「……ここは」
意識が浮上する。
最初に感じたのは、音の欠落だった。
風の音も、遠くの足音もない。
耳鳴りすらしない完全な静寂。
目を開けると、視界いっぱいに広がるのは豪奢な天蓋。
金糸の刺繍が施された布は、ほこり一つなく、しかし人の温度を感じさせない。
まるで――
使われていないまま、時だけが止められた部屋。
「……誰もいないか」
身体を起こす。
シーツがわずかに擦れる音だけが、やけに大きく響いた。
(損傷なし。異常反応なし)
旅装に見える衣服の内側で、
ピースギアが淡々と状態を報告する。
異世界の空気。
だが、装備は完全に環境に馴染んでいた。
「外に出るか」
扉を開ける。
廊下は、想像以上に長かった。
赤い絨毯が果てしなく続き、
左右に並ぶ装飾柱は、どれも同じ間隔、同じ模様。
光源は見当たらない。
だが、影もない。
「……広いというより、均一すぎる」
足音が、吸い込まれるように消える。
音が反響しないのは、防音か、それとも――
「警戒装置も、侵入検知もなし」
だが、歩くたびに湧き上がる違和感。
同じ柱。
同じ距離。
同じ壁。
(空間が……循環している)
「……なるほど」
無意識に、同じ場所を歩かされている。
一つだけ、わずかに違う扉があった。
「入る」
扉の向こうは、匂いが違った。
古い紙と、インク。
長く閉じられていた空気。
図書室だった。
壁一面に並ぶ本棚は、天井近くまで届き、
背表紙の色は揃っていないのに、不思議な秩序がある。
中央には、小さなベッド。
そして――
「なんて、はらだだしい侵入者かしら」
幼い声。
本棚の前に、少女が立っていた。
腕を組み、じっとこちらを睨んでいる。
見た目は幼い。
だが、視線は鋭く、空気を押し返す力がある。
「……ここは?」
「ベティの書庫兼寝室兼私室かしら」
声は淡々としているが、
一歩も近づかせないという意思が滲んでいた。
「そうか」
次の瞬間。
空気が、重くなった。
圧が、肌を押す。
呼吸をするたび、肺が軋む。
(魔力……直接干渉)
「少し、思い知らせてやるかしら」
少女が指を動かす。
世界が、内側から締め付けられた。
視界が白くなる。
床が遠い。
(致死未満……だが、容赦はない)
ピースギアが即応し、
物理的な損傷は遮断する。
だが――
体の奥から、何かを引き抜かれる感覚。
「……なるほど」
「体内のマナを少し徴収しただけかしら」
「悪意がないのは、確認できたわ」
「……それで済むなら、助かる」
視界が暗転した。
次に目を覚ましたとき、
最初に感じたのは、人の気配だった。
布が揺れる音。
衣擦れ。
「目覚めましたね、姉様」
「目覚めたわね、レム」
天井は白く、
窓から差し込む朝の光が、部屋を柔らかく照らしている。
(場所が……変わっている)
「……ここは?」
「ロズワール様のお屋敷です」
落ち着いた声。
事情を詮索しない距離感。
「……そうか」
余計な説明は不要だった。
「おはよう」
振り向く。
朝の光を背に、銀髪の少女が立っていた。
エミリア。
「……おはよう」
その姿を見て、
張り詰めていた感覚が、わずかに緩む。
「体の調子は?」
「問題ない。助かった」
「よかった……」
それ以上、踏み込んだことは聞かれなかった。
中庭は、風があった。
草木が揺れ、
噴水の水音が静かに響く。
「おはよう」
宙に浮かぶ白い猫。
「……おはよう」
「リア、この人には感謝してもしきれないね」
「礼はいらない。偶然だ」
「ふふ……不思議な人」
否定はしなかった。
大食堂。
天井が高く、
長いテーブルの上には朝食が並ぶ。
「ミーちゃんー」
先ほどとは別人のような声。
「……同一人物とは思えないな」
「**ベアトリス**が人に懐くなんて」
派手な服装の男が現れ、
興味深そうにこちらを見る。
「名は?」
一瞬、沈黙。
「……今は必要ない」
「ふぅん。いいねぇ」
深追いはしない。
だが、観察はしている。
スープを口に含む。
温度、香り、味。
どれも完璧だ。
「……うまい」
夜。
中庭の石畳は、昼とは違う冷たさを帯びていた。
「月、きれいね」
「……ああ」
白い光が、屋敷を照らす。
「告白?」
「違う。ただの観測だ」
「欲がなさすぎるわ」
「必要なものは、すでに足りている」
しばし、沈黙。
「……明日、村に行かない?」
「状況次第で」
「ありがとう」
その夜。
「それ、飲まないで」
背後から、静かな声。
「……」
「未知の毒です」
(やはり来たか)
「皆を避難させて。これを渡してくれ」
短い指示。
直後、魔獣の咆哮。
「……想定内だ」
剣を抜く。
ただの片手剣。
だが、踏み込みは速い。
刃は急所を外し、
確実に機能だけを奪う。
森。
湿った土。
折れた枝。
「……ボスはいる」
衝撃。
吹き飛ばされるが、
装甲が力を分散する。
(問題なし)
一歩踏み込み、一閃。
夜の森に、再び静寂が戻った。