最初に気づいたのは、音がないことだった。
風。
人の声。
遠くを走る馬車。
何も聞こえない。
耳鳴りすらない。
シオン「……ここは」
目を開く。
視界いっぱいに、豪奢な天蓋が広がっていた。
金糸の刺繍。
磨き上げられた家具。
皺一つないシーツ。
高価な部屋。
それなのに。
人の温度だけがない。
まるで、誰も使わないまま時間だけを止めたような空間だった。
シオン「……誰もいないか」
身体を起こす。
シーツが擦れる。
その小さな音だけが、異様に大きく聞こえた。
内部表示。
生命反応。
正常。
装甲層。
正常。
神経系。
異常なし。
前日の襲撃で受けた強制遮断信号も、既に除去されている。
シオン「損傷なし」
偽装ユニットも生きている。
見た目は、昨日と変わらず旅装の男。
腰には現地製にしか見えない片手剣。
ピースギア製の装備は。
全て、その下へ隠れている。
シオン「外に出る」
◆
扉を開く。
シオン「……」
廊下。
長い。
赤い絨毯が。
左右。
どこまでも続いている。
装飾柱。
壁。
扉。
窓。
全てが。
不自然なほど均一。
シオン「広い」
一歩。
二歩。
数十メートル。
シオン「……いや」
立ち止まる。
シオン「広いというより」
柱を見る。
次。
また次。
シオン「均一すぎる」
音も変だ。
足音。
反響しない。
空間へ吸い込まれていく。
通常の建築ではない。
シオン「侵入検知なし」
視線を動かす。
シオン「警報装置なし」
少なくとも。
自分が理解できる物理的な設備は。
存在しない。
それなのに。
視線のようなものだけはある。
シオン「……魔法式か」
歩く。
廊下。
扉。
柱。
また。
同じ。
シオン「?」
さらに進む。
同じ絵。
同じ窓。
同じ傷。
そこで。
確信した。
シオン「空間が循環してる」
前へ進んでいる。
距離もある。
だが。
同じ場所へ戻されている。
シオン「なるほど」
力ずくで突破する必要はない。
仕組みを理解する必要も。
今はない。
ただ。
意図的に違う場所が。
一つだけあった。
扉。
装飾。
わずかに違う。
シオン「……ここか」
一度。
周囲を確認。
シオン「入る」
◆
匂い。
変化。
紙。
革。
古いインク。
シオン「図書室」
本棚。
壁一面。
天井近くまで。
膨大。
背表紙は不揃い。
だが。
配置には規則性がある。
中央。
小さなベッド。
そして。
少女。
幼い。
金色の縦巻き。
腕を組んでいる。
少女「なんて」
一拍。
少女「腹立たしい侵入者かしら」
シオン「……」
視線。
鋭い。
子供のものではない。
何年。
いや。
何十年。
何百年。
それすら。
分からない。
シオン「ここは?」
少女「ベティの書庫」
シオン「……」
少女「寝室」
シオン「うん」
少女「私室」
シオン「なるほど」
つまり。
完全に。
無断侵入。
シオン「悪かった」
少女「それで済むと思ってるのかしら」
シオン「迷い込んだだけだ」
少女「勝手に扉を開けておいて、随分都合のいい言い分なのよ」
シオン「否定はしない」
少女の眉が。
僅かに動いた。
次の瞬間。
空気が重くなった。
シオン「……」
皮膚。
圧。
呼吸。
変化。
センサー。
異常値。
だが。
物理的な圧力ではない。
シオン「魔力……」
少女「少し」
小さな手が上がる。
少女「思い知らせてやるかしら」
シオン「敵意は――」
間に合わない。
世界が。
内側から。
締め付けられた。
シオン「っ――」
膝。
落ちる。
痛み。
ではない。
力が。
身体から抜ける。
RIG。
外傷なし。
神経損傷なし。
循環器。
正常。
だが。
別の何かが。
確実に減っていく。
シオン「……なるほど」
少女「?」
シオン「これが」
息を整える。
シオン「マナか」
少女「体内のマナを少し徴収しただけかしら」
シオン「少し?」
少女「ベティ基準では、少しかもしれないわね」
シオン「そうか」
身体。
重い。
意識。
遠い。
少女の表情。
先ほどより。
ほんの少し。
警戒が薄い。
少女「少なくとも」
少女「悪意がないことは分かったのよ」
シオン「……それなら」
床へ手をつく。
シオン「十分だ」
少女「妙に物分かりがいいのね」
シオン「敵じゃないと判断されたなら」
視界。
暗くなる。
シオン「戦う理由もない」
少女「……」
シオン「ただ」
最後。
少しだけ。
少女を見る。
シオン「次から、もう少し穏便に頼む」
少女「図々しいのよ」
暗転。
◆
声。
人。
布。
シオン「……」
今度は。
人の気配がある。
???「目覚めましたね、姉様」
???「目覚めたわね、レム」
シオン「……」
目を開く。
白い天井。
朝。
窓。
柔らかい光。
シオン「場所が変わってる」
青髪。
赤髪。
瓜二つの少女。
メイド服。
シオン「……ここは?」
青髪の少女が答える。
レム「ロズワール様のお屋敷です」
シオン「そうか」
それ以上。
聞かない。
自分がどこから移されたのか。
誰が運んだのか。
必要なら。
後で分かる。
ラム「随分と落ち着いているのね」
シオン「慌てても状況は変わらない」
ラム「変な客人」
シオン「よく言われる」
扉。
開く。
エミリア「おはよう」
シオン「……」
銀色。
見覚えのある顔。
昨日。
王都。
シオン「おはよう」
エミリア「体の調子は?」
シオン「問題ない」
起き上がる。
違和感。
なし。
シオン「助かった」
エミリア「よかった……」
心底。
安心した顔。
シオンは。
少しだけ視線を逸らした。
この少女は。
自分の素性を知らない。
こちらも。
彼女をほとんど知らない。
それでも。
自分が生きていることを。
喜んでいる。
シオン「昨日の件」
エミリア「うん?」
シオン「迷惑かけた」
エミリア「迷惑なんて」
シオン「結果的に屋敷まで運ばせた」
エミリア「助けてもらったのは私の方よ」
シオン「……」
エミリア「だから」
少し笑う。
エミリア「お互い様」
シオン「そうか」
それ以上。
言わなかった。
◆
中庭。
風。
水。
草木。
昨日までの王都とは。
まるで違う。
パック「おはよう、シオン」
シオン「おはよう」
白い猫。
相変わらず。
浮いている。
パック「リア、この人には感謝してもしきれないね」
エミリア「うん」
シオン「礼はいらない」
パック「またまた」
シオン「偶然居合わせただけだ」
パック「それでも」
空中を一回転。
パック「助かった側には関係ないよ」
シオン「……」
反論。
なし。
パック「変な人だね」
シオン「それもよく言われる」
◆
大食堂。
長いテーブル。
高い天井。
広い。
だが。
今度は。
正常な空間。
そして。
シオン「……」
昨日。
自分から。
容赦なくマナを抜いた少女。
ベアトリス「ミーちゃんー」
パックへ抱きついている。
シオン「……」
エミリア「どうしたの?」
シオン「同一人物とは思えない」
ベアトリス「聞こえてるのよ」
シオン「聞こえるように言った」
ベアトリス「本当に腹立たしい奴かしら」
シオン「昨日よりは穏やかだ」
ベアトリス「……」
一瞬。
言葉に詰まる。
奥。
足音。
派手な衣装。
男。
ロズワール「おやー?」
独特。
妙に伸びる声。
ロズワール「ベアトリスが食卓にいるなんて」
シオン「……」
ロズワール「珍しいねぇ」
視線。
こちら。
ロズワール「そして」
笑う。
ロズワール「君が例の客人かな?」
シオン「そうらしい」
ロズワール「名前は?」
一拍。
シオン「……今は必要ない」
エミリアが。
僅かにこちらを見る。
ロズワール「ふぅん」
興味。
増した。
ロズワール「面白い」
シオン「よく言われる」
ロズワール「何度目かな、その返し」
シオン「今日三回目」
ロズワールが笑う。
それ以上。
追及しない。
だが。
観察している。
シオンも。
同じ。
食事。
冷製スープ。
一口。
シオン「……」
レムが。
僅かに緊張。
シオン「うまい」
レム「ありがとうございます」
それだけ。
シオン「誰が?」
レム「レムが担当いたしました」
シオン「そうか」
もう一口。
シオン「いい仕事だ」
レム「……ありがとうございます」
少しだけ。
表情が緩む。
◆
その日のうちに。
最低限。
屋敷の構造。
住人。
周辺の地理。
情報を集めた。
ただし。
何も設置しない。
衛星。
なし。
ドローン。
なし。
無人兵器。
なし。
必要な情報は。
自分で歩いて取る。
現地へ。
痕跡を残さない。
シオン「……」
ロズワール邸。
防犯としては。
甘い。
だが。
それは。
この世界の基準で見れば。
異常ではない。
こちらの基準で。
一方的に。
作り替える理由もない。
シオン「介入、不要」
記録。
それだけ。
◆
夜。
中庭。
月。
シオン「……」
エミリアは。
微精霊たちと。
何かをしている。
小さな光。
漂う。
エミリア「見てても面白くないよ?」
シオン「俺には珍しい」
エミリア「魔法が?」
シオン「そう」
少し。
沈黙。
エミリア「月」
シオン「?」
エミリア「綺麗ね」
シオン「……ああ」
月光。
白。
屋敷。
静か。
エミリア「それだけ?」
シオン「それ以外に何がある?」
エミリア「なんでもない」
シオン「?」
エミリア「シオンって」
一拍。
エミリア「欲がなさすぎるわ」
シオン「必要なものは足りている」
エミリア「そういう意味じゃないんだけど」
シオン「?」
エミリア「もういい」
よく分からない。
だから。
記録だけする。
しばらく。
無言。
エミリア「明日」
シオン「?」
エミリア「村に行かない?」
シオン「何のために?」
エミリア「買い物と」
少し考える。
エミリア「気分転換」
シオン「……」
村。
情報。
周辺状況確認。
理由としては。
悪くない。
シオン「状況次第で」
エミリア「それ、行くって意味?」
シオン「何も起きなければ」
エミリア「じゃあ、ありがとう」
シオン「まだ行くとは――」
エミリア「行くんでしょ?」
シオン「……」
否定しなかった。
◆
夜。
自室。
テーブル。
飲み物。
シオンが手を伸ばした。
カエデ『それ、飲まないで』
シオン「……」
手。
止まる。
通信は。
内部。
他人には聞こえない。
シオン『理由』
カエデ『未知成分』
シオン『毒性』
カエデ『高』
シオン「……やはり来たか」
偶然ではない。
昼間。
村。
接触。
犬。
子供。
何か。
経路。
複数。
まだ。
確定はできない。
シオン『全員を安全な場所へ』
カエデ『直接介入しますか?』
シオン『最低限』
小型通信端末。
取り出す。
シオン『エミリアへ』
カエデ『了解』
外。
音。
唸り。
シオン「……」
窓。
暗闇。
目。
光。
魔獣。
シオン「想定内」
腰。
剣。
抜く。
あくまで。
現地製。
ただの片手剣。
◆
一匹。
飛び込む。
シオン「遅い」
横。
刃。
急所は外す。
前脚。
機能停止。
二匹目。
首。
ではない。
顎。
柄。
打撃。
三匹目。
脚。
斬る。
倒す。
殺さなくても。
動けなくすればいい。
シオン「数が多いな」
十。
二十。
森。
方向。
シオン「発生源あり」
追う。
◆
夜の森。
湿った土。
枝。
獣臭。
シオン「……」
反応。
大きい。
奥。
シオン「ボス」
一歩。
衝撃。
シオン「!」
吹き飛ぶ。
木。
接触。
RIG。
衝撃分散。
シオン「問題なし」
立つ。
大型魔獣。
角。
筋肉。
明らかに。
先ほどまでとは違う。
シオン「強化個体」
魔獣。
突進。
シオン「……」
剣。
構える。
特殊兵器。
不要。
火器。
不要。
RIG補助。
最低出力。
一歩。
すれ違う。
一閃。
脚。
次。
腱。
魔獣。
崩れる。
シオンは。
剣先を。
首へ向ける。
止める。
生命反応。
まだ。
ある。
だが。
戦闘継続。
不能。
シオン「これでいい」
剣を収める。
森。
再び。
静かになる。
カエデ『周辺敵性反応、消失』
シオン「了解」
一度。
空を見る。
シオン「魔獣」
次。
毒。
次。
屋敷。
そして。
エミリア。
シオン「……」
偶然にしては。
続きすぎる。
だが。
まだ。
情報が足りない。
シオン「断定しない」
それが。
今。
最も重要だった。
シオン「帰るか」
夜の森を。
一人。
歩き出す。
異世界へ来て。
二日。
この世界の構造は。
まだ。
ほとんど分かっていない。
だからこそ。
今は。
戦うより。
見る。
正しさより。
順番がすべてだった。