「悪食」
イズモ「記憶を食うんだろ」
ライ「もちろん」
イズモ「なら」
空間。
起動。
イズモ「食わせてやる」
無限生成。
数字。
データ。
イズモ「円周率」
ライ「……?」
イズモ「終わりがない」
イズモ「規則的」
イズモ「でも有限長で止まらない」
ライ「何を――」
イズモ「さあ」
大量の情報が。
一斉に流れ込む。
イズモ「食え」
ライ「っ――!」
3.
4.
5.
6.
7.
8.
9.
10.
11.
12.
イズモ「満腹になるまで」
データ量。
増加。
ライ「3.141592653589……」
イズモ「そのまま」
人格領域。
分離。
イズモ「お前が奪った記憶を」
一本ずつ。
切り離す。
ライ「793238462643……」
イズモ「返してもらう」
記憶。
大量。
だが。
完全ではない。
既に欠損している。
誰かの名前。
誰かの日常。
誰かの人生。
断片。
イズモ「……」
ライ「383279502884……」
言葉が。
数字だけになる。
視線。
焦点を失う。
自分が。
誰なのか。
もう。
理解していない。
ライ「197169399375……」
イズモ「……終わり」
出力を切る。
身体だけが残る。
呼吸。
心拍。
ある。
だが。
人格反応。
なし。
イズモ「これでいい」
一度だけ。
ライを見る。
イズモ「記憶を奪われた人たちへの」
少し考える。
イズモ「最低限の返礼だ」
◆
回収された記憶。
解析。
一覧。
イズモ「……」
期待していたより。
少ない。
カエデ「欠損率、高」
イズモ「やっぱりか」
奪われた人間。
多すぎる。
そして。
時間も経ちすぎている。
すでに。
死体は火葬された。
生命維持も終わった。
肉体そのものが残っていない者も多い。
イズモ「戻せない人の方が多い」
カエデ「はい」
イズモ「回収できたのは?」
カエデ「レム」
表示。
カエデ「クリュシュ」
次。
カエデ「その他、複数名」
イズモ「復元率」
数字。
イズモ「低いな」
カエデ「完全復元は不可能」
イズモ「……仕方ない」
記憶そのものは。
残せる。
イズモ「保存」
カエデ「了解」
イズモ「死んでる人の分も全部」
カエデ「用途は?」
イズモ「融合後」
少し考える。
イズモ「本人と呼べるかは分からない」
以前。
エキドナと話した。
記憶。
人格。
魂。
イズモ「でも」
イズモ「アンドロイド義体に」
記憶データ。
イズモ「残ってる情報を移植する」
カエデ「同一人物として扱いますか?」
イズモ「本人に聞けない以上」
一拍。
イズモ「別人格として起動」
イズモ「自分をどう定義するかは」
イズモ「その人自身に決めてもらう」
カエデ「了解」
イズモ「勝手に蘇った本人扱いするのも違うし」
カエデ「そうですね」
イズモ「できるのは」
記憶データを見る。
イズモ「選択肢を残すところまで」
◆
そして。
最優先。
イズモ「レム」
眠ったまま。
ベッド。
生命反応は安定。
イズモ「君は」
まだ身体がある。
まだ生きている。
なら。
戻せる可能性は高い。
イズモ「記憶再構築装置」
光。
機械。
神経接続。
記憶統合。
失われた領域と。
回収した断片。
残っている本人の脳情報。
全てを照合する。
カエデ「同期開始」
イズモ「一気に入れない」
カエデ「はい」
イズモ「人格負荷、五パーセントずつ」
淡い光。
レムの身体を包む。
数分。
十分。
数十分。
イズモ「……」
待つ。
ただ。
待つ。
そして。
指。
動いた。
イズモ「!」
レム「……」
瞼。
わずかに。
開く。
レム「あれ……?」
イズモ「レム」
焦らない。
大声も出さない。
レム「イズモ……君?」
イズモ「うん」
レム「レムは……」
眉を寄せる。
レム「確か」
断片。
記憶。
レム「誰かに襲われて……」
イズモ「ああ」
レム「その後……」
イズモ「覚えてなくていい」
レム「?」
イズモ「そいつは」
少しだけ笑う。
イズモ「もう倒した」
レム「……」
数秒。
レム「さすがイズモ君です」
イズモ「そこはいつも通りなんだ」
少し安心した。
レム「でも」
頭へ手を当てる。
レム「確かあの時」
レム「レムは別動隊で……」
イズモ「うん」
レム「王都へ……?」
イズモ「そこまで戻ってるなら十分」
レム「戻ってる?」
イズモ「記憶を一部奪われてた」
レム「……」
イズモ「回収した断片と」
装置を見る。
イズモ「残ってた記憶」
イズモ「両方を合わせて再構築した」
レム「なるほどです」
イズモ「適応早いな」
レム「イズモ君がそう言うなら」
少し笑う。
レム「そうなのでしょう」
イズモ「……」
その信頼。
重い。
だが。
以前ほど。
一人で背負おうとは思わなくなった。
イズモ「それで」
レム「はい?」
イズモ「もう一個」
レム「まだ何か?」
イズモ「こっちの方が説明面倒かも」
レム「?」
イズモ「あと五日くらい」
レム「はい」
イズモ「この世界」
一拍。
イズモ「別の世界と融合する」
沈黙。
レム「……」
イズモ「……」
レム「どういうことですか?」
イズモ「ですよね」
椅子を引く。
イズモ「俺がいた世界」
レム「異世界」
イズモ「そう」
イズモ「クデュックがある世界と」
窓の外。
ルグニカ。
イズモ「この世界が」
手を重ねる。
イズモ「一つになる」
レム「……世界同士が?」
イズモ「うん」
レム「止められるのですか?」
イズモ「無理」
レム「危険は?」
イズモ「世界崩壊はしないらしい」
レム「らしい」
イズモ「そこはカヲル情報」
レム「誰ですか?」
イズモ「また後で説明する」
レム「増えましたね」
イズモ「増えた」
レムは少し考える。
レム「その世界へ行ったら」
イズモ「うん」
レム「レムたちはどうなるのですか?」
イズモ「基本自由」
イズモ「今まで通り暮らしてもいい」
イズモ「クデュック側で働いてもいい」
イズモ「別の場所へ行ってもいい」
レム「イズモ君は?」
イズモ「多分」
苦笑。
イズモ「今まで以上に忙しくなる」
レム「そうですか」
イズモ「で」
本題。
イズモ「レムにお願いしたい仕事がある」
レム「何でしょう?」
イズモ「ロボットパイロットたちの生活支援」
レム「ろぼっと……?」
イズモ「巨大な機械」
イズモ「戦闘機みたいなもの」
イズモ「それを動かす人たち」
レム「なるほど」
イズモ「食事」
イズモ「生活管理」
イズモ「必要なら護衛」
イズモ「レムならできる」
レム「……」
イズモ「嫌なら断っていい」
イズモ「他の仕事でもいいし」
イズモ「今まで通りでもいい」
レムは。
少しだけ考えた。
そして。
笑った。
レム「イズモ君」
イズモ「うん?」
レム「イズモ君がいるなら」
レム「レムは」
静かに。
だが。
迷いなく。
レム「どこでも大丈夫です」
イズモ「……そっか」
窓の外を見る。
残り。
五日。
ルグニカという世界が。
クデュックと繋がるまで。
あと。
五日だった。